九章 神話の残響(上)
第一節 それからの日々
それはもう、ずっとずっと昔の話だ。
目を覚ました一人の男はその世界の異様さに驚き、自分に迫っている危険に怯え、そして元の世界にもう帰れないであろう事実に絶望した。
妻も子もいた男は一瞬にして全てを失ってこの世界にやって来た。彼等が彼方の大地と呼ぶこの異世界に。
混乱し全てを投げ出して逃げ出そうと考えたこともあったが、幸か不幸か男はある程度は冷静だった。
例え家族と出会えなくても、再会を信じて生き抜こうと努力する程度には希望を持ってしまっていた。
例えこの世界に呼び出された理由が余りにも身勝手なもので。
与えられた力を以てして見たこともない、映画の中にしかいなかったかのような化け物との戦いを強要されたとしても。
運がよかったと、男は後に回想する。
どうにか必死で生き延びて、同じくこの世界にやって来たエトランゼと呼ばれる者達と合流することができた。
聞いた話によれば、エトランゼは二つの勢力に分かれているらしい。
一つはこの世界の住民と協力して、彼等を生き延びさせるて共に生きようとする者達。
もう一つは現地に住んでいた者達を邪魔者と判断して、独自にコミュニティを作り様々な研究を行う者達。後者は決してこの世界の住人を邪険に扱うことはないが自分達の持つ技術や知識の方が高度と判断したうえで、彼等が足手まといになるとして交流を避けていた。
しかし、どちらにも共通して言えることは決してこの世界の住民を蔑ろにしているわけではない。むしろ後者の者達は前者の者達を通じて、技術や物資のやり取りも行っていた。
男が所属したのは後者の集まりで、何をどうやって作ったのか、予想以上に近代的な建物に住んでいた。
その集まりは表面上は平和だった。怪物と戦う日々だったが、可能な限り日常を謳歌して、決して絶望しないようにしようというのはエトランゼに共通している一つの常識のようなものだ。
例え何人の仲間が倒れたとしても。
愛する家族にもう会えなかったとしても。
決して絶望しないと、最初に誰かが言ったらしい。
その誰かの正体を男は知ることはなかったが、その言葉自体は前向きに受け入れることができた。
そんな中、一つの頼まれごとを受けたことがある。
内容としては大したこともない。この世界に来た時に持っていた携帯端末で写真を取ってくれと言うものだった。
この世界の景色や、ここで出会った人々を写真と言う形で残して、元の世界に帰った時にお互いにSNSにアップロードすることで繋がりを保とうというのだ。
それは単なる現実逃避だったのだろう。
気付いている者もいたが、敢えてそれは口にしない。希望を持ち続けるとは難しいものだ。少しでもそれに繋がる要素があるのならば肯定しようと。
男も持っていた携帯端末で写真を取る。特に若い女性のエトランゼは喜んでカメラを起動し、結果として異世界に来た人種も国籍もばらばらな者達が、一枚の写真に納まることになった。
何枚も、何枚も、写真は増えていく。
楽しいことがあった時、辛いことがあった時、新たなるエトランゼが現れた時。
そんな日々を過ごした。
戦いが激しくなっても、そんな小さなことを頼りに生き続けた。
元の世界への帰還を目指して。
それができないのならばせめて、この辛い戦乱が終わることを信じて。
――結論を言ってしまえばそれは呆気ないものだ。
彼等は元の世界に帰還することはできず、その写真が現代の彼等を繋ぐことはなかった。
それらが収められた携帯端末もいつしか当人達の手から離れて、流れる時の中に埋もれて消えて、長い長い時間が流れることとなった。
▽
オルタリア王都、オル・フェーズ。
今ヨハンがいるのは城の近くにある貴族達の屋敷が立ち並ぶ区画の外れ、最も端にある一軒の屋敷だった。
分不相応と自分でも思うほどに大きな邸宅は、生活するには何かと手間がかかる。使用人を雇わなければまともに過ごすことも叶わないがそんな金もない。
二十以上ある部屋に対してヨハンが日々使っているのはたったの二つ。それから食堂や風呂ぐらいのものだ。
その二つのうちの片方、日当たりが一番いい部屋を選んだ書斎で、大きな執務用のテーブルに付いて与えられた書類を処理し続けている。
部屋の内壁が木製と言うだけで、以前のイシュトナルよりは大分穏やかな気持ちで仕事ができる。何しろあそこは要塞なだけあって、何処まで行っても無骨な空気が抜けなかったのだから。
