十一章 焔の剣

第一節 記念式典

 既に冬の寒さは消え、大地には花々が咲き誇り、太陽の日差しは一ヶ月前とは比べ物にならないほどに温かい。

 大陸ではもう冬は完全に過ぎ去り、春が訪れていた。

 眼下に広がる街では多くの人が汗を流し、日々の糧を得るために働いている。

 彼等のその声は活気となり、今日もそこに多くの人を引き寄せる。

 オルタリア南部、イシュトナル。

 イシュトナル要塞と以前は呼ばれていたその場所は、継承戦争の折に反乱軍の中心地であり、また彼等を支えた土地でもあった。

 その開発にはエトランゼの力が多分に使われたこともあって、今ではエトランゼ達にとっての生活の中心地となっている。

 彼等だけではなく、それ以外の南部の住民も集まっているため、いつでも活気に満ち溢れていた。

 今、ヨハンは久々にオルタリアの首都であるオル・フェーズを離れここイシュトナルにやってきている。

 ヨハンだけではなく、エレオノーラや国を支える貴族の一人であるリーゼロッテ、その家で働くエトランゼのルー・シンなども一緒だった。

「懐かしいな、この部屋も。まだここを去ってから半年程度しか経っていないというのに」

 上機嫌そうに、長い黒髪にドレス姿の、美しい少女がそう言った。

「……そうだな。ここにいたのが随分と昔のことに思える」

 エレオノーラの言葉に、ヨハンはそう答えた。

 二人が今いるのは、エレオノーラが執務に使っていた部屋。

 軍事施設であったから仕方ないことだが、そこには王女に相応しいだけの装飾は一切施されておらず、無骨な木製のテーブルと椅子、それから収納用に幾つかの棚が置かれているだけの簡素な部屋だった。

 唯一窓だけは大きく縁取られており、そこから注ぎ込む太陽の光が身体を温めてくれる。

 今は違う人物が使っているようだが、エレオノーラがこの場所に来訪するに当たって気を利かせて解放してくれたらしい。

 これとは別にヨハンの執務室もあったはずなのだが、どうやらそこは普段通りに使用されているようで、下手に入り込んで懐かしんでいる暇はなさそうだった。

「あの頃は色々と苦労した。いや、今もその辺りはさして変わらないが」

 エレオノーラがそう言って苦笑する。

 彼女は今でも王女と言う立場に甘んじず、エトランゼの差別撤廃や、兄であるゲオルクの手が回らない内政に精力的に活動している。

「よくここでイシュトナルの行く末のことで頭を悩ませたな。そなたと、それからディッカーの三人で」

 少しだけ声が翳る。

 今はもういない、旗揚げからエレオノーラに付き従ってくれた男、ディッカー・ヘンライン。

 彼はエレオノーラにも、ヨハンにも、大事な言葉をくれた。そして戦場で虚界の恐怖に勇敢に立ち向かって散った。

「ヨハン殿。隣に来てくれ」

 言われるままに、エレオノーラの横に並ぶ。

 二人で窓の前で並んで、その下に見える街並みを見下ろしていると、不意に片方の手が柔らかい熱に包まれた。

 隣を見下ろせば、エレオノーラが少し照れたような顔で笑いながらこちらを見上げている。

「温かいな」

「……ああ」

 彼女が掴む手に、力が籠る。。

「こうして強くなそなたの手を握っていれば、妾の傍から離れないでくれるか?」

「……エレオノーラ……」

「妾がそなたのことを判っていないとでも思ったか? この任を最後に、オル・フェーズを離れるつもりなのだろう?」

「……ああ」

 心を読まれたのかと、心臓の鼓動が僅かに早くなる。

 そのことはまだ誰にも話していない。

 ここイシュトナルに来た理由はこの地で行われる記念式典に出席するためだ。

 この地を切り拓いたエレオノーラ、その傍で力を貸し続けたヨハン。

 そしてまた新たにこの場所を統治する、クリーゼル家の令嬢であるリーゼロッテ。

 多くの人を集めて言葉を投げかけ、全ての始まりの地であったこのイシュトナルに祝福を与える。そして多くの人が行き交う希望の大地へと変えることで、ヨハンの仕事は全て終わる。

 事情はゲオルクとルー・シンには話してある。今後のことに付いては特に考えていないが、一つだけ確定していることがあった。

 この地には残らない。

 いずれ帰ってくることがあったとしても、それは数年後の話だ。

「……一緒に連れて行ってくれと願ったら、そなたはどうする?」

 返答に窮する。

 王族である彼女を、ヨハンの一存で連れ出すわけには行かない。それをすれば、ゲオルクやこの国に対して最後の最後で裏切ることになってしまう。

 判りきっているその理由を尋ねるより早く、エレオノーラが言葉で先回りをしていた。

「何故、とは聞かせぬぞ。妾の想いなど、賢いそなたはとっくに判っているだろうに。悪い男だ」

「……だったら、適当に見限ってもらえた方が助かったんだがな」

「ふふっ。サアヤともその話はしたが、不思議とそれができぬ。上手く制御できぬのが恋心だろう?」

「……そう言うものなのかもな」

 手を握る力が強くなる。

 エレオノーラの小さな手は、必死で父や母の手を握る子供のように、ヨハンをここに繋ぎ止めようと力を込めていた。

 それが無駄なことだと判っていながら。

 ふと、力が抜ける。

 お互いの手が解けて、そこにあった熱が残り火のような寂しさへと変わっていく。

「困らせてみたかっただけだ」

「……エレオノーラ……」

「色々と考えているのだろう? 神と呼ばれた自分の正体や、そなたが変えてしまったこの世界の行く末。そんな大きなことがずっと頭の中にあっては、妾のちっぽけな気持ちに応える暇などないだろうな」

