第二節 放たれた刃

「これは、神話の時代からエトランゼがこの世界に関わり続けていた確固たる証拠になります」

 薄暗い部屋の中、ヨハンのその言葉は奇妙に反響して消えて行った。

 法王イザベルは静かに俯いて、ヨハンの言葉を受け入れる。

「そう。これはダンジョンから発見された小さな痕跡とは違う。紛れもなく、エイスナハルがエトランゼの存在を認めていたという証」

「エイスナハルがこれをもっと早く開示していたのなら、エトランゼに対する不必要な差別が行われることもなかった」

 糾弾のようなヨハンの言葉に、イザベルは深く頷いて同意する。

 それから顔を上げて、確固たる意思を湛えた表情でヨハンを見た。

「でもね、考えてもみてください。仮にその事実を公表していたとしたら、天上人の如く扱われたエトランゼはこの世界に幸福をもたらすでしょうか?」

「……それは、もたらした幸福の数だけまた、同じように不幸も生むことになります」

 イザベル言葉もまた、事実だった。

 ギフトという強大な力を持ったエトランゼが人々の信仰を受けるようになったとしたら、力を己の欲望のために使う者の数は今よりもずっと増えるかも知れない。

 そうなればエトランゼにとっては幸福な世界だが、元々この世界にいた者達にとってはどうだろうか?

 答えは考えるまでもない。

「でも、そのことをみんなが知っていたら、ボク達があんな苦労することもなかったんですよね?」

 カナタの質問に、イザベルは頷いて答える。

 それはあくまでも予想でしかないが、確実にエトランゼの扱いは今よりもいいものになっていただろう。

「それを決めたのはイザベル様ではないだろう。先代の法王も、思案や議論を重ねてそれを決めたはずだ」

「ええ、そうよ。お伽噺で、あるはずもないと思っていたこと。エトランゼの来訪によってエイスナハルも人知れず揺らいでいたの。先代の法王は苦悩の末に、貴方達に犠牲になってもらうことに決めたわ」

 ヨハンとしてはそれを咎めるつもりはない。それは、自分がその被害を受け辛い立場にいたから故のことなのかも知れないが。

 同時にそれがもたらす混乱がどの規模になるのかも、理解してしまっているからでもあった。

「……それで、何故今になってその封印を解くことになったのですか? 俺達がこの事実を外に持ち出せば、大変な騒ぎになります」

「ゲオルク閣下が行方不明になったことから、先日のヘルフリート様の崩御。私は各地に散らばらせたエイスナハルの信徒によって、貴方達の戦いの情報を集め続けていました」

 エイスナハルの信徒は大陸中に散っている。恐らくはヨハン達と一緒に戦った兵や将の中にも、ここに情報を流していた者達がいたのだろう。

「そして知ったのです。御使いと呼ばれる者達、その力と在り方を」

 その名に、二人は改めてイザベルを注目する。

「エイスナハルの教えは神の導き、私達の務めはそれを正しく理解し説き、人を幸福へといざなうことになります。少なくとも、今の法王としてイザベル・メル・バルテルの役目はそうであると、私は神に誓っています」

「……イザベル様」

 はっきりと、イザベルはそう宣言する。

 そこから先に続く言葉は、ヨハン達にとってすらも驚くべきものだった。

「人を欺き、壊し、生活を脅かす。御使いは彼等自身の手でエイスナハルの教えを離れました。もし彼等はその考えを改めない限り、私は御使いを信じることはできません」

 彼女が、法王として一つの宗教の頂点に立つ人物がその言葉を言うその意味。

 それは余りにも重い。

 御使いは彼等の聖典にも名前が載っている、神の代行者にして絶対者。エイスナハルの教えでは、絶対に人が逆らってはならない相手のはずだった。

「彼等が戯れに人の命を奪うのならば、私達はそれに抗わなければならない。そしてその為の鍵となるのが、貴方達エトランゼなのです」

 イザベルの視線が、ヨハンとカナタを順番に見ていく。

 彼女は法王として人を幸福に導くことを選んだ。そのために、例え自らの中にある絶対の教えを敵に回そうとも。

「私は自分の行いを誤ったものとは思えません。正しかったとは言いませんが、それしか方法がなかったのもまた事実です。でも、その所為で貴方達に大きな苦労を背負わせてしまったことは、謝らせてちょうだい」

