第七節 君のヒカリ
先程から聞こえてきていた戦いの音が消えた。
果たしてどちらが勝利したのか、ヨハンには判らない。せめてカナタの勝利を信じることだけが、今できる全てだった。
最後の一部屋に、ヨハンは踏み入った。
そしてそこにあるものを見てそのまま、何もできずに立ち尽くしていた。
白い寝台の上に乗せられた懐かしい顔。
既に失ってしまったと思っていた少女の姿がそこにある。
金色に光る短い髪。
整った顔立ちに小さな身体。
死んだと思っていたアーデルハイトの姿は、ヨハンが知っているそのままの姿で、傷一つなくそこにある。
しかし、彼女はそこにあるだけだった。
希望などはない。声を掛けても全く動きもしない、人形のような姿で。
ガラスと一枚の扉で隔てられた彼女のいる部屋は、特別な魔法による仕掛けがしてあるようだった。
肉体の損傷を回復する、信じられないほどに高度な魔法によって再生させられていたとしても目覚める気配がない。
その意味を理解できないほどにヨハンは愚かではない。
「……駄目なのか」
ようやくここに辿り付いたというのに。
失ってしまったと思っていたものに、再び手を伸ばす機会が与えられたというのに。
また、救えない。
イブキの時と同じように、自分ではどうすることもできずに、無力を噛みしめてただ立ち尽くすことしかできないのだろうか。
背後で扉が開く音がして、ヨハンは慌てて振り返る。
もしアルスノヴァが一人でやって来たのなら、抵抗する術はない。それが判っていても、思わず身構えていた。
その心配は杞憂に終わったようだった。
アルスノヴァとカナタの二人は傷だらけの姿でお互いを支え合い、身を寄せあいながら部屋の中へと入ってくる。
「アーデルハイト!」
ヨハンに何か言うよりも早く、カナタが駆け出す。
よろめくように硝子の壁に両手をついて、眠り続ける友達の姿を見た。
それから彼女の視線はヨハンと、アルスノヴァの二人を見る。
助けられないのかと、そう訴える目に対して答えを返すことはどちらにもできそうになかった。
「彼女は紅い月を再生させるための最後のパーツ。私の魔力を分けて、私の遺伝子を元に作られた人工生命体」
「……人工生命?」
「そうよ。かつてはそんな実験も数多く行われていたの。ギフトを受け継いだままの人間を生み出せないかって課題の下にね。結果については、今はその話はいいでしょう」
アルスノヴァはカナタの隣に立って、手を伸ばして硝子に触れる。
アーデルハイトを見るその目は、思いの外優しいものだった。
「彼女は私の最高傑作よ。でも、必要だったのはフラスコの中で育てられる力ではない。外の世界で彼女が学び、力を持つ必要があった。だから彼女を大魔導師と呼ばれていた男に預けたの。教科書も一緒にね」
アルスノヴァの視線の先には一冊の本がある。
それはアーデルハイトと別れる直前。彼女が読もうとしていた先代ヨハンの残した魔導書だった。
「でも、失敗だったわ。イグナシオによってそれは妨害された。彼女に何の理があってそれをしたのかは判らないけれど、あの女は死に際のアーデルハイトの魂に細工を施した。貴方に掛けられた呪いと同じようにね」
言いながら、ヨハンの胸の辺りを指さす。
イグナシオが何を目的としていたのかは、今となってはもう判らない。彼女はイブキによって消滅させられたのだから。
だが、ヨハンの魔力を縛るのと同じようにその呪いはまだ残っている。
「本当は長い時間を掛けて呪いを解除するつもりだったけれど、もう紅い月自体が必要なくなってしまった。だから、彼女も楽にしてあげたい」
「そんなの駄目だよ! だって、まだ生きてるんでしょう? アーデルハイトを助けたい。そのためだったらボク、何でもするから!」
「多分、あの子は幸せだった。貴方にこんなにも想われたのだから」
「そんな勝手なこと!」
「……もし、その方法を見つけたとして、それが百年後だったら? 私はともかく、貴方達は生きていない。そんな世界で一人生きることは苦しいものよ」
「……でも……!」
カナタの抗議は言葉にならない。
感情だけを乗せた言葉では、アーデルハイトは救えない。今そこにある問題を解決しなければいけないのに、その具体的な方法は何一つとしてなかった。
