第三節 一通の手紙

 トントンと規則的なノックの音に続いて、扉が開かれる。

 まだヨハンは入っていいとも言っていないのだが、ここ数日でお互いにそれに慣れきってしまって特に咎める気にもなれなかった。

 執務室の中に入って来たのは肩口で切り揃えた黒髪に、給仕服を来た少女、サアヤだった。

 先日の戦いとその後のギフトの過剰使用によって体調を悪化させていたのだが、ここのところはすっかり回復したのか今までと変わらない笑顔を見せてくれている。

「お手紙と、お茶の時間ですよ」

「手紙?」

 彼女が持っているお盆には湯気を立てるカップが二つ。サアヤが部屋に入ってきた時に漂ってきた珈琲の香りから、その中身を想像して密かに心を躍らせる。その端に手紙が十枚ほど乗せられている。

 丁寧な仕草で勝手に書類を退かして、テーブルの上にカップを乗せる。続いて手紙を手渡して、サアヤ自身はヨハンの横に立って、カップに口を付ける。

「……サアヤ。別に俺のところにまで世話をしに来なくてもいいんだぞ」

 彼女は今、王宮でエレオノーラの使用人として雇われている。他の給仕達とは違って彼女専門で、必要ならば政務の手伝いにも駆り出されている。

 そんなサアヤだからそれなりに多忙なはずなのだが、こうして一日に一度ぐらいはヨハンの様子を見にやってくるのだった。更に言えばここで寝泊まりもしているようで、空き室の一つがすっかり彼女の色に染められているのを見た時は唖然とさせられたものだ。

「大丈夫ですよ。エレオノーラ様からも時折様子を見てきてほしいって言われてますし、好きでやってることですから」

「……だからと言ってな」

「そうは言っても、ヨハンさん。一人じゃろくに生活できないじゃないですか。晩ご飯とかもすぐ外に食べに行っちゃってるし」

 別に自炊ができないわけではない。一人で店を営んでいた時はそれなりに自分で料理をしていたはずなのだが。

 どうにも、人間便利な立地に暮らしてしまうと甘えることを覚えてしまうようだった。何よりも、今のオル・フェーズの市場には惣菜なども売っているので食料品を買うには困らないというのが一番の理由だが。

「別にいいだろう。一人分を作るよりはそっちの方が楽なわけだし」

「駄目ですよ。カナタちゃんもエレオノーラ様も心配してるですから」

「子供じゃないんだぞ、俺は」

「はいはい。そのお話しはいいじゃないですか。それよりも、お手紙は読まないんですか?」

「……お前な」

 色々あったからだろうか、以前よりもサアヤの性格が強かになった気がする。

 それは多分、憧れの中にいた誰かを見ることを完全にやめることができたからなのだろう。

 その上で等身大のヨハンを見て、傍にいてくれる。それは非常にありがたいのだが。

 仕方なく手紙を手に取って、一枚一枚差出人を確かめていく。

 そのうちの大半がろくに喋ったこともない貴族からのもので、恐らく内容は夜会への招待状だろう。

 結局のところ、よく判らないがこの国に多大な影響を及ぼしたヨハンと近付きたがる輩は決して少なくはない。貴族ではないという点が良くも悪くも作用して、自分の勢力に取り込みやすいと考える者もいるようだった。

 それらを無視していると、その中に今度は見知った差出人の名前を見つけて手を止める。

「クラウディア?」

 クラウディア・ユルゲンス。ハーフェンの豪商マルク・ユルゲンスの娘で、これまでの戦いを一緒に生き抜いた仲間であり、一応はヨハンの婚約者でもある。

「ああ。婚約者の」

「……そうだな」

 これは自意識過剰なのかも知れないが、一応はサアヤから好意を寄せられていると明言されている以上、それが新たな事件を招きそうでびくびくしていたのだが、どうやらその気配はなさそうだった。

