第六節 違う世界に生まれて
ラニーニャが屋敷を飛び出した少し後。
水の拘束を解かれた少女、クラウディアは怒り心頭で服を着込んでいた。
廊下にまで漏れていた彼女の叫び声に驚いてやってきたメイドの女性は、その様子を困ったような顔で見つめている。
「あの馬鹿! ほんっと馬鹿! 馬鹿!」
「お嬢様。あまり汚い言葉遣いをなさらないように」
彼女の乏しい語彙で必死に絞り出した罵倒語はそのぐらいしかなかったのだが、それでも良家の子女には相応しくないようだった。
「お嬢様? もうおやすみになられるのでしたら、お召し物はこちらの方が……」
クラウディアが着こもうとしているのは動きやすい外行きの服で、もう既に彼女が床に就くものだと思っていたメイドは寝巻を持ったまま途方に暮れている。
そんな彼女のことは意にも介さずに、クラウディアは腰に付けてある鞘に入った二本の短剣を確認した。
「絶対見つけてこの屋敷に連れてくる!」
そう言って脱衣所を出ていこうとすると、その手が強い力で捕まれた。
見れば、メイドが厳しい視線をクラウディアに向けている。
彼女はクラウディアよりも十以上年上で、もう数年ここに勤めている。父マルクや、クラウディアからの信頼も厚い。
そんな彼女が夜に出かけようとしているクラウディアを止めようとするのは当然のことだろう。
「お嬢様。残念ですが、あの方はエトランゼなのでしょう?」
「そうだよ? だからなに?」
「エトランゼと慣れあうのはおやめなさいませ。マルク様もいいお顔はなさいません」
「だから、なんでさ?」
「……エトランゼはその名の通り異邦人です。私達の知らない知恵を持ち、異なる常識で生きて、何よりもギフトを持っている。その意味はお判りでしょう?」
彼女ははっきりとそう言った。
それは、自分が間違っていないと心から信じていることの証左になる。
これは別に、彼女の性格が悪いとかそう言う問題ではない。
多くの人が、エトランゼには同じ想いを抱いている。彼等が数多くこの世界に来るようになってから、治安が乱れている場所もある。
このハーフェンの周辺でもエトランゼ達が徒党を組み、小さな事件になったことがあった。
個人では弱いが、結びつけばギフトは凶器となる。
それによって被害を受けるのは彼等でも、彼等を主だって迫害する者達でもなく、善良に生きる市民だ。
「……いや、全く判んないけど」
「お判りください! 彼等のギフトがどれほど恐ろしいものか……!」
「便利だよね?」
「そう言う話ではないのです!」
「そう言う話でしょ!」
クラウディアもまた、彼女を真っ直ぐに見る。
彼女がエトランゼに対して怯えることも、そう言う考え方が世の中に広がっていることも否定するつもりはない。
他人の頭の中は覗けない、ましてやそれを変えるなんてことが自分にできると思うほど、クラウディアは自惚れてはいない。
でも、クラウディアの意見は別だ。
例えそれを言ったところで何も変わらなくても、口にする必要がある。自分はこう考えているのだと相手に知ってもらわなければ、お互いに理解し合うことなんて絶対にできないのだから。
それは長年一緒に暮らしている使用人であろうと、エトランゼの少女であろうと同じことだ。
「じゃあこれを持ってるアタシは怖いの? お金って言う武器を持ってるパパは? 世の中には指一本で百人を倒せる魔導師がいるって聞いたけど、それも怖いの?」
子供の頃から恵まれた生活をしていた。
父は金と権力を持っていて、その有効な使い方をよく知っている。
だからこそ、その恐ろしさも常々伝わってきていた。
そして何よりも――。
「どんな力を持ってても、叶わないこともある。パパはお金があって、色々なお医者さんを呼んだけど、ママは助からなかった……」
救えないものがある。
たった一つの力だけでは不可能なことが幾つもある。
それを悲観するつもりもないが、だからこそ言えることがある。
「あいつは力を持ってるかも知れないけど、それじゃ救われないんだ」
「お嬢様が助ける必要なんかないでしょうに!」
「必要なことしかやらない人間って多分、つまんないよ。理由なんかないけどさ、あいつがアタシの目を見て助けてって言った時、なんかビビってきたんだよね。この人を助けてあげたいって思ったんだ」
「……その同情が、更に彼女を傷つけることになるかも知れませんよ?」
