第七節 兆候

 降り続く雨は止むことはなく。

 夜の暗闇を更に闇色に染めていく。

 その中を走る影が一つ。港町ハーフェンの門を潜り抜けて、街の外へと身を躍らせた。

 この街ではろくなことがなかった。

 派手な興業をやるから金が稼げると言われてきてみれば、まさかの取り締まり強化で企画倒れ。

 港を抱え、多くの人が行き来する街はその熱気とは裏腹に救いの手を差し伸べてはくれはしない。

 この場所はまるで世界の縮図だ。

 何も持たない者にはこれ以上与えられることはなく、全てはもう既に何かを得ている人の元へと過剰に集まって行く。

 誰かの都合でこの世界に呼び出されたエトランゼは、誰かの都合で世界から弾き出されていく。

 なんて身勝手で理不尽な世界なのだろう。

 立ち向かうこともできず、その濁流に流されることしかできない。

 だから今宵もそう。

 流れに乗って上手く泳ぐこともできずに、ラニーニャはまた一人で誰もいない場所を目指そうとした。

「……こんな最低最悪な世界は、どうでもいいんですよ」

 世界で何が起ころうと知ったことではない。

 自分の知らない場所で誰が死んでも。

 自分が知らない誰かを殺したとしても。

 それはラニーニャには関係のないことだ。

 ――果たして、それは本当にそうなのだろうか。

「……なんで」

 疑問が口から漏れる。

 それはすぐに雨の音に掻き消されて、本当に自分が言ったのかすら定かではなくなっていく。

 どうして、自分は立ち止まっているのだろうか。

 何故、振り返ってあの街を見ているのだろうか?

