間奏 流水の追憶

第一節 曇天の下

 そこは、曇天の下にある地獄だった。

 破壊され尽くした街。積み重なる瓦礫の下に埋もれる人の死体。

 鼻を突く異臭は人と、そうでないものの死が混じりあっていた。

 ぽたりと雫が落ちる。

 それは雨ではない。川が落ちてきたかのようにその街へと襲い掛かった異変がもたらしたものだ。

 雨なくとも濡れた大地の上で、彼女は一人で空を見上げていた。

 いっそ雨が降れば、この地獄を靄の中に覆い隠してくれるかも知れないのに。

 そんな期待などに空が応える義理はない。変わらずに、分厚い雲は何もせずそこに在り続けているだけだ。

「まったく。役に立たない」

 少女がごちる。

 誰の耳にも入らない呟きは、静寂の中に溶けて消えた。

 なんと言う地獄なのだろう、ここは。

 何度も何度も思ったことだ。

 この世界に来てから今日まで、気が休まったことはない。誰かを信じられることもない。

 地獄から地獄へと渡り歩いてきたようなものだ。折角の美しい景色も、こうして自分自身の力で見る影もなく変えてしまえるのだから。

 街の大通りから彼方を見る。

 ずっと続く道と、その果てには何もない。地平線が揺らいでいるだけだ。

 奴等がやってくる、その忌まわしき道の先が。

 ふと通りの横を見れば、大きな建物の残骸が目に入った。

 この街で一番大きな屋敷は、ここで起こった戦いの余波で容赦なく破壊されて、今では崩れた木と石の山に成り果てている。

 何の気なしに、そこに足を駆ける。

 段差になっている場所を注意深く進んで、一番高いところにまで軽い足取りで登る。

 以前は街を行く人を見下ろせていたその場所は、今となってはもう一階建ての建物とそう変わらない高さになっている。

 無残に砕けた石の一つに腰かけて、少女は街を見た。

 動いている人はもういない。

 全員逃げたか、もしくは死体となっているかだ。

 そこに同じように倒れている、不気味な肉色の異形。

 彼等がこの惨状を生み出した。人を襲う、この世界に現れたらしい敵。

 らしい、と言うのは少女自身にその自覚がないからだった。

 今まで生きていた世界を強制的に手放させられて、この世界に呼び出された。そして力を与えられたから戦えなどと言われて、文句を言いながらどうにかやっている間にもう十年以上が経過している。

 虚界、そう呼ばれる異形達との戦いは今年で五十年目を迎えるらしい。記念すべきその年月を祝う言葉は当然ながらありはしない。

 後五十年、百年に達する前にこの馬鹿げた戦いを終わらせて静かに眠りたいものだと、彼女は思う。

 その場所には人の命が燃えていたはずなのに。

 多くの生活が、温かな日常が過ぎていたはずだったのに。

 一瞬でそれは奪われた。理不尽なまでの暴力で。

「ああ、いたいた! よかった、帰っていなかったのね!」

 この場に似つかわしくない声が背後から聞こえて、彼女は振り返る。

 所々三つ編みに結ばれた銀色の長い髪。

 末広がりのスカートの黒いドレス。

 白い肌に整った顔立ちの中にはあどけなさと妖艶さが入り混じっている。

 紫色の瞳を向けて、その少女は笑っていた。

「貴方がこれをやったのでしょう? 全部壊してしまったのでしょう? とても、取っても凄いわ! ウァラゼル、とっても感動したの! ねぇ、判る? この辺りがきゅーってなったの!」

 ウァラゼル。

 そう名乗った少女は瓦礫の上を危なげなく飛び跳ねながら、弾む声でそう言った。

 きっとそれは心からの称賛なのだろうが、彼女にとっては馬鹿にされているに等しい。こんな力は欲しくなかった。下手に力があるから、余計なことを考えてしまうのだから。

「ねぇ、貴方エトランゼでしょう? ううん、答えなくてもいいわ。判るもの、ウァラゼルは賢いから! 貴方のその力、凄く興味がある。魔人、とか言うやつでしょう? ええ、判るわ、ウァラゼルには全部御見通し!」

