第七節 彼方の大地のアルスノヴァ

 長い時間が過ぎた。

 経てきた年月は既に百をとうに越えて、最初に自分よりも前に立っていてくれた人達は皆故郷へと帰還を夢見ながらもそれを果たすこともなく、彼方の大地の土へと消えた。

 多くの敵と戦った。屠ってきた異形の数は千ではきかないだろう。

 それはこの世界を滅ぼす者と護るものの戦いだった。だからこそ人々は一体となって奴等を退けるために戦い続けたのだった。

 そして気付けば、戦いは終わっていた。

 異形達は全て地に消えて、新たなその眷属が生み出されることもない。

 御使い、エトランゼ、そして人間は遂に異形を全て滅ぼし尽くして勝利することに成功したのだ。

 その喜びに多くの人が沸いた。彼女を救うことはできなかったが、アリスにとってもその勝利は大きな意味を持っていた。

 これで、彼女を護ることができる。

 敵がいなくなれば戦う必要もない。例え心が戻らなくてもそれでよかった。

 アリスにとって唯一の元の世界の繋がりであるカナタを永遠に守護し続けることができれば、それで目的は果たされる。

 後は不自然に永らえたこの命か大地のどちらかが朽ちるまで共に過ごそう。友人としての在るべきだった時間を。

 そう、アリスは考えていた。それだけが希望だった。明日の見えぬ戦いの日々の中で、多くの同胞の死を看取りながらその日が来るのをずっと待ち続けていた。

 ――だと言うのに、現実は余りにも残酷だった。

 何も得ることはなかった。何も与えられることはなかった。

 世界を救った者達に与えられた対価は、大いなる絶望。

 その強大なる力や技術を恐れた人と御使いによる排除だった。

 急な襲撃に、エトランゼ達は次々と倒れていく。

 牙を剥いた御使いに対抗できるだけの力を持つエトランゼはその大半が先の戦いで命を落とし、残っていた者達はろくに抵抗することもなく殺されていく。

 そして何よりも、この世界のために戦ったエトランゼ達に与えられた死と言う報酬。

 その結末に心が耐えられる者がどれだけいたのだろうか。

 やはり自分達はこの世界に必要とされてはいない。いるべきではない。そう思って自ら命を散らせた者達もいる。

 無論、最期まで抵抗した者もいる。そうした者達は御使いによって殺されて、その死体をよりにもよってこの世界で護った人々によって嬲り者にされていた。

 そして彼女もまた、死を選んだ。

 心を喪ってなお人のために戦い続けた少女は、抵抗することはなかった。

 黙って何もせず、自らの役目が終わったのだと言わんばかりに御使いの光によって串刺しにされて死んでいった。

 それを聞いたアリスの中に芽生えた絶望が如何ほどのものだったのか。

 自分以外の全てを失った少女、今となってはもう長き時間を生きて、人でないものに変貌したその女はその凄惨な結末から目を逸らすことすらもできなかった。

 或いは心が壊れて、そして全てを投げ打ってしまえればそちらの方が幸福だったのかも知れない。

 壊れることすらもできなかった。

 いや。

 この場合は、既に女は壊れていたのだろう。人ではなくなって、数多くの異形を潰し、仲間の死を、護るべき人の死を見続けた女のその心が人の物であったかを確かめる術などはない。

 だから、彼女は次の行動を選択した。

 ――生暖かい血が身体を濡らしている。

 両手に握った刃が差し貫くのは、この世界の土へと還らなかった唯一の例外。

 エイス。後に神の名として崇められるその名を持った男だった。

「……アリス」

 静かに男の声が頭上から降りてくる。

 その胸には確かに刃が突き立っており、大量に溢れ出た血がアリスの顔や手を真紅に染め上げていた。

 誰よりも強く、誰よりも殺し、誰よりも救った。

 まさしくこの世界を救世へと導いた男の、余りにも呆気ない終わりだった。

「……貴方は救わなかった」

 だが、アリスの感情はそれとは全く別のものだった。

「貴方は、私を救わなかった。彼女を救えなかった」

「……そうだな」

 理不尽は連鎖する。

 こんな八当たりがあったものだろうか。

 こんな結末があったものだろうか。

 行き場のない感情を、まるで子供のようにその男にぶつける。

 圧倒的な力を以て多くを救い、そのくせ誰も救わなかった彼に対して。

 それは報いだろうか?

 違う。彼は事実として大勢を救ったのだ。命だけではなく、この世界の在り方を善き方法に導こうと尽力した。

 これは悪しき行いだろうか?

