第七節 呪いの果て
女は呪った。
この国を呪った、愛する男と最期を共にすることもできない運命を呪った。家族の命を奪ったエトランゼを呪った。
そして何よりも、この世界を呪った。
女は王に抱かれ、その傍らで呪詛を呟く。
焼け落ちたかつては家族と共に過ごした屋敷の跡地で涙を落とす。
その倉庫にあるものもまた国の財産として没収される。唯一残ったその血筋は女自身しかいないのだから、それが妾とは言え主である王の物となるのに異論を挟む者はなかった。
地下にある倉庫で、女は神への信仰の証である品物を片っ端から床や壁に叩きつける。
何が神だと。
何が大いなる父神だ。
何も救ってくれないではないか。
ただこの世界を昏迷に陥れて、そうして何も語らない神に対する信仰は反転し、呪いと化していた。
祈りの言葉は地に潰え、喉が枯れるまで呪いの声で叫ぶ。
女の手が祭壇に伸びる。
生前の父がこの家で最も価値のある、信仰の証と語って聞かせてくれたものだ。
女はそれを容赦なく叩き割る。もし父が言えればその行いに対して烈火の如く怒っただろうが、その父も最早いないのだから。
硝子のような薄い金属でできたそれを両手で掴んで、床に叩きつける。
一度で壊れなければ二度、三度と。
怒りをぶつけ、恨みを語りながら。
やがて、祭壇は見る影もなく破壊される。
「貴方の強い信仰と、裏切られた痛み。そしてそれでもなお神に縋ろうとするその痛々しい思い。それが私を呼びました」
声がした。
誰もいないはずのその場所に、誰かが立っている。
それは何処までも白く、白い、純白を纏った白とでも表現すべきだろうか。
その声色は男だが、美しい外見はまるで女にも見える。
それが、女に手を伸ばす。
「私の名は御使い。黎明のリーヴラ」
女は怒り狂い、男に爪を突き立てようとする。
あろうことかこの不埒者は、自らを御使いと語った。
父神エイス・イーリーネの使徒。エイスナハルの教えの中で最も高い位を持つ天の使者達。
その御使いの名を騙ることは、不敬に過ぎると。
「貴方はまだ神を信じています」
男の言葉にハッとして、女は固まった。
そうだ。神を呪うのならば、何故怒るのか。
その答えは自分の中にあった。
長年の生活で染みついた信仰は、この大地に彼女が生きる理由を定義してきたその教えは捨てようと思っても捨てられるものではない。
男はそれを全て見透かしているようにも見えた。
「神は貴方を裏切ってはいない。見捨ててもいない。その行いを、それだけの不幸にあってもなお心の奥にある信仰が、私を遣わしたのです」
じわりと、男の声が胸の中に染み渡る。
求めていたのはその言葉だったのかも知れない。
周囲の慰めの言葉でもなく、亡き領主の領土を巡る言い合いでもなく。
全てを失ってしまった自分を尊ぶための言葉。
これだけの不幸があるのだから、きっと叶えられるべき願いもあるのだと、女は自分に言い聞かせた。
「立ってください。私が、貴方の望みを叶える手伝いをしましょう」
女は御使いの手を取る。
自分こそが神に選ばれた、その試練を乗り越えるべき信徒だと言う確信の下に。
斯くしてそれから二十年以上の時が流れた。
女の呪いは御使いの威光を以てしても浄化されることはなく、オルタリアと言う国を流れ始める。
ヘルフリートが生まれ、女は誰もいない場所で語って聞かせる。
お前こそが王になるのだと。
例え父に選ばれなかったとしても誰がそれを否定したとしても、そうして見せると。
国とエトランゼに全てを奪われた女の呪いは、そうして育まれた。
一人の息子の中に種を撒き、やがてそれは芽吹いていく。
女は全てを手に入れる。この国を手に入れて、神に捧げる。
それこそが己の使命だと。それだけの試練を神はお与えになったのだと。
彼女の祈りが何をもたらすのか、その結果が出ようとしていた。