「……今はそう言う話はなしにしようってことになってるんです。取り敢えずわたしの中では」

 何処か寂しげな口調で、彼女はそう言う。

 心当たりはヨハンにもあったので、それ以上そこには追求しないでおくことにした。

 事態は終結したが、色々なことがあり過ぎた。失ったものの数も多い。

「近いうちにこっちに遊びに来るらしい。ラニーニャも一緒に」

 追伸で書かれていたラニーニャが褒美を全く受け取っていないので貰いに行くと息を巻いているとの一文を見て、嫌な予感が膨れ上がっていく。

「あ、あの人も来るんですか? それじゃあ、お寿司の準備しておかないと」

 どうやらヨハンの知らないところで無茶ぶりがあったらしい。

「別に構わなくてもいいぞ。あいつの言葉は」

「そう言うわけにも行きませんよ。大事なお客様になるんですから」

「……いや、別にサアヤの客ではないんだが」

 そう言ってしまうのは些か冷たいような気もするのだが、何せ彼女も暇ではない。普段の仕事に加えてあの二人組の世話をさせるのは酷だろうと判断してのことだった。

「ヨハンさんのお客様は、わたしのお客様です」

 むんと腕を上げてポーズを取って見せる。

「サアヤ。だからあまりそう言うのはだな」

「わたしが勝手にやることです。気にしないでください」

「そう言うわけには……」

「ヨハンさん。わたしの胸、触りましたよね?」

「なんで今その話をする?」

 サアヤを取り戻す戦いの際に、そう言えばどさくさに紛れてそんなことがあったような気がする。

 それは人助けをするうえで必要な行為であったというか、そもそも非常事態だったためそれを今更持ち出されるのは幾ら何でもあんまりなのだが、面と向かって言われてしまえば反論のしようもない。男とはかくも弱きものである。

「ほら。この話をこれ以上されたくなかったら、その辺りのことは自由にさせてください。大丈夫、損はさせませんので」

「……判った」

 深く頷く。

 彼女もそのことを口に出すのは照れくさいのか、窓の外を見ながら珈琲を飲み始めた。

 なんとか話題を転換する材料にしようと次の手紙に取り掛かったところで、その手が止まる。

 その宛て先、書かれている名前には見覚えがあった。

 しかし、決して直接会ったことはない。いや、その人物がこうして個人に手紙を出すこと自体が、滅多にないのではないかと思われる。

「ヨハンさん?」

 動きを止めたヨハンを心配して、サアヤが覗き込んでくる。

 そこに書かれた名前を彼女が読み上げるが、それに聞き覚えはないようだった。

「イザベル・メル・バルテル……さん? どちら様ですか?」

「エイスナハルの、法王だ」


 ▽


 千年以上前、神は御使いと共にこの地に降り立った。

 そして大地に蔓延る悪魔達を駆逐し、まだ自らの足で立つことすらおぼつかなかった人々に文明の火を与えた。

 その加護は現在にまでも続き、だからこそ人々はその神の名。神が起こした奇跡の名を今日も唱え続ける。

 エイスナハル。この大陸に数多広がる一大宗教であり、人々の文化の基盤となっている教えがそれだった。

 先日の戦いで命を落としたヘルフリートの母、マクシーネのように忠実な信徒もいればば、ゲオルクのように王族でありながらその教えを絶対と思わない者もいるが、共通しているのはそのどちらも、暮らしの根底にはその教えがあるということだった。