机と椅子、それからサアヤが勝手に置いて行った観葉植物以外は何もない部屋だが、それなりに落ち着いた気分で仕事をすることができた。もっとも、その理由として大きなところを言えば単純に仕事の量が激減したからではあるが。
オル・フェーズでのヘルフリートの戦いから早二ヶ月。
混乱と大きな傷跡をオルタリアに残した戦いは終結し、帰還した王ゲオルクの下にこの国は新しい道を歩み始めようとしていた。
戦災復興には多大な資金と人手が必要だったが、ゲオルクの主導の下エレオノーラの声に集ったエトランゼ達の力を借りることでそれらは迅速に行われている。
それによりこの国の人々にエトランゼの最も重視すべきところ、それはギフトではなく彼等が持つ異世界の知識であるということも少しは根付いていくだろう。
諸々の問題はあるし、それらは未だ山積みになっている。解決できるものはするが、どうしても手が触れられないものもある。
結局、人一人ができることなどたかが知れているのだ。ある程度は時間が解決するのを待つしかないこともある。
無責任かも知れないが、ヨハンとしては自分ができることはほぼやりきったぐらいのつもりでいた。後のことを決めるのはヨハンでもエレオノーラでも、ゲオルクでもない。
この国に生きる人と、多くのエトランゼ達だ。彼等がどういう形で手を取り合ってより良い未来を目指せるか、王族が舵を取り後は流れに任せるしかない。
朝から仕事をしているため書類も半分は片付いた。一度休憩するために大きく伸びをすると、同時に部屋の扉がノックされる。
名前を尋ねる前に、来訪者は自分から名乗る。
「ルー・シンだ」と、その名を聞いてヨハンの表情が怪訝なものに変化する。
「何の用だ?」
「ご挨拶だな。わざわざ訪ねて来たというのに」
言いながら、部屋の扉が開かれる。
長身に白皙な顔立ち。怜悧な目は彼の中に確かな知性を伺わせるが、同時に少しばかり迫力がある。
貴族服をゆったりと着こなしたその男は共も連れずに、ヨハンの屋敷を訪れたようだった。手には酒瓶を握っている。
「久しぶりだな、救国の英雄殿」
「その呼び名はやめてくれ。ルー・シン・クリーゼル」
「卿がその呼び名をやめたら考えるしよう」
「判った。ルー・シン。これでいいか?」
「うむ。手始めにこれは土産だ」
ドンと、テーブルの上にワインの瓶が置かれる。見たことのない銘柄で、恐らくはこの辺りのものではなさそうだった。
「国内外の流通が再開してな、これは海の向こうより取り寄せた酒だ。舌が痺れるほどに甘いと評判だったが、手前には少々物足りなかった」
見かけによらず甘党でスイーツ好きのこの男が物足りなかったというだけで、相当なものであるのに間違いはないだろう。ヨハンとしてはあまり甘い酒は好まないのだが。
「それから、恨み言を少々と個人的に気になることを幾つか聞きに来た」
「恨み言の部分は判っている。格好よく改められた名前のことだろう?」
「その通りだ。おかげで毎日が多忙過ぎてな。ここに来る時間を作るだけでも相当に苦労した」
戦いが終わった後、ゲオルクは功労者に対して国民、エトランゼ関係なしに多大な報奨を約束した。
中でも一部のエトランゼに与えられた爵位は国を揺るがすほどに大きな話で、王からエトランゼがそれを承ったことに前例はない。
候補として挙げられたのは三人。ヨハンとカナタ、それから目の前にいるルー・シンだった。ヨハンとカナタが一瞬でそれを拒否したため、ルー・シンがそれを受けることになった。
「誰かが受けねばならぬあの状況で、ああも強気に拒否できるとはな」
「エトランゼのことを考えるのなら、爵位を受けたエトランゼがいるという前例を作っておく必要がある。この国はまだしばらく王政が続くだろうからな」
「判っていながらよくも、それを否定できたものだ」
「お前の言う通り俺があの戦いの功労者だとするなら、それが報奨だと思ってくれ」
「……まぁ、なんとなく卿は受けぬだろうと言う確信はあったがな。問題はその後だ」
ルー・シンに爵位が与えられることになったのだが、そこで突然一声が割って入った。
両親を失い、寄る辺のない貴族令嬢であるリーゼロッテ・クリーゼルがクリーゼル家の後見人としてルー・シンを指名した。
後見人として過ごす中で貴族としての在り方、そのルールを学んでいけばいいという彼女の弁舌に絆されたゲオルクは、リーゼロッテの現状も知っていたため彼女の言葉を受け入れた。