▽
そこは、小さな灯りだけが幾つかあるだけの薄暗い空間だった。
そこに今、崩れた天井から差し込む光によって、どうにかカナタは周囲の状況を確認することができた。
「……まだ、いる」
自分に対する落下の衝撃は、光の盾で防いだ。
対してあの深紅の鎧はその衝撃を逃がすこともできずに、床に無防備に叩きつけられたはずだった。
しかし、だからと言ってそう簡単に彼女が死んだとは思えない。
まだ服の下ではイアが小さく振動しているし、カナタの中にあるあの気配に対する敵意も消えていない。
イアがいなければ、また紅いセレスティアルで突撃していたかも知れないほどだ。
ばらばらと、瓦礫が動く音がした。
その方向に目を向けると、瓦礫の下からそれが姿を現す。
深紅の鎧は両手に剣を構え、カナタを睨んでいる。
「……やっぱり、まだ終わりじゃないよね」
「わたしは貴様を殺すのだ、エトランゼ。エトランゼエエェェェェェェ!」
「……女の人……?」
落下の衝撃で兜が割れて、顔の一部分が露出している。
そこから覗いていたのは、痩せ細った一人の女だった。
金色の髪を垂らし、元々は美人だったのだろうが今は生気がなく、面影を残すばかりで不気味さの方が際立っている。
血走った眼でカナタを睨み、真っ直ぐに突撃してくる。
邪魔をする瓦礫を吹き飛ばしながら、一直線に目の前まで接近して、剣を横薙ぎに払った。
「そんな一本調子の攻撃じゃ!」
身を屈めてそれを潜る。
横合いから光の剣で斬りつけるが、女は人間とは思えないほどの速度で切り返し、それを防いだ。
「そんなの……!」
今のタイミングは、トゥラベカですら防げないほどのものだ。もっとも彼女ならば、最初から隙を生むような攻撃を仕掛けても来ないが。
圧倒的な反応速度、怪力、魔法。
その鎧が女に与えているもの。
だが、それに果たして何の大小もないものだろうか。
以前、アーデルハイトが強力な魔法を使って、魔法力が空になった意識を失ったことがある。
ギフトだってそれは一緒だ。サアヤは連続治療の無理が祟ってオル・フェーズまで来ることができなかった。
だとすれば、女の顔が急激に痩せ細っているその理由は。
「その鎧を抜いで! それは多分、貴方の命を吸ってます!」
「だからどうしたと言うのだ! 私は命を賭けて貴様を殺す、憎きエトランゼを殺す、憎きこの国を殺す、そうして報われるのだ! 神は私の行いを見ているのだから、私に与えたもうた試練を、それが完遂されるその時を!」
「なに言ってるの……?」
火花を散らして、お互いの剣が弾きあう。
カナタはその隙に一歩退いたが、相手もそれは理解していた。
片手に生み出された火球が、至近距離でカナタを撃つ。
爆炎に包まれて小さな身体が吹き飛び、瓦礫の上に無防備に叩きつけられた。
「うぐっ……! 追撃が……!」
咄嗟に起き上がることができない。
一瞬の隙を晒したカナタは死を覚悟したが、追撃はやってこない。
「ぐ、おおお……! がはっ、ごほっ」
床に手をついて立ち上がり、カナタはその女を見やる。
激しく咳き込んだ女は、身体を折り曲げるようにして苦しんでいた。
口から吐きだした血が、床を濡らしていく。
それでもなお、女は態勢を整えると、悪鬼のような表情でカナタを睨みつける。
「鎧を脱いで! これ以上戦ったら、貴方は死んじゃうかも……!」
「……だから、どうしたというのだ?」
力強い一歩が、地下室の床を踏みしめる。
狭いその場所に、その音が嫌に反響した。
「私は死ぬかもしれない。しかし、私が死ぬ前にお前を殺す、上のエトランゼを殺す。そしてエレオノーラを殺す。この国は救われるのだ、新たな秩序が生み出される。神の救いの手によって!」
「……そんなの……!」
