第六節 温泉
宿には内風呂だけでなく、岩で囲まれた露天風呂まで用意されていた。それもここに来たエトランゼが考えたものらしく、ここの主な収入源はここに入りに来る村人からによるもののようだった。
勿論時折訪れる旅人にも好評のようで、お忍びで貴族が遠くからやってくることもあるらしい。
脱衣所で服を脱いで、内風呂を素通りして露天風呂に辿り付く。
横開きになっている扉を開けると、岩に囲まれた湯船が目の前に広がっていた。
掛け湯をして早速お湯に浸かる。お湯の温度はやや熱めだが、外が寒いのでこのぐらいでちょうどよかった。
両腕を縁に預けるように伸ばして空を見上げる。
冬の夜は空気が澄んでいて、煌めく星々と二つの月が見える。
その片割れ、紅い月。
エトランゼがこの世界に訪れる時に空に浮かぶその月は、今や夜だけものではなくなっていた。
昼夜を問わず、これまでならば数日に一回のペースで登っていたその月は沈むことなく空に輝き続けている。
それでもここ数日は新たなエトランゼの来訪はない。そればかりか今この世界にいるエトランゼ達は次々と意識を失って、消えてしまいそうなほどに弱まっている。
ちゃぷ、と。
水が跳ねるような音がして、ヨハンは上を見上げていた首を下に戻す。
葉っぱか何かが風で待って落ちてきたのかと思ったのだが、視界に飛び込んできたのは意外過ぎる何かだった。
「――へぁ」
月の灯りに照らされて、口を間抜けな形で開けたまま固まる少女。
湯船の中に立って、薄い湯気の向こうで向こうもヨハンのことを見つめていた。
「な――」「なんでここにいるの!? ここ女湯だよ、変態、エッチ! むっつりスケベ!」
ありったけの罵倒と共に、カナタはお湯の中にしゃがみ込む。濁ったお湯の中に落ちて、彼女の未熟な肢体が隠れた。
「いや、待て。ここはそもそも男……」
首を回して見ると、出入り口が二つあった。どうやら内風呂は男女別だが、露天風呂は男女共用となっているらしい。
どうしてそんな造りにしたのかとか、そもそも先にそれを教えてほしかったとか色々言いたいことはあるのだが、まずはここを出ることが先決だった。
「いや、すまん。すぐに出ていく」
立ち上がると余りの寒さに身震いする。
そのまま早足に出ていこうとしたが、背後からその腕が掴まれた。
「なんだ? 罵倒は風呂を上がってからでもいいだろう」
それなりにはっきりと見てしまったのは事実なので、何を言われても受け入れる覚悟はできていた。
「……別にいいよ。ヨハンさんも露天風呂入りたいでしょ?」
「……それはまぁ、そうだが」
彼女の方を見ることができないので、どんな表情をしているのかは判らない。
ただ、そのか細い声から伝わってくる感情は、拒絶ではなかった。
覚悟を決めて、その場に座り込む。その勢いで飛沫が飛んで、お湯が大きく揺れた。
多分だが、カナタとしては兄弟や親と一緒に入る程度の感覚なのだろう。当然二人に血縁関係はないが、要はヨハン自身が邪な気を起こさなければいいだけの話だ。
肩まで浸かったヨハンの横で、カナタも同じように座り込む。
二人の距離は絶妙で、時折動くたびに水に揺られて動く肩が触れて少しくすぐったい。もう少し距離を離してもいいとは思うのだが、当のカナタが拒否しない以上、ヨハンから離れて行くのも躊躇われた。
今更そんなことで遠慮する関係ではない、と言われれば全くその通りなのだから。
示し合わせたわけでもなく二人で同時に空を見上げる。
一人だと思っていた時よりも、見上げた夜空はまた違った趣があった。
「知らない星座ばっかり」
「だろうな」
水が跳ねる音がする。
カナタが湯船から出した指が、星空を指していた。
「初めてこの世界に来た時、びっくりしたんだ。星空があんまり綺麗だったから」
降るような星空とはこのことを言うのだろう。
大小様々に輝く銀色の光は、決してその傍で何処か不気味に佇む紅い月にも負けはしない。
何処か遠くの星の命が、この世界にもまた同じように光を振らせてくれていた。
「でも、初めてじゃないんだよね」
「……そうだな」
「ボクはこの世界にいた。それが何で今ここにいるのかは全然判らないけど」
