第八節 彼女の名前
断ち切られた水のロープが床に落ちて、水たまりへと戻って行く。
ラニーニャは腰から曲刀を抜いて、その切っ先をカーラへと向ける。
そんな彼女に真っ先に掛けられた言葉は、目の前に立ちはだかる敵からの挑発でも威圧でもない。
「お前、何しに来たんだよ!」
助けに来てやったその目標からの怒りの声だった。
「はぁ? 折角人が来てやったって言うのに、何です、その言い草は? 頭に地面を擦りつけてありがとうの一つも言えないんですか? ……頭はもう地面に付いてるみたいですけど」
「頼んでない! あんたと違って!」
「口が減らない……!」
何かを言いかけて、ラニーニャは慌てて顔を横に逸らす。
直前までその頭があった場所を、高速で何かが通過していった。
暗闇の中から立て続けに投擲されるそれは、小さな石のダガーのようだった。ラニーニャを的確に狙い、次々と周囲の木箱に突き刺さって行く。
「口喧嘩してる場合かい?」
「……確かに!」
足を掛けた木箱を蹴る。
背後でそれが崩れる音と共に、ラニーニャは倉庫高くへと飛翔する。
迎撃に放り投げられるダガーを曲刀で撃ち落としながら、カーラのすぐ傍に両足を付けて着地した。
「何か勘違いしてるようだねぇ、あんた!」
曲刀同士がぶつかり合い、火花が散る。
ラニーニャは直ちに姿勢を低く下げて、その衝撃を減らすとともにカーラの懐へと飛び込んだ。
滑るように放った足払いは、カーラが即座に後ろに飛び退いたことで回避される。
やはり、腕っぷしでここまで成り上がって来たというのは伊達ではないようだった。
「あたしはあん時、お前を見逃してやったんだよ? それを戻って来てわざわざ命を捨てるとはねぇ!」
「本当ですよ、なんでこんなところに来ちゃったんでしょうかね。これは、お礼を沢山もらう必要があります」
「生きて帰れるつもりかい!」
飛びかかるように振り下ろされたカーラの曲刀をラニーニャが弾く。
そのまま二人は何度も鈍色の刃をお互いにぶつけあった。
「ラニーニャ、あんたには期待してたんだけどねぇ。経歴も申し分ない、あたしと同じ他人を踏み台にできるクズだって」
「それはご愁傷……!」
姿勢を下げたラニーニャの首があった場所を、曲刀が通過する。
その隙を狙って、下から上に猛然とした勢いで放たれた蹴りが、曲刀を持ったカーラの右手を打った。
宙を跳ねる曲刀を掴み取り、片手に一本ずつ握る。
対するカーラもまた、その状況に怖気づくことなく両手を床に付けた。
ギフトが発動し、床に敷かれていた石畳が削れ、カーラの手の中で一振りの剣へと変化していた。
「どうやらわたしが踏み台にできるのは嫌いな奴だけのようですね。自分でも驚いたんですけど」
崇高な信念などはない。
自分が気に入らないから暴れるだけ。
嫌な奴なら殺す。気に入ったら殺さない。
結局のところ、ラニーニャの持つ信念などその程度のものだ。
「……ハッ! いい性格してる!」
「お褒めに預かり光栄です!」
石の剣と二本の刃が打ち合う。
最初こそ火花を散らし、互角の斬りあいを見せていたが、次第にラニーニャの持つ曲刀の刀身に罅が入りはじめる。
「……これだから安物は!」
「片方はあたしのだろうが!」
一本が折れ飛ぶ。
慌てて床を蹴って後ろに飛ぶラニーニャだったが、カーラが追撃に放った、石によって生み出されたダガーがその肩を射抜いた。
「いっ……!」
それを引き抜く暇もない。
僅かな動きの鈍りを見逃さず、カーラはすぐ傍にまで来ていた。
石剣がもう一本の曲刀を砕き、胸蔵を掴まれて投げ飛ばされる。
幾つもの木箱を巻き込んで、ラニーニャの身体は倉庫の床に叩きつけられ転がった。
砕かれた箱の中身が床に転がる。
彼等が密輸していた酒や薬、それから未だに一部でしか実用化がされていない銃。
「ラニーニャ!」
近くで騒がしい声がして、ラニーニャは辛うじて意識を手放さずに済んだ。
両手を床に突き、よろめく身体を持ち上げながらその方向を見ると、縛られたままの金髪の少女が床に転がされていた。
「あれ、まだいたんですか?」
「この状態で逃げられるもんか!」
「言われてみれば」
自身に突き刺さった石のダガーを引き抜いて、彼女を縛っていた縄を切る。
「お前……!」
傷口から床に向かって垂れる血を見ながら、少女は声を詰まらせる。
「お気になさらずに。この程度の怪我は日常茶飯事でしたので」
「……なんで助けに来たんだよ? アタシが自分の間抜けで捕まったんだから、放っておけばよかったのに」
「誤解のないように言っておきますけど、別に貴方を助けに来たわけではないですよ。カーラが貴方の家を襲撃するからって、それを邪魔しに来たんです。そしたらびっくり、何処かのお間抜けロリ巨乳が捕まってるじゃないですか。だから急遽予定を変更して、こうして……!」
