十章 彼方から此方に(下)

第一節 彼女等の行方

 救おうと足掻き続けた少女がいる。

 必死で手を伸ばし続けて、歩みを止めず、声を張り上げた。

 それでもその小さな手は何も掴めなかった。本当に助けたい誰かを繋ぎ止めることができないままでいた。

 永き時を歩み、前だけを見据え続け。

 彼女は誰も救うことができなかった。

 誰にも救われることができなかった。

 或いはその姿を見て、聖者と讃える者もあっただろう。

 愚者と嘲笑う声もあっただろう。

 彼女は今日この日まで、絶対に立ち止まることをしなかった。

 情念かはたまた妄執か。

 本人にすらも判らない感情のままに身体は突き動かされてきた。

 心が死んで、しかしかつての誓いだけは破られることはなく。

 裏切られても、傷ついても彼女は進むのをやめなかった。

 自分を愚かだと罵ったこともある。それはまだ人としての心があった時の感情だ。

 やめたいと弱音を吐けていたころがあることが懐かしかった。いつしかそんな感情は、遠い時の彼方に置き去りにしてきてしまったのだから。

 身体は止まらない。心の何処かで嫌だと叫んでも、その誓いを破るわけにはいかなかったから。

 聖者の歩みはいつしか機械的なものとなって、その奥にある何かを忘れさせようとすらしていた。

 そこに小さな奇跡があると言うのならば。

 彼女が抱いたもの、持っていた物が全て失われる前にこうして再会することができたということだろう。

 無論、今歩いている道の先に幸福が続いているのかなど当人にも判りはしないが。

 聖者であり、愚か者。

 二人は今、対峙する。

 その肩に余りにも重いものを乗せて。

 もう、以前のようには戻れないことを知りながら、それでもお互いに後に引くことはできなくなっていた。


 ▽


 白い吐息が、風に流れてすぐに消えていく。

 晴天の空から落ちてくる太陽の光が雪を反射して眩しかった。

 昨日の夜中にもまた降ったようで、辺りに積もる雪はカナタの膝辺りまで埋まるほどに深くなっている。村を出る前に聞いた話ではそれでも毎年に比べれば少ないらしい。

「はー」

 両手に息を吐きかける。邪魔になるからと手袋をしてこなかったことを少しだけ後悔していた。

 小高い丘の上、真っ直ぐ先に見えるのは白い小さな建物が一つ。

 辺り一面は白銀の雪景色が広がっており、後ろの遠くに見える森とその建物以外は背の高い物は何もない。

 生き物の気配もしない、そこはまるで死の世界のように思えた。

 それは果たして元々この場所には何も生息していないのか、それともこれから始まることに恐れて逃げだしていったのか。

 どちらにしてもカナタにとっては、巻き込むものがないというのは好都合だった。

 ざく、と足音が響く。

 一歩、二歩と前に進んで行く。

 小さかった影が次第に大きくなり、その輪郭が露わになっていった。

 肩までの金色の髪。

 ドレスのようにも見える黒いローブ。

 雪に反射した光が照らす金色の髪も、彼女が生まれつき持っている整った顔立ちも、流麗なその立ち振る舞いも、全てが目を引きつける要素となる。

 愁いを帯びたその顔にはかつての面影があって、無意識に流れそうになる涙を堪えた。

 二人の距離が次第に縮まって、お互いの声が聞こえるほどの位置でカナタは立ち止った。

 再度、彼女の顔を見る。

 昔から少しだけ高かった身長は、今や少し首を上にあげなければならないぐらいの差がついていた。

