第三節 マクシーネ
オルタリアの王城に聳える塔。
その最上階で、リーヴラを呼ぶ声がする。
白い光が一瞬瞬いて、その声に応えるようにリーヴラはすぐにその場に参上した。
「お呼びでしょうか、マクシーネ様」
金色の髪を垂らして、顔に皺が目立ち始めた女は、その部屋の中の唯一の家具と言ってもいい寝台から身を起こして、神への祈りを捧げるための祭壇の前に跪いていた。
そうして少しの間、彼女が祈りを捧げ終えるのを待つ。
目を閉じて無言のままの時間が過ぎて、マクシーネは立ち上がるとその手に握っていた祈りのためのシンボル、小さな十字を象った祭具を差し出す。
「……これは、どういうことでしょうか?」
それは彼女が一度も手放すことがなかったものだ。たった一瞬だけの除いて、敬虔な祈りを捧げ続けたその女の魂とも呼べる道具。
「もう、私には必要ない」
やつれた姿で、何かに憑りつかれたような瞳はそのままに、驚くほどに穏やかな声でマクシーネはそう言った。
「それは、そう言う意味でしょう?」
リーヴラの視線が窓を見る。
そこから見える景色にはもう、城を覆う結界による大気の歪みはなく、聳え立つ巨人の姿もない。
この狭い、薄暗い部屋の中でそれだけがその女の憩いの時間だったはずだった。神に祈りを捧げている間だけが、彼女が穏やかな心を取り戻す時。
それを手放すことの意味は、人でなくなって長い時を過ぎたリーヴラには、理解することができなかった。
「私にはもう、祈りを捧げる資格はないのだ。いや、必要がなくなったというのが正しいか」
「私には意味が理解しかねます。現状を憂いているのならばご心配は要りません。この私、リーヴラがいる限りオルタリアに敗北はないと」
「……お前は、ここを去るつもりだろう? 考えてみればすぐに判る。神の使徒たる御使いが、たかが人間の争いに肩入れするはずもないということは」
言葉を失う。
それは真実だった。
リーヴラのやるべきことは既に終わっている。後に残されたこの国がどうなろうと、最早関係のない話。
問題は何故、狂ったこの女がそれを理解したのだと言うことだった。
――狂ってしまっているからこそ、同じ狂気を内包したリーヴラの心が理解出来てしまったのかも知れない。
「あれの準備は整っているか?」
「……はい。つつがなく」
「狭い部屋だな、ここは。これでは大人になった奴が尋ねるのを嫌がるのもよく判る」
女の体格のマクシーネが少し歩きまわることぐらいしかできない程度の広さしかないのがこの部屋だった。彼女はそこで長い間を暮らしていたのだが、まるでそれを今知ったかのような言葉だった。
「最期に願いがある、御使いよ」
「はい」
「あれの起動の手伝いを頼む。私一人では荷が重い」
「畏まりました」
彼女が言うのは、リーヴラがこの国に用意した最期の仕掛け。ヘルフリートが推し進めた新型魔装兵開発による結果の一つ。
しかし、今更そんなものでは戦況は覆ることはない。
彼等があの虚界の王を倒し、イグナシオを突破した時点で、この国に勝機はなくなっていた。
あの女の最期の時、朽ちかけた異形の王の肉体を操って竜のエトランゼを援護したのはリーヴラだが、それもそうすればイグナシオを倒しきれると確証できるほどの力があると判断したからだ。
それがヘルフリートに向いた今、抑えるだけの力はない。無論、リーヴラ本人が出れば話は別だが。
「この国のことだ。私と、ヘルフリートの国のことだ。天の力は借りぬ。最期は人の力でやって見せよう」
この世界に不確定要素がある以上、消耗するわけにはいかない。それに彼女がそう言っている以上、リーヴラがここでやるべきことはもうない。
立ち上がり、リーヴラの横を擦り抜けてマクシーネは行く。
そして振り返り、リーヴラの下に跪いた。
「感謝します、御使いよ。私の怒りを受け入れてくれたこと、私の呪いに裁きを下さなかったこと」
やはり何処までも、この女は狂っている。
リーヴラの行動を見れば判るはずなのだ、御使いは全能の者ではない。高潔なる神の僕などではないということぐらい。
悪性のウァラゼルが無垢なる悪意であるように。
魂魄のイグナシオが憎悪と混乱を振りまくように。
