第八節 祈りの果て

「な、ぜだ? 何故だ? 何故だ何故だ何故だ! 何故貴様がここにいる! 死んだはずだぞ、貴様は! 死んだはずだ、なのに何故ここに!」

 一瞬謁見の間に訪れた静寂は、狂ったようなヘルフリートの叫びによって掻き消えた。

 入り口に立っているゲオルクは一歩ずつ、踏みしめるように近付いてくる。

 ヨハンもエレオノーラも、言葉もなくその様子を見つめていた。

「随分とやらかしてくれたじゃないか。おかげでここに来るのにも随分と時間が掛かっちまった」

「死んだはずだぞ……。俺が殺させたはずだ!」

「人の使い方が甘いんだよ、お前は。まあ、父上もそれをお前に教えてこなかったから当然と言えば当然だがな。……なぁ、もういいだろ? 外は殆ど制圧し終わった。本隊がここに雪崩れ込んでくるのも時間の問題だ」

 ゲオルクの言葉は嘘ではないだろう。

 エレオノーラを王位継承者として認めず、ヘルフリートに付く者はいるだろうが、本来王位を継ぐべきであったゲオルクとなれば話は別だ。

 大多数の戦力が制圧されたこともあって、もうこれ以上戦いを続ける理由があるものは、もうヘルフリート以外にはいなかった。

「そうだ! 父上は俺に何も教えなかった。俺を王にせず、貴様の盾として使おうと育てたのだ!」

「それもマクシーネに吹き込まれたのか? 父上はお前にこの国の武を継いで欲しかっただけだ。エーリヒやモーリッツと共に、国を強くする要となるためにな」

「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 貴様等は俺を認めなかったのだ。俺を見下していたのだろう、俺のことを……!」

 溜息をついて、ゲオルクはエレオノーラを一度見る。

 それから改めて、ヘルフリートの方へと視線を向けた。

「気性が荒いお前が他の連中と上手くやっていけないのは仕方ないだろう。だが、それは別に悪いことじゃない。経験を積んで、立派な男になればそれでよかったのさ」

「うるさい! 俺は貴様の言葉などは聞かぬ! そうだ、ここで貴様とエレオノーラを消せば全ては元通りだ。俺が王となって、新たな時代を築く。母上の祈りは届いて、この国は強く新しく生まれ変わるのだ!」

「ヘルフリート! 俺の言葉を聞けよ! 兄弟だろうが!」

「だからこそ許せんのだ! 貴様は全てを持って生まれ、母は全てを奪われた末に俺が生まれた。その差はなんだ! 同じ命だろうが、同じ血だろうに!」

「……お前!」

 剣を握り、ヘルフリートが跳ねる。

 ゲオルクに襲い掛かろうとしたそれを、ヨハンの構えた銃が空中で撃ち落とす。

 衝撃を受けてもなお止まらないその身体は、目標を即座にヨハンに変更して、床を蹴って跳躍した。

「ゲオルク様、下がってください。あいつの相手は俺が」

「……すまん。勿体付けて来たくせに、言葉でも力でもあいつを止められなくて」

「……いえ」

 鎧の形状が変わっていく。

 人の姿を模した魔装兵から、まるで魔物のように進化していく。

 背中から生えた金属の触手が、ヨハンを周囲から絡め捕るべく伸びた。

 それに対して、取り出した短剣を放り投げる。

 それらは空中で意思を持ったかのように動き回り、互いを迎撃し合った。

「邪魔をするなぁ!」

 鎧の左腕が変化する。まるでそれ自体が剣のような形状へと。

「俺は殺さなければならんのだ! あの男を、ゲオルクを! 王になるために!」

「お前は!」

 次の魔法弾を装填し、発射する。

 着弾した個所から氷が爆ぜるように広がって、ヘルフリートの身体をその場に繋ぎ止める。

「王になるのだ! 国を富ませる、強く、何物にも負けない国とする! そうして初めて母上は救われる、救わなければならない。期待され続けたんだ、二十年間、俺が王位についてこの国を変えるその日を!」