「そん時はそん時。ごめんって謝るよ」
そこに理由なんてない。
そうしたいからする。クラウディアの行動原理はたったそれだけだ。
するりと、メイドの手からクラウディアの手が抜ける。
恐らく彼女はクラウディアを説得することはできないと判断してしまったのだろう。
「じゃあ、絶対あいつ連れてくるから。暖かいスープと、またお風呂用意しといて!」
そう言って、クラウディアは廊下を滑るように駆け出していく。
目指すは暗闇の中、何処にいるのかも判らないエトランゼの少女を探して。
▽
雨に打たれながら、真っ暗な闇の中を一人歩き続ける。
左右にある建物からもロクな灯りが漏れてこないこの路地裏は、まるで闇の世界にいるようだった。
さっきまで過ごしていた屋敷は夢の世界のようで、きっと本来ラニーニャがいていい場所ではないのだろう。
そこまで考えて、一人苦笑する。
元はと言えば、もっと恵まれた生活をしていた。
友達こそできなかったが、母親は優しかったし、家に帰れば温かい食事がいつでも用意されていた。
それが理由も判らない理不尽で奪われて、よもや自分がもう辿り付けないであろう遠い世界の出来事になろうとは、一体どんな運命を辿ってしまったのだろうか。
目的地に付いて足が止まる。
路地裏の最奥。建物と建物の間に隠れたその廃屋はここ数日ラニーニャが寝床にしていた場所だった。
しかし、今は中に人の気配がする。
誰にも見つからない場所だと思っていたのだが、どうやらラニーニャが寝泊まりしていた段階で目を付けられていたのか、それとも元々誰かが暮らしていた場所を知らずに奪い取っていたのか。
とにかく、今はそこを使えそうにない。
力尽くで奪うことも考えたが、そこまでするほど墜ちているつもりはない。そうなりきれないことこそが、自分の欠点であると理解はしているが。
どちらにせよ自分はここでは余所者だ。仕事の話も消えたことだし、留まる理由もない。
近くの街まで行く路銀もないが、最悪人から奪うという手段だってある。もしその過程で死んでも、それならそれでいい。
そう判断して、夜の間にそこから立ち去ろうと踵を返す。
振り返った先に複数の人影が揺らぎ、ラニーニャは咄嗟に腰に差したボロボロの曲刀に手を掛けていた。
「いい反応だねぇ。流石は剣闘の華」
中央には長身の女が一人。
その両脇には部下と思しき男達が数人立ってラニーニャを見下ろしている。
すぐに動こうとした男達を、その女は手を伸ばして制する。
「馬鹿な真似するんじゃないよ。別に殺しをやりに来たわけじゃないんだ」
「ですが……」
何かを言いかけた後ろの男の口をその女の一言が縫い止める。
「なんでお前よりも有能な奴の処遇を、お前が決められると思ったんだい?」
何も言い返すこともできなかったその男を一瞥してから、女はラニーニャを見ながら笑ってみせた。
表面上は友好的だが、その実は決して対等な立場など認めていない、まるで獲物を目の前にした肉食獣のような笑み。
「こうして会うのは初めてだね。あたしの名前はカーラ。聞いたことはあるかい?」
「ええ、貴方がしくじったおかげでわたしはこの有様なので」
「てめぇ!」
後ろの男が即座に声を上げて前に踏み出すが、それに対してカーラは足を引っかけて転ばせる。
石と泥の地面に顔面から倒れ込んだ男は、泥まみれになってそのまま突っ伏した。
「やめときな! 獲物を抜いてたら逆にやられてたよ、あんた」
「高く評価してもらってありがたい限りですね。それで、雨の下で世間話をする気はないのですが」
「まー、そうさね。あたしも無駄に濡れるのはごめんだよ。だから話は手っ取り早く行こう。さっきあんたが言ってたあたしがしくじった件、本当に何の言い逃れもできない。大勢に迷惑を掛けたと自覚しててね」
カーラと名乗った彼女の名前は、この辺りのごろつき達の間では有名だった。
エトランゼでありながら元々この国にあった裏社会の組織に溶け込み、そこで辣腕を振るう女傑。
荒くれ者やごろつき、ラニーニャのように行く当てのないエトランゼに対しての先の剣闘のような『興業』を持ち掛けるのも彼女の仕事の内だった。
「さっきも言った通り、あんたの噂は聞いてんだよ。やたら強いエトランゼの女剣士がいるって。それで、あたし等は次のシノギに手を出すために駒がいる。あんたは優秀だ、腕はそれなりに立つし、エトランゼで、しかも女だ。判るだろ?」
