間奏 獣の摂理

第一節 雷霆と幽玄

 男は気付けばそこに立っていた。

 自身に残された最後の記憶は、役目がなくなったその身体を自ら祭器に封印したことだけ。

 最早二度と目覚めないことを願い、男は眠りについた。彼が地上に降り立つことは即ち、再び世界が混迷の渦に落ちると言うことに他ならないのだから。

 背中まで伸びた銀色の髪が揺らぎ、愁いを帯びた紅い瞳が世界を見る。

 その場所はどうやら、石で囲まれた建物のようだった。

 薄汚れた机に、誰も座ってないぼろぼろの椅子が等間隔で並ぶ。

 床に敷かれた絨毯はすっかりくすんでいて、その場所がもう何年も使われていないことを現している。

「ようやくお目覚めかのぉ?」

 子供のような甲高い声が聞こえて、長身のその男は首を巡らせる。

 視線を少し下げた先、椅子の背もたれの部分に行儀悪く座る小さな姿があった。

 赤い髪の毛を二つ結びで垂らした、髪の色と同じ赤いドレスを身に纏った幼子ようなその少女は、ぱたぱたと愉快そうに足を動かしながら金色の瞳で男を見上げる。

「おぬしを探すのにリーヴラも随分と手間取ったようじゃ。しかしまぁ、こうして目覚めてくれれば奴の苦労も報われると言うもの」

「幽玄」

「きひひっ。知らぬ中ではあるまいし、銘ではなく下の名も呼んでほしいものじゃ。幽玄のイリスとな。のう、雷霆のルフニルよ」

「そうだな。それは失礼した、幽玄のイリス」

「そうじゃ、それでいい」

 イリスと呼ばれたその少女――御使いは愉快そうに座ったままの姿勢で、自らの身体を浮かび上がらせる。

「して、久しぶりじゃのルフニル。状況の程は理解しておるか?」

「祭器が破壊され封印が解かれたと言うことぐらいは。……俺をわざわざ呼び覚ますと言うことは、対処不可能な事態が起こったのだろう? 敵は虚界か? それとも他の御使いか?」

「聞いて驚くなよ。敵は人間じゃ」

「……人間?」

「そうじゃ。エトランゼ交じりのな。リーヴラが楽しい楽しい催しをやると言うので、是非にわしらにも参加してほしかったらしい。可愛い奴よの」

 そう言ってイリスが身体を揺らす。

 一方のルフニルは表情一つ変えないまま、状況を理解してその建物の外へと歩き出した。

「おぉい! もう行くのか? 折角戻ってきたんじゃ、世間話の一つでもしようではないか」

「俺が蘇った以上、やることは多くはない。まずは護るべき者と、倒すべき相手を見定める。道中、リーヴラにも会うつもりだ」

 振り返りもせずに、ルフニルはその建物の扉を開いて外へと出ていった。

 後に残されたイリスは退屈そうに唇を尖らせてから、ステンドグラスから差し込んだ陽の光が当たる椅子の上に浮かんだ身体を運んでいく。

 そこに身を横たえて、背もたれ越しにルフニルが出ていった外を見る。

「せっかちな奴じゃのう。何をするにしても、楽しまねば損じゃぞ? 折角、嬲りがいのある人間が大量に増えているのじゃからな」


 ▽


 上機嫌な男が一人、街を行く。

 オル・フェーズの中央通りは今日も変わらず多くの人が行き交い、活気に溢れていた。

 先日起こった紅い月の事件は多少話題にはなったものの、被害がそれほど多くなかったこともあってか次第に人々の心からは消えつつあった。

 くすんだ金髪を風に流しながら、愛用の黒き剣を背負ったヴェスターは珍しく昼間からオル・フェーズの飲み屋を冷やかしては酒を飲み歩いていた。

 ヴェスター達が所属していたイシュトナルの反乱軍は、いつの間にやらオルタリアの正規軍として組み込まれていた。

 勿論それは無理矢理ではなく、希望者は退職金を渡された上で争いのない生活に戻ることもできる。しかし、大半が戦うことでしか食っていけない荒くれ者であったこともあってか、部隊に残る者も多かった。

 ヴェスターもその一人で、今更冒険者に戻ってその日暮らしをするよりはと軍人としての暮らしを享受している。

 それは確かに安定した暮らしではあるが、同時に物足りなさを感じる日々でもあった。

 それを誤魔化す方法の一つが、こうして休日に呑み歩くことだ。

 舗装された道の上を、人混みを避けるようにして歩く。

 食事処が何件も立ち並ぶ繁華街は食べ物の匂いがあちこちから漂ってきて、時間帯が昼頃と言うこともあってか食事をする労働者たちで溢れている。

 中には屋台のような場所で食べ物を売っている店もあり、ヴェスターはその中の一つに適当に入っては串焼きの肉や魚を買っては食べ歩いていた。

 ふらふらと宛てもなくふらつくその足が、一軒の店を見て立ち止まる。見ればそこは酒を出す屋台のようで、車輪が付いた手押し車を地面に固定して、その荷台をテーブルのような形にして酒を提供している。