 ヨハンと、カナタに頭を下げるイザベル。

 黙ってそれを受け入れていたヨハンとは真逆で、カナタは慌てて声をあげる。

「あ、頭を上げてください! ボクにはイザベル様とか、その周りの人がどれだけ苦労したかとかも判らないし、何よりもこれからいい方向に進めばそれでいいですから」

 その言葉に多少は救われるものがあったのだろう。

 イザベルは慈母のような笑みでカナタを見て、その両手を包むように握り返した。

「今日俺をここに呼んだ理由は、それを話すためだったんですか?」

 昨日の夜、彼女が言っていた言葉通りだとすれば話はこれで終わりではない。

 今の話が伝えなければならないことならば、もう一つ、教えてもらわなければならないことが残っているのだから。

「いいえ、それともう一つ。貴方が持っているその薄い箱のような物。それは何らかの形で情報を記録できるものなのでしょう?」

 イザベルの質問にヨハンとカナタは顔を見合わせてから、首肯して答える。

「昔のことが記憶されてないかってことですか? ……動くのかな?」

「ええ。でも半分は私の好奇心のようなものよ。もし神話の時代のことが記録されているのなら、それを見てみたいってね」

 少しだけ恥ずかしそうに、イザベルはそう言った。

 本体の前面全てが画面になっているその携帯端末は、カナタの手の中で上部にある小さなランプに確かな光を灯している。それは紛れもなく、生きている証だった。

「充電、切れてないみたい。凄い電池だね」

「そんなはずがあるか。多分だが、こちらの世界で何らかの改良がされていると考えるのが妥当だろう。例えば、魔力で動くような仕掛けを組み込まれているとか」

「でも、教会にいる神官達が触れた時には、何の反応もなかったと聞くけれど?」

「これも予想にしかならないのですが、エトランゼが持つギフトのような力にのみ反応するように作られているのでは? 何故、そうしたのかは不明になりますが」

 イザベルの疑問にそう答えているが、それとて状況から判断した見解に過ぎない。分解すれば何か判るかも知れないが、戻せる保証はないのでそれをするわけにも行かなかった。

「カナタ、操作してみてくれ」

「う、うん」

 全員が見ている中で、携帯端末は画面にそれを作ったメーカーのロゴを表示させて、幾つものアイコンが並ぶ画面を表示させた。

「動いた!」

 カナタが感動で声をあげる。

「……千年経っても動くものなんだね、携帯って」

「それはないだろうな。相当に中身をいじってあるんだろう。何故それをしたのかは判らないが。携帯を千年もたせる技術は驚嘆する」

 この世界には元の世界になかった魔法の技術や、特殊な力を発揮する物質が大量にある。それらを材料として改造すれば、それも不可能ではないのだろう。

 電波は立っていないので通信はできない。入っているアプリは大半がオンラインで使うものなので殆どは無意味なものと化していた。

「日記とか見ればいいのかな?」

 持ち主は十代の女性のようで、可愛らしいメモアプリにはテストの日程やその後の休みに友人と遊びに行く予定などが書きこまれていた。

 メモ帳やスケジュール表を見てみるが、特に重要なことは掛かれていない。むしろ、この世界に来てからはその機能は殆ど使われていないようだった。

「情報はなしか」

 ヨハンが諦めかけたところで、カナタは最初の画面に戻してまた別の操作を行う。

「写真とかはどうだろう?」

 携帯端末を持ちなおし、写真を確認する。

 日付順に並べられたそれをスクロールさせていく。

 最初は、持ち主であろう人物が元の世界にいた時の写真。友人と並んだもの、家族と一緒に取ったもの、飼い犬とのツーショット。

 恐らくこの世界に来た誰かは、それを心の支えにして生き抜いたのだろう。

 そして、ある地点から写真に写る風景ががらりと変わる。

 それは最早見慣れた、この世界だった。

 破壊され、廃墟となった建物。

 あの異形達を遠目に写したもの。

 ここで出会った同じエトランゼ達。

 様々な写真は、この携帯端末の持ち主がこの世界で生き抜いてきた証だった。

「……この世界のことだ。でもこの人、どうしてこの世界を写真に収めたんだろうね?」

「残したかったんだろう。自分達がこの世界に来て、生き抜いてきたという証を。ここで出会った仲間達と、かつて生きていた世界の思い出を」