「確かに国は変わった。お前が王になったその日から、破滅への道を突き進んでな!」

 ヨハンは無意識のうちに声を荒げていた。

 彼は国を滅茶苦茶にした。ヘルフリートの行いは到底許されることではない。

 ゲオルクがここに来た時点で、完全に彼は敗北者となった。もう、時代がヘルフリートの名を持ち上げることはない。

「ふざけたことを! エトランゼさえいなければそうはならなかっただろうが! 貴様達はまるで疫病だ。妹であるエレオノーラを狂わせて、この国の未来まで壊そうとしている!」

 彼を突き動かすのは、妄念だ。

 母から受け継いだ血と肉と、その怒り。

 それだけが今のヘルフリートを突き動かし、その憎しみは魔装兵を伝って更なる力を彼に与え続けている。

 氷を砕いたヘルフリートが目の前に迫る。

 叩きつけられた刃を、ヨハンは一枚の鏡で受け止めた。

 そこに加わった衝撃がそのまま跳ね返って、ヘルフリートの身体が宙を舞う。

「貴様は……!」

 触手が伸びて、ヨハンの身体を貫く。

 多少の傷は物ともせずに、ヨハンも空中にいるヘルフリートに銃撃を浴びせた。

「救世主にでもなったつもりなのか! 薄ら寒い男が、何の権利があってこの国を変えようというのだ!」

「救世主だと? だったらとっくに、もっと上手くやっている!」

 片腕の刃が外れて、回転しながらヨハンの元に飛ぶ。

 それを身体に受けながら、ヨハンは新たに装填した弾丸をヘルフリートに向けて撃った。

 鋭い弾丸は鎧に突き刺さり、内部から爆発する。

「ヨハン殿!」

 相当の痛手になったはずだが、ヨハンもまた直撃を受けて、腹部から激しく血が流れだしていた。

 目の前の男のことがだいたい判った。判ってしまった。

 ギギギと、鎧が立ち上がる。

 左腕は不気味に膨れ上がり、背中から伸びた鰭のような刃が何本も床に擦れては嫌な音を立てる。

 右手に握った剣もまたその形を失い、まるで禍々しい鈍器のような形へと変わっている。

 それはきっと、ヘルフリートの怒りによって姿を変えたのだろう。

 原理は判らないが、そこから感じる異形の王の力からヨハンにはそう思えた。

「お前は、単なる哀れな男だ。歪んだ愛を与えられて道を見失った、愚か者だ」

「知ったような口を叩くなあああぁぁぁ、エトランゼエエェェェェェェェ!」

 怪物と化したヘルフリートが迫る。

 真っ直ぐに突き込まれた尖った腕を、展開した疑似セレスティアルの壁が防ぐ。

 その守りも数秒とは持たないが、ヨハンが欲したのはたった一瞬の隙でよかった。

 その場から一歩下がって、銃を持っていない方の手から数枚の紙を放り投げた。

 符の形をしたそれは、外部から魔力を注ぎ込むことで魔法の力を発揮できるようにした特殊な道具だった。

 それらはローブの内側に流れる魔力を遠隔で受けて、起爆するようにできている。

 符から伸びた光の帯が、ヘルフリートの身体を絡め捕る。

「こんなものがぁ!」

「本命はこいつだ!」

 ほぼゼロ距離で、ヨハンはもう一枚の符を握っていた。

 鎧の胴体部分、先程徹甲榴弾が直撃したその個所に、開いている方の手で叩きつけるように貼り付け、起爆を念じる。

 ローブからの信号を受けて、その中に封じられた魔法が炸裂する。

 それは、白く眩い輝きが世界を照らす、破壊の魔法。

 掃滅の光による静寂。

 ある魔導師によってディヴァイン・パージと名付けられた圧倒的な裁きの白き炎。

 アーデルハイトがかつて使ったそれが、封じられていた。

 それは完全に再現されたわけではなく、あくまでも見様見真似。

 事実、その効果範囲は決して広くはない。もっとも、今の状況ではエレオノーラ達を巻き込まない分よかったと言えるが。

 そして圧縮された分、威力は彼女が放ったものよりも強力になっている。

 白い雷が爆ぜて、二人の姿が光の中に消えていく。

 疑似セレスティアルの盾も、その被害を抑えるためのものだ。とは言え、完全にその威力を殺しきることはできはしないが。

 真っ白な輝きの中、断続的な衝撃が二人を襲う。

