第五節 不思議の国のアリス

 生まれてこの方上げたことのないほどにみっともない悲鳴を上げて、死にたくないと必死で唱えて、疲れ果てて足がもつれるほどに逃げ回って。

 アリスと言う少女の日常は、全てが壊れてしまっていた。

 気が付けばアリスは何もない場所に一人で立っていて、自分は今夢の中にいるのだと言い聞かせて歩き続けた。

 人を呼ぶ声も枯れるほどに声を上げながら彷徨ったのは、丸一日程度だろうか。やがて目の前に、この世のものとは思えないほどに醜い、肉の塊が姿を現した。

 それに怯えて地面の石に躓いて転んで、咄嗟についた手から血が出たことでアリスは今この場所が現実であることを理解した。

 そうなれば崩れるのは早かった。自分でも笑えてしまうほどに、誰に言うでもなく命乞いをしながら必死で逃げ続けた。

 それでもすぐに距離は詰められ、最期の時が訪れたのだと悟った。

 父と母と友の名前を呼んで死を待つ彼女の目の前に広がったのは、眩いばかりの炎の柱だった。

 その紅蓮の輝きは異形を吹き飛ばし、何が起こったのか判らず呆然とするアリスの目の前に、一人の青年が空から着地する。

 短い黒髪の、何処か冴えない容貌をした、それでも不思議と人を惹きつける魅力を持った青年だった。

 何処か疲れたような顔をして呆然とするアリスの前に立って、今しがた彼が殺した生き物に視線を向けている。

「無事でよかった」

 一言、そう呟いた。それはアリスに言っているのか、それとも単なる独り言なのかも判らないような言い方だった。

「あ、なたは? ここは何処? 私はどうなったの? どうしてこんなところにいるの? これは夢?」

「……ここが夢かどうかは、恐らく自分自身が一番判っているだろう」

 尻餅を付いたまま、自分の身体を見下ろす。

 全身が震えている。初めて晒された死の恐怖に身体が悲鳴を上げて、立ち上がることすらままならない。

 夜の闇が包む荒野で、アリスはここが自分が過ごしていた場所ではないことを改めて理解してしまった。

「間に合ったのは幸いだった。色々と混乱はしているだろうが、まずは一緒に来てもらいたい」

「……貴方は何者?」

「具体的な説明は難しいが……。敵ではない、信じられないか?」

「当たり前じゃない」

「だろうな。しかし、ここにいてもさっきの化け物がまた襲って来るだけだぞ」

 そう言われてしまっては、アリスは何も言えなくなる。言葉の通じない気色悪い怪物と怪しいが意思の疎通ができる男、どちらがマシかと言われればそれは恐らく後者だ。

 それでも、アリスは差し伸べられた手を掴めない。

 元々人を信じることが苦手なのだ。例え命の危険に晒されていても、それが急に変わることはなかった。

 男が呆れて、どうやって説得しようかと思い悩んでいるその時だった。

 遠くの空が、二度、三度と光りはじめる。

 閃光が走って、暗い夜空が一瞬光に包まれた。

 その輝きが止むと同時に、何かが高速で飛行してくるのが見えた。

 それは人だった。羽もなく、不自然に空飛ぶ人間がアリス達の上空までやってくると、急にそこで静止して降りてくる。

 アリスより幾らか年上の女性は青年の前に降りると姿勢を正して、硬い口調で喋りはじめる。

「エイス様。フェルン方面の虚界、殲滅完了しました。後は各自の判断で、帰還させます」

「ああ、頼んだ。思ったよりも早かったな」

「はい。彼女が来ましたので」

「――ああ」

 アリスには会話の内容はとんと判らないが、何やら納得した言葉を吐いたそのエイスと呼ばれた男が一瞬見せた暗い表情が、妙に印象に残った。

「こちらは、新しいエトランゼですか?」

「そうだな。今、保護した」

「それは幸いです。戦力の増強は不可欠ですからね」

「……あくまでも自由意思で戦ってほしいものだがな」

「今はそんな甘いことを言っていられる時ではありません。わたし達にとっては死活問題になりますので。一人でも強力なギフトを持つエトランゼが必要です」

「……まぁ、そうだな。この娘は俺が連れていく。先に戻っていてくれ」

「はい。もうすぐ彼女もやってきますからね」

 そう言い残して、女性は来た時と同じように空を飛んで遠くへと飛び去って行く。