 違う。少なくともアリスにとっては。これは自分の全てを賭けた行動だ。

 ぽたりと、紅い雫が落ちる。

 そこに交じる透明な水は、アリスの両目から零れていた。

「私は貴方とは違う。何をしようと、何が起ころうとあの子を救ってみせる」

 嗚呼。

 やはり狂っているのだ。

 どうしようもなく、壊れていた。

 その行いに何の意味があるのだろうか。

 その先に何があるのだろうか。

 考えることに意味などない、葛藤に価値を見出すこともなく。

 ただ、救いたいから。

 親友を、友達を助けたいから。

 そのために罪を犯す。絶対に許されない咎を背負う。

「それが君の願いなら、そうするといい」

 顔を上げる。

「……どうして?」

「俺も少し疲れた」

 口の端から血を流しながら、男は笑っていた。

 嘲笑するわけでもなく、優しい笑み。

 まるでそれは、アリスの前途を祝福しているかのような。

「だから、この世界が静かになるまで眠ろうと思う」

 肉の間から刃が抜ける。

 血を流しながら男は一歩、また一歩と後退っていく。

「貴方は、死ぬわ」

 彼の力ならばここから脱することも可能だっただろう。しかし、それはつい数分前までの話。

 今、その力の大半はアリスの下にある。そのために刃を突き立て、無限とも言えるその魔力を奪い去ったのだから。

「かもな。そうだとしても、静かに逝きたい。もうやるだけのことはやったつもりだ」

「……そうね」

 謝罪の言葉は口にしない。

 礼の一つも言うつもりもない。

 アリスにとってその男、神の名を持つ彼ですらも利用するための道具でしかなかったのだから。

「祈っている。君の宿願が果たされることを」

 その一言を最期に、男の姿が消失する。

 最後の力を振り絞ってこの空間から転移したようだった。残留した魔力からそれを読み取ることができる。

 それでも、きっと無事ではないだろう。狙った場所に行くことはおろか、時間や次元すらも超越して何処かで消滅している可能性の方が高い。

 だから、アリスはもうそれを忘れることにした。

 これから歩む長い旅路には必要のない記憶だから。

 御使いの目を逃れ、人々の前から姿を消した。

 長らく過ごした森の中の研究所で、アリスはカナタが護ったと言われる一本の木に手を伸ばす。

 風が吹いて葉っぱがそよぐ音すらも、今はもう耳に入らない。

 カナタはかつて、その木の根元が好きだった。その理由ももう判らないが、きっとお互いに何か感じるものがあったのだろう。

 手を触れても、アリスには何も伝わってこない。硬い樹木の感触と、ほのかな温かみだけがそこにある。

「……私が、救うから。例えどれだけの時間を経たとしても、どんな手段を使ったとしても」

 呟きは風の音や、鳥が囀る声に紛れて消えていく。

 もうここに戦いの音はないというのに、なんと悲しいのか。

 かつては聞こえてきた人の声などはなく、今あるのは狂った女の呟きだけ。

 震える唇が声を紡ぐ。

 それは誓いであり、祈り。

 呪いであり、悲劇の始まり。

「だから待っていて、カナタ」

 ――そして、永い時間が過ぎた。


 ▽


 目を開けると、無機質な白い天井がそこにある。

 それはもう長い時間の中で、嫌と言うほどに繰り返し続けた目覚めだった。普段と少しだけ状況が違うとすれば、目を覚ましたこの時間が真夜中だと言うことだろうか。

 狭苦しい、眠るのだけが目的の部屋。その隅に置いてある寝台から身を起こして、窓辺に手を乗せて外を見る。

 透き通る硝子の外には満天の星空と、不気味な紅い月が輝いている。

「……懐かしい夢を見たわね」

 もう、人とは呼べない身体なのだから夢なんか見ることはないと思っていた。

 そうなったのはきっと、彼女が近くにいるからだろう。

 何らかの方法を使って探ったわけではない。やろうと思えばそれもできるが、そんな気は起きなかった。

 彼女は来る、そう確信があったから。

 それはきっと明日だ。なんとなく、そんな気がしている。そうでなければもうとっくに捨て去った夢など見るはずもないのだから。

 満天の星空を彼女も見て、あの日のもう遠い彼方に置いて来てしまった夜のことを思い出してくれているのだろうか。

 何を馬鹿なことをと、自嘲する。

 そんな思い出にしがみついているのは自分だけだ。彼女は前に進む、そう言う子だった。

「友達を取り戻しに、ね」

 何処までも因果とは複雑に、そして忌まわしい形をしているらしい。

 まさか二人が出会って友人になっているとはアルスノヴァも想像していなかった。

 そしてその事実は、きっと残酷な現実となってカナタに叩きつけられることだろう。

 もっとも。

「お友達に会うのも大変よ」

 アルスノヴァには目的がある。

 とうに歪んでしまった目指すべき場所が。

 そのために今日まで歩んできた。永い時を生きてきた。

 その邪魔をするならば、例え友人とて容赦はしない。

「貴方達は倒せるかしら。魔人、アルスノヴァを」

 エトランゼとしてギフトを使い続け、生き延びてその域を遥かに超えた。

 この身は既に人ではない。人を捨ててその遥か高みへと昇りつめた正真正銘の怪物。

 それが魔人。エトランゼの行き付く先。

 口元に薄笑いを浮かべながら空を見る。

 紅い月の傍で、何かが煌めいた。

 それは流れ星だった。あの日見た流星群よりも遥かに小さい、一条の光が滑って落ちていく。

 その最後を見届けてから、アルスノヴァは再び身体を横たえて静かに目を閉じた。

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