「……ヨハン」
名を呼ばれて、アルスノヴァを見る。
「カナタと貴方が出会ったのも、アーデルハイトとの貴方が出会ったことも全て偶然。私が仕組んだことではないわ」
「……ああ」
そう短く返事をすることしかできなかった。
「私が言える義理ではないけれど、ありがとう。あの子が感情を知って、恋に落ちて、そして人として死んでいけるのはきっと貴方のおかげだから。間違いなく、私は彼女をただの人形としてしか見ていなかったもの」
「ヨハンさん!」
声を上げながら、カナタが腕にしがみつく。
結局のところ、カナタにできることなんてそのぐらいしかなかった。彼女が信頼できる誰かに託すこと。
涙声で訴えるカナタに返してやれる答えなんてない。
「アルスノヴァ」
「なに?」
「お前のやろうとしていることはどうなった? カナタがここにいると言うことは、計画は失敗と言うことでいいのか?」
「……そうね。全部、どうでもよくなったわ。別段自分がしたことを謝るつもりも後悔するつもりもないけれど、近くに幸福があるのならそっちを掴むことにしたの」
「なら、アーデルハイトはもう必要ないな」
「そう、ね」
一瞬、言葉に詰まりながらもアルスノヴァはそう答えた。
それが聞ければ、もう充分だった。
「ヨハンさん?」
カナタの身体を軽く押し退ける。
体力が限界だったカナタは大した抵抗もなく、ヨハンの傍から離れて行った。
「もし起こせたのなら、アーデルハイトは貰うぞ。お前の道具にはさせん」
「……何をするつもり?」
彼女が何かを言うよりも早く、ヨハンは扉を開けて部屋の中に入っている。
外からの音が遮断された部屋の中はしんとしていて、中に渦巻く魔力の流れだけが強く感じることができた。
見下ろすと、そこには彼女がいる。
失われつつある、まだ助けられるかも知れない命が。
なら、もう迷う必要はない。
ありったけの魔力を手に込める。
魂を締め付ける鎖がきつく、それを咎めた。
溢れだしたその呪詛はやがて物理的な苦痛となってヨハンの身体へと浸透していく。
「なにを!」
扉を開けて飛び込んできた二人を、片手で制止する。
「邪魔をするな。気が散ったら、俺もどうなるか判らん。イグナシオの呪いの解除なら、以前もやった」
恐らく、アーデルハイトに掛けられたそれはサアヤ達の比ではない。
その魂から手を通して伝わってくる寒気から、それは理解出来た。
「下手をすれば死ぬわよ!」
「かもな。だからお前の友達を抑えておいてくれ。俺がどうなっても、無理矢理止めに入らないように」
「貴方は……! 私の知ってる貴方は、もう少し賢かったわ。合理的な判断をしていた」
「そんな奴のことは知らん」
過去の自分がどうだったのかなど、今この時は興味がない。
頭の中にあるのは今にも遠く離れて行きそうな手を掴んで、自分のところに引き寄せることだけだ。
血管が裂けて、血が噴き出す。
内臓の何処かに損傷があったのか、込み上げてきた血が咳と共に口から零れた。
それでもやめることはない。
限界まで魔力を引きだして、アーデルハイトの中へと注ぎ込む。
人一人を蘇らせることすらできそうな癒しの力が、彼女の全身に行き渡っていく。
「……まだ目覚めないか!」
サアヤにそれをした時と同じだった。
身体のあちこちが裂けて、逆流する呪いが肉体を引き裂いていく。
蓋が閉まっている瓶を、内側から膨れ上がる何かで無理矢理に開けようとしているようなものだ。硬すぎる蓋が取れるよりも早くに瓶の方が弾けてしまうのは当然のことだろう。
「これは……! ぐぅ!」
力が抜けていく。
片膝をついて、倒れそうになるところをどうにか支えた。
一瞬でも気を抜けば意識が持って行かれそうになっていた。もう、崩れた身体を立ち上がらせることすらもできそうにない。
「死にたいの!? どうしてたった一つの命のためにそんなことをするのよ! 貴方の方が余程、この世界に必要な……!」
「……カナタ、そいつを黙らせておけ。気が散る。見ての通り一瞬で全身傷塗れだ。やることがないなら喚く前に、薬でも用意しておいてくれ」
「だから……!」
