第七節 禁忌への標

 それから数日後。

 倒れたラニーニャと、傷ついたアストリットを連れてオル・フェーズに帰還したヨハン達を待っていたのは、多くのエトランゼ達が意識を失い始めているという報告だった。

 そこにはカナタの知己も多く含まれており、事態が既に緊迫していることを意味している。

 原因は北の大地にある。

 その知らせを受けて、ゲオルクとエレオノーラはすぐに魔人の討伐隊を組織しようとしているのだが、一人で聖別騎士団を制圧できる力を持った者に対応できるだけの戦力が確保できず、また内乱後と言うこともあって戦力の放出を嫌がる貴族達を説得することができずに事態は難航しているらしい。

 ましてや、北の大地はオルタリア領ではない。そのことも拍車をかけて、すぐに戦力を派遣することは不可能だった。

 カナタは今、オル・フェーズにあるヨハンの家に寝泊まりしている。

 普段なら泊まりにくればサアヤがあれこれと世話を焼いてくれるのだが、彼女も意識を失っているために静かなものだった。

 二階の寝具と簡単な家具しか置かれていないカナタが寝泊まりするための簡素な部屋の窓から、北の方角を眺める。

 建物が多いオル・フェーズの街並みは決して見通しがいいとは言えないが、それでも僅かに覗く空をずっと眺め続けていた。

 その向こうに、彼女がいる。

 あの時見たあの姿はやはり幻ではなかった。

 アーデルハイトを抱きかかえてカナタの前から去っていく彼女を、何度夢に見たことか。

 それは希望であり、不安でもある。

 今、オルタリアは大きな混乱の中にある。

 ようやくこの世界に馴染めてきたエトランゼ達を、何の理由があって再び消し去ろうと言うのだろうか。

 その理由によっては、カナタは本当にアリスを止めなければならない。

 控えめなノックの音が響き、「どうぞ」と返事をすると、扉が開いた。

 窓の縁に身体を預けながら顔を向けると、そこに立っていたのはアストリットだった。

「アストリット!」

 意外な来客に、声が大きくなる。

 彼女はあれから、イザベルと共にエイス・ディオテミスの預かりとなったはずだった。

 その理由に関しては、すぐにアストリット本人の口から語られることになる。

「イザベル様とゲオルク様の会談が明日になるので、その護衛にこちらにやってきました。少し時間ができたので」

「会いに来てくれたんだ……」

 その気遣いに心が温まる。

 アストリットを助けたのはカナタにとっては善意でもあるが、単なる押し付けでしかない。

 それ自体が余計なものとされることも、既に覚悟していた。

「……えっと。それで、アストリットはどうかな? こっちに残って、何か変わった?」

「……判りません」

 顔を伏せて、首を横に振る。

 それはカナタにとってはがっかりする答えでもあるが、きっとそれで正しいのだろう。

「ですが、色々と変わりました」

「……変わった?」

「はい。神様の声はもう聞こえなってしまいましたけど、その代わりに自分で考えて行動することを強制されます」

「……うん」

「大変です。言われるままに行動するのではないというのは」

 やはり、それは余計なことだったのかも知れない。そんな不安がカナタの胸中に到来する。

 家族を殺された心の痛みを肩代わりしていたのがアストリットの言う神であり、聖別騎士団での戦いだったというのならば、カナタはそれを奪ってしまったことになるのだから。

「夕飯の献立を考えるのが苦手です。掃除も、洗濯も、自分でやらなければならないのは大変ですね。騎士団にいたころのアストリットには、戦い以外には望まれていなかったので」

 そう語るアストリットの声色は、無機質なものではない。

 そこには僅かではありが、感情の色が見て取れた。

「それから、今日も不思議でした。イザベル様の護衛でここに来て、空いた時間を好きに過ごしていいと言われて……とても迷いました。迷って、カナタに会いに来ました」

「ありがとう、嬉しいよ」

 きっとそれは、カナタの想いが届いた証拠になるだろう。

「聖別騎士団にいるのと、今のアストリットと、どちらが正しいのかはまだ判りません。でも、カナタに手を引いてもらってここにいる自分を、信じてみようと思います」

「うん! それがいい。……それでいいと思う」

 気が付けば、カナタの目尻には涙が浮かんでいた。

 今度は、助けられた。

 これから先アストリットがどういう道を辿るのかはカナタには判らない。

 でも、掴んだ手を引き寄せることができた。

 それだけで、前に進み続けた価値がある。救えなかった多くの命を背負って、それでも立ち止まらなかったことの意味が確かに感じられた。

「……行くのですか?」

 アストリットが不意に、そんなことを口にする。

 その目はカナタと同じ、窓の外から見える遠くの空へと向けられている。

「……うん」

 その彼方にいる彼女に会わなければならない。

 言いたいことが沢山ある。やらなければならないことが幾つもある。

「ここに来る途中、ヨハン様にも会いました。あの方も、行くつもりでした」

 お互いにまだ口を合わせてはいない。

 ヨハンは表向きはエレオノーラに協力し、北の大地への討伐隊を募っている立場だった。

 でも、きっとヨハンはそこに集まった人達と一緒に行くことはない。

 お互いに言わずとも、それは判っていた。

「不思議な方でした。一見すると無機質に見えるのに、何処か温かい。……カナタと同じで、ここに来たことを喜んでくれました」

「そうだね。変な人だよ。でも、頼りになる時はなるから。うん、アストリットも沢山迷惑かけていいからね」

「はい。カナタが言うのならそうしてみます。……本当に、不思議な気配。あの時感じた神様のような」

 最後の言葉はカナタに言ったものではなく、アストリットの中で呟かれたものだった。

 そのためよく聞き取れずにカナタが首を傾げても、もう一度語られることはない。

 カナタ当人もそれに付いては特に気にすることもなかった。

「カナタは、魔人にも手を差し伸べるつもりなのでしょうか?」

「……どうだろうね」

 アストリットの質問に対して出た答えは、何とも歯切れが悪いものだった。

「アストリットにはまだ判らないことが沢山あります。エトランゼを消し去ろうとする魔人と、カナタと、どちらが正しいのかも」

 それは当然の答えだ。

 エトランゼに両親を殺されたアストリットにとっては、まだ彼等がこの世界に必要なものなのかは判らないだろう。

 例えそれが発展に寄与したとしても、秩序を護るためならばいない方がいいと考えるのもまた、自然なことだった。

「でも、一つだけ」

 近付いてきたアストリットが、カナタの手を握る。

 カナタと大して変わらない小さな手は白くて、彼女の白い髪と相まって雪のようだが、手に触れるその感触は温かい。

「カナタの望む結果になればと、神に祈ります」

「ボクも頑張ってみる。取り戻さなきゃいけないよね。……大事な友達を」

 そう言って、カナタは心の中で決意を固める。

 例えアリスにどんな考えがあったとしても、エトランゼを消し去るなんてことが許されるわけがない。

 彼等はこの世界にやってきて、ようやくそこに根付こうとしているのだ。

 絶望しかなかったこの場所で覚悟を決めて、その一部として生きていこうとしている人達の邪魔をしていいわけがない。

 強い意志を込めて、カナタは空を見る。

 彼女がいる北の空。

 既に日が落ちたそこには、満天の星空が輝き始めていた。

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