そしてまんまと誕生したのが、ルー・シン・クリーゼルと言う何処か間抜けな響きの名前にされた男なのである。
「あの娘と手前は関わるべきではないとは思っていたのだがな」
「それもお前の立場が怪しかったからだろう? 爵位を受けるほどの功績を上げて全て許されたんだ、問題はない」
「手前としては、もうしばらくエーリヒ殿の下にいてもよかったのだが」
エーリヒもすぐに牢から解放された。彼はヘルフリートの味方を続けたことに対する罰を求めたが、ゲオルクは状況を判断し、またラウレンツを初めとした恩赦を求める声も多かったため、彼の領地であるテオアンでの三ヶ月の謹慎の罰に落ち着いている。その際に若干の戦力を削られ、その一端でルー・シンは王都に来ることになったのだった。
「それで、今はどんな仕事を?」
「これまではずっと復興支援ばかりだったが、最近は軍の管理が主なところだな。先の戦いで貴族も多くがいなくなり、それらを任せられる人材も不足しているようだ」
「今が一番油断できないタイミングだからな。もし他国が戦争を仕掛けてくるのなら、内乱で疲弊している今が絶好の機会になる」
「手前としてはその辺りはあまり心配はしていない。南にあるバルハレイアは王族同士が懇意であるし、ヘルフリートが政権を握っていた時期にも他国との接触の跡が見受けられん。大抵、こういう場合は内乱の切っ掛けそのものが他国からの介入だったりするものだ」
「……一応、一つある。介入をしていた国が」
「……ああ。それは手前も考えてはいたのだが」
聖都エイス・ディオテミス。
この大陸に広まるエイスナハルの総本山であり、その信徒達が集まる宗教都市。
彼等は五大貴族を通じてヘルフリートに戦力を与え、戦いの終盤では聖別騎士団と言う直接的な戦力まで派遣してきた。
それだけでなく何度か戦場で見た聖別騎士、そして悪性のウァラゼルが封印されていた聖別武器もまた、彼等の差し金でこちらに送り込まれたものだ。
「だが、奴等の動きには不可解なものが多い。それに聖別騎士達は例の巨人を見て撤退していったと聞く」
「ああ。もし、ヘルフリートともっと密接に結びついているのなら、その期にこちらを叩いていたはずだ」
「だとすれば問題はないだろう。それに幾ら国が弱っているとはいえ都市一つの戦力、どれほどの規模を準備していたとしてもいいところ共倒れに終わるが関の山だ」
「……聖別騎士団がそれで止まるような連中か?」
「奴等がそうだとしても、その上にいる者達は違うだろう。例え宗教と言う硬い結束があったとしても、一枚岩ではない。組織とは何処まで行ってもその性質からは逃れることはできん」
「そうだな。それを聞いて、より安心できた」
「くくっ。救国の英雄殿ももう戦争はこりごりか?」
「叶うことなら二度とやりたくはない。人の命を握るのは、俺の手に余る。護るのも、奪うのも」
「だから、いずれにここを去ると?」
やはり、この男には見透かされていた。
もしエトランゼの未来のことを本気で考えるのならば、ヨハンが爵位を受けない理由はない。幾らルー・シンが能力的に信用できるとしても、別にそれが二人になったところで何ら問題はないのだから。
ヨハンが恐れたのは、立場を得て自由に動けなくなってしまうことだった。
「何故、俺だけ記憶がないのか」
ずっと胸の内に在った謎。
記憶のない、名無しのエトランゼ。
いや、果たして自分は本当にエトランゼなのだろうか。そんな疑問すら浮かんできてしまうほどに、今のヨハンに取って自分自身と言うものが疑わしい。
「……卿がエトランゼであること前提で話をするが、失って戻れない過去に価値があるのか? 果たしてそれは、今のままの方が幸せなのかも知れんぞ」
エトランゼ達には誰にも元の世界に残してきてしまったものがある。
それは家族であったり、友人でったり、或いは恋人。
人でなくても地位、金、資産。決して一瞬で消え去って納得できるものではない。
ならばヨハンは、失ってしまったものすらも思い出せない方がまだ幸福なのかも知れないというルー・シンの言葉には、一理ある。
「そうじゃない。恐らく俺は、俺の過去は奴等に関係がある」
異形の王、そしてそこから繋がる御使い。
ヨハンの過去が彼等に関係するのならば、それを解き明かす必要がある。そして彼等からこの世界を護る術を手に入れて初めて、誰にだって未来が訪れる。