 文字通り、エイスナハルはこの世界の人々の下地としてそこにある。例えその教典に全て従うものでなくても。

 そしてイザベル・メル・バルテルとは今のエイスナハルの法王。つまりは頂点に位置する人物と言うことだった。

 彼女の法王即位はここ数ヶ月のことで、オルタリアでは内乱のごたごたがあった時期のことだ。その最中に先代法王が急逝し、急遽即位した。

 そのため彼女がどんな人物かは一般的には知られていないが、その立場とこの大陸におけるエイスナハルの信者の多さから絶大な影響力を持つ人物であるのは間違いないだろう。

「――で、折角アタシが尋ねてきたってのに、留守にするわけだ」

 そう言いながら不機嫌そうに組んだ腕の上に豊かな胸を乗せているのは、小柄な体躯の金髪少女、クラウディアだった。

 あれから数日、ヨハンが出発を決めた日の待ち合わせの時間にタイミング悪く遭遇してしまっていた。

 二人がいる場所はオル・フェーズの門の前で、不機嫌そうに見上げてくるクラウディアをどうにか宥めなければならない。

「いきなり来るからだ」

「しょーがないじゃん。アタシはすぐに来たかったんだけど、パパも一緒に来るって始まって、そしたら準備に時間かかったんだもん」

 不貞腐れながらそう言う視線の先では、オル・フェーズの城門前にある関にて荷物を改められている。一緒に来たラニーニャもそちらの仕事を手伝っているようだった。

「マルク殿はしばらく商売をしているのだろう? だったら戻って来た時にでも会えばいい」

「そりゃそうだけど……。すぐ戻ってくるの?」

「どうだろうな。エイス・ディオテミスまでには往復だけで一週間以上は掛かるだろうし……。向こうで何があるかも判らないからな」

「それじゃああんまり一緒にいれないじゃん!」

 頬を膨らませて子供のように抗議するクラウディアだが、そうは言われても彼女と遊ぶために法王の招待を反故にするわけにはいかない。

「そこは諦めろ。観光でもしていてくれ」

「ぼろぼろの王都に見るところなんてないよ」

 間違ってないが、あんまりな言い分だった。

「……それに、エイス・ディオテミスにあるものって、多分よっちゃんの昔に関係するかも知れないんでしょ?」

「……確証はないがな」

 クラウディアも予想している通り、法王イザベルがわざわざヨハンを呼び出したことは、恐らく自身の失った記憶に関係しているのかも知れないと考えていた。

 もっともその考え自体はかなり希望的観測を含んでいるし、それ以外に理由も思いつかないからと言った方が正しいのだが。

「だったらアタシも知りたいよ。知る権利があるもん」

「なんでだ?」

「そりゃ、アタシの旦那様のことだもん」

「あのな、クラウディア。その話は……」

「よっちゃん、前から聞きたかったんだけど、アタシと結婚するの嫌なの?」

「……また答えにくいことを聞く」

 言ってしまえば、今は誰ともそう言う仲になる気がないというだけの話だ。色々と、考えることが多すぎる。

 それをどう伝えようか悩んでいると、クラウディアはヨハンが考えていることを読んだのか、ジト目で見上げてくる。

「今はそんな気持ちじゃないんでしょ? まだまだ遊びたいってこと?」

「そうじゃない。俺自身のことも判ってないし、オルタリアも周りも安定していないこの現状で、誰かの世話を焼くことも、焼かれることもできないだけだ」

「それを言い訳にして色んな女の子に手を出してると?」

「出していない」

「あたっ」

 すぱんと、頭を叩いてやる。

 叩かれた個所をさすりながら、クラウディアは何故か嬉しそうだった。

「ヨハンさん!」

 横合いから声が掛けられて、二人はその方向に振り向く。

 旅の荷物を背負ったカナタがそこには立っていた。

「カナタ、遅かったな」

「女の子の準備には時間が掛かるの。クラウディア、久しぶり」

「うん、久しぶり。元気してる?」

「してるよ。クラウディアも来るの?」

「行かない。カナタのところのケチなお師匠が、アタシは連れてってくれないってさ」

 軽くクラウディアの足が、ヨハンの脛を蹴飛ばした。痛みはないが、理不尽さがある。

 今回の旅の同行者はカナタだけだった。理由は幾つかあるが、一番暇だったというのが主なところだ。

 勿論その他にも神や御使いの縁の場所に行けば、カナタのセレスティアルのこともなにか判るのではないかと言うものもある。

「あはは……。まぁ、何があるか判らないからね。ヨハンさんのことはボクに任せといてくれていいから」

「……まー、カナタならその辺の奴よりはよっぽど安心できるけどさ。後、よっちゃんが浮気しないようにちゃんと見張っててね!」

「……さて、出発するぞ」

 これ以上雑談をしていては日も暮れてしまう。関の辺りを見ると、そちらでも荷物の確認が終わった頃のようだった。