「そう言う感情で生きていない。どうして助けるかなんて簡単だろう。アーデルハイトは俺の家族だ。お前がカナタのために躍起になっていたように、俺はこいつのために命を賭ける理由がある」
申し訳なさがあるが、彼女の日記を覗き見て、アルスノヴァがカナタをどれだけ救いたかったのかを知ってしまっていた。
そして今、ヨハンは同じようにアーデルハイトを救いたい。流石に千年の時を越える覚悟があるかは判らないが、今なら命をくれてやってもいいと思えるほどには。
「がっ……!」
目の前が白濁する。
身体が崩れて倒れそうになった。
意識が飛びそうになったところで、何かがヨハンの身体に触れてそれを支えてくれた。
「カナタ?」
「ボクも助けたい。できることなんてないけど、傍にいてあげるよ。……邪魔じゃないよね?」
「――いや、助かる」
これ以上にない助けだった。
カナタの手を借りて身体を起こすと、もう一度全ての力を振り絞る。
彼女はヨハンに力をくれる。
カナタこそがヨハンにここまでの希望を抱かせてくれた。何度失っても諦めずに手を伸ばし続けた。
その結果、彼女は救い上げたのだから。
きつく締め付ける鎖を内側から吹き飛ばすように、魔力を放出した。
再び戻った力は、これでまた消えてしまうかも知れない。
でも、それでもいい。家族を救えるのなら容易いものだ。
別段、ヨハン自身にその強大な力を使って何かをするつもりはないのだから。
見えない誰かに肩を叩かれた。
首を巡らせると、よく見知った顔が微笑んでいる。
そうだ。この力は彼女が戻してくれたものだ。だからそれを投げ打つにも、その許可がいるのだろう。
底抜けに明るいエトランゼの少女は、快く頷いて溶けるように光の中へと消えていく。
どうやら、それに納得してくれたようだった。
その力を破壊や、何かを傷つけるために使うのではなく。
誰かを、そして何よりもヨハン自身を救うことに使うのならば。
「イブキ、ありがとう」
目を閉じて、感謝の言葉を口にする。
指先から光が強まっていく。
ヨハンとアーデルハイト、二人の全身へと行き渡ったその輝きは、やがては部屋の中を眩い閃光で満たした。
視界が真っ白に染まる。
何が起こったのかはその場の誰にも判らない。
果たしてそれは魔法と言う力によるものだったのか、それとも全く異なる何かが作用して起こった奇跡だったのか。
それすらも理解できない。ヨハンやアルスノヴァの知っている常識を超えた事態だった。
次第に光が収まっていく。
同時に全身から力が抜けて、カナタでも支えきることができずにヨハンは後ろに向けて倒れていった。
壁に背中を預けるように座り込んで、視線を巡らせる。
口元を抑えて目を見開いているアルスノヴァ。
呆けたまま寝台の上を見つめるカナタ。
二人の視線が交差するところに、彼女はいた。
寝台の上に身体を起こして、目を潤ませてこっちを見ている。
「あの、ね」
低いアルトの声。
昔からよく聞いていた、彼女のいつもの呆れ声だ。
「人を助けようって時に、よりにもよって他の女の名前を呼ぶってどうなのよ?」
「……すまんな。だが、そこは譲れない」
「……そう。でもいいわ。正直もう慣れたから。ううん、これからのことも考えれば、慣れないとね。貴方はそう言う人だもの」
声は涙で潤んでいる。
どうにか憎まれ口を叩けたのも、それが限界だった。
寝台から飛び降りるように、アーデルハイトはヨハンの胸の中に飛び込む。
その際に伸ばした腕で、カナタのこともしっかりと巻き込んで。
傷だらけの上に落ちてきた身体は思いの外軽い。帰ったら、色々と栄養があるものを食べさせる必要があると、そんなことを考えてしまうぐらいには。
「何を言ったらいいのか判らないけど」
「……別に、何も言わなくていい」
「そう。なら、そうするわ」
三人はそのまま抱きしめ合う。
お互いの温もりを伝えて、自分達がここにいることを確かめ合うように。
それを黙って見つめるアルスノヴァの目は優しくて、何処か安心しているような穏やかなものだった。
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