 疑似とは言えセレスティアルの盾と、防御性能を高めたローブを以てしても、その破壊力は驚異的だった。

 光が消えた時、謁見の間の中央には大きな窪みが出来上がっていた。

 未だ周囲では白い光がまるで星のように瞬いている。

 よろける身体をどうにか立ち上がらせて、ヨハンは驚愕する。

「……まだ、戦えるのか?」

「……俺は負けん」

 何かが軋む音がする。

 不自然に進化した鎧の一部分が剥がれるように落ちて、床にぶつかって甲高い音を立てた。

 煙を上げながら、それでもヘルフリートは立っていた。

「俺は、王だぞ。王には誇りがある。この国を導く者としての気高い心が」

「……そうか、お前は」

 ヨハンは一つの過ちに気が付く。

 目の前に立つ男は、間違いなく王だ。

 何もかもが間違っていながらも、彼が王である事実だけは違えようがない。

 幼い頃から母の言葉を聞き、ずっと夢想し続けていたのだろう。

 自分が王となる日を。

 王となって、彼女の望みを叶えるその時を。

「まだ、足りぬ。王になっただけでは足りぬのだ。母上はまだ悲しんでいる。まだ母上の嘆きは消えない。だから」

 右手が剣を握る。

 左手はだらりと垂れ下がり、もう動くことはないのだろう。

 果たして内部にどれだけの痛手を与えたのだろうか。恐らくは普通ならば、もう動くこともできないほどの怪我を負っているはずなのに。

 それでもヘルフリートは立ち上がって来た。自らが王であるという誇りだけで。

「更に先へ行かねばならぬ。完璧な王となって、この国を母上が愛せる国にするのだ」

「……それは、間違っている」

 そう、思わず口にしていた。

 ヘルフリートの目的がそうであると知ってしまったために。

 母を悲しませないのならば、別の方法を取ればよかったのだ。流血が誰かの心を救うことなどありはしないのだから。

「俺が救世主なんかになれないように、お前の夢もここで終わる」

 確かに、彼は王であったのかも知れない。

 だが、やはりそれは夢であるしかなかった。

 何も知らない、怒りだけで生み出された王など、あってはならない。

 そんな存在は不幸を生み出すことしかしない。それは、ヨハンの目指す世界とは全く逆の方向にいる。

 例えばエトランゼならば、この世界に来てよかったと思えるような。

 そしてオルタリアの民もまた、共に前を向いて暮らせるような。

 そんな国を目指しているのだから。

「哀れな妄念は、ここで止める」

「エトランゼよ。尽く俺の邪魔をした愚物。だが、褒めてやる。貴様はこの俺の、ヘルフリートの最大の敵なんだからなぁ!」

「全く嬉しくはないが。そうだな、これで最後にしよう。今度こそ」

 銃に弾丸を装填する。

 次の一撃で全てを決めるつもりだった。

 その為の魔弾。純粋な破壊力を込めた一撃。

 その反動も大きく、その一発で仕留められなければ隙を晒すだろう。

 ましてや外すことも許されない。だとすればヨハンが取るべき方法は一つ。

 放り投げた符が爆ぜる。

 そこから生み出された火球が、幾つもヘルフリートに向けて発射された。

「小癪!」

 多方向から伸びるそれを斬り払い、また避けられないものは身体で受けて、ヘルフリートが突進する。

 ヨハンはそれを避けるように後退しながら、符や短剣をばら撒いては相手を牽制し続ける。

「怖気づいたか!」

 ヘルフリートが剣を放り投げる。

 咄嗟のことに回避し損ねたヨハンの足を、その刃が傷つけた。

 よろけそうになる身体をどうにか支えたが、その隙は大きかった。

「うおおおおああああああぁぁぁぁぁ!」

 右腕がヨハンの身体を打つ。

 最早剣を拾うことも煩わしいと、ただただ片腕でヨハンを掴み、放り投げ、踏みつけては殴りつける。

「死ね、死ね、死ね! 貴様が死ねばまだ終わらぬ。俺の王としての道は終わらぬのだ!」

 拳を叩きつけ、ヨハンの身体を掴みあげ、蹴りつける。

「貴様は、貴様が……!」