カナタが過去の記録に残っている理由、それは彼女がかつてのこの世界にいたからに他ならない。
「怖いか?」
恐らく、その秘密は明日判る。
アルスノヴァと対峙することによって、彼女がいる禁忌の地に足を踏み入れることでカナタとヨハンの謎は少しずつ解き明かされていくと予感があった。
「怖い、かな。うん」
頷いてから、「でも」と付け加える。
「頑張って立ち向かうよ。そのためにここに来たんだから。そのために、今日までずっと前を向いて歩き続けてきたんだから」
そう、力強く宣言した。
きっと彼女にとっては絶望にすら見える友人との対峙も、封じられていた過去との邂逅も心を折る理由にはなりはしないのだろう。
「あのさ」
「なんだ?」
「ヨハンさん、遠くに行ったりしないよね?」
「……する予定はないな」
そしてその謎が判るのはカナタばかりではない。
魔人、アルスノヴァはヨハンのことも知っていた。今は、ヨハンと彼女は確かに言っていたのだ。
それはヨハンがかつて違う名で、彼女と知り合っていたことを意味している。果たしてそれはどれだけ昔の出来事なのか、そしてその時にヨハンは何をしていたのか。
記憶がなくなった理由と、記憶がなくなる前の自分を取り戻すことができるかも知れない。それは無視しようとしてもヨハンの中で確かな期待となっていた。
そして同時に、ルー・シンに言われた言葉も蘇ってくる。
失って戻れない過去に何の価値があるのか。今のままの方が幸せかも知れない。
彼の言葉もまた一つの真実だ。自分の過去を知ることが必ずしもいい方向に働くとは限らない。
それでも、御使いと戦う方法を探るためには知らなければならないのだろう。
何よりも、やはりどれだけ忘れようとしても気になることだった。それが悲劇でしかなかったとしても。
「……よかった」
「なにがだ?」
カナタの安堵の声に、考えごとをしてたヨハンは現実に引き戻される。どうやらさっきまでの会話は、まだ続いていたようだった。
「なんか、そんな気がして」
「あるわけもない。もしそれが来るなら、お前の方から離れて行く時だろうな」
親離れ、と言うのは些か適当ではないのかも知れないが。
どちらにせよカナタにも独り立ちをする時が来るはずだった。
「ふーん……」
また水音がする。その度に気になってカナタの方に視線を向けてしまうのだが、その細い肩や水面に出ている腕や膝が目に入っていちいち心臓に悪い。
「じゃあ、ずっと一緒だね」
そう言って締まりのない顔で笑う。
「それも悪くはないな」
「むー。なんか反応薄くない? もっとさー、色々あるじゃん」
「色々?」
「……ふん。別にいいけど」
わざと大きな音を立ててカナタが湯船に沈み込む。
それからしばらく不機嫌そうに水を跳ねさせていたが、やがて急に何かを思い出したかのように顔を上げてヨハンを見上げた。
「アーデルハイトにまた会えるね」
「楽観はしていがな。無事とは言ったが、返せと言って返してくれるとも思えない。そもそも何故連れていったのかすら」
「そりゃそうだけど……。でも、生きててくれた」
その声に込められた万感の思いを聞けば、それ以上何かを言うことは無粋だった。
カナタにとっては友達が生きていた、その事実だけでもう胸が一杯なのだろう。
当然、全てが上手くいっているわけではない。アルスノヴァがアーデルハイトを生かしておく理由は十中八九ロクなものではないからだ。
「そうだな。まぁ、やることは変わらないか」
「そうだよ。いつもそう、全力でやれることをやるだけ」
生きていると判ったのなら、躊躇う理由もない。持てる力の全てを使い果たそうとも、アーデルハイトを助けるために全力を尽くすだけの話だ。
もう、失わないために。
自分の無力さ故に戻らないものは幾つもある。もしその中で奇跡が起きて、その手を掴むことができると言うのならば躊躇う理由はなかった。
今度は絶対に救う。
例え他の何を犠牲にしたとしても。
「あのさ」
ヨハンが決意を固めていると、その横でカナタも意を決したように真剣な表情で喋りか掛けてきた。
「お願いがあるんだけど、いいかな?」
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