第二節 神話より綴られる

 遥か後方から聞こえてきた轟音と大気の震えで、ヨハンは二人の戦いが始まったことをすぐに理解した。

 昨晩カナタがヨハンにしたお願いは二つ。一つはアルスノヴァとの戦いは自分一人で立ち向かいたいということ。

 そしてもう一つは、アーデルハイトを絶対に助け出すことだった。

 セレスティアルを操るカナタが幾ら強くても、魔人と呼ばれるエトランゼの力を侮ることはできない。勝率は決して高くはないだろう。

 ヨハンもできる限りのサポートはしたが、それでも敗北する確率の方が上回る。

 だからと言って友人を助けたいというカナタの決意を無為にすることもできなかった。これまでも、そんな想いを信じて一緒に歩んできた二人だからこそ。

 目の前には白いドーム状の建物が聳えている。

 決して大きくはない。標準的な一軒家を少し広くした程度の建物だった。

 入り口に備えられた扉は頑丈で、恐らく元は住居として使われていたものではないのだろう。

 一歩進むと、雪を踏みしめる音が響く。

 それはあの日、あの時に彼女を中心とした騒がしい一団の元で聞こえてきたものと同じ音だ。

 色々な場所を回った長い旅の途中で、何かがあると、イブキの直感でここに来ようとした。

 口には出さなかったが、きっとみんなは期待していたはずだった。禁忌の地と呼ばれる、誰も踏み入れたことのない場所。

 そこにならエトランゼを元の世界に戻すための手掛かりがある。そうでなくても、今よりもずっといい日々を送れるような何かが眠っていると。

 そうであってほしいと願った。そうでなければ、余りにも理不尽だったから。

 全てを奪われた者達がどんでん返しを狙うことを、愚かと笑い捨てることなど誰にできたことだろう。

 その願いを共有して、決して口には出さなかったけれど胸に携えてここまで来た。

 魂魄のイグナシオがいなければ、きっとここに辿り付いていたことだろう。

 しかし、果たしてそれで何かが変わっただろうか?

 全ての崩壊の原因がイグナシオからアルスノヴァに変わるだけの話だったのかも知れない。

 そして何よりも――。

「ここに希望はない」

 重苦しい音を立てて金属の扉が開かれる。

 真っ暗だった建物の内部は、人の侵入を感知したことでセンサーのようなものが働いたのか、ぱっと明かりがつく。

 天上自体が光っているような照明は、この世界には未だないものだが、もうヨハンには判っている。

 それはかつてはここにあったものだ。

 エトランゼ達の戦いの歴史。多くの来訪者達がこの世界を訪れ、百年を超える戦いを繰り返してきたことの証拠。

 彼等が築き上げてきた、元の世界の知識や技術とこの世界の魔法を組み合わせた新たな文明は、眩い光となって灯り続けた。

 ここにあるのはただのそれだけ。

 元の世界に戻る希望などはない。そしてここに来たヨハンもまた、それを求めてはいない。

 アーデルハイトを助け、アルスノヴァの目的を挫く。そのためにだけにここに来た。

 硬い床を踏み鳴らす音が響く。

 玄関に当たる場所を過ぎるとすぐに長い廊下が見えてくる。そこからは左右に扉があり、各部屋があるだけの様子だった。

 罠の類は見受けられない。アルスノヴァが住居として使っているのだから、当然と言えば当然なのだが。

 まず手始めに、一番近い扉に手を掛ける。

 軽い扉は何の抵抗もなく押し開かれて、部屋の中にヨハンを招待した。

 内部は勝手に灯りが付くわけではないようだったが、周囲を手探りで触れるとすぐに見つかったスイッチを押すと、廊下と同じように天井から光が降り注ぐ。

 照らされたその下に見えたのは、狭苦しい部屋の中に無造作に置かれた食料品だった。水道やコンロのような器具もあることから食糧庫兼台所のようだが、それほど使われている形跡はない。