二人の間を石のダガーが通り抜けた。
倉庫の暗闇の中を、恐怖を与えるようにゆっくりと足音が近付いてくる。
「ガキ同士は姦しいねぇ。お喋りはあの世でしなよ」
「つまりそう言うことです。判ったらさっさと逃げて!」
「ちょっと待ってよ!」
「なんです?」
「ロリ巨乳ってなに?」
「……無事に帰れたら教えてあげます」
適当に誤魔化してカーラに向かっていく。
「武器もなしに何しようってんだい!」
体術には決して自信があるわけではない。それが自殺行為であることは理解していたが、あの金髪少女がここから出られるだけの時間を稼げればそれでよかった。
「本当に、馬鹿女だよあんたは! 自分で拾った命を捨てて、あんなガキを助けに来たんだからね!」
「ええ、自分でもそう思います。ぐっ」
石剣を避けても、カーラの前蹴りが腹に突き刺さる。
ラニーニャの身体は再び飛ばされて、背中から木箱に激突し、それを破壊して中身を押し潰した。
後ろに何かが刺さったような痛みと、濡れた感触がある。どうやら、酒が入った箱を破壊してしまったようだった。
「聞かせておくれよ、何であのガキを助ける? この世界の住人で、貴族で、あいつはあたし等の敵だろう?」
「……その辺りの話なんですけどね。勘違いしてる人が多いなーって、思うことが一つ」
箱の中に手を入れると、零れた酒で指先が濡れる。
それを口元に運んで一舐めしてから、まだ無事な瓶を二本掴みあげて剣のように掴んだ。
「別にわたしは、その辺の立場とかには何の感想も抱いてないんですよ。わたしが他人と上手くやっていけないのは生まれつき。貴方達がこの世界で抱いたつまらない怨念返しに付き合う理由なんて、最初からないんです」
「つまらない強がりを……!」
「真偽のほどはどうぞご自由に。それから、あの子を助けに来た理由ですけど、なんとなくです」
ついさっきは助けに来たわけではないと言ったが、今更そんな見え透いた嘘を誰も信じているわけでもないだろうから、はっきりと本心を口にする。
「なんとなくだと? あんたはそれで命を落とすってのかい!」
床を蹴り、円を描くようにカーラに接近する。
カーラも石のダガーを投擲して遠距離で勝負を決めようとするが、積み重なった荷物が邪魔でラニーニャのことを捉えることはできなかった。
二人の距離が縮まり、カーラの目の前に小さなランプの灯に照らされた影が躍る。
「別に必要ならどうとでもでっち上げてあげますよ。一度は助けられた恩がある。金持ちだから恩を売りたい。顔が可愛かった。初対面のわたしに正面から向かってきた。幾らでも言えますけど、どれでもないんです。正確には、別にどれでもいい」
「そうかい!」
石剣が酒瓶を砕く。
その割れた破片を掴み、それをカーラの身体に突き立てる。
「ぐぁ……! だが、浅いねぇ!」
返しに石剣がラニーニャの身体を貫く。
致命傷は避けたものの、腹の辺りに灼熱するような痛みが走り、一瞬動きが鈍った。
対してカーラのダメージはそれほど大きくはない。すぐにまた石剣を抜いて、とどめの一撃を振りかぶる。
「あんたはここで終わりだよ!」
「ラニーニャ!」
少女の声がする。
それに驚いたのは、ラニーニャもカーラも同様だった。
しかし、ラニーニャはすぐに彼女の意志に気が付いて、動きを止める。
そこに理由なんてない。なんとなく、彼女ならそうすると、そうしてくれると言う確信があった。
大きな、何かを打ち付ける音が響く。
火薬が破裂し、そこから弾丸を放つ原始的な造りの鉄砲。
密輸品としてこの倉庫に運び込まれていた銃が、少女の手によってカーラに向けて火を噴いた。
弾丸を受けたカーラがよろめくが、致命傷ではない。杜撰な造りの銃に、その距離で人を確実に仕留める威力はない。
だが、その隙だけで充分だった。
片足を強く前に踏み出す。
「ラニーニャ!」
心地よい声が名前を呼ぶ。
そこに意味はない。ただ、後押しするためだけに。
「はいはい。ラニーニャさんですよ」
小声で答えて、手を伸ばす。
空中には未だ踊る酒瓶二つ分の水の塊。
姿勢を低くしたラニーニャが、飛び上がるようにそれを掴み取った。
それらはラニーニャの手の中でギフトの力を受ける。
瓶二本分の水を圧縮して作られた刃は、カーラの石剣を切り裂いてその肩口へ突き刺さる。
「ふざけんじゃないよ! あたしはこんなところで終わらない、終わってたまるもんか!」
後退るカーラに向けて、更に前進。
先程のお返しと言わんばなりに、その腹に水の刃を抉り込むように突き立てた。
「ちっ……! あたしも焼きが回ったもんだ」
だが、それが体力の限界だった。