「貴様達エトランゼが消えればいい。忌まわしいこの国の王族も消えればいい。私を物としてしか見なかったあの前王は死んだのだ。神の意思によって」
「神の意思って……」
「そうだ! 新しい国ができる! 試練を乗り越えた先にある国家が、私が成し遂げる、私が創り上げる、私の血が、その国を導いていく!」
幽鬼のように揺らいだ後に、女は駆け出した。
先程と同じような直線的な動きだが、疲労困憊のカナタにとってはそれを上手く受け流すことも難しい。
目の前に迫る深紅の鎧。
そこから覗く、女の顔。
鬼気迫る表情で、女はカナタを睨んでいる。
その後ろに数多のエトランゼの幻影を見ながら。
「私の息子、ヘルフリート。王になれない哀れな子。だから私が貴方を王にする、私の手で、貴方に栄光をあげる。だから、貴様達は邪魔なのだ! 私の子が、私の血が、私の祈りが王座に付くために、死ねええぇぇぇぇぇぇぇ!」
「お、母、さん?」
光の盾を、剣が貫く。
斬撃はカナタの肩口に食い込み、そのまま心臓まで達する勢いで叩きつけられた。
だが、不自然にそれが止まる。
半ば動物的な本能で、カナタはセレスティアルをその腹に叩きつけて、お互いが吹き飛ぶような形で距離を取る。
血が流れる肩を抑えながら、カナタはまだ呆然として女の方を見つめていた。
「……なんで、ヘルフリートのお母さんが、どうしてこんなことしてるの?」
「ヘルフリート。この国に使い潰されてしまう哀れな私の子。そんなことはさせない。私が全部やってあげる。私の祈りが貴方を王へと押し上げる。私が試練を乗り越えて、そうしてその景色を見ましょう?」
誰に言うでもなく、女は呟いている。
口から流れる血の量は増えて、どう考えてもすぐに治療を受けなければ命が危ういというのに。
女は恍惚として表情で、それを受け入れていた。何かをひたすらに呟きながら、なおも剣を持ってカナタと対峙しようとする。
「私がやったのだ。五大貴族を信仰の下に従わせ、神への信心を持たぬあのゲオルクを殺すようにヘルフリートに訴えかけ、そうしてあの子が王になれるようにと。だが、何故だ! 何故王の血が残るのだ。ヘルフリートだけでよかったはずなのに、よりにもよってエトランゼの血を引いたあの穢れた娘が!」
「……貴方が何を言っても、ボクはエレオノーラ様に助けられました。迫害されてたエトランゼに希望をくれたのは間違いなくあの人です!」
「それはされるだろう! されるべきなのだ。ここは私達の住む大地だ。貴様達が暮らす世界ではない。なのに何故!」
「そんなの、こっちが聞きたいよ!」
心から、カナタは叫ぶ。
そんな理不尽もあっていいわけがないと。
こっちだってずっと必死だったのだ。生きていくために一生懸命で、明日のご飯すらも判らないような日々もあった。
それが当然であると言われて、黙っていられるわけがなかった。
「エレオノーラ様はエトランゼだけじゃなくて、色々な人に希望をくれた。イシュトナルって言う、エトランゼとこの国の人が一緒に暮らせる場所を作ってくれた」
「そんなものは必要ない!」
「必要だったんだってば!」
鬼気迫る叫びに、カナタは拙い言葉で対抗する。
きっと彼女を言い負かすことはできないだろう。命を捨ててまでそうする彼女の意思を曲げることが、たった十数年生きてきたカナタにできると思っていない。
でも、投げかけなければならない言葉がある。
それはカナタがカナタでいるために必要なものだ。
ディッカーが後を託してくれた、アーデルハイトが変わらないでいてくれと言ってくれたカナタ自身のために。
「ボクにはヘルフリートとエレオノーラ様、どっちが正しいのかは判りません。馬鹿だし、社会科のテストの点数も悪かったから」
「……何を言っている?」
「でも、貴方が間違ってるのは判る!」
「言ったな……! エトランゼの小娘如きが! 私の祈りを否定するのか!」