 ヨハンの答えを聞いてカナタは納得したのか、黙って画面のスクロールを続ける。

 そしてある一点で、その動きが止まった。

 それは最後に保存してある一枚の写真。そこにタイトルはない。

 果たして何者が、どういった縁があってこの写真を取るに至ったのだろうか、それはこの場の誰にも判らない。

 ただ、それ以上の衝撃がカナタを包みこんでいた。

「……これ」

 震える声でカナタが言う。

 声だけではない。彼女の身体も小刻みに震えていた。

 何かの記念撮影だろう。集合した男女が数人、カメラに向かってポーズを取っている。

 その後ろに一人、偶然映り込んでしまったような姿があった。

 ただそこを通りかかっただけのような、明後日の方向を見て表情なくそこに佇む顔は、見覚えのあるもの。

 物珍しげに携帯端末を覗き込んでいたイザベルと、何か少しでも情報はないかと見ていたヨハンの二人が、表情を変えて同時にその人物を見る。

「ボクだ」

 千年前の写真の中に入り込んでいたのは、他でもないカナタ自身だった。

「なんで……? どうしてボクがいるの? ボクはここにいるのに!」

「カナタ、落ち着け」

 混乱して携帯端末を放り投げようとするカナタから咄嗟にそれを奪って、小さな身体を抑えつける。

「だっておかしいじゃん! おかしいよ! ボクはここにいるのに、千年前にもいて……! そんなの……!」

 自分が何者であるか、果たして本当にエトランゼなのか。

 それはカナタとヨハンの中にずっと在り続けた疑問だった。

 今は失ったものの、エトランゼとしては圧倒的な力を持つ魔法の支配者。

 御使いと同じ天の光をギフトとして持つ少女。

 自分達が明らかな異端であると判っていながらも、二人は今日まで目を背け続けることしかできなかった。

 それが自分が他のみんなとは違う決定的ともいえる証拠を突き付けられたことで、限界に達したのだろう。

 カナタは子供のように泣いて、出会った時のようにヨハンの胸に拳を叩きつける。

 弱々しいそれに痛みを感じることはないが、彼女の心が軋む音のように聞こえる慟哭が何よりも痛ましい。

「ボクは、誰なの! 何者なの? ボクは……!」

 取り乱すカナタに言ってやれる言葉はない。ヨハン自身にすらも、それは判らないし予想の立てようもないのだから。

 そんな重苦しい空気の中、出入り口の扉が鈍い音を立てて開かれた。

「イザベル様、お話はおすみでしょうか?」

 頭まですっぽりとフードを被った神官が、後ろ手に扉を閉めて中へと入り込んでくる。

 その姿を見て一瞬は呆気に取られていたイザベルだったが、険しい表情になってすぐにそれを咎める。

「勝手に部屋に入り込むことを私は許可していません。全てが終わるまで外で待機しているように伝えたはずです!」

「は、はい。ですが、相手はエトランゼですから、イザベル様の御身が心配で」

「それは余計なお世話と言うものです。すぐに下がりなさい!」

 イザベルに厳しい口調で言われても、エトランゼに対する警戒と彼女を護ろうとする使命感が勝るのか、その神官は頑なに出ていこうとしない。

「そう言うわけには……。他の神官達も心配していますし、どうか今日のところはこのぐらいにして、残りの話は私達神官が見ている場所で行うというのは如何でしょう?」

 実際のところ、イザベルが話したいことはもう既に終わっていた。後は、カナタのことと今後について話し合うぐらいのことだった。

「どうかしら? 残りの話は、大聖堂の別の部屋でと言うのは」

「問題ありません」

 この部屋にこれ以上いたとしても、引きだせる情報には限りがある。それよりも今はカナタを休ませてやることの方が先決だった

「ありがとう」

 礼を言って、来た時と同じようにイザベルが先行して扉の前に立つ。

 その横に並ぶ神官は身を屈めて、懐から取り出した鍵束を彼女に向けて差し出した。

「お判りいただけで幸いです。私の立場などどうなっても構いませんが、イザベル様にもしものことがあっては他の者達に申し訳が立ちませんからね」

「いいえ。貴方のように立派に義務を果たしてくれる人がいて、私も誇らしいわ」

「そのお言葉だけで誉れとなります。本当に、エトランゼは危険ですからね」

 その言葉にイザベルが疑問を覚えるよりも早く、神官服の男の服の下で何かが煌めいた。