 明らかに違う場所に来て、化け物に襲われて、それを一瞬で焼き尽くした炎を見てもなお、空を飛ぶ人間の来訪にアリスはやはりここが夢の中ではないのかと疑い始めていた。

「今の、人……。なんで、空を飛んで……?」

「その辺りの説明も後でしたいんだが。ここは危険だからな」

 彼女が飛び去った空を見ていると、その逆方向、今しがた戦いがあったと言われた場所からまた何かが高速で飛翔してくるのが見える。

 それは遠目からでもよく見える、光の翼を生やした人間だった。

 最早驚きの連続で意識を失いそうなアリスは、その神秘的な光景に目を奪われる。

 先程の女性とは違うその姿は何処か神々しくて、彼女が背負う光に視線が吸い寄せられていく。

 上空で光が粒子のように消えていく。

 それからどういった原理かは判らないが、ゆっくりとその姿が地上へと落ちてきた。

 それはまるで空から舞い降りる天使のようにも見えて、アリスはその姿を見つめ続けていた。

 そして。

 視認できる距離まで彼女が近付いて来て、アリスの心臓が大きく跳ね上がる。

 一瞬生まれたのは希望。

 彼女がこの世界にいる。アリスの唯一の親友もまた、この異世界で生きていた。

 目の前に降りてきた彼女に声を掛けようとする。

 いつもの調子で、この場所でこの瞬間だけは元の世界の元の二人に戻っていたかったから。

「かな、た?」

 願いは叶わない。

 その姿はアリスの知っているカナタだが、一目見て違うものだと判断してしまった。

 全身を返り血に浸したその少女は、カナタではない。

 あれほどころころとよく変化した表情が、目の前の少女には何もない。ただ虚ろな目で、アリスを見つめている。

 そして何よりも、彼女には感情がない。アリスを見て笑いも、泣きも、怒りもしていない。黙って、言葉もなくその眼にアリスの姿を映すだけ。

「知り合いか? ……そうか、彼女はカナタと言うのか」

「カナタに何をしたの!」

 猛然と立ち上がり、男の着ている法衣の胸倉を掴んでいた。

 そのまま力任せに頬を張り飛ばす。目の前の男が怪物を一撃で消滅させた炎を生み出したことなど、頭から消え失せていた。

 怒りのままに頬を張って、握った拳を振り上げる。

 男は全くそれに態勢を崩すこともなく、冷静にアリスの手首を掴んでそれを制止した。

「少し落ち着いてくれ」

「落ち着いてなんていられない! この子は私の友達で、よく笑う子だった。それがどうして、こんな……!」

「そうか、友達か。だから人に興味を示さない彼女がわざわざここに降りてきたのか。……そんな偶然もあるものだな」

「人に……興味を示さない?」

「そうだ。彼女は……」

 一度、男はカナタの顔を見る。

 そこに浮かべた悲しげな表情は恐らく演技ではないのだろう。

 そうなってしまったカナタを痛々しく思い、そして同時に圧倒的な力で怪物を屠ったこの男ですらも、治すことができないのだとアリスに悟らせた。

「契約をした、らしい」

「契約?」

 男が頷く。

「俺も詳細は知らされていない。ただ、多くの人を護るために、自らを捧げたと。それだけは聞いている」

「……捧げたって……。貴方……」

 既にアリスは男を見ていない。

 変わり果ててしまった友人に顔を向けて、ふらつきながら近付いていく。

 それまでの彼女なら、アリスの知っているカナタならばその様子に何らかのリアクションを返してくれただろう。

 心配そうに覗き込んで、必要ならば倒れないように手を伸ばして支えてくれることもしたはずだった。

 今の彼女にはそれはない。ただ黙って、何処か不思議そうな表情でアリスの顔を見つめ続けるだけ。

 そこに何の感情も見えない。心配など微塵もせず、目の前で動いている人間に反応しているだけだった。

「彼女は力を手に入れた。この世界に本来住んでいた者達と、君のように異世界から来た者達。その両方を護るために」

「……その代償がこれと言うこと?」

「それは違う。最初は死の恐怖に怯えて、それでも自分を奮い立たせて戦っていたと聞く。弱い自分を叱咤して、必死で誰かを護るために最前線に赴くその姿は、まさに英雄であったと」