「マルク殿にも挨拶をしておきたかったが」

「その辺りの全部含めてアタシが担当することになってるから大丈夫。ユルゲンス商会のよっちゃん担当なんだから」

「……まあいいか。持って来てくれたのは復興支援の物資だろう? 感謝を伝えておいてくれ。今度ハーフェンにも邪魔するともな」

「はいはーい!」

 勢いよく返事をして、クラウディアはマルクのところへと駆けていった。

「……なんか、出発前に疲れてるね」

「そうだな。待ち合わせの時間をもっと早くにしておくんだった」

「そんなこと言って、クラウディアと話せて嬉しいんでしょ?」

「まぁ、嬉しくないということはないがな」

 ぽすんと、カナタの力の入っていない拳がヨハンの背中を叩く。

 その理由も判らず、それに押されるようにして歩き出すと、カナタも並んで街道を進んで行く。

 二人の向かい先は北東にあるエイス・ディオテミス。

 そこで何が待ち受けているか、未だ知る由もないことだった。


 ▽


 見送ったヨハン達の後ろ姿が見えなくなったころ、クラウディアの背後から肩を叩く姿があった。

 振り返った先に立っていたのはクラウディアとは対照的な細身で浅葱色の短い髪が特徴的な少女、ラニーニャだった。

「行っちゃいましたね」

「……うん」

 彼の前では気丈に振る舞って見せたものの、クラウディアとしては王都に来る目的の大半がヨハンに会いに来るためだったわけで、それがロクに果たせないとなれば流石に心にくるものがあった。

 とは言え、文句ばかりを言っていても仕方がない。クラウディアにできることと言えば、彼が記憶に関する手掛かりを見つけて戻って来て、心の中に蟠っている問題が少しでも解決するように祈ることだけだ。

「さて、それでは行きましょうか」

「そうだね」

 王都方面に向けて歩き出そうとしたクラウディアの顔面に、ラニーニャが何かをぽいと投げつける。

「うわっと」

 慌ててキャッチすると、それはどうやら財布代わりの皮袋だった。ここに来る途中馬車の中に放り込んでおいたのを、回収しておいてくれたらしい。

「なに、買い物? またなんか奢って欲しいの?」

「違いますよ。いえ、半分は正解ですけど……。追いかけないんです?」

「はぁ?」

 果たしてこの親友は何を言っているのだろうか。

「いや、だって……。どうせ帰れって言われるだけでしょ」

 一応、出会い頭にそれらしいことを聞いてはおいたのだが、安全のためにも今回は二人で行くことに決めてあるらしい。

 エレオノーラやそのお付きのサアヤなども行きたいと申し出たそうだが、何があるか判らないので却下したそうだった。

 同様の理由でクラウディアが同行を申し出ても無駄だろうと、最初から諦めていた。

「え、別に聖地を巡礼するのに許可は要らないと思いますけど?」

「……アタシ、そんなに敬虔な信者じゃないんだけど」

「もっと判りやすく言いましょうか? 勝手に付いていくとしましょう。こっそりと」

「そんなの……!」

「まさかエイス・ディオテミスにまで付いてしまえば帰れとは言えないはずですよ」

 それは駄目だと申し訳程度の否定をしようとするが、クラウディアの口は動くことはなかった。

 まさか思いもよらなかったラニーニャのアイディアは、クラウディアが一番やりたいことをしっかりと見抜いている。

 それを聞かされればもう、それ以外の選択肢は頭から消えていた。

「いや、だって、でもさ」

「瞬時に言い訳が出てこない辺りがもう駄目でしょうね。ほらほら、ラニーニャさんの勝ちですよ。さっさと出発する準備をするとしましょう」

「パパだって許してくれるかどうか……」

「……今更過ぎません、それ?」

「……確かに」

 海賊退治に戦争に、最早父の心配など全く無視してやりたいことをやってきたというのに、今更反対されたところで何になると言うのか。

「さー、そうと決まれば急ぎましょ。ほらほら」

 後ろに回り、肩を両手で掴んでラニーニャがクラウディアを押していく。

 そこに込められた力は絶妙で、その気になれば簡単に振りほどけるのだが、クラウディアにその意思がないことを判りきっているような厭らしさがあった。

「アタシも大概だけど、ラニーニャって無茶苦茶だよね」

「え、今頃何を?」

「……だよねー」

 苦笑して、心の中で礼を言って、父のところに向かう。

 クラウディアの言葉に難色を示したマルクだったが、勿論だからと言ってそうと決めたお転婆娘が止まるはずはない。

 斯くしてヨハン達の出発から数時間を遅れて、クラウディア達もエイス・ディオテミスへと密かに出発するのだった。

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