 その白い刃が振り抜かれて、イザベルに襲い掛かる。

「ちっ!」

 男が舌打ちをする。

 イザベルの前に出現した魔力の防壁が、その鋭い刃を受け止めていた。

 それでもその手に持つ剣の切れ味は凄まじく、並の攻撃ならば数十発は耐えるその壁は一撃で崩れ去って消滅した。

 神官服のフードの下で男が笑う。

「カナタ、イザベル様を護れ!」

 剣を握る右手とは別に、神官の左手が振り上げられる。

 そこに生まれた不可視の衝撃を見て、カナタは先程まで混乱していたのが嘘のようにイザベルの手を引いて駆け出した。

「吹き飛びなぁ!」

 衝撃が部屋の中を駆け巡る。

 ヨハンは咄嗟に魔法を発動させて障壁を生み出して、その被害を最低限に抑え込む。

「カナタ! 急いで部屋から出ろ!」

「うん! イザベル様!」

 イザベルの手を引いて、カナタが部屋を飛び出す。

「おいおいおいおい! 逃げないでくれよ、折角の再会だぜ?」

「黙れ」

 フードを外し、その男の素顔が露わになる。

 金色の髪をしたその男は、歪んだ笑みを浮かべて心底楽しそうにヨハンを見ていた。

「テオフィル……! お前はラニーニャに倒されたはずだ」

「クハハッ! さてねぇ! ギフトに御使いに、不思議なことが山ほど起こるこの世界だ、死んだ人間が生き返ることぐらい、あるんじゃねえか」

 同時に、外からカナタの悲鳴のような声がヨハンを呼んだ。

 開け放たれた扉から聞こえてくるのは大勢の足音。

 ヨハンが外側に顔を向けると、武装した兵士達が大勢、下に続く階段から昇って来ている。

「……聖別騎士団か」

 開け放たれた扉を挟み、カナタとヨハンが背中合わせに双方の前に立ちふさがるその中心で、イザベルが聖別騎士団に対して声を上げた。

「どういうつもりですか、聖別騎士団! 法王たる私に剣を向けること即ち、神に剣を向けることと同意と知りなさい!」

 イザベルの声を聞いても、鎧を着込んだ聖別騎士団は止まらない。

 彼等が階段の上で動かないのはカナタのセレスティアルを警戒しているからであって、そこにある殺意はイザベル自身をも目標としていた。

「逆だよ、逆。聖別騎士団ってのは別に法王に仕える連中じゃねえ。確かな信仰心の下に神に仕える騎士だ。お互いに都合が悪くなりゃ、そう言うことだって起こりうるよな」

 言葉を交わさない彼等の代わりに、テオフィルがそう説明する。

「新しい雇い主が見つかったってことだよ。神の代行者を名乗る人間様よりももっと素晴らしい、力を持ったお方がな」

「……御使いか」

「ご名答。御使い直々のご指名ってわけだ、そりゃ神に仕える騎士団なら喜んで移籍するってことだ。いやぁ、下手すりゃこいつらをそもそも組織したのが御使いって可能性もあるかもな」

「……何故、そこにお前が味方する? お前は流れ者の、奴等が最も忌み嫌うエトランゼだろう」

「そこはお互いビジネスライクに行こうって決めてるんでね。雇い主が一緒ならそうなることもあるだろうよ」

「裏で手を引いていたイグナシオは死んだはずだ!」

「クハハッ、そうだな。まったく、困ったイカれ女だったぜ」

 そう言うテオフィルの手の中で、白銀の刃が鋭い輝きを放つ。

「人のことを自分の部下にしといて、こっちが仕事をしてる途中で勝手に死んじまうんだからよ。自分でも言ってたが、ありゃ計画とかそう言うのとは無縁な馬鹿女だよ」

「なら新しい雇い主は黎明のリーヴラか」

「さてねぇ……。ま、聖別騎士団の連中の後ろにいるのは奴だろうけどな。さてさて、お喋りの時間もこの辺りにしとくとするか」

 聖別騎士団が一斉に槍を構える。

 同時にテオフィルもその手に握られた白銀の剣の切っ先をヨハンに向けた。

「さあ、玩具を持ってないお前に何ができる? 切り刻まれる前に自分から首を差し出した方がいいんじゃねえのか? 俺としてはこの新しい獲物の使い心地が試せるからどっちでもいいけどな」

 テオフィルの指摘通り、今のヨハンはローブを着ていない。聖遺物の部屋に立ち居る際に、武装の類は置いて来てほしいと神官達に懇願されたためだ。

 カナタにはセレスティアルがあるし、まだ魔法は使えるが、果たして目の前の男をそれで突破できるかは判らない。この男は軽薄な態度とは裏腹に、相当な使い手であることに間違いはない。

