第九節 旅の終わり

 その光が消えてから、どれぐらいの時間が経っただろうか。

 動けるようになったサアヤの最優先で全力の治療を受けて、ヨハンはどうにか走れるぐらいには傷を回復させることができた。

 そうして異形の王の所為で荒野となった場所を必死で駆け回って、ようやくその場所に到着した。

 異形の王の肉体は朽ちて、その眷属と化したエトランゼも魔物達ももういない。

 辺りには静寂が立ち込めている。

 聞こえてくるのは、ヨハンの息遣いと足音だけ。

 いつの間にか空は暗くなり、星が出始めていた。

 もう、蒼穹は見えない。

 探し回って、いつの間にか傍にもう一つ、弱々しい呼吸音が聞こえて来ることに気付いた。

「イブキ!」

 地と泥に塗れて、人間としての原型もロクに保っていないような状態で。

 それでも彼女はどうにか、そこに仰向けに横たわっていた。

 その傍に屈みこんで、背中に手を当てて上半身を持ち上げる。

 微弱な呼吸を繰り返す彼女は、それで小さく目を開いて笑って見せてくれた。

「……遅い」

「イブキ……。待ってろ、すぐにサアヤを呼んで……」

 立ち上がろうとするヨハンのローブを、イブキの手が掴んで止める。

 それは多分、ヨハンにも判っていたことだ。

 きっと、彼女はもう助からない。ヨハンがここに来るまでの間無事だっただけでも奇跡のようなものだろう。

 ましてや、サアヤもギフトの連続使用で限界だった。

 二人の命を天秤に乗せることなど、できるはずがなかった。

「よーくん」

「なんだ?」

「倒したよ、あいつ」

「ああ。凄かったぞ。本当に、全盛期の俺よりもよほど強い」

「よーくんはもっと凄かったよ。だからさ」

 イブキが咳き込む。

 口から溢れた血が、頬に触れているヨハンの手を汚した。

「ずっと、後悔してた。あたしの所為で力を失っちゃったって」

「それは違う。それは、お前の所為じゃない」

「……うん。よーくんはそう言うよね。力、戻ってよかったね。ちょっとだけど」

 イブキの手が動く。

 ヨハンのローブの胸の辺りを弱々しく掴んだ。

「あのね、よーくん」

「なんだ?」

「あたしの全部、あげる。今度は血とか身体の一部だけじゃなくて、判んないけど、今ならできる気がするんだ」

 イブキの身体が光に包まれる。

 それはきっと、彼女が竜の力を持っているからできる芸当。

 その肉体を、魂を純粋な魔力へと変換して、ヨハンへと流し込んでいく。

「イブキ!」

「これで、一緒だよ。……よーくんの創るこの国の、この世界の未来……。一緒に」

 身体の先から、消失していく。

 光の粒子は一部がヨハンの周囲を舞い、大半は空へと昇って消えていく。

「イブキ……。言いたいことが沢山あるんだろう? 喋りたいことだってあるはずだ。……俺にはあるのに……!」

「……へへ。よーくん、泣いてる。不謹慎だけど、ちょっと嬉しいかも」

 自分でも気が付かなかった。

 アーデルハイトがいなくなった時も、涙を堪えることはできた。

 今は、何故かそれができない。どちらの存在が大きいという話ではなく。

 異形の王が消えたことで、心の中にあった妙な蓋が消えたようでもあった。

「よーくん」

 名前を呼ばれる。

 彼女だけが呼ぶ、一風変わった呼び名を。

「ここが本当の、あたし達の旅の終わり」

「だったら、また旅をすればいい。全部終わってから、また」

 静かにイブキは首を振る。

 もう限界だと、彼女は判っていた。

 ヨハンもまたそれは理解していたが、だらりと垂れ下がった、残った手を掴んで必死で訴える。

「旅は、終わらない」

「ありがと。嬉しい。ねえ、よーくん」

 ヨハンの目を見て、イブキは言う。

 彼女は今まさに命の灯が消えるとは思えないほどに、穏やかな表情をしていた。

「みんなが好きになれる場所を、創ってね」

 その言葉を最後に、イブキの身体は光になって消えた。

 彼女はああ言ったが、ヨハンの身体に変化は見られない。ただ、思っていたほどに空虚な気分ではないことだけが救いだった。

「……ヨハン殿」

 立ち上がって、その声がした方を振り返ると、エレオノーラが立っている。

 ヨハンの表情を見て、彼女は何を思ったのか両手を広げて迎え入れるような仕草をする。

「エレオノーラ?」

「抱きしめろ、ヨハン殿! その悲しみを、辛さを分けてくれ!」

「……残念だが、そんなことをしても伝わらないだろう。大丈夫、まだ戦える」

 その横を通り過ぎようとして、腕を取られる。

「そんな顔をして何が大丈夫か! 頼む、何かをさせてくれ、妾は弱いのだ。ヨハン殿に助けられ、そなたに辛い思いをさせ、そしてなおまだ頼ることしかできない」

「……でも、立ち止まる気はないだろう?」

「当たり前だ! だから……」

 優しくエレオノーラの頭の上に手を置く。

 彼女のその気持ちだけで充分だった。そんな人だから、ヨハンはエレオノーラを信ずることができる。

 イブキが願って託してくれた未来を創れるのは、きっと彼女しかいないのだから。

「そんなエレオノーラだから、大丈夫だ。まだ俺は戦える。ヘルフリートを倒して、終わりにしよう」

「……うむ! うむ、そうだ! そうだぞ、終わりにするのだ。ヨハン殿もカナタも絶対に生きて帰るぞ! そして、彼女に報告しよう、より良き未来を創ることを約束しよう!」

「なんでエレオノーラまで泣く」

 見れば、彼女の目からは大粒の涙が落ちている。

 イブキとは殆ど面識もない、エトランゼの英雄と言うことぐらいしか知らないはずなのに。

「そなたの涙がもう止まってしまったから。その分まで泣いているのだ……」

「それは助かる」

 その背を押して、味方の陣へと歩き出す。

 まだ戦いは終わっていない。むしろこれからが本番と言ってもいい。

「勝つぞ、ヨハン殿」

 涙声でそう言うエレオノーラに、一度だけ強く頷き返す。

「そうだな」

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