 このままラニーニャがここを去れば、カーラはユルゲンス家を襲う。当主も、あの少女もきっと死ぬ。

 それはもう、ラニーニャには関係のないことだ。

 金持ちの、この世界でぬくぬくと生きている者の道楽で助けられただけのこと。それを返さなければならない道理はない。

 なのに足が動かない。

 前に進むことを拒否している。

 後味が悪いだとか、そう言う話ではない。そんな目には何度もあってきたし、誰かを見捨てたこともある。

 なのにどうして今だけは、心が騒ぐのだろうか。

 その理由はラニーニャには判らない。

 でも、前には進めない。

 きっとこのまま足を進めれば、ラニーニャはもう何処にも行けなくなってしまう。

 前に進んでいるつもりでも、一歩もその場から動くことができなくなってしまうと、そんな予感がした。

 身を翻す。

 随分と短くなった髪が、軽やかに揺れた。

 そのまま身軽になった身体で、今しがた乗り越えた街の門を軽々と登って行く。

 月や星の灯りもない、立ち込める暗闇。

 その中にある小さな輝き。胸に灯った火だけを頼りに、少女は夜を駆ける。

 今まで決して自分の中に芽生えることがなかった、知らない感情に突き動かされるままに。


 ▽


「まさか自分から兎が罠に飛び込んできてくれるとは思わなかったねぇ」

 上機嫌そうに、カーラはそう言って視線を下に降ろす。

 その先には、金色の髪を垂らした少女が全身ずぶ濡れで、手足を縛られて木箱の上に座らされていた。

「まさかユルゲンスの娘が自分から捕まりに来てくれるとは」

「捕まりに来たんじゃない! ラニーニャを探しに来たんだよ!」

 威勢よく吠えるが、身体を縛られて動けない状態ではそれも滑稽でしかなかった。

「どっちでも一緒さ。ちょっとばかし計画は狂ったが、いい方に転ぶなら願ったりだ」

 ラニーニャと別れてから少し後の出来事だった。

 カーラ達の前に突然現れたこの少女は、急にラニーニャの居場所を詰問し始めた。

 部下の一人が彼女がクラウディア・ユルゲンスだと知っていたため、その場で捕まえて港近くの使われていない倉庫に連れてきたのが事の顛末だった。

「喚いても無駄だよ。ここはあたし等の上が買い上げた倉庫でね。色々と活動するのに役立ててるんだ。あんたの父親に潰された計画も、ここで行うつもりだった」

 倉庫の広さは、優に二階建ての建物ぐらいはある。元々は海外に向かう大型の商船向けの荷物を保存しておくためのものだ。

 倉庫の中は小さな灯りが幾つかあるだけで薄暗く、例え事情を知らない誰かが入り込んだとしても荷物の影にいるカーラ達を見つけるのは難しい。

「それで、姐さん。計画はどうするんで?」

「さて、どうしようかねぇ……。今夜中に屋敷を奪っちまうつもりだったが、それとは別に得るもんがあるとすりゃ話は別だ」

 そう言ってクラウディアの髪を掴み、その顔を上に向けさせる。

「いっ……! 放せよおばさん!」

「口が悪いガキだね。金持ちの癖に躾がなってないのかい」

「お前みたいなのに礼儀正しくしても仕方ないだろ!」

「はっ、確かに!」

 笑いながら、クラウディアを木箱に押しつける。

 背中を強く打って一瞬呼吸ができなくなり、クラウディアは苦しげに息を漏らす。

「なら危険な橋を渡ることもない。身代金を頂いてこの街からはトンズラさ。そんでその後は、適当なルートにこの娘を売り捌いてお終い。簡単な話だろ?」

「へぇ。ですが、屋敷生活もちょっともったいなくないですか?」

「馬鹿! 屋敷を奪っても、そこに長居できるもんかい。その辺りのぼんくら貴族ならまだしも、歴史あるユルゲンス家だよ? すぐに追手が来て潰されてお終いさ。どっちにしても行く先を考えなきゃならなかったんだ」