「わたしが期待に沿えるとは思えませんね」
「謙遜するなよ。こう見えても人を見る目はあると思ってんだ。それでここまで成り上がってきた。……あんたは才能があるよ、自分のために平気で他人を蹴落とせる才能がね」
その横を通り過ぎようとして一歩前に歩を進めたラニーニャは、それを聞いて立ち止まる。
再び彼女の顔を見上げると、年齢相応の小さな皺が刻まれたその顔は先程までと同じような歪んだ笑みを浮かべてラニーニャを見下ろしている。
「ギフトの強さ弱さに関係なく、生き残るエトランゼには特徴がある。それはもともといた世界の未練や常識を如何に早く捨てて、ここに染まれるかだ。躊躇ってる馬鹿は死ぬか、一生誰かに食い物にされ続ける。話は聞いてるよ? 自分の女になれって持ちかけた奴をその場で刺し殺したんだって?」
否定も肯定もしない。
カーラは別段、それに気を悪くした様子もなく話を続ける。
「実を言うとね、それはあたしにとっては助かったんだ。あの男はあたしの目の上のたんこぶでね、ロクな力もないくせに女を買い漁ることに夢中だったから、死んだところで誰も迷惑もしなかったんだが、代わりにあたしのところに転がり込んできたものは大きかった」
「別に貴方の出世街道に興味はありませんよ。どうぞ、酒場で部下を相手にご自由に」
「連れないねぇ。でもま、あんたの態度はよく判った。見たところ金も家もないみたいだし、野垂れ死にたいのを止める理由はあたしはない。精々、死ぬ前に気が変わってあたしのところに来てくれることを願ってるよ。もっとのその場合はあんたは最下層の娼婦の真似事からやってもらうがね」
「今だけ特別サービスってことですか? まさかそれで気が変わるとでも?」
「いいよいいよ。ちょっとは期待してたが、その目を見りゃ判る。そう言うもんなんだ、この世界で生き残るエトランゼってのは。妙に我が強くてね」
「それはどうも」
「それは一つの用件。もう一つあんたには聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
「国の連中と組んであたし達のシノギを潰した奴等に落とし前を付ける必要がある。あんた、あのユルゲンスの屋敷から出てきただろ? 何か有用な情報があれば教えてもらっえないもんかね?」
「生憎、特に何も。お風呂が広かったぐらいですかね」
「ははぁ。そりゃいい話を聞いた。屋敷を乗っ取って使うなら風呂は広いに越したことはない」
「あの家を襲うつもりですか?」
雨脚がまた一段と強くなる。
空を覆う分厚い雲は晴れる様子はなく、稲光までもが轟いてきた。
「そりゃそうだろう。こっちは貴重な収入源を潰されたんだ。金持ちの道楽みたいな警察ごっこでね。一応聞くが、あんたも噛むかい? 仕事を失ったのは事実だろ?」
「路銀稼ぎにやってましたが、人斬りを仕事と思ったことはないので」
「はははっ、死にかけてた割りには言うじゃないか。引き留めて悪かったね、行きな」
「ええ。二度と会うことがないことを祈っていますよ」
「そりゃ無理じゃないか? あんたが真っ当な仕事に付けるとは思わない。だったらいつか、あたしに頭を下げる時が来るさ」
その言葉には何も答えず、ラニーニャは早足でその場から去って行く。
「いいんですかい、姐さん?」
「構やしないよ。腕が立つと言っても女一人。そんなに躍起になるもんじゃない。世の中を上手に渡るなら、そのぐらいクールな方がいいってもんさ」
「だからって……。これじゃあ姐さんがわざわざここに来た意味が……」
「そういう日もあるってことさ。収穫があるとするなら、今あの家を襲ってもあいつは助けに来ない。買収されて敵になってるよかいい状況だと思わないかい?」
「……そりゃあ、そう言う考え方もあるかも知れませんけど……」
「短気に逸りゃ損をする。何もない時は悪いことが起きなくてよかったぐらいの気概でいればいいのさ。悪党だからって絶対に利益を得なきゃ死ぬわけでもないのさ。……無駄話はここまでだね」
カーラの視線が、ある方向を見る。
その先にあるのは建物の影に隠れて見えない、ここハーフェンの外れに建てられた屋敷。
「部下を集めな。今夜中に片を付けるよ」
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