「だったらなんだって言うんです?」

「お友達になって遊びましょうよ! もう一人の魔人アルス何とかには断られてしまったの。彼女はウァラゼルが嫌いみたい。酷いわよね? ウァラゼルはアルス何とかには何もしていないのに!」

「神の使徒でありながら人を傷つける貴方のことを、どうして好きになれると思いますか?」

「違うわ、それは違うの。ウァラゼルは虚界と戦っているだけ」

 その言葉は正しい。

 御使い、悪性のウァラゼル。

 虚界の侵略に対して未だに大半の御使いが日和見を決め込むなか、積極的に戦いに出る数少ない存在。

 だが、彼女は決して歓迎されているわけではない。

 戦いを遊戯として楽しみ、その強大な力を一度振りかざせば護るべき者達すらも纏めて薙ぎ払う。

 彼女の仲間だったエトランゼも、ウァラゼルの力に巻き込まれて帰らなかった者は少なくはない。

 本人に会うのは初めてのことだが、まさかこんな幼げな少女だとは思いもしなかった。

「でもね、でも、ウァラゼルは本当に悪くないの。あの人達は死にたがっていたの。だってそうでしょう? 弱い心と弱い身体で生まれて、虚界に浸蝕されるぐらいなら死んだ方がマシ。ウァラゼルはちゃーんと判ってるんだから」

 胸を張る少女の姿に一切の微笑ましさはなに。

 御使いと言う歪な存在に対する不快感を濃縮したものだけが、心の中に溜まっていく。

「その弱いものを護るのが貴方達でしょうに」

「ううん、違うわ。誰にもそんなことは言われていないもの。神様はウァラゼルに言葉をくれない。他の御使いもそう。貴方と同じ目でウァラゼルを見るの。ウァラゼルが信じているのはお姉様だけ。イグナシオお姉様は強くて、いっつも正しいの! だから虚界をやっつけるの!」

 ウァラゼルの表情が歪む。

 歪な存在は、その顔に残酷な笑みを浮かべて心底嬉しそうに、小さな身体で彼女を見上げた。

「貴方だってそうでしょう、魔人さん? これ、やったの貴方だもの。凄かったわ、地下から水が一気に上がってきて、街中を洗い流すみたいで!」

 この街の中心部には既に虚界が侵入していて、虐殺が行われていた。

 だから、地下水を一気に地上へと噴出させて街全体を洪水で覆った。大半の住人は逃げているはずだが、当然それも全員ではない。

 逃げそびれた人、足の遅い老人や親とはぐれた子供などは纏めて押し流した。もし彼女がそれをやらなかったところで虚界に喰われたのだろうが、自分の手に掛けたという事実は消えはしない。

「ウァラゼル感動したのよ。本当に、本当に凄い。ねぇ、もしよかったら今度遊びましょう。虚界でも人間でもいいから、どっちが多く殺せるかを競うの。貴方も凄いけど、ウァラゼルもとっても強いのよ! 絶対に負けないんだから!」

