第四節 終着の雨
嫌な予感は的中した。
分厚い雲からはいつの間にか雨が降り出していた。
その勢いは次第に増していき、いつの間にか海が落ちてきたかのような豪雨が辺りを包みこんでいる。
皮肉にもあの日、ラニーニャが望んでいた空の涙のように。
天から落ちる雨粒は地面や建物にぶつかるその音で、遠くの戦いの音を掻き消している。今、ラニーニャの周囲には雨音がするばかりで他には何の音も聞こえない。
耳を打つその響きが心地よかった。
全身をずぶ濡れにするその雨の雫が、まるで幼い頃に傘を忘れて走って帰ったあの日を彷彿とされる。
もう絶対に戻れない、そんな日々。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
還れない日々への追想も消え、元の世界に戻りたいという希望も失った。
あるのはただ、戦って死ぬことだけ。
せめて怪物と化したこの身が、一人でも多くの人を救えるのならば上出来だろう。
そう自分に言い聞かせた日々だった。
そうやって心を偽って、誤魔化し続けた。
――それももう終わる。
横たわった身体には力が入らない。
身体の半分は失っていた。
辺りに散らばる異形の残骸が、この世界でラニーニャが残した全てだった。
折り重なり山のように積もる醜い肉片。
百を超えてからは数えるのをやめた。千にも届くほどの世界を喰らう悪魔の死骸。
そんなものだ、この世界に残せたものなんて。
必死で戦った結果が、この程度だ。
息を吸うと、肺の中が焼けるように痛む。
既に失った手足ではその痛みに悶えることもできはしない。
先程までは全身が痛みに蝕まれていたのだが、いつの間にか感覚を残すのは身体の中だけになっていた。
雨の寒さも、失った体の痛みも感じない。
地面に染み込んでいく赤い血の感触を背中に受けながら、ただ最期の時を待ち続けていた。
「随分と派手にやったものね」
声がする。
首はもう動かない。
その人物が何処にいるのかも判らないし、別にもうそれはどうでもよかった。
ただ、今際の際までのこの退屈な時間を過ごせることは、少しだけ嬉しい。
「こんなところでサボっていていいんですか?」
意外とすんなり声が出た。
雨音に、僅かな足音が交じる。
視界の中に、腹が立つほどに整った顔が映り込んできた。
金色の髪に、黒いドレスのようなローブ。
ラニーニャよりも先に魔人に目覚めた彼女は、思っていたよりも人間的な表情でこちらを見下ろしている。
泣こうとしているのか、或いは笑おうとしているのか。
雨を拭うこともできず、歪み始めた視界ではそれも判らないが、平坦な表情をしていないのだけは判った。
「もう終わったわ。この辺りに出現した虚界の大半は殲滅。後は残党を狩れば、周辺の地域を取り戻したようなものよ」
「そうですか。……それは、よかった」
素直にそう言えたのは、自分でも意外だった。
そのついでに、彼女に質問をぶつけることにする。
「聞きたいことがあります」
「なに?」
「わたし、死にますか?」
「……ええ、そうね」
もう救えない。
四肢をもがれただけでなく、身体の中にまで虚界に浸蝕されたこの身体は、次第に崩れ落ちていくことだろう。
判ってはいたが、そう答えた彼女の詰まるような声が愉快で、小さく笑ってしまう。
「何かおかしいことでも?」
「いいえ。何もないですよ。でもまさか、最期を看取るのが貴方とはね」
「私もそう思うわ。……と言うよりも、私も貴方も一人で死ぬものと思っていたから」
「あはっ、確かに。それなら貴方は一人ですね。ご愁傷さま」
「言うわね。死にかけの癖に」
彼女とこんなに長く会話をしたのは初めてのことだ。
元々、共通点と言えば魔人であることだけだ。その戦力は分散されていたし、別段慣れあうほどにお互いを好いていたわけでもない。
人と慣れ合わず、距離を取り。
その力を磨き、ただ振るい続ける。
生き方は似ていたのかも知れないが、相容れることはなかった。
「質問をしてもいい?」
「……長くならない程度にお願いします。もう、結構眠いから」
「……貴方の生は、これで終わる。貴方はその生き方に満足している?」
「……あははっ、愚問を」
目を開く。
力を込める拳はもうない。怒りのままに地面に叩きつけることもできない。
ギフトを発動させることすらもできそうになかった。それはきっと、命の灯が消えかけているという証拠。
「そんなわけないでしょう……! 意味も判らずこんな世界に飛ばされて、化け物と戦わされて……。その挙句に自分も怪物のような力を得て、そして死ぬなんて……」
代わりに、視界の端で彼女の拳が固く握られたのが見えた。
きっとラニーニャの想いを受けて、その代わりにやってくれたのだろう。
「……もう一度人生があったのなら、違う結末を望みますよ、わたしは」
「……そう」
素っ気ない返事。
でもそれでよかった。ここで同情されたり、下手な気休めを言われた方がむしろ気分が悪い。
彼女はいつも通りの、冷淡な彼女でいればいい。
目が霞む。
肺の痛みも消えた。
多分、もう最期の時が近い。
「……さようなら」
「ええ、さよなら」
目を閉じる。
真っ暗な視界の中に、雨の音だけが響いていた。
やがてはそれも消えて、世界は静寂に包まれる。