激しく動いたことで刺された個所からは激しく出血し、立っているのも辛く、少しずつ足が震えている。
ラニーニャの手の中で水の刃が消える。
一方のカーラも、反撃に移ることはなかった。
ラニーニャに付けられた二つの傷は深く、そこから流れる血が、二人の足元で混じりあって一つの大きな水たまりになっていく。
二人はお互いの顔を睨みつけていたが、やがてどちらともなく仰向けに倉庫の床へと崩れ落ちていった。
▽
そのままどれぐらいの時間が経っただろうか。
刺された場所がじくじくと痛み、気を失うこともできやしない。暗闇の中を見つめながら、ラニーニャはぼうっとこれからどうするかを考えていた。
一言で言えば最低だ。勢いに任せてなんてことをしてしまったのだろうか。
カーラは間違いなくこの辺りの裏社会で大きな力を持っている。彼女と敵対したことが知られればどう転んでも面倒なことになるのは明白だった。
倉庫の中を照らす小さなランプの灯りが翳る。
仰向けに倒れたままのラニーニャの視界にあどけない、上気した顔の少女が映り込んだ。
すっと、目の前に小さな手が差し伸べられる。
驚いてその顔を見ると、少女はそこに悪戯が成功した子供のような得意げな笑みを浮かべていた。
「立ちなよ」
言われるままに手を掴んで立ち上がる。
よろけそうになる身体を、少女は肩を貸して支えてくれた。
「待ちな」
声がした方向に慌てて振り向くと、傷口を抑えたまま、いつの間にかカーラが立ち上がっている。
刺された腹から流れる血を手で押さえ、顔に刻まれた皺を深くして二人のことを睨みつけていた。
「なんだよ? まだやるのか?」
その質問にカーラは答えない。
数秒間無言の時間が続いて、やがて彼女の方から口を開いた。
「やるじゃないか、あんたら」
彼女は何故かそう言って、笑ってから二人に背を向ける。
そのまま一歩ずつ、よろける身体で出入り口へと歩いていく。
「あたしの負けだ。運も悪いが何より計画に穴があり過ぎた。反省して次に生かすとするよ。だから、今回はこれでお互い手打ちだ」
もし彼女がここで死ぬ気で暴れたのならば、きっと二人は助からないだろう。
だからこれは、恐らく見逃されたのだ。その理由までは判らないが。
「ったく……。これだからガキは本当に嫌いだよ。次はガキが絶対に絡まない商売をするとしようかね」
タイミングよく倉庫の扉が開いて、彼女の部下である男が顔を覗かせる。
「あ、姐さん!」
「情けないが見ての通りだ。今日のところは引き上げるよ」
「で、でも……」
「あたしがいいって言ってんだからいいんだよ。こっちもボロボロなんだ! さっさとしな!」
「へ、へい!」
威勢よく怒鳴られて、男は何も言わずにカーラに肩を貸して倉庫から出ていく。
扉が閉まって、倉庫の中が静寂に包まれてから、二人はどちらともなく顔を見合わせて顔を綻ばせた。
「色々と聞きたいことがあったんですけど」
「奇遇だね。アタシも、言ってやりたいことがあった気がする」
どうして助けたのか。
何故、身勝手に屋敷を飛び出した女を追いかけたのか。
聞きたいことは幾つもあった。
それは彼女とて同じことだろう。
「でも、もうどうでもよくなりました。全部」
「アタシも」
肩を借りる形になっているため、姿勢が低くなっているラニーニャの額に、少女の額が合わさる。
痛みにも満たない衝撃と共に間近にある彼女の顔は、太陽のように煌めいている。
「あんたさ、行き場所ないならアタシのところ来なよ。危険なことばっかりするから護衛を雇えってパパが煩いんだけど、どうせなら気に入った奴がいい」
「へぇ。わたしのことを気に入ってくれたんですか?」
「そりゃね。大のお気に入り。自由にさせてくれそうだし、可愛いし、強いし」
「そうまで言われては断れませんね」
苦笑して、自分から額をぶつける。
少し強くなってしまったが、別段彼女はそれを気にした風もない。
「なら決まり。――アタシの名前はクラウディア。あんたは?」
「さっき呼びませんでした?」
「呼んだけどさ、それはあいつが言ってたのを聞いたからだよ。あんたの口から教えてほしい」
「何のこだわりなんだか……。わたしの名前はラニーニャ。よろしくお願いしますね。クラウディアさん」
そう言って、どちらともなく歩みを進める。
倉庫の外に出た時には既に雨は止み、朝も近い時間になったのか空は次第に白み始めていた。
その光の中に、二人は一緒に歩み出す。
これからの日々に淡い希望を寄せて。
この世界に来てから初めて遭遇した、心を震わせる出会いを噛みしめながら。
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