 床に転がされた食料も恐らくは先日の村で交換してもらったもののようだが、保存が利くことが第一で味のことを考えているようなものではない。

 手軽に食べられて栄養を補給できればそれでいいと、この世界で可能な限り効率を追求したような簡素なものだった。

 多分、この部屋には何もないのだろう。ヨハンはすぐに踵を返してそこを後にする。

 続いて入った部屋はアルスノヴァの私室のようだった。

 私室と言っても窓の傍に寝台が一つあるだけの殺風景なもので、ろくに探索することもなく次の部屋へと向かう。

 三番目。扉の前に掛けられたプレートには記録室との記述があった。それを見て何か情報はないものかと、少しばかり期待が高まる。

 あの紅い月の原理や正体が判れば、アルスノヴァのやろうとしていることに対抗できるかも知れない。

 やはり鍵は掛かっておらす、軽い扉は簡単に開いていく。

 これまでの部屋と同じように電気を付けて、扉を閉める。

 そこで、ヨハンは目の前に広がる光景に言葉を失った。

 そこにあったのは、凄絶なまでの記録だ。

 いや、これを記録と言う言葉で片付けてしまうことはできそうにない。

 部屋の壁二面には本棚が置いてあって、そこ全てに隙間なく本が敷き詰められている。

 それだけではなくファイルのようなものもあって、そこには手書きで何かが書きこまれている紙切れが何枚も挟まっていた。

 丁寧にラベルが付けられ、それを書いたであろう人物の名前や書かれた年月順に整理整頓されている。

 手近なものを手に取って開いてみると、それを書いた誰かは乗り気ではなかったのか、日記のようなことが一言だけ書かれているだけだった。

 それを置いて、分厚いものを手に取る。今度は逆に少しでも記録を残そうと必死だったのか、日付やその日の出来事、考察までもが事細かに書き記されている。

 それは記録ではなく、記憶だった。

 この世界に来て生きようと必死になった者達の、彼方の大地で綴られた記憶の欠片。

 名前も知らない、顔も知らない誰かの記した記録を繋ぎ合わせた追憶が、この部屋の中には詰め込まれている。

 本棚の一番隅にある、最初の一冊を手に取る。

 思いついたように綴られた日記には署名がある。ここで一人で過ごしてきた彼女の、かつての名前。

 アリス。綺麗な字でそう書かれた本の中には、彼女がこの世界のことを書き記そうと思いついた経緯が書かれている。

 所々を飛ばしながら読み進めると、いつしか彼女が多忙になり記録できなかった部分を他の誰かが代わりに埋めるようになったらしく、それから更に面白がって真似をして日記を付ける人が出始めたようだった。

 これはあの時、携帯端末に残されていた写真と同じものだ。

 この世界に来て、必死で生きてきた自分達のことを忘れてほしくなかったから。

忘れたくなかったから残された生きた人々の声。

 そうして書かれた人々の想いは時間が過ぎるごとに一つ、また一つと消えていく。

 そしてある時期からはまた、アリスではなくアルスノヴァと名を変えた彼女の日記だけが延々と続いていた。

 彼等はこの世界に来て、戦った。

 訳も分からず、虚界の使者と呼ばれるこの世界を侵す異形達と。

 世代を重ね、新たな仲間を加え、それでも終わることのない戦いの日々。

 いつしか疲れ果てた心で、それでもなお帰還を夢見ながら死んでいく仲間達。

 彼女はそれらを全て背負って生き続けているのだろう。その想いは決して捨ててしまったわけではないはずだった。そうでなければ、こんな部屋を残しておく理由もないはずなのだから。

 ヨハンは日記を読む手を止める。

 膨大な量の文章を今この時間で読み切ることはできそうにもないし、何よりも彼女の心情と共に綴られた日々の追憶を黙って見てしまうことは憚られた。

 また別の部屋を探って、それでも手掛かりがなかったらここに戻ってこよう。そう決めて立ち上がって振り返る。

 その途中、最初は気付かなかった壁に掛かった一枚の絵画が目に入る。

 大聖堂で見た物のような大きなものではない。情景よりもそこに描かれた人に焦点を当てた人物画のようだった。

 当時の名のある画家に描かせたのだろうか、その絵は随分と上手い。或いはエトランゼの中に絵心があるものやそう言ったギフトを持った誰かがいたのかも知れない。

 作者のサインは、見たことのない名前だった。

 偶然の一致とは思えない。

 そこに描かれている人物に、余りにも見覚えがあり過ぎる。

 携帯端末に残された画像に移り込んでいたカナタ。

 そして今、不機嫌そうな顔をしたアリスと同じ絵の中にいるのはヨハンもよく知った人物だった。

「……どうして、お前がそこにいるんだ。ラニーニャ」

 浅葱色の短い髪をした友人が、その絵の中でいつもの得意げな笑みを浮かべて佇んでいた。

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