 五人が座れば満杯になるその席には昼間と言うこともあってか今は一人しか付いておらず、ヴェスターは並ぶことなく席に付いた。

「なんか適当に。つまみも頼む」

 紙幣を一枚テーブルの上に無造作に置く。

 老人と呼んでもいいぐらいの年齢の白髪の店主は、その金を受け取ると上機嫌そうに顔を綻ばせた。

「いいタイミングだね、今日は珍しい酒が入ってるんだ。それから、珍味もな」

 グラスをヴェスターの前に置いて、そこに酒瓶の中身を注ぐ。

 ヴェスターの直後にそこに来た客も同じものを注文しており、店主は同じようにそこに酒を注いで渡していた。

「今日の肴だ。何でも最近ハーフェンを中心にして食われてる珍味中の珍味だ」

 そう言って目の前に差し出されたのは、皿の上に適当に盛られた白身に赤い皮が付いた何かだった。見た目は瑞々しく、何らかの液体によって艶めいているが、何かと期待したヴェスターからすればそれは期待外れだった。

「珍味中の珍味って……。タコじゃねえか」

「知ってるのかい? さてはあんたエトランゼだね?」

「そうだけどよ……。なんでタコがそんなに珍しいんだよ」

「そりゃそうだろうよ。あんな不気味な生き物を食おうだなんて普通は考えない。あんたらがいなけりゃ一生タコと人間が交わることなんてなかっただろうさ」

「……そう言うもんかね」

 なんでも店の主人が言うには、漁業の手伝いをするエトランゼによって料理されたタコは、その独特の触感から密かに人気を集めているそうだ。

 因みにヴェスターとしては好きでも嫌いでもないし、例え一生食べられなくても困るものでもなかったので、多少肩透かしを食らったような気分になる。

 とは言えフォークで刺して口に運んでみれば、酢が効かせてあってなかなか美味い。

「ん。思ったよりはイケるな」

 今まで食べたタコよりは身も大ぶりで触感もいい。やはり海が綺麗で自然に大きくなったものだからだろうか。

 多少気分がよくなってグラスの中の酒を一呷りして、今度こそ顔を顰めて店主を見る。

「何だこりゃ……! 甘めぇ!」

「そう言う酒だからな。この辺りでは辛口の酒が好まれるから、たまにはそう言うのも悪くないだろ?」

「いやぁ……。別に珍しいもん出せばいいってわけでもないだろ」

 しかめっ面で二口目を口にする。

 そのまま飲み切ってしまおうとも思ったが、先に口の中にあるタコの味と絶望的に合わないこともあってか、半分程度に減らすことしかできなかった。

「いい酒だな、主人。手前もそのタコを頂くとしよう」

「はいよ。ほれ、美味いって客もいるんだぜ?」

 そう言ってタコを斬りはじめる店主。

「そりゃ味覚なんてのは人それぞれだろうけどよ……。でも、タコとは合わないからやめといた方が……って」

 隣を見れば、そこに座っていたのはヴェスターよりも長身で細身の男だった。

 ルー・シン。

 怜悧な風貌のその男は仮とは言えエトランゼでありながら貴族の称号を持ち、城勤めで軍事を初めとする多くの分野を総括している。

 一言で言えば、ヴェスターの上司に当たる男だった。もっともだからと言って態度を改めるようなこともないが。

「なんでてめぇがここにいるんだよ?」

「手前とて街に出ることもある。そうしたら卿の後ろ姿を見かけてな。用事があったので付いて来たというわけだ」

「ストーカーかよ……」

「もし卿が人と会う約束でもあれば、休日故に後日に回そうとも思ったのだが、見ての通り一人酒のようなのでな」

「俺が一人の時間を大事にする男だったらどうするんだよ?」

「そう言う男ではあるまい」

 実際その通りなので、それ以上は何も言えない。

 酒を飲むときは大人数か女と一緒に限る。そんな考えを持っているヴェスターは以前、自分の休暇中に訓練場に酒を持ち込んだことがあったのだが、それがばれた結果、上からこっぴどく怒られたうえで、次にやったら給料が下がると言う脅しを受けたので自重している。

「それはいいとして、なんでてめぇまで酒飲んでんだよ? 勤務中じゃねえのか?」

「今日の仕事は午前中でお終いだ。誰も彼も過剰に働き過ぎないというのはこの世界のいいところであり悪いところだな」

「ならさっさと帰って子守でもしてろよ」

「それは些かリーゼに失礼であろう。それに、手前とて飲みたい時もある。屋敷ではなかなか酒を手にすることもできんのでな」

「禁酒令でも出されてんのか?」

「いいや。手前が酒を飲めばリーゼが興味を示す。貴族の子女としてそれはどうかと思うので、家では呑まぬように心がけているのだ」

「なんだかお前も大変だな」

「それなりに楽しんではいるがな」

 そう言って酒を呷る。

 甘口の酒に顔を顰めることもなく、ルー・シンはむしろ美味そうにグラスを空にしてく。

 何かの間違いかと思いヴェスターも再度自分の酒に口を付けるが、二度目のしかめっ面を浮かべる羽目になっただけだった。

「それで、用件ってのはなんなんだ?」

「なに。卿の部下達から打診があってな。先の戦いで多大な戦果を挙げた卿に対して何の褒美もないのは如何なものだろうかと。そしてその件についてゲオルク陛下と話しあった結果、名誉勲章を……」