「御使い、黎明のリーヴラ。それがこの国に巣食っていた者の名だ。もっともその姿を見た者は生きている者の中ではエーリヒ殿とあの鋼の王だけのようだがな」
御使い、黎明のリーヴラ。
果たしてヘルフリートを利用しただけなのか、それともこの一件全てを仕組んだのか、それは判らないが、間違いなくここまで事態が肥大化する原因であったはずだ。
そして奴は姿を消していた。その痕跡一つ残さずに。
全てがそれで終わったと考えられるはずがない。だからヨハンができることは、その対策を全力で打つことだけだった。
もう、失わないために。
これ以上御使いに奪われないために。
「城の地下に開けられた穴の件、報告は聞いているか?」
「ああ。小規模なダンジョンだろう?」
オル・フェーズの王城の地下に、不自然な穴が開けられていた。それを発見したのはアツキで、何やら不自然に壁が壊されて地下まで掘り抜かれていたらしい。
しかし、それは途中で終わっていた。ダンジョンのような迷宮は発見されたものの決して広くはなく、大した発見もなかった。
その作業をしていた者の話によればヘルフリートに突然言われて掘り始まったが、ある日急にもう必要ないと作業途中で放り出されたらしい。
「引き続き調査は進めさせているが、果たして何か見つかるものかな」
「少なくとも、ここにいた御使いにとっては価値のないものなのだろう。或いは」
ヨハンが言葉を切って、その続きをルー・シンが口にする。
「そいつにはまた別の目的があったか」
果たして、御使いのリーヴラの目的とは何だったのか。
魂魄のイグナシオ、悪性のウァラゼルと同じようにただこの国を混乱に陥れて遊んでいただけなのか。
「これは単なる手前の予想なのだが、その御使いの目的はあの巨人にあったのではないかと思われる」
それにはヨハンも同意だった。
あの巨人と御使い、どちらも超常的な力を操る者としては共通しているが、異なる点も多い。
片や神の使いとして神々しい姿を取っているのに比べてあれは醜悪で、見るからに人に害をなす者に見える。
姿形で全てを判断するのも乱暴な理論だが、かと言って無視するにはその差は大きすぎるように感じられた。
「ヘルフリートを利用してあれを蘇らせた? もしくは操る術を探していた?」
「さあな。手前はその辺りには明るくない。人事を尽くすことに掛けては卿よりも勝っていると自負できるが、魔法やら神話やらの話はさっぱりだ。ここ最近、多少は学んでいるのだが」
「勉強家だな」
「……それも困りごとの一つでな」
彼らしくもない、深い溜息が漏れた。
「リーゼロッテ嬢にエイスナハルの古い教典を解読しているところを見られたのだ。それ以来、何かと世話を焼かれてしまっている。やれ子供向けの絵本から、大量に脚色が成された冒険譚までな」
「楽しそうで何よりだ」
恐らくリーゼロッテとしてはそれを機会にルー・シンと一緒に本を読みたいのだろう。いじらしくも微笑ましいその気持ちを察すれば、余計なことも言えなくなる。
「そう思うなら変わって欲しいぐらいだ。いや、女難に関しての第一人者には少々物足りないか?」
「難と思ったことはない、多分な」
「どうだかな。あちこちから噂は響いてくるものだ。救国の英雄はとんでもない女たらしで、王に貰った褒美は自分専用の後宮だとか」
「…………」
ヨハン自身も知らなかったとんでもない噂を今知って、思わず絶句する。
その様子が面白かったのか、ルー・シンは嫌味に笑う。
「邪険にはできんか? 女達に助けられたのは事実だろうからな」
「……そうだな」
一拍置いた返事の中に感じ入るものがあってか、ルー・シンは一瞬だけ喋るのをやめた。
そのヨハンを助けてくれた女の中には、還らなかった者もいる。
「難儀な性分だな、卿は。今後も色々なものを背負って生きていくのか?」
「一応は、そのつもりだ」
「そうか。……さて、いい加減に話し込み過ぎたな。今日のところはこれで失礼する」
話を切り上げて、ルー・シンはヨハンに背を向ける。
「これは状況から予測したものと言うよりは、単なる勘なのだが、この国にはまだ何かが起こるのだろうな」
「……そうならないことを願っている」
「同感だ」
そう言ってルー・シンは部屋を去っていく。
対照的な二人の、共通の願い。それは決して叶うことはないであろうことは、漠然と理解していた。
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