八章 彼の夢の終わり(下)
第一節 女の見た夢
それは何処にでもある、よくある話だ。
この世界では珍しくもない、取るに足らない悲恋の物語。
美しい少女がいた。
彼女に恋をする貴族の青年がいた。
二人は純朴ながら確実に愛を育んで、政治には大きく関わらない地方貴族の生まれである故にお互いの想いを尊重する周囲の手助けもあって、きっと将来は結ばれて二つの家の懸け橋になるのだろうと、誰もがそう思っていた。
当然、その少女本人も。彼女こそが誰よりもそれを望んで、誰よりもそれを信じて、誰よりもその男を愛していた。
その男の伴侶になることと、神への祈りを捧げること、それしか必要ないと心から語れるほどに、信仰心に厚い少女だった。
だからこそ誰からも好かれ、欲のない彼女の心を美しく思い、彼女が信ずる神もまたその在り方を祝福している。
誰もがそう思っていた。そう願っていた。
だが、現実は醜くて、彼女の心ほどに美しくはない。
その国の王が彼女の美しさに目を付けた。
王は暴君ではない。しかし、それ故に彼の望みを断ることもできなかった。
王とはそう言うものだった。決して本人に悪意などなく、執政と言う多くの人の命を預かる激務の傍らに、ほんの小さな楽しみとしてその美しい女を求めただけのこと。
王にとっての『小さな楽しみ』が、それ以外の人々にとっては『大きな転換』となることを知らなかっただけの話だ。
家のために、家族のために。
少女は自らを捧げることを余儀なくされた。
悲しい別れを経験して、それでも彼女は王の前に泣くことは許されず、自らの運命を悲しみながら王の寵愛を受けた。
面白くもない、悲恋の物語。
ここで全てが終わってしまっていれば、それだけの話で済んでいただろう。
それから数年後、ある事件が起きた。
エトランゼ達の一斉蜂起。野心あるエトランゼが仲間を集め徒党を組んで、暴徒と化した。
それ自体はすぐに制圧されたが、彼等が最初に襲撃した場所は護りきれず甚大な被害を被った。
その際に滅びた二つの家がある。
彼女が生まれた家と、その傍にあった愛する男の家だ。
彼等は貴族と言うだけで目の敵にされ、徹底的にいたぶられ殺されたと聞く。
それを聞いた女は反転する。
神への祈りは呪いの言葉へと。
敬虔な心はこの国へと恨みへと。
何よりも彼女の心を狂わせる出来事があった。
第一王子ゲオルクが誕生し、難航していた跡継ぎの問題が解決されたのだった。
それは国としては喜ばしいことであった。
しかし、それから一年後、彼女の腹にも子供がいることが発覚する。
そうして彼女は、決して王になれない子を産むことになった。
――その子供の行く先は――。
▽
オル・フェーズ正門前。
眼前に広がるのは、天を突くような巨大な城壁。オルタリアの王都であるオル・フェーズが外敵からの侵入を防ぐために作り上げた鉄壁の威容。
東西南北の四方の入り口である巨大な門の前で、ルー・シンは腕を組んだまま部下達の報告を受け終えた。
「やはり、兵の報告では昨晩から親衛隊を名乗る連中の姿が見えないようですな」
その横に立つモーリッツは、話を聞いてふんと鼻を鳴らす。
ルー・シン達が今いるのは南門であり、大きな差ではないが位置としては最もイシュトナルに近い場所に当たるために、特に大きな警戒が敷いてあった場所だった。
既にここに来るまでにも散発的な戦いが起こり、背後に広がる草原や穀倉地帯は兵馬に踏み荒らされて無残な景色となっている。
「楽観はできまい。戦力を温存しているだけかも知れんからな」
「この状況で? それはないでしょう。手前がヘルフリートならば、なんとしてでもこの場を護り抜いて敵が疲弊するのを待つ。特に人間以上の耐久力を持ち、人ではない奴等はそれにはうってつけ。一番最初に消費するべき駒でしょうな」
仮に、あれらがヘルフリートの指示通りに動くならの話ではあるが。
「それにモーリッツ殿。あれを」
遠くの空に視線を向けると、陽炎のように揺らぎながら聳え立っていた巨人の姿がいつの間にか消えていた。
いつ消えたのかは定かではないが、それが親衛隊の消滅に関係しているのは間違いないと見ていい。