「英雄って……。カナタは普通の女の子よ。それに頼って、何が英雄よ!」

「……そうだな。多くの人の希望を託すのは、彼女には重すぎたんだろう。人を護り、恐怖を打ち破り戦う。それは次第にこの子の心を蝕み、壊していった」

 痛みや悲しみ、恐れと怒り。

 自分の中に生まれたその感情を踏み躙って戦い続けた少女。

 その行き付いた先がここにいるカナタだった。それらを押し殺し、留められた心は次第に色を失って壊死していく。

 そうして、彼女は自ら戦うための機械となった。他の誰かを護るために、自分自身を全て犠牲にして。

「そんなのって……!」

 再び男の胸の辺りを掴む。

 涙で滲んだ視界の先で、男も同じようにやりきれない表情をしているのが見えた。

 今はそれが余計にアリスの感情を逆撫でする。友達のことを何一つ知らないくせに、アリスより先にこの世界にいて救えなかった分際で。

 平手打ちが男の頬に入る。

 避けることも受け止めることもしなかったそれは、アリスの怒りを受け止めることで少しでも贖罪としているようでもあった。

「もう十年を過ぎた」

「……何が?」

「彼女がこの世界に来てからだ」

「……嘘でしょう?」

「嘘なものか。契約の結果、人とは違う肉体を手に入れた彼女は年を取らず、戦い続けている。恐らくこれからも、何年も戦い続けるだろう。俺は、せめてそれを見届けるつもりだ。いつか彼女が安らかな眠りにつくその時まで」

 両手が離れる。

 力が抜けて、その場に崩れ落ちた。

 もうこの場所が何処で、いったい自分はどうなってしまったのか、そんなこと自体がアリスにとってはどうでもよくなりつつあった。

 事実として判っていることはアリスの友達は心を喪って、恐らくそれはもう戻らないということだけ。

 そして一緒に生きて死ぬこともできない。アリスの人生が終わっても、彼女はまだ苦しみを味わい続けなければならない。それが苦しいということも判らないままに。

「……色々と受け入れるには時間が必要そうだな」

 男はそう言って、アリスに背を向ける。

 せめて泣いている姿を見ないようにとも気遣いだったのだろう。

 アリスは男がそうした瞬間、地面に伏せるように嗚咽を漏らし始めた。

 そこに、柔らかな何かが触れる。

 顔を上げると、しゃがみ込んだ誰かの小さな手が、アリスの頬に触れていた。

 流れる涙を優しく拭うように、自らのぬくもりを与えて少しでも安心させるように。

「カナタ?」

 その顔を真っ直ぐに見つめる。

 何も写さない瞳に、何も語らない口。

 しかし、一瞬だけ唇が小さく動いたのをアリスは見逃さなかった。

 そこから紡がれようとした言葉は判らないが、きっと自分を気遣ってくれる言葉だったのだろう。そう言う子だと、アリスが誰よりもよく知っている。

「カナタ……!」

 両手でアリスの頬を挟みこむ。

 そしてその顔を覗き込んで、彼女は不器用に唇を歪めた。

 酷く不格好なそれは、恐らく笑顔だ。全くそうは見えなかったが、アリスを安心させるためにどうにか生み出された表情だった。

 そして、光の翼を広げて空へと舞いあがっていく。

 追いかけようとして、自分には翼ないことを嘆き、ならばせめてと手を差し伸べるが、それをするりと擦り抜けていく。

 大空へと飛び去ったカナタは一瞬で暗闇の中へと消えていしまい、その軌跡を辿ることすらできなかった。

「……今、あの子」

「……そうだな。正直、驚いた」

 何も失ってはいない。

 きっと彼女はその感情を心の奥底に放り込んで、蓋をしてしまっているだけだ。

 だから、助けられる可能性がきっとある。もし、自分にも彼女と似たような不思議な力が使えるのであれば。

 精一杯の勇気を振り絞って目の前の男に声を掛けた。

「貴方、この世界には詳しいの? 不思議な力には?」

「まぁ、詳しいな。その説明を今からしようとしていたところだ」

「決めたわ。私はあの子を助ける。だから貴方も力を貸しなさい」

 無理矢理な提案に、男は意外にも簡単に頷き返してくれた。

 それが怪しいと感じなかったのは、アリスの頭の中が違う感情で埋め尽くされていたからか、それとも奇妙なこの男の人柄故にだろうか。

「不思議な力も、この世界のことも、俺達が何をすべきかも説明する。それを聞いてから判断してくれ。自分がやるべきこと、あの少女を救うのならばそのために向かう道筋も」

「……ええ、望むところよ。それで、貴方の名前は?」

 この世界での自分の先生になるかも知れない男の名前を知らないというのも、間抜けな話なので先んじでそう聞いておく。

「……名前はないが、エイスと呼ばれている」

「エイスね。私はアリスよ」

「アリスか。よろしく頼む」

 そう言ってから少し時間を置いて、男は何故か演技かかった口調で一言、呟いた。

「ようこそ、彼方の大地へ。エトランゼ」

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