「さあ、終わりだ」

 テオフィルがそう言って、剣を振りかぶる。

 聖別騎士団が同時に、カナタとイザベルへと槍を突きだす。

 最初の一人が前に踏み出した瞬間、それは何かに足を取られたかのように、不自然に態勢を崩して転んだ。

 それだけでなくその両側に立つ兵達も、まるで糸か何かで結ばれているかのように大きな音を立てて前のめりに地面に倒れている。

 異変はそれだけでは終わらず、階段の下の方にいる聖別騎士団達も同じように転んで、下の階まで落下しているような音が大聖堂の中に響き渡った。

 そしてその異変をどうにか免れた聖別騎士達が、鎧の隙間から血飛沫と悲鳴を上げて倒れていく。

 その間を縫うように、浅葱色の影がカナタ達の前を通り抜けて、振りかぶられたテオフィルの剣を受け止めていた。

「――ハッ」

 テオフィルの顔が歓喜に、残虐に染まる。

 一方の乱入者、ラニーニャは心底嫌そうな顔で、彼の剣を弾いて距離をとった。

「なんです、その剣?」

 ラニーニャの手に握られていた二本のカトラスが、たった一撃打ち合わせただけで崩れるように折れて使い物にならなくなっていた。

「久しぶりだなぁ、姉ちゃん! 元気してたかよ!」

「見ての通りですよ。なんで生きてるんです? 速やかに地獄に戻った方がいいんじゃないでしょうか? この世界には貴方の生存を喜ぶ人なんて一人もいないと思いますけど」

「そりゃ手厳しい! だがな、残念なことにいるんだよな! 俺の力を必要としてくれるありがたいお方がよぉ!」

「ちっ、ゴミ同士仲良く死んでください」

 何処からか持って来たのか、水の入った瓶を叩き割り、広がった水を操って鞭のように変えて、テオフィルに伸ばす。

 彼はすぐにそれを衝撃で吹き飛ばすと、剣を振り上げてラニーニャに迫った。

「冷たいじゃねえか!」

「温かい対応を期待してたんですか?」

「もっと熱くなって欲しいもんだよ! あの嬢ちゃんの手を斬ってやった時みたいにな!」

 ラニーニャの表情が変わる。

 冷静さを保っていたのは表面だけで、内心では燃え上がっていた熱が堪えきれず染みだしていた。

 二刀の水の刃と白い刃の剣がぶつかり、そこに宿った力が反発してお互いの距離が離れた。

「ラニーニャ!」

 ヨハンがその名を呼ぶと、ラニーニャは少しばかり冷静さを取り戻したようだった。

 テオフィルと睨み合ったまま、階段の方を指さす。

「早く行ってください! すぐに起き上がって来ますよ! 状況は全く理解で来てませんけど、どうせいつものことですので」

「そう言うわけには!」

 ヨハンの手の中が白い靄に包まれ、瞬く間に青白い雪のような光が生み出される。

 ラニーニャの手を引いて自分の方に引き寄せてから、手の中にあるそれをテオフィルに向けて投げつけるように放った。

「……こいつ……!」

 白い光が辺りを包み、聖域の中が氷で満たされる。

 テオフィルもその向こう側で、驚いた顔をしたまま固まっていた。

「行くぞ」

「あら、ひょっとして助けに来る必要ありませんでした?」

「いや、助かる。何故ここにいるのかに関しては後で追及するが」

「怒っちゃ嫌ですよ」

「早く行くぞ」

 言いながら、階段を駆け下りる。

 立ち上がって来た聖別騎士団の兵達をカナタの光の壁と、ラニーニャの剣で押し留めながら、廊下を走り出口の方向へと。

「……やはり、簡単には行かないか」

 出口に続く唯一の道には、既に多くの兵達が武装して待ち構えている。

 例え全員を殺すつもりで掛かったところで、それだけの数を相手にはできない。ただでさえ、武器が足りていないのだから。

「ヨハンさん、ローブは取ってこなくていいの?」

「勿体ないが置いて行く。……あれがあれば突破することも不可能ではなかったが。イザベル様、他に出入り口はありますか?」