 その言葉を否定することはできない。

 彼女の言っていることは事実だったから。

 だから、自分に好意を寄せてくれる彼女達からも逃げるような真似をし続けるしかなかった。

「いつか、答えは出す」

 今はそう言うだけで精一杯だった。

 信じているのかいないのか、エレオノーラはそれを聞いて小さく笑う。

 その目尻に小さく涙が浮かんでいるのを、見ない振りをした。

 ちょうどそのタイミングで部屋の扉がノックされて、二人の会話は中断された。

 ヨハンは急ぎエレオノーラから距離を取り、彼女は涙を乱暴に拭って返事をする。

「失礼する」の一言と共に扉が開かれて、部屋の中に入ってきたのは怜悧な風貌に長身の男と、その隣に父に甘える娘のようにちょこんと立つ白金色の髪を頭の横で纏めた少女だった。

「法王イザベル様が到着なされた。二人とも、準備の方はよろしいか?」

「うむ。妾の方は問題ない。それから、リーゼロッテ。今日は大義であるが、決して緊張しすぎないように」

「は、はい!」

 ぎくしゃくと硬い仕草でお辞儀をするリーゼロッテ。これからの行事と言うよりも、王女であるエレオノーラを前にしてすっかり緊張しているようだった。

「そのように硬くなられてもな……。リーゼロッテ、見ての通り妾はそなたと同じ人間だ。そんなに固くならないでくれ」

 膝を曲げて、彼女と同じ視点で優しく語り掛ける。

 リーゼロッテは顔を赤くしながらも、その柔らかな態度に幾分が気持ちが楽になったのか、笑顔を見せてくれた。

「あちらの部屋の着替えを用意してありますので」

「うむ。ルー・シンと言ったか? 今日はわざわざイシュトナルまでご苦労だったな」

「いえ、これも仕事ですので。それに手前は一度はイシュトナルと敵対した身ではありますが、エトランゼの文化が色濃く馴染むこの街に興味がありました。一度は訪れるつもりだったのですが……」

 視線が一度ヨハンを見る。

「なかなか仕事に合間ができませんでしたので、丁度いい機会です」

「兄上には今度妾から言っておく。有能だからと言ってあまり働かせすぎるなと」

「助かります」

 苦笑してエレオノーラは、リーゼロッテの手を握って部屋の出口へと向かっていく。

 二人が退出し、部屋の扉が閉まってからようやく、ルー・シンは力を抜いて着ていた貴族服の襟元を緩める。

「式典の類はやはり慣れぬな。大昔の資料を漁り、そこから現代風のやり方を模索するのには骨が折れた」

 昔から伝統的に行われてきたやり方をここイシュトナルでやるには、それが儀式染みすぎていて住民が退屈する。

 かと言って余りにも革新的過ぎては古い貴族や伝統を重んじる人々からの反発もある。

 その落としどころを考えるのにも、数日に渡って会議が執り行われていた。

「イザベル様達の様子はどうだった?」

 ヨハンが尋ねると、ルー・シンは窓の外を見ながら答える。

「今のところは問題はないな。エイス・ディオテミスからの護衛騎士も相当な数が用意されている」

 今日の式典には、急遽法王イザベルが参加することになっていた。

 彼女なりにこの世界の住人とエトランゼの垣根を取り除く方法の一つとして、この地で自分の考えを表明することに意味があると考えたのだろう。

 実際、それはエトランゼを受け入れてほしい立場からすればありがたいものだ。法王が認めるのならば、エイスナハルの信徒としてエトランゼを迎え入れる流れもできていくだろう。

「聖別騎士団……。この機会に動くと思うか?」

 ルー・シンの質問に、ヨハンは少しの間考え込む。

 イザベルがエイス・ディオテミスを離れることで起こりうる最大の問題がそこだった。

 御使いを御旗に掲げた聖別騎士団は、恐らくもうイザベルを必要としていない。むしろ彼女を殺し、自分達の教えこそが正しいのだと広めようとする可能性がある。

「……判らん。だが、イザベル様の言葉がここから大陸中に広がれば、エトランゼの立場はこれまで以上に尊重されるだろう」

 先日のエレオノーラが発した、エトランゼの過去に付いての真実に加えて、イザベルの言葉あればその影響力は計り知れない。

 それこそが聖別騎士団が、その団長であるアーベルが最も避けたい事態だと、ヨハンは予想している。

「何にせよ警備を厳重にしておくのに越したことはないか」

「そうだな」

 イザベルが連れてきたエイス・ディオテミスの聖騎士達。加えて当然、エレオノーラを護衛する部隊もいる。

 幾ら手練れ揃いの聖別騎士団と言っても、正面から立ち向かって打ち崩せる相手ではない。

 二人の会話はここで打ち切られ、後は世間話へと移っていく。

 そしてそれから約一時間後。

 表向きは何事もなく、イシュトナルの統治権をクリーゼル家が譲り受けるための記念式典が始まろうとしていた。

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