 振りかぶった拳が、自動的に動いた符による防壁によって防がれると、そこでようやくヘルフリートは傍に転がっていた剣を拾い上げた。

 一撃で防壁を叩き割り、ヨハンの首を目がけてそれを振り下ろす。

 剣を拾う瞬間、それこそがヨハンが探していた一瞬の隙だった。

 心臓が強く脈打つ。

 流れる血液がマグマのように熱く、全身を焼いていく。

 身体の中心にある魂が、鎖に縛られたままそれを脱しようとして軋み始める。

 魔法が発動した。

 ヨハンの身体が消えて、ヘルフリートの剣は床を打つ。

「なん……!」

「ヘルフリート、終わりだ。お前の夢は、この国の悪夢はここで潰える」

 ヘルフリートの背後にヨハンは立っていた。

 例え強力な魔法が使えない状態でも、短距離の転移魔法ならば不可能ではない。

 そう判断しての賭けだったが、見事に成功していた。

 その銃口は後頭部に突き付けられている。

 彼が振り返って反撃に出るよりも、ヨハンが引き金を引く方が早い。

 魔力光が爆ぜる。

 青白い光の衝撃に撃ち抜かれて、ヘルフリートの身体が吹き飛んで、謁見の間の紅い絨毯の上を転がった。

 ヨハンもまた反動を受け、それを堪える体力も残っていなかったために、持っていた銃が手から零れて明後日の方向へと飛んでいってしまった。

 やがてヘルフリートの身体が止まる。

 彼が最後に辿り付き、その身体を横たえる場所、それは皮肉にも王座の前だった。

「兄、上……」

「終わったのか?」

 エレオノーラとゲオルクが続けてそう口にする。

 ヨハンにはもう、頷く体力も残ってはいない。正直なところ、立っているだけで限界に近かった。

 先程までの戦いが嘘のような静寂が、謁見の間に満ちている。

 それは全ての戦いの終わりを告げる静けさのように思えた。

「ま、だ」

 だが、どうやらそれは違ったようだった。

 金属が砕ける音がする。

 限界を越えた魔装兵は装甲が砕け、ガラガラと絨毯の上に落ちていく。

 その中から現れたヘルフリートは、虚ろな目をして、それでもまだ落ちている剣を拾ってこちらに向けていた。

「……まだ動けるのか」

 恐ろしき執念だった。

 王になるために、そう願った母のために、命の限界を越えてその身体は突き動かされているのだろう。

「兄上ええぇぇぇぇ!」

 エレオノーラが叫んだ。

 腰から装飾された剣を抜いて、ヘルフリートの目の前へと飛び出す。

 突然のことにゲオルクもヨハンもそれを止めることはできなかった。

「エレオノーラ……! 穢れた血が、何故だ……? 何故、俺を……俺よりも……!」

 どうやら、立ち上がったのが最後の力だったようだ。

 もうヘルフリートには、目の前の女を斬るだけの力もない。

 二人は無言のまま睨み合う。

 まるでお互いの罪を糾弾するように。己の正しさを証明するように。

 永遠に続くとも思われたそれは、その場に現れた不意の乱入者によって終わりを告げた。

「ヘルフリート……」

 背後で声がして、一同はその方向を見る。

「マクシーネ!」

 痩せ細った女が一人、血塗れの姿でそこに立っていた。

 マクシーネはゲオルクに名前を呼ばれたことにも気付いていないのか、それを無視してよろよろと歩み続ける。

 その目には恐らく、ヘルフリートしか映っていないのだろう。

 ゲオルクの横を何も言わずに通り抜け、ヨハンのことも無視して進み続ける。

「……マクシーネ様……」

 その名を読んだエレオノーラにも、顔を向けることすらもしなかった。彼女が一歩身を引いて避けなければそのままぶつかっていたかも知れない。

「は、はうえ」

 幼い子供のような言い方で、ヘルフリートが彼女を呼ぶ。

 マクシーネは優しい表情を作ってそれに答えると、両腕を広げてその逞しい身体を抱きしめた。

 剣が床に落ちる。

 その手にはもう、何も握られてはいない。

 マクシーネもまたヘルフリートの身体を強く抱いたまま、二人は崩れ落ちるように絨毯の上に座り込んだ。

「よく、頑張ったわね。ヘルフリート、貴方は立派だった」

 それは紛れもなく、母の言葉だ。