「そんなくだらない遊びに付き合うつもりはありませんよ。どうぞ、お一人で」

「えぇー。つまんない! それじゃあつまらないわ!」

 今度は拗ねたような表情で、足元の瓦礫を蹴飛ばす。

 石の欠片が家の残骸を転がり落ちて、地面に辿り付いたところでウァラゼルは再び何かを思いついたかのように顔を上げる。

「そうだ! なら今ここで遊びましょう? ウァラゼルと貴方、どっちが強いか決めるの! そうしましょうよ!」

 その背から、翼のように紫色の光が噴出する。

 ゆらゆらと水の中の海藻のように揺れるそれは、幾重にも枝分かれした先端をこちらに向けている。

 どうやらこの悪性のウァラゼルとやらは、噂で聞いていたよりも遥かに狂っているようだった。

 全力で逃げればどうにかなるかも知れないが、仲間と合流するところまで付いて来てしまえば被害が拡大する危険性がある。

 もしこの場で敗れても、自分一人の犠牲で済むならば安いと、そう判断した。

 頭の中で念じる。渦を巻く見えない力を放出して、ギフトを発動。

 地面が罅割れる音がして、数ヵ所から一気に水が噴き出す。

 それらはまるで意志を持っているかのように動き、ウァラゼルの光の帯と同じような形をとって彼女を包囲する。

 それを見たウァラゼルは、一度驚いたように両目と口を開いて、それから楽しげに笑った。

「凄い! 凄い凄い凄い! やっぱり貴方は強いわ! どれぐらいウァラゼルのことを楽しませてくれるのかしら!」

 光の帯が動く。

 それに合わせて水の刃もまた、ウァラゼルに狙いを定めた。

 二つの力をぶつかる寸前で止めたのは、空から落ちてきた声だった。

「やめなさい、ウァラゼル」

 法衣を纏った女が空から現れる。目の前のウァラゼルに集中していたとはいえ、至近距離に近付かれるまで気付けなかったことに、驚き、警戒を強めた。

フードを目深に被っているため顔は見えないが、明らかに御使いと言った風体のそれを見て、敵が増えたのかと嘆息するが、状況は思っていたものとはまた違うようだった。

 女は彼女とウァラゼルの間に降り立つと、銀髪の少女に対して片手を向けて御使いが操るあの光を広げている。

「……水月」

 ウァラゼルが忌々しげに、その銘を呼ぶ。

 水月と呼ばれた女はその態度は全く気にしていないのか、平坦な声でウァラゼルに告げた。

「勝手な行動は慎むように言ったはずですが?」

「だって、だってだって! つまんないんだもん! 虚界を殺すのはいいことなんでしょう? あいつらも死にたがってる。違う?」

「今ここにいるのは虚界ですか? 違うでしょう。貴方は貴重な戦力であるエトランゼを手に掛けるつもりですか?」

「エトランゼよりもウァラゼルの方が強いから大丈夫!」

「そう言う話ではありません」

 水月は頭を抱えて、仕方さそうに別方向からウァラゼルを責める。

「イグナシオが戻って来ていますよ。ここでエトランゼを殺せば、彼女は怒ってしまうかも知れませんね」

「お姉様が? それは嫌だ! みんなウァラゼルのことが嫌いだし、ウァラゼルもみんなのことが嫌いだけど、お姉様だけは別だもん! お母様とお父様が言ってた! イグナシオお姉様はウァラゼルを護ってくれる、護らなくちゃいけないって!」

「そうでしょう? でしたら、判りますね?」

「……むー。仕方ない。魔人さん、遊ぶのはまた今度でいい? 今度はお姉様も一緒に来てくれると思うから、思いっきり遊ぼうね!」

「二度と会いたくないのでさっさと消えてください」

「あははっ、面白い挨拶! それじゃあね!」

 驚くほどにあっさりと、ウァラゼルは空を飛翔して視界から遠ざかって行く。

 フード姿の、水月と呼ばれた女はそこでようやくこちらを認識したかのように振り返った。

「ウァラゼルがご迷惑をおかけしました」

「別に彼女に限った話ではありませんけどね。この世界には、迷惑を掛けられっぱなしですし」

「随分と口が達者なようですね。それだけの力を得れば自惚れるのも無理はありませんが」

「ウァラゼルの代わりに喧嘩を売りに来たんですか?」

 別段、彼女がそのつもりなら買ってやってもいい。元々ウァラゼルとはやりあう気だったのだから。

 水月は首を振って、一歩後ろに後退る。

「そのつもりはありませんよ。貴重な戦力を減らすのは愚かなことなので」

「だったら貴方も消えてください。わたしはこの世界の住人ではないので、御使いを信奉していると勘違いしないでくださいね」

「ええ、判っていますとも」

 ふわりと、水月の身体が浮かぶ。

 空に向かって吸い込まれるように消えていくその姿に、思い出したかのように声を掛けた。

「一つ」

「なんでしょう?」

「ウァラゼルのお姉さんとやらに伝言をお願いします。自分の妹のことはしっかり監督しておけとね」

「よくやっていますよ、イグナシオは。あんな狂った妹を持って、正気を保ちながら虚界と戦っているのですから」

 答えにもなっていない回答を残して、水月の姿も消えていった。

 短く息を吐いてからギフトの力を緩めて、水を慎重に地下に戻す。

 すぐに辺りはまた、先程と同じような静寂の立ち込める場所に戻った。

「……ん?」

 ウァラゼルが来る前と比べて唯一の違いがあるとするならば。

 見覚えのない金髪の少年が、呆けた顔でこちらを見上げていることぐらいだろうか。

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