「ええ。もし何かあった時のために非常用出入り口がこっちに」

 イザベルが指さす方向に一同は走る。

「しつこい!」

 追手として背後から迫る敵兵を、ラニーニャの一太刀が怯ませる。

 大聖堂の廊下はかなりの幅が取られているが、それでも平原での戦いと言うわけにはいかない。

 大人数で詰めかけて来た聖別騎士達はその動きを自ら制限し、思うような追撃ができない様子だった。

 その状況を利用して、ヨハンを先頭にした一同は大聖堂内部を裏口を目指して走っていく。

 幾つもの廊下と部屋を飛び越えて、息を切らせるイザベルを何とか支えながら、大勢の足音が聖堂内には絶えず鳴り続けた。

「こちらです!」

 曲がり角を指さして、イザベルが声を上げた。

 言われた通りの道を進むとそこは廊下の終わり、行き止まりになっていた。

 相変わらずの高い天井付近には窓があり、そこから差し込む陽の光が照らしだすのは、一枚の壁。

「ここに隠し通路があるの。鍵は歴代の法王にしか持たされていないわ。この場所は一部の神官達しか知らないはずだし、出入り口には常に見張りが立っているから」

 何もない壁をよく見れば窪みのようになっていて、どうやらそれが鍵穴のようだった。

 くすんだ壁にそれを突き立てて、イザベルが鍵を回す。

 重いものが動き、床の石が擦れる音がして、その壁が扉のように割れていく。

「こっちよ……!」

 扉のように割れた壁の中に入ろうとしたイザベルは、慌てて足を止めた。

 薄暗い通路が続く奥から、鎧の音が聞こえてくる。

 ゆっくりとこちらを威圧するように現れたのは、聖別騎士団の団長であるアーベル・ワーグナーと白い髪の剣士、アストリット・ワーグナー。

 どちらも人の域を超えた怪物。今これだけの戦力で相手にできるものではない。

「アーベル・ワーグナー……」

 アーベルの持つ剣からは鮮血が滴り、その鎧も赤く染まっている。

 彼が見張りに立っていたであろう神官を斬り殺しここにやって来たのは、その姿から見ても明白だった。

「アーベル。聖別騎士団団長として、貴方は自分がやっていることの意味を理解しているの?」

「法王とは、エイスナハルの頂点に立ち神の教えを紡ぐ人。ですが貴方はこの大聖堂にエトランゼの立ち入りを許し、この地上に在るべき神の法に背こうとしている」

「神はそんなことは言っていないわ。それに貴方も知っているでしょう、聖遺物として納められているエトランゼの所有品を。それはまさしく、彼等がこの大地に共に在った証です」

「私はそうは思わない。あれはこの地を穢そうとした悪魔から過去の人々が持ち帰った戦利品であり、それ以上の価値はない」

「エトランゼは悪魔ではないわ。貴方も見たでしょう、あの時オルタリアに現れたあの異形の怪物を。あれこそがかつてこの地に現れ、神々と争った悪魔なのよ」

「それは貴方の見解でしょう」

 聞く耳を持たないとまさにこのことだろう。

 アーベルはイザベルの説得など、全く耳を貸すつもりはない様子だった。

「アーベル。貴方は神の名を借りて自らの怒りを、憎悪を正当化したいだけよ。それにアストリットを巻き込むのをおやめなさい」

「……仮にそうだとして、私の怒りは消えなしない。エトランゼはこの地上にやってきた異端者。本来あってはならないものなのです」

 問答はここまでだと言わんばかりに、アーベルが剣をの切っ先を向ける。

 ヨハンはイザベルを下がらせて、彼の目の前に立った。

「貴様が全ての元凶だ、エトランゼ」

「そのことに付いては言葉もないが、聞きたいことがある。何故、お前達は昨日ではなく今日改めて事を起こした?」

「知れたことを。私はエイスナハルを裏切るのではない。そのためには法王の存在は必要不可欠だ。イザベル様にはここで乱心したエトランゼによって死んでもらい、新たなる法王の即位を待つ」