「それはいいとしても、親衛隊が消えたということは奴等にとっても余計な枷がなくなったということだ。これから兵共は死に物狂いで抵抗してくるぞ」
「でしょうな」
内部分裂しているとはいえ、オル・フェーズには相当数の兵隊が残っている。その数は大凡こちらの倍以上。ヘルフリートに忠誠を誓う者達や、家族を人質に取られて戦わされる者など理由は様々だが、共通していることが一つある。
「ここまで来たのならばこちらに膝を折ることはないでしょうな。……モーリッツ殿、もしやと思いますが説得などはできそうですかな?」
「嫌味な奴だな! 私は五大貴族だが、エーリヒ卿ほどの影響力はない!」
「僅かな可能性に掛けたまでです。ですが、少なくともこれで本格的な戦いができる」
「私の出番と言うわけだな」
小太りの男の腰に下げられた鞘から、見事な意匠の剣が輝く。
本人もエーリヒほどではないと認めているが、それでも五大貴族、兵を率いる才能も自らの腕も並ではない。
「モーリッツ殿は西門に回り、ラウレンツ殿を援護して頂きたい」
「西門? あちらは陽動に使うのではないのか?」
最初は、そう言う手筈になると説明していた。
「兵が息を吹き返せばこの軍で一番の戦上手はやはりラウレンツ殿になるでしょう。強きと強きを組み合わせて一息に敵を挫きます」
下手に戦力を分散するよりはそうやって敵の内部に食い込んでいく方が効果的であると、ルー・シンは判断する。
更に言うならばモーリッツもラウレンツも名の知れた貴族。彼等と戦うに当たり士気を落とす兵の数は多い。
その二人を同時に相手させることで、敵の腰を引けさせる作戦でもあった。
ヴェスターを初めとするエトランゼは個人で戦う分には強いが、その辺りの効果は期待できない。むしろ今この状況でヘルフリートに味方をする連中の中には、未だにエトランゼに国を乗っ取られると危惧している者もいる。
だから、ルー・シンは中央通りに集中させた戦力を囮に使うつもりでいた。勿論、ただ使い捨てるわけではないが。
「だが、いいのか? 私が西門に向かえばこちらの戦力は低下する。それこそ、殆ど兵など残らんぞ」
「ですから、できるだけ手早い行動を期待したい。手前一人では、兵一人と相討ちすら望めませんからな」
「賭けに出ると? 食えん男だ」
「物事に確実など、何処まで行ってもありません。手前等にできることはその確率を高めることだけ。現状打てる最善を打っているだけのこと」
「判った。私は行くが、貴様も死ぬなよ。そうなれば家に匿っているクリーゼルの娘に申し訳が立たんからな」
「努力はしましょう」
「口が減らん。私の馬を持て! 我が軍はこれより西門側に回り、ラウレンツを援護する!」
剣を掲げ、部下に引かせた馬に跨ったモーリッツが行く。
状況はこちらに傾いてきたが、未だ万全とは言い難い。
モーリッツとラウレンツの奮闘しだいではあるが、未だ敵が全ての手の内を見せてくれたとはルー・シンは考えていなかった。
だからこそ、モーリッツを行かせた。ラウレンツの部隊は歴戦の兵士も多いが、反面ここのところずっと戦い続けていたため疲弊も相当なものになっている。エトランゼの数を回せなかったこともあって、親衛隊の被害を一番に受けているのもそこだった。
そのため、これから先に現れる何か次第では一気に崩れる危険性がある。それを危惧しての増援だった。
「さて。これにて舞台は整えたぞ。このまま戦っても勝つことはできるが、オルタリアは滅びの道を免れぬ。卿等の到着が鍵となるのだ」
このままでは消耗戦になる。その果てに勝利することはできるだろうが、これ以上に王都を荒廃させてはその後に待っているのは傾いた国を支え切れず、滅びる未来だった。
だからこそ、彼等がやってくるはずの西門に戦力を充実させる必要がある。
この戦いを終わらせる者。終わらせることができる彼の王女と、それを守護する彼等の到着を信じて。
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