「そ、そうだったんですかい!」

「当たり前だろ、この阿呆!」

 そう言って部下の尻に軽く蹴りを入れる。

「で、でも姐さん。どうせ売っちまうならその前に味見ぐらい……」

 下卑た笑みでそう尋ねる部下の男だったが、カーラに一瞥されてすぐに言葉を切って黙り込む。

「馬鹿なこと言ってないで、集まった連中を解散させてきな。適当に金を渡して酒でも振る舞ってからね」

「あ、あいあいさー!」

 これ以上カーラの機嫌を損ねないように、部下はそう言って投げ渡された金貨の詰まった袋を持って倉庫を出ていく。

「こんなガキに盛ってんじゃないよ……ったく。ま、胸は無駄に育ってるみたいだけど」

「大きなお世話だよ。好きで育ったんじゃない!」

「はははっ、いいじゃないか。女として武器があるのは悪いことじゃない」

 近くに置いてある木箱を引き寄せ、中に入っている酒瓶を取り出して、蓋を開ける。

 閉めた木箱の上に座り込んで、クラウディアと視線を合わせるようにしてからカーラは一気に酒瓶の中身を喉に流し込んだ。

「あんたも一杯やるかい?」

「いらない!」

 瓶の先端部分を向けるが、クラウディアはぷいと顔を横に背けてそれを拒否した。

「そうかい。あんたのおかげで大儲けできるから、その前祝いをくれてやろうと思ったんだがね」

「この悪党!」

「ならあんたは善人だね。あんな女を拾って助けてやったばかりか、あたし達にこうして金までくれるんだからさ」

「あいつは無事なの?」

「あいつ? ああ、ラニーニャのことかい。何もしてないよ。気にする程度のもんでもないしね。でもあんたも変わってるね。なんであんなゴミみたいな女を助けたんだい?」

 興味本位に、そう尋ねる。

 少なくともカーラの中では、ラニーニャは駒以上の何かに成りえるものではなかった。

 むしろ自分の捨てきることもできない女。そんな奴はごまんと見てきたが、誰もが破滅している。

 だからせめて拾い上げてやろうと思ったのだが、それすらも拒否した馬鹿女だ。

「助けてって言われたからだよ」

「はん。お優しいことで。あんたはそう言われたら誰でも助けるのかい? だったらあたし達も助けてほしいもんだ、このクソみたいな日々からね」

「ばっかじゃない?」

「小娘……。いい加減に口の利き方に気を付けな!」

「ぐっ!」

 脇腹にカーラの蹴りがめり込む。

 身体を縛られたクラウディアは一切抵抗することもできず、無防備に石の床にその身体が叩きつけられた。

 手足を縛られたまま、首だけを動かして倒れたままその目はカーラを睨みつける。

「誰を助けるか助けないかなんてアタシの勝手でだろ?」

「偉そうに……。神様にでもなったつもりかい、金がある家に生まれただけの分際で!」

「はっ。神様だったらもっと沢山の人を助けてるよ。そうじゃないから、あいつだけ助けたんだろ? 仮にアタシが神様でも、あんたにくれてやるのは天罰だろうけどね」

「あんたねぇ」

 クラウディアの顎を掴んで無理矢理立たせて、先程まで彼女が乗せられていた木箱の上に乱暴に押しつけてから、腰から曲刀を引き抜いてその先端を首筋に当てた。

「自分が死なないとでも思ってんのかい? 別にここであんたを殺して、屋敷は普通に襲撃してやってもいいんだよ?」

「勝手にしろよ、清々する。アタシが原因で身代金なんて取られたら、一生の恥だ」

 痛ぶられてなお、クラウディアの心は折れない。

 それどころか自分を睨むその目に恐怖を覚えていたのは、カーラだった。

「アタシ達は悪党には屈しない。金が集まることやってるから、悪い奴も同じぐらい集まってくる。でも、そんな奴等の好きにさせてちゃいけない。そしたら不幸な人が増えるだけだからね」

「……なにを綺麗事を!」

「パパもママもそんな信念を持ってた。商売とか、お金ってのは人を幸福にするためにあるんだから」

「そいつはどうかね!」

 顎を蹴り上げられて、クラウディアの身体が箱から跳ねるように床に落ちた。

「ちっ。だからガキは嫌いだよ。くだらない綺麗事をさも美しい言葉のように言う。金なんてのは汚さの塊、汚物さ。そいつを必死に掻き集めて他人より上に行く、それが人間ってもんだろ」

「そりゃあんたの理屈だろ? 別にそれを否定するつもりもないけどさ、アタシまでその汚い考えと一緒にすんなよ」

「だったら! なんでお前はあの女を助けた? 哀れなエトランゼを救って、悦に浸りたかったんだろ? 金持ちの道楽にありがちなことじゃないか」

「アタシがあいつを助けた理由? そんなの、あいつだからに決まってんじゃん。あの日、あの場所で、アタシに助けてって言った。あいつは自分でチャンスを掴んだだけの話だろ? あいつじゃなかったら助けてなかったかも知れないけど、そんな可能性なんていちいち考えるもんか!」

「それが身勝手で理不尽って言うんじゃないか。あたし等エトランゼがずっとこの世界で味わってきたものだよ」

「だからさ、その責任をアタシに被せんなよ! あんたらエトランゼは大変な目にあってるかも知れないけど、それは別にあんたらに限った話じゃない! 誰だって、いつだって辛いもんを背負ってんだ!」

「じゃあお前は……。何かを背負ってんのかい!」

「今お前にこうやって捕まってんだろ!」

「そりゃもっともだ……。じゃあ、楽にしてやるよ!」

 振り上げた曲刀を握った手が、何かによって拘束される。

 目の前の少女の首を飛ばすことができずに、カーラは忌まわしげな顔で背後を見た。

 倉庫の入り口、その近くの箱の上に片足を掛けた人影がある。

 薄暗い中照らされる浅葱色の短い髪。

 均整の取れた、細身の身体。

 身体中を雨水に浸した彼女は、所々傷を負いながらそこに立っていた。

「……これだから、ガキは」

 舌打ちをして、カーラのその侵入者へと顔を向けた。

 何もかも自分の思い通りにならない。その苛立ちをぶつけるかのように。

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