「本当にそれが祈りなら、お母さんなら!」
両者はぶつかり合う。
恐らくそれが最期になると感じていた。
もう、体力も限界に近い。
「そんな祈りがあるわけない! 誰も救わない祈りの言葉なんて!」
セレスティアルの色が変わる。
あの時と同じ青碧の輝きへ。
同じように、紅い鎧の姿も中にいる女の生命を吸って、更なる形へと変わっていこうとしていた。
背中から翼のような部位が付きだし、両手の爪は獣のように伸びて、掴めなくなった剣を取り落とす。
両肩からは鰭のような何かが伸びて、その鋭い戦端が床を削っていく。
その姿は、まるで異形の王の本体を彷彿とさせる。
この世界のものではない、決して存在を許してはならない何かが、カナタの目の前に誕生しつつあった。
「そう言う力とか、覚悟とか……。ヘルフリートのことを考える優しさとかを、別のことに使ってよ、もっと!」
例えば後にこの戦いが歴史として語られたとして。
エレオノーラとヘルフリート、どちらが正しい行いをしたと言われるのか、カナタには全く見当がつかない。
少なくとも、エレオノーラが完全に正しいわけではないのだろう。戦争が起こるというのはそう言うことだと、なんとなくではあるが理解した。
それでも、そうだとしても。
多くの命が失われた、大勢の人が涙を流した。
兄であるゲオルクを殺そうとして得たものが、正しいわけがない。
兄や妹を殺してまで何かを手に入れようとするその行いを、カナタは肯定することができなかった。
「ヘルフリートは、間違ってなど……!」
「間違ってなかったら、こんなことになってない! お母さんの貴方がちゃんと見てあげないから、間違ったことも判らないんじゃないの!」
「子供が生意気な口を利くなああぁぁぁぁ!」
青碧色の輝きは、カナタの両手の中で大剣となる。
突っ込んでくる彼女の爪を避けて、カナタは横薙ぎにそれを全力で叩きつけた。
「こんなものでええぇぇぇぇぇ!」
「これ以上、不幸な人を増やしてたまるもんかぁ!」
その鎧と、カナタの青碧の輝きがぶつかり合う。
しかし、その鎧と光の間を遮るように輝くものがあった。
異形の王が放った紅い光。
この世のものではない輝きが、カナタの剣を押し留めている。
それもまた、彼女の生命を吸って生み出された輝きだった。
「力が……足りない……!」
視界が揺らぐ。
意識を失うほどではないが、一瞬目の前に迫る女の顔がぶれた。
体力の限界が来た。
先程受けた一撃も充分に致命傷で、今も絶えず血は流れている。
カナタの手の中の光が潰える。
粒子となって弾けるように消えて、その手の中には何も残ってはいない。
一瞬呆然としたカナタに、鋭い両爪が上から迫った。
「私の、勝ちだああぁぁぁぁぁぁ!」
女の叫びは地下室中に轟いて、何度も反響してカナタの元へと戻って来た。
カナタにできることはじっと女を睨みつけることのみ。
自らの死が訪れるかも知れないその瞬間も、決して目を放すことはなかった。
貴方は間違っていると、訴え続ける。例え殺されても、彼女には目を覚ましてほしい。こんな戦いをやめて、ヘルフリートを正しい道へと導いてほしかった。
そうでなければ、余りにも悲しすぎるから。
彼女に勝利は訪れない。
両爪を振り上げた姿勢のまま、女は動かなかった。
その顔が安らかな表情をしているのは、きっと夢を見ているからだろう。
「……だから、言ったのに」
カナタと同じように、彼女にも限界が来た。
その身体が揺れて、カナタの身体を避けるようにして倒れ込む。
痛みが原因ではなく、それを見下ろすカナタは泣いていた。
そしてそのままカナタも同じように仰向けに倒れて、意識を手放した。
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