「いらねえ。腹の足しにも金にもならねえゴミじゃねえか。宅配便で家に送ってくれるってんなら受け取ってやらねえこともねえがよ」

「残念ながら、授与の際には大規模な式典が行われるだろうな。この世界の住民と、エトランゼを繋ぐ大事な架け橋として」

「ハッ」

 ルー・シンのその言葉をヴェスターは笑い飛ばす。

 自分の発言の滑稽さを判っているのか、ルー・シンもその反応は理解予想していたようで、特に何を言うこともない。

「馬鹿なこと言ってやがるな。架け橋だ? エトランゼ代表として散々ぶっ殺しまくった俺がね。そりゃ何とも都合のいいお話しで」

「死人に口なし。敗者の弁は聞く耳持たず。それは何処の世界でも共通のようだ。卿が殺した命は道を誤ったものとして黙殺される」

「世の中ってのは美しいねぇ」

「そう言うものだろう。まさかそこにセンチメンタリズムを感じているわけではあるまい? だとしたら最初から戦場に出ないことを勧めるが」

「そんなんじゃねえよ」

 ルー・シンの語るそれは摂理だ。

 勝った者が勝利、敗者の言葉などどうとでも捻じ曲げられて、それからを生きる者達に伝えられることはない。

 それはヘルフリートが絶対悪として語られるようになった先の戦いでも同じことだ。

 それは何もヴェスターに限った話ではなく、エレオノーラやゲオルクが絶対的な正義と言う訳ではない。犠牲が増えたという点は間違いなく彼等の行いが原因だった。

 しかし、彼等は罪に問われない。それは勝利者だから。

「俺が断る理由は面倒くせえからだ。だが、人のことを英雄扱いしようとする輩には苛々するんだよ」

 そんな肩書はくだらないものだ。

 英雄などと言うものはどれだけ多く殺したかを競った結果にしか過ぎない。

 少なくともヴェスターがその戦いを評価されると言うのならば、随分と血生臭い栄光もあったものだ。

「とにかく、いらねえ。話は終わりか?」

「この件に関しては。もう一つ、今の話をしていて気になることができた」

「なんだよ?」

「卿は何のために戦っている?」

「あん?」

 聞き返すヴェスターの顔を、ルー・シンは目を逸らさずに見ていた。

「栄誉でもなければ立場でもない。卿の戦う理由が民の平和のため、とはどうにも考えられぬ。では何のために戦うのか、血を求める理由は何か。少しばかり気になったのだ」

「……戦う理由ね……」

 ようやく空にしたグラスを荷台の上に叩きつけて、空を見て考えを巡らせる。

 二階建ての建物の影では鳥が巣を作り、上から下げられた看板が風に揺れている。

 それを見つめていても、答えがヴェスターの中で出ることはない。

「さあな。判んねえ」

「誰しも戦う理由は必要だ。それがなければ、いずれ壊れてしまうかも知れん」

「心配してんのかよ、俺を?」

「違うな。不安がっているというのが正しい。卿が何かの間違いで敵に回れば、それ以上に厄介なことはない」

「どうだか。俺より強い奴なんてごまんといるだろ」

 魔人とか言う奴が陣営に加わった。

 それを抜きにしてもセレスティアルを操るカナタやヴェスターの手の内を知っているヨハンなど、一筋縄ではいかない相手など幾らでもいる。

 今のところはそのつもりはないが、仮にヴェスターが敵対したところで簡単に彼等を倒せるとは思っていない。

「……まぁ、それはそうだな」

 お代わりを貰ってから、ルー・シンはそれを一口に呑み干した。

「妄言は終わりか? だったら俺は次の店行くぜ」

「……そうだな。手前もリーゼが心配しないうちに家に帰るとしよう」

「すっかり馴染んでんじゃねえか」

「変わったとは自分でも理解している。貴殿もそうではないのか?」

「俺が……? さあね」

 ルー・シンの問いかけに、ヴェスターは考えるのをやめた。

 彼の言うことは本当でも間違っていても、その結果が自分にとっていい結論を導き出さないと思ったからだ。

「勲章の件は手前からゲオルク陛下に話しておく」

「頼んだぜ、マジで」

 金を払って、ルー・シンは人混みの中へと消えていった。

 ヴェスターもまた、彼とは逆の方向に向かって進んで行く。

 頭の中にもやもやとしたものを抱えながら。

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