 彼女の後ろには紅い月。昼間だと言うのに血のような不気味な色で地上を見下ろし続けている。

 すぅ、と息を吸う。

 肺の中を突き刺す冷たい空気も、今は気にならない。

 心臓が痛いほどに高鳴っていた。

 叶うことならばこの場から逃げだしたい。相手は自分よりも遥かに強いだろうし、何よりも友達と戦うなんて絶対に嫌だったから。

 服の下で、熱が灯る。

 ずっと持ち続けていたイアがカナタに何かを訴えていた。

 それに小さく頷く。彼女の言いたいことは全部判っている。ここまで来て逃げるわけにはいかない。

 そのためにここに来たのだから。

 多くの人に立ち上がる手伝いをしてもらって、歩んできたのだから。

 全ては彼女のいる、この場所を目指して。

「改めて」

 唇が動く。

 空気の振動がこれほどに心を震わせるものなのだろうか。

 その清廉な響きは朝の空気によく似合う。

「自己紹介をしましょう。私の名前は魔人アルスノヴァ。力を求めて人を捨てた、エトランゼの成れの果て」

「ボクは名乗らないよ。ボクのこと、知ってるでしょ?」

「――ええ。よく知っているわ。でも、貴方は変わってしまったかも知れないわね」

 その言葉にカナタは静かに首を振り、アルスノヴァを真っ直ぐに見て答えた。

「変わってない。変わらないよ、ボクは。そう約束したから」

「そう。別にどちらでもいいけれど。それで、今日は貴方一人? いつもの保護者は何処にいるの?」

 無意識にカナタの視線が、一瞬だけアルスノヴァの背後に向けられる。

 普通ならば決して気付かないような動きだったが、アルスノヴァはそれを見逃さなかった。

「成程ね。最悪の場合はあの子だけでも救出しようと言うこと。無駄なことね」

「……それもあるけど。ずっと決めてたから」

「なにを?」

「アリスには一人で立ち向かうって」

 それが昨晩、温泉に入りながらヨハンに訴えたカナタの願いだった。

 アルスノヴァと一人で対峙する。カナタの言葉を余すことなく伝えるために。

「へぇ。見くびられたものね」

 アルスノヴァの周囲で魔力が爆ぜる。

 それが戦いの始まりを告げようとしていた。

「見くびってないよ。ボクは弱いけど、全力で立ち向かうから」

「そうね。私を殺して見なさい。お友達を助けるんでしょう?」

「うん。友達に会いに来た」

 アルスノヴァの表情が翳る。

 その意味をカナタが推測する前に、戦いは始まった。

 アルスノヴァの背後に浮かび上がる深紅の魔法陣。そこから無数の火球が生み出されてカナタの方へと一斉に飛来する。

「……いきなり!」

 普通の魔法の比ではない。

 アーデルハイトが使うものか、下手をすればそれ以上。

 詠唱もなく、一瞬の隙すらなく発動したそれは魔法と言うよりは、エトランゼの使うギフトに酷似していた。

「ギフトも魔法も、貴方や御使いが操るセレスティアルでさえも元を正せば同じこと。世界に揺蕩う力を魂と結合し力を抽出する。それを即ち魔力と呼ぶわ」

 着弾。

 爆炎が幾つも爆ぜて、周囲の雪が瞬く間に溶けて消し飛んでいく。

 噴煙と蒸発した水の蒸気が上がる中から、カナタはセレスティアルを翼のようにはためかせて飛来した。

「魔法とギフトが同じ?」

「そうよ。その力をより原初に近い形で運用する、純魔力とでも呼ぶべき力によって引き起こされる現象をギフト。そして純魔力そのものをぶつける力をセレスティアルと呼ぶの」