「貴様と同じようにエトランゼに恨みを持ち、それによって人の命を平気で奪うような方法をか?」

「好きに言え。所詮、エトランゼの言葉だ。私を揺らがせることはできぬ」

 一歩後退りながら、手の中に魔力を溜める。

 魔法を放てるのは無理をして後一回が限度。それでアーベルを仕留められるとは思えなかった。

 ならば今できることは一撃で相手の足を鈍らせ、後ろに逃げることだけだ。二人を相手にするよりは、他の兵達を強行突破する方がまだ可能性がある。

「イザベル様、道を戻ります」

「……ええ」

 イザベルにもそれが判っているのか、緊張した面持ちで頷き返す。

 そうしてヨハンの魔法を合図にその場から下がろうとしたところで、その目論見を全て無に返す声が聞こえてきた。

「いやー、やっと追いついた。氷漬けにされたのはなかなか冷たかったぜ?」

 氷の欠片を辺りに零しながら、白銀の長剣を持って、テオフィルがそこに立っていた。

「クハハハハッ、どうやらチェックメイトってところか? 随分と足掻いてくれたみたいだが、ここまでのようだな」

「喚くな、エトランゼ。御使いのお言葉がなければ私は貴様も斬っているのだぞ」

「硬いこと言うなよ、団長。今の俺はもう人間じゃねえ、アルケーっつって御使いの僕さ。それなら問題ねえだろ?」

 アーベルは答えない。テオフィルの人間性と何処まで行ってもエトランゼであると言う事実に対して、答えが出せないでいるのだろうか。

 テオフィルの言葉で、やはり彼等の裏に御使いがいることは確定した。

「クハハッ、それじゃあここでお別れだ。纏めて死んでくれや!」

 テオフィルの手の中に衝撃が集まる。

 後は彼がそれを解き放つだけで、ヨハン達を壊滅させることができる。

「くっ……!」

 手の中に溜めた魔力を、テオフィルに対して放とうにも、別方向から伸びてきたアーベルの剣がそれを妨害する。

 これでは直撃は避けられない。

 カナタとラニーニャが懸命に止めようとテオフィルの前に立つが、その前に放たれた小さな衝撃波によって態勢を崩され、その切っ先は届かない。

「お別れだ!」

「人の親友と旦那に……!」

 窓ガラスが割れる音が突如響き、その場の誰もが一瞬身体を固くする。

 テオフィルの目の前に放り投げられた一枚の符が、外からの魔力の信号を受けて中に入っている魔法を発動させる。

 炸裂した爆風がテオフィルを吹き飛ばし、廊下の端にその身体が転がった。

「なにしてんだよ、三下野郎!」

 紐のようなものを伝い、割られた窓から人影が降りてくる。

 怒りを滲ませた言葉と共に、金髪を翻しながらその人物は着地する。

 いつもと違うのは彼女が着こんでいるのは、ヨハンの物であろうぶかぶかのローブだと言うことぐらいだろうか。

 窓枠から彼女をぶら下げていた物の正体は、以前ヨハンが渡したまま回収を忘れていたアルケミック・スライムで、彼女はそれをモニと呼んでいた。

「クラウディアさん、どうやってここに?」

「ラニーニャも情けないなぁ。意気揚々と出てったのにこれじゃあね」

 彼女の手の中で、アルケミック・スライムのモニが震える。

「こいつで崖伝ってひょいっとね。建物の三階で一晩過ごすのは寒かったけどまぁ、何とかなったよ」

「それじゃあ、ヨハンさんのローブは……」

「ここに来る前に窓から覗いたらちょうどよっちゃんがいたっぽい部屋でさ。ちょっと失敬してきたってわけ」

 全く悪びれた様子もなく、むしろ誇らしげにそう言ってウィンクをする。

 その姿には呆れるばかりか、最早感心すら覚えた。その行動力と無鉄砲さはカナタ以上かも知れない。

「……貴様、ハーフェンの商家の娘だな? 商人風情が我等の邪魔を……!」

 間髪入れず、クラウディアの手の中で炸裂音が響く。

 ヨハン愛用の拳銃を手に持って、容赦なくアーベルに向けて発砲していた。

 その一発を剣で弾き返すが、弾に込められていた魔法が炸裂して、アーベルの身体が爆炎に包まれる。

「職業に貴賎なしって知ってる? アタシはどっちでもいいけど、神様は今の言葉聞いて残念がってるんじゃないかなぁ?」

「奥へ走れ!」

 ヨハンの言葉に、すぐにカナタとラニーニャは反応する。

 イザベルの手を引くように、吹き飛ばされて倒れているアーベルの横を通り抜けて、隠し通路の奥へと進む。

「クラウディア、こっちだ!」

「はいはい。それで、言うことがあるんじゃないの?」

「……助かった」

「うん、よろしい! お礼はちゃんと考えといてね。愛情たっぷりのやつ」

 クラウディアを先に行かせ、ヨハンは立ち上がろうとするアーベルに対応するためにそこで立ち止まる。

 すると、何か思うところがあるのかカナタも同じように進むのをやめて、ヨハンの少し後ろに付いた。

「クラウディア、ラニーニャさん! イザベル様をお願い!」

 そう叫んでから、カナタの視線が立ち尽くしたままのアストリットを見る。

 同時に、アーベルも叫んでいた。

「アストリット! 何をしている、奴等を追え! お前なら一人でイザベルを殺すことぐらいはできるはずだ!」

 そう号令を受けても、彼女は動かない。

 見れば、隠し通路の入り口の辺りで固まったまま静かに震えていた。

「アストリット! 臆したか、貴様の信仰心はその程度の物なのか!」

「……アーベル様……」

 震える声が、小さな唇から零れた。

 信じられないようなものを見る目で、彼女はある一点を見ている。

 それはイザベルでもなければアーベルでも、カナタでもない。

 遥か後方に吹き飛んでいった、テオフィルの方を睨みつけていた。

「どうしてあの男が、御使いに選ばれたのですか?」

「……なんだと?」

 頭から血を流しながらも起き上がったアーベルが、聞き返す。

「あの男は本当に御使いに選ばれたのでしょうか? 何かの間違いではないのでしょうか?」

「崇高な心を持つ御使いの考えを私如きが理解出来るはずもない。だが、心配はするな。全てのエトランゼが奴のように選ばれるわけではない。御使いが選ぶ多くは、元よりこの大地に生きた我々だ」