そんな中、最後に聞こえたのは小さな嗚咽だった。
それをからかうことも、馬鹿にしてやることもできはしないが。
ほんの少しだけ、穏やかな気持ちで最期を迎えられる。
だからせめて、これからもまだ戦いの日々を生きることになる彼女に。
冷たい瞳の中に、誰にも知られることのない強い何かを秘めた魔人に幸福あれと、そう願う。
雨の音が響く。
そこにあるのは一つの死体と、一人の女。
彼女が動かなくなるのを見届けてから、女はその場を去って行く。
二人の間にあるのはただそれだけだった。
▽
「それで、ラニーニャいつまでこれやってんの?」
ハーフェンの港町。
この街の実質的代表であるマルク・ユルゲンスの屋敷。
その娘であるクラウディア・ユルゲンスは自室のベッドの上で呆れと戸惑いが交じった声を上げていた。
その原因は言うまでもなく、彼女に抱き付くような形でその胸に顔を埋めている親友であり、クラウディア専属の護衛を請け負っているラニーニャによるものだ。
何を隠そうこのラニーニャ。クラウディアの小柄な体格に不相応な豊かな胸に顔を埋めている。服の上からとは言えその柔らかさは充分に伝わってきて、余りの心地よさにもう一時間ほどこうしているのだ。
「いきなり部屋に来ておっぱいを寄越せなんて言うから何事かと思ったけどさ」
「あー、極楽極楽……。疲れた時は年下のおっぱいに限ります」
「疲れるほど仕事してたっけ?」
実際のところ、護衛とは名ばかりでラニーニャがやっていることは殆どクラウディアの話し相手兼遊び相手だ。
もっとも、本来ならば商人の娘が危険を冒すことなど殆どないわけで、それも当然と言えば当然なのだが。
「失礼な。今日はあの御使いのところを冷やかしに行って、それから酒場を二、三件見回ってデスネ……」
「飲み歩いてちょっかい掛けてただけじゃん」
「そうとも言いますが。でも御使いが信用できないのは本当ですよ?」
ラニーニャの言う通り、先日引き取ってほぼタダ働きをさせている御使い、光炎のアレクサには武装商船の部下も何人か殺されている。
幸いにして海上で彼の姿を見た船員はいないため、そのことは誰にも伝わってはいない。
クラウディアとしても思うところはあるのだが、だからと言って仇を討つつもりにはなれはしない。もし誰かがそう言っていたのならば便乗することもあったのだろうが、カナタもヨハンも彼を許しているのだから今更口を挟む気にもなれなかった。
自分の中で折り合いを付けるための折衷案が、タダ働きだ。もし彼が御使いの立場を利用して何らかの地位を手に入れていたのならば、やはりクラウディアは反抗していただろう。
「あの、もぞもぞ動かないで」
「ちょっと待ってください。今ベストな姿勢を探ってるんですから」
「……ねぇ、ラニーニャ」
クラウディアの声が低く沈む。
耳当たりの良いその声は、本気でラニーニャのことを心配している時のものだ。
「なんかあったの? いや、多分アタシにも予想はできてるんだけど」
「……なんだと思います?」
「エトランゼのことでしょ? ラニーニャの人生が二度目だって言う」
「正解!」と答える代わりに、背中に回した両腕に力が籠る。
「それから、後もう一つ。肝心な時に力になれなかったのが悔しいんでしょ?」
「もごご」
「なに言ってるか判んないよ」
クラウディアが苦笑する。
彼女の言葉は全て当たっていた。
紅い月の事件の時、ラニーニャは意識を失っていた。大半のエトランゼがそうだったのだから、それも仕方のないことではあるが。
それでもその時に手助けができなかったことが悔しい。何よりもラニーニャのミスで失ってしまったと思っていたアーデルハイトが帰って来てくれた。
そのこと自体は嬉しい。何も異論はない。
でも、同時に自分の力不足で失ってしまったものを取り返す時に何もできなかったことが、ラニーニャの中では引っかかっていた。
そしてそこに加えて、エレオノーラが発表したエトランゼの過去に付いてのことだ。
「ラニーニャはさ、優しいよね」
「何処かです?」
頭を抱えるように、クラウディアの両腕が回される。
そのまま優しく抱きしめられると、ラニーニャは照れたように更に胸に顔を押し付ける。
「優しいっていうか、繊細なのかな? それで臆病で、いっつも何かを怖がってる」
「おっぱい」
「下手な誤魔化し。ラニーニャは馬鹿だなぁ」
背中に触れた手で、優しく叩くように撫でる。
眠ってしまいそうな柔らかな感触に抗いきれずに、ラニーニャは静かにクラウディアの胸の中で目を閉じる。
「初めて会ってから、どのぐらいの時間が経ったっけ?」
「……二年か、三年ぐらいじゃないですか?」
「そうだったね。随分長い間一緒にいる気がしてたけど、まだそのぐらいかぁ」
「でもその時間はずっと一緒でしたから」
「……うん。そうだね。覚えてる? 初めて会った時のこと?」
目を閉じたまま首を縦に動かす。
あの日のことは、今でも忘れられるわけがない。
全てを諦めかけていた日々。絶望の泥水に浸る毎日から掬い上げてくれた、あの小さくも温かい手の感触を。
――忘れるはずがなかった。
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