 極光の剣がカナタの手の中に生み出される。

 全力で叩きつけたそれは、地面から生えた氷柱によって阻まれた。

「極まった魔法はギフトと相違ない。今の私が使っているようにね」

 見えない衝撃がカナタを打つ。

 後ろに吹き飛ばされながら、それが風を衝撃の塊にして叩きつけてきたものだと気付いた。

 受け身を取って地面に着地してすぐに駆ける。

 とにかく距離を詰めなければ、一方的に狙う位置にされて終わりになる。

「これは貴方のお友達の得意技よね」

 火花が爆ぜる。

 炎ではない、直接的な破壊の力よりも鋭く、凶悪な光。

 アルスノヴァが伸ばした掌から発生した蒼雷が、無数の棘のように上下左右に伸びてカナタへと殺到した。

「弾けぇ!」

 セレスティアルの盾を前面に展開。

 例え鋭い雷でも、その光の壁を突破することはできずにぶつかっては消滅を繰り返す。

「お見事。でも、正面からだけだと思った?」

 嫌な予感が膨らむ。

 寒気がして後ろを振り返った時にはもう遅い。カナタの身体を上から迂回して背中側に回った雷が数本、背後からその身体を貫いた。

 全身に痺れが走って、足がもつれる。

 倒れそうなところを堪えて顔を上げたところに、更なる絶望が待ち構えていた。

 片手を振り上げたアルスノヴァの掌の上に、巨大な雷の塊が生み出されている。

 辺りに紫電を撒き散らし、その熱で周囲の雪を絶え間なく溶かしながら、凶悪な破壊の塊は彼女の指示を待つように鎮座していた。

『穿て、雷神。ライトニングブラスト』

 悲鳴を上げる間もない。

 真っ白な光が塊となってカナタに襲い掛かる。

 小さな身体は一瞬で飲まれて灰になる。

それが相手が普通なら。

 カナタの手の中で極光が閃く。

 攻撃を逸らす壁や盾ではなく、巨大な剣へと。

 背後からのダメージをその身体に受けながら、カナタは両手に握った光の剣を上から下へと振り抜いた。

 光の粒子が舞い、白い雷が二つに分かれる。

 その先でアルスノヴァが、驚愕の表情を浮かべていた。

 それは奇しくもあの日、掃除を手伝うと申し出た時の彼女と同じ顔をしている。

「……やっぱり、変わってないじゃん」

 踏み込む。

 彼我の距離はもう殆どない。

 大剣を解除して、カナタが最も得意とする大きさの剣へとセレスティアルを練り上げる。

 再び地面から伸びた氷柱が一振りを拒むが、出力を上げたセレスティアルの前には大した抵抗もできず両断されて地面に落ちた。

「アリス!」

 彼女の手の中に光が収束する。

 セレスティアルによく似たそれは、そう見えるだけの全くの別物だった。

 純魔力により近い形で精錬された光の剣。ヨハンが使う疑似セレスティアルと同じ原理の物なのだろう。

 アルスノヴァはそれを咄嗟に生み出して、カナタの剣を受け止める。

 二つの光がぶつかり合うたびに閃光が舞い、視界が閉ざされる。

 しかし、その打ち合いは長くは続かなかった。

 接近戦での戦いならばカナタの方が圧倒的に有利。武器の性能も、身体の動きも全てにおいて勝っている。

 一瞬のフェイントにまんまと乗せられたアルスノヴァは盛大に剣を空振りする。

「貴方……!」

「運動音痴は相変わらずだね」

「……そうかもね」

 苛立った声色も、あの日から何も変わっていない。たったそれだけの指摘で機嫌が悪くなるところも。

「貴方こそ、少しは賢くなったの?」

 無防備なアルスノヴァへと剣を向け、前進。

 その刃はそれから先へと進まない。

 身体中に掛かった重圧が、カナタの一歩を信じられないほどに遅くさせていた。

「私も貴方と同じエトランゼよ。当然、ギフトを持っているわ」

 今度は逆に身体が急に軽くなった。

 その緩急に身体が付いて行かず、カナタの一振りは空を切る。

 そこに、アルスノヴァが手を伸ばす。

 優しく触れられただけにも関わらず、カナタの身体は突然地面から弾かれたように空へと舞いあがっていく。

「なにこれ!」

 空転する視界に混乱しているのも束の間。続いて上から下へと圧し掛かるような重圧によって、急激に地面へと叩きつけられる。

 全身を打ち抜く痛みに一瞬、意識が遠くへと飛ばされた。

 時間にして一秒ほどであろうか。カナタが気を失ってまた意識を取り戻す間に、身体に降りかかるその重さは綺麗に消えている。

 再び遠くなってしまった距離に、アルスノヴァは立っている。カナタのことを静かに見下ろしながら。

 腕を地面に付いて、よろける身体を支えながら立ち上がる。

 まだ戦える。ヨハンとお揃いのローブはカナタが受ける苦痛の大半を肩代わりして、軽減してくれていた。

 これがなければ今の一撃で間違いなく戦闘不能に陥っていたことだろう。

「……ヨハンさん、自分ばっかりこんな凄いの使ってたなんてずるいよ」

 そう言いながらも口元は自然と綻んでいた。彼の作ってくれたこの防具が、今は一番信用できる力となる。彼はこの場にいなくても一緒に戦ってくれている。そう思えば内側から幾らでも力が沸いてくるような気がした。

「まだ戦うつもり? 力の差は見せてあげたと思うのだけど?」

「全然。こっちもまだ本気じゃないもんね」

「……へぇ」

 また苛立っている。やっぱりそう言うところは全く変わっていない。ここから意地を張ってくることも。

「私を相手に手加減するとはね。元友達として情けを掛けてくれたのかしら?」

「ちょっと違うかな」

「なら遊んでいたとでも? お友達を取り戻すのでしょう? 余計なことはしない方がいいわよ」

 びりびりと力の支配が広がっていく。

 彼女の周囲の地面が沈み込み、溶け切った雪の下にあった草や石が崩れた地盤に飲み込まれては消えていく。

 ぞくりと寒気が全身を走った。

 彼女から感じる圧迫感は並ではない。

 逃げ出したくなる足を、軽く叩く。馬鹿を言うなと、折角ここまで来てカナタ自身がそれを台無しにするわけにはいかないだろうと。

 まだ戦いは始まったばかり。

 震える身体を必死にその場に繋ぎ止めて、カナタは極光の剣を構えた。

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