黎明のリーヴラもまた、それに準ずるものであると。
「これが私の最期の祈り。神に届けるには不遜すぎるこの祈りを、お前に捧げます」
狂った女の祈りが、狭い部屋の中で捧げられる。
それは神にではなく、暗躍してこの国を陥れた元凶と言うべき悪辣なる御使いに。
黎明のリーヴラは、それをただ黙って受け入れた。
▽
モーリッツの部隊が合流し、どうにか戦況を押し返しつつあるオル・フェーズ西門にも、その変化は訪れていた。
最前線で戦うトウヤは、それを如実に感じ取る。
何かがやってくる。先程まで戦っていた親衛隊よりももっと禍々しい何者かが。
所々に紅いスリットが入った黒い鎧。
一見すればそれは何度か交戦した経験のある魔装兵のように見えるが、身体の至る所に刻まれた紅い文様、そして前傾姿勢気味にこちらに向かうその姿は人と言うよりも獣を想起させる。
「何かが来る! さっきと違うのが!」
剣の一振りが、自軍の兵士を纏めて吹き飛ばす。
地面を蹴って跳躍したそれは、すぐ近くにいたトウヤを獲物と定めたのか、目の前に着地してその太い足で大地を踏み砕いた。
「坊主、こいつは!」
剣を振り上げたそれを、ラウレンツの槍が横から突き崩そうと伸びるが、身体をずらしてそれを回避すると、即座に反撃の剣が伸びる。
急いで槍を戻したラウレンツがそれを防ぎ、辺りに金属同士がぶつかる鈍い音が響き渡った。
「魔装兵みたいだけど、普通じゃない!」
「ああ、そりゃ!」
槍と剣が弾ける。
その隙を縫って懐に飛び込んだトウヤの炎が魔装兵の全身を包み込む。
一瞬、動きが鈍った隙にトウヤとラウレンツは距離を取るが、まだ今の一撃で仕留め切れてはいなかった。
「お、おい! あれはどういうことだ! 私はあんな奴は知らんぞ!」
少し後ろの方から、兵達を引き連れたモーリッツが苛立たしげに叫ぶ。
「危険だと思うなら下がっててくださいよ。モーリッツ殿」
「そうしたいのは山々だが! 今は一人でも戦力が欲しいところだろうに! ここで退けぬのが五大貴族の辛いところだよ」
「そりゃ、ご立派で」
再起動した魔装兵に、モーリッツが剣撃を叩き込む。
その小太りの身体からは想像できないほどに俊敏で、鋭い剣捌きに、トウヤは呆気にとられる。
「なにをしているエトランゼ! 私だけではこやつを倒すのは無理だぞ! さっさと援護しろ!」
「わ、判ってるよ!」
その偉そうな態度は伊達ではないということだろう。事実、彼が最前線にやって来たことで兵達も魔装兵を恐れずに立ち向かっている。上手く戦場をコントロールしていた。
トウヤの手から放たれた炎が地面を奔り、魔装兵を牽制する。
その隙に近付いたラウレンツが鋭い槍で以てして、頭部を打ち抜く。
相手が怯んだ隙にトウヤとモーリッツが限界まで距離を詰める。
炎を纏った剣と、モーリッツの持つ装飾剣が両側から魔装兵に襲い掛かった。
「こいつ、まだ!」
煩わしげに剣を横薙ぎに振るう魔装兵によって、二人の身体が弾き飛ばされる。
「まだ来るぞ!」
ラウレンツが悲鳴のような叫びをあげる。
別方向から同じ形の魔装兵が一騎、こちらに向かって突進してくるのが横目に見えた。
そちらの迎撃に出れば正面の敵にやられる。だからと言って一撃でとどめを刺す手段があるわけではない。
位置の関係で、その両方はトウヤを狙っていた。
「エトランゼ!」
モーリッツが叫ぶ。
意外にも心配してくれるものなんだなと、場違いな感想がトウヤの頭の中に浮かぶ。
黒い剣の一撃が、トウヤの剣を弾き飛ばす。
どうにか地面を転がって続く二撃目を避けたところで、横合いからもう一騎が参戦した。
「……くそっ、ここまでかよ」
咎人を断罪するような黒い魔剣が、何かによって受け止められた。
トウヤが恐る恐るその方向を見ると、その周囲に展開した光の壁によって、両側から迫るその凶刃が空中で制止している。
それは余程強固なものなのか、魔装兵二騎が一度刃を引いて再び叩きつけてもびくともしない。
「間に合った!」
すぐ傍から聞こえる高い声。
両手を掲げてその光の壁を広げる少女の姿がそこにあった。
「カナタ……?」
最初は、夢か幻かと思った。
一瞬はもう会えないことも覚悟したその姿が、今目の前にいる。