 例えそれが間違っていたとしても、他者から糾弾されるようなことだとしても。

 母は彼を否定しない。それらは全て、ヘルフリートが彼女のために行ったことなのだから。

「私はもう疲れたわ。貴方もでしょう?」

「……はい。俺ももう、疲れたよ」

「休みましょうか?」

「うん。休みたい」

「ごめんなさいね、無理をさせてしまって」

「いいんだ。別にいい。でも一つだけ」

「なあに?」

「母様は、嬉しかった? 俺は必死で頑張ったけど、駄目だった。だけど、少しでも母様を救えたかな?」

「――ええ、そうね。嬉しかったわ、とても。それを気付けなかったのは、私が悪いの」

「そっか。なら、いいや」

「ヘルフリート。愛する私の子。神様なんてどうでもいい、ただ貴方に幸せになって欲しかった」

 ――いつからか、祈りなど消えていた。呪いとなったそれを言い訳にして、彼女が求めたのは我が子の栄光。

 ――それを覆い隠すために、その感情をすぐに理解することができなかったために、彼女は祈りと信仰を隠れ蓑にした。

 ――その結果が、今だった。祈りは届かず、声は伝わらず、歪んだまま突き進んだその行く末が。

「……そうなの?」

「ええ、そうよ。でも今は、少し眠りましょうか」

 抱きしめあったまま、二人は目を閉じる。

 この国を混乱に陥れた親子が見ていた夢は、それで終わりを告げた。

 何処かで何かが狂ってしまった哀れな二人。

 せめてもの救いは、今の彼等の表情が、この上なく幸せそうであることぐらいだろうか。

「……今度こそ、終わったのだな」

 エレオノーラが呟く。

「どうやら、そのようだな。……少しの間、二人にさせてやりたい」

 ヨハンの提案を、二人は受け入れる。

 ゲオルクがヨハンの肩を支えて、三人は謁見の間を後にした。

 外に出て扉を閉めてから、ゲオルクから離れてヨハンはその場に座り込む。正直なところ、もうこれ以上は立っているのすら辛かった。

「外に戦いが終わったことを伝えなきゃならんな」

「ゲオルク様。お願いします」

「王である俺を顎で使うのか? ……冗談だよ、あれだけのことをやってくれた男だ、これ以上無茶はさせられんさ」

「兄上、妾も」

 ついていこうとするエレオノーラを、ゲオルクの手が制する。

「何の役にも立てなかった情けない兄に、それは任せとけ。それよりもお前達はずっと一緒にやって来たんだろ? 立派な騎士に護ってもらってたみたいじゃないか。お礼のキスでもしてやりな」

 そう言って、ゲオルクは颯爽とその場を去っていった。

 後に残されたエレオノーラは何やらもじもじと視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したようにヨハンに向き直る。

「し、して欲しいか、キス?」

「……今はそんな気分じゃないな」

「そ、そうか。そうだな。うん、色々とあったわけだしな」

 それはヘルフリートのことだけではない。

 ヨハンの心中を察したのか、エレオノーラはそれ以上は何も言わない。

 ただ黙って、その隣に座って、力なく床に落ちているヨハンの手を握った。

 そのまま自分の膝の上に乗せて、更に力を込める。

「ずっと、妾の手を握ってくれていたな」

「走るのが遅かったからな」

「なんで憎まれ口を叩く。妾は今、そなたに感謝しているというのに。……本当に、ずっと、ずぅっと妾の手を掴んでくれていた手だ」

 ヨハン一瞬その言葉の意味が判らずに、隣にあるエレオノーラの横顔を覗く。

 その目は今を見ていない。出会ったころに思いを馳せていた。

「――そう言うことか」

「うむ、そうだぞ」

 出会ってからずっと、ヨハンはエレオノーラの手を握って来た。

 何度も離れそうになりながら、お互いの想いでそれを繋ぎ止めて。

 そしてそれは今日、ようやく実を結んだ。

 二人の出会いから始まった戦いは、今日ようやく終わりを告げたのだった。

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