「……でしたら、だとしたらどうして……!」

「貴様も誓ったはずだぞ、エトランゼに家族を殺され、他に頼るべき場所を失った我々を救ったのは信仰だ! 他ならぬエイスナハルの教えによって生きる希望を貰ったのだろうが!」

「……ならば、どうしてあの男がここにいるのですか? アストリットの父様、母様、祖父母、兄様と妹……。家族の命を奪ったエトランゼであるあの男が!」

「……なに?」

 アーベルもまた同じようにテオフィルを見る。

 瓦礫になった大聖堂の一部から這い出したテオフィルもまた、ヨハン達を追撃すべく隠し通路の方に姿を現していた。

「あん? ……なんだってんだ?」

「貴方は、アストリットの家族を殺しました。罪など犯していない、わたし達の家族の日常を奪いました。そのエトランゼがどうして神に選ばれたのですか!」

「……お、おう?」

 何のことか判らないのか、テオフィルは最初呆気にとられた様子を見せる。

 しかし、すぐに表情を変えて、その顔に下卑た笑みを浮かべた。

「さあねぇ。巡り合わせ、奇縁ってやつじゃないか? そっかそっかぁ。俺が昔お前さんの家族をねぇ……。まー、全く覚えちゃいないが悪かったな。ほれ、この通り」

 ふざけたように頭を下げるテオフィルに、堪忍袋の緒が切れたのはカナタだった。

 ヨハンの横を無言で通り抜けて、手に持った光の剣を振りかぶってテオフィルに飛びかかる。

「っとぉ!」

「そんな言い方って……!」

「だったらどういえばよかったのかね? 誠心誠意謝れば、そこのお嬢ちゃんの家族が戻ってくるって? 違うよなぁ、死んだ人間は戻らねぇ。魔法使いのお嬢ちゃんと同じようになぁ!」

「お前ぇ!」

 怒りに呑まれたカナタの手の中で、セレスティアルが深紅に染まる。

 武器ごとテオフィルの身体を両断しかねないほどの勢いで振るわれたその刃は、彼が持つ白銀の剣によって受け止められていた。

「……なんで……!」

「いい剣だろ?」

 もう片腕で生み出された衝撃波がカナタの身体を吹き飛ばし、飛んできたところをヨハンが受け止める。

 なおもテオフィルに向かって行こうとするカナタを、ヨハンは無理矢理に後ろから抑え込んだ。

「よせ! 俺達の目的を忘れるな!」

「……くっ……! アストリット!」

立ち尽くすアストリットに向かって、カナタが手を伸ばす。

「一緒に行こう! 家族を殺した奴と一緒に悪いことをするのが神様の望みだって、そんなの絶対に間違ってるから!」

「アストリットは……。判りません。なにも、判らないんです。アーベル様……」

 迷子の子供のような顔で、アストリットがアーベルを見上げる。

 その視線を受けた大柄な騎士は、一度大きく頷くとその顔をテオフィルに向けた。

「お、やるのかい、団長様? 俺は別に構わないが、そいつは御使い様の意志に反するんじゃないかね?」

 そう言いながらもテオフィルはアーベルが来たら戦うつもりなのか、聖別武器を構えて挑発するような仕草を見せている。

 しばしの迷いの後、アーベルは身体の向きを変更する。

 その暗く濁った眼は、ヨハン達を睨みつけていた。

「それが神の意思ならば従え、アストリット。背教者を斬り、神への信仰を示すのだ。もしその男が神に選ばれていないのならば、いつか必ず裁きがくだるだろう」

「貴様は……!」

「自らを捨てよ、アストリット。その身は神の剣にして現身となったのだろう? 家族を失ったその日から」

「……アストリットは、神の現身……。神の剣」

 光のない目で、うわごとのようにアストリットが呟く。

 呆然としたまま、それでも神の意思に逆らうことができないのか、彼女は腰に下げていた鞘から剣を抜いた。

「これ以上は……!」

 カナタを後ろに突き飛ばして、魔法を放つ。

 先程と同じような凍結の魔法が、隠し通路全体を床ごと凍らせていく。

「カナタ、走るぞ!」

 小さな手を握って、無理矢理にカナタを走らせる。幸い、彼女は戻ることなくヨハンの後を付いて来ていた。

「アストリット……」

 カナタのその呟きが、隠し通路の暗闇の中に空しく木霊した。

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