「久しぶり、トウヤ君」
壁が解除されて、光の剣になる。
その機会を狙っていた魔装兵の魔剣が、カナタに迫る。
驚くべきことに彼女は身体捌きだけでそれを回避すると、その手に持った魔剣の刀身をセレスティアルの刃で斬り落とす。
「やめないなら斬るから!」
鮮やかな太刀筋だった。
トウヤの知っているカナタのものとは違う、鋭い踏み込みからの一撃。
それが魔装兵の胴体部分を瞬時に切断し、空洞の鎧ががらんと地面に倒れていく。
「カナタ、もう一騎!」
立ち上がりながら叫ぶ。
「大丈夫」
カナタに向かったもう一騎の魔装兵を、横合いから何かが連続で襲う。
目には見えない速度で飛来したその弾丸に撃ち抜かれて、魔装兵は横倒しになって静かに機能を停止した。
「トウヤ。無事か?」
別に聞きたくもない男の声だった。
片手に大きな拳銃を握ったヨハンが、もう片方の手にこの国の王女の手を握って、トウヤの傍に近付いてくる。
「……あんたもかよ」
「不満か?」
「助かったよ」
短くそれだけ伝える。
「エレオノーラ様! ご無事でしたか!」
モーリッツが大声でそう言って、周囲の兵達がこの場に現れた王女の姿に色めきだつ。
「落ち着けお前等! まだ戦闘中だぞ!」
思わず武器を取り落としそうになっていた兵達は、ラウレンツにそう叱咤されてすぐに周囲の警戒に移る。
それが功を奏したのか、敵の増援を告げる声が即座に聞こえてきた。
「モーリッツ、苦労を掛けたな。妾は王城へ行く。兄様を止めるために」
「……はい」
モーリッツは頭を下げたまま答える。
トウヤは最初その理由が判らなかったが、エレオノーラは全て察していたらしく、表情を崩してその肩に手を乗せた。
「以前のことならば気に病むな。あの時はあれがお前の正義だったのだろう? 国を混乱させず、平穏を保つため、五大貴族としての役割を立派にこなして見せたその在り方。妾は尊敬する」
もう随分と昔のことのような気がして忘れていたが、モーリッツはヘルフリートの命を受けてエレオノーラの命を狙ったのだ。
その時にそれを助けたのが、カナタとトウヤだった。あの時はトウヤが横からカナタの命を救ったのだったが。
横目でカナタを見ると、二人のやり取りの意味に気付いていないのか、間抜けな顔でそれを眺めている。
「モーリッツ。この場を任せてよいか? 同胞との戦いは辛く苦しいものだが、それももう終わる。兄様を討ち、終わらせなければならない」
「ははっ! このモーリッツ、五大貴族の名誉に掛けまして、絶対にこの場を死守して見せましょう!」
「期待しているぞ。他の者達もだ。後少しの間だけでいい、妾に力を貸してくれ!」
その声には不思議な力があった。
先程まで未知なる敵との遭遇に不安が溢れていた心が、勇気に満たされていく。
「待たせた。ヨハン殿、カナタ、引き続き先導を頼む。弱き妾を導いてくれ」
二人は同時に頷き、前へを向く。
そこに立つ無数の魔装兵達を見ながら、怖じることなく。
「こりゃ、俺達も気張らなきゃならなくなったな、坊主」
ラウレンツが槍をくるりと回して、トウヤの隣に立つ。
カナタを先頭に、三人が駆けていく。
あんな小さな身体で、恐怖と戦って、彼女は道を切り開こうとしている。
ルー・シンの言葉通りだ。英雄は期間限定で終わりだった。
本当に必要とされる者達が来た。この国を変えようと立ち上がった彼女達が、今度は救うために走っている。
言われるまでもない。その役割は果たしてやるつもりだった。
「カナタ、ヨハン!」
二人の名を叫ぶ。
「露払いは任せろ! その代わり、絶対勝てよ! こんな戦いは、もう終わりにするんだ!」
トウヤのその声が号令代わりとなって、兵達が前進する。
目の前に立ち塞がる漆黒の魔装兵を恐れもせず、立ち向かう。
長く暗雲の中にあったが、ようやく全ての終わりが見えた。
後はそれに向かって邁進するだけ。彼等と同じように、前に向かってただひたすらに突き進む。
そのために兵達は征く。
己の死すらも恐れずに。誰にも知られぬ英雄が、後を託してそうして逝ったように。
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