第九節 蒼穹の流星

 夢を見た。

 一瞬の、ほんの短い間。

 それでも不思議と、その時間は長く感じられた。

 異形の王が、あれほどの威容を誇った巨人の身体は見る影もなく崩れた。

 その残骸、グロテスクな腐りかけた肉に埋もれるようにして、イブキは空に手を伸ばした状態で目が覚めた。

「ゆ、め」

 唇が勝手に動く。

 呆れるほどに透き通る青空が、イブキの気持ちも知らずに視界の先に広がっている。

「……ああ。懐かしかった、なぁ」

 全ての始まりの日。

 多くの人が希望を失って、エトランゼ達はどうしようもない日々に絶望して。

 そんなの世の中が嫌で、変えてやろうと思った。

 今はもう、遠い日の思い出だ。

 結局のところそれは、イブキ自身がこの世界の閉塞感に嫌気が差したからに過ぎない。

 だからせめて暴れてやろうと、何か傷跡をこの世界に残してやろうとして行動しただけのことだ。

 でも、その中で不思議な出会いがあった。

 最強のエトランゼ。

 そう呼ばれていた青年は、退屈そうな表情で小さな家で時間を過ごしていた。

 イブキが知っている力を持つエトランゼは大抵、何処かで成功して地位を手に入れているか悪事を働いているかのどちらかだったので、彼のような人物は初めてだった。

 その疑問はすぐに解決した。彼は強すぎる。今まで出会ってきた強いと評されているエトランゼ達とは全く次元の違う力を持っていた。

 ――そんなことはイブキにはどうでもよかった。

 彼を誘う時、何と言っただろうか。

「この世界に来てよかったって、思おうよ」

 その言葉の後に、自分でも驚いたものだ。

 それがイブキの本音だった。理不尽だらけのこの世界に来てもなお、そうやって生きたいと願っていた。

 つまるところ、それは何かと理由を付けていただけのことだ。本当は、自分が楽しいことをしたかった、そして一緒に来た誰かにも馬鹿騒ぎをしてほしかった。

 理由と言えば、それだけのこと。

 彼等の旅は多くの人に希望を与え、いつしかエトランゼ達が帰還する方法を探す旅へと方針を変え始めた。

 別に理由なんて何でもよかった。ただ興味なさげな顔で、それでもイブキの無理難題に答えてくれる彼と一緒に旅を続ける理由があれば、それでよかった。

 そうして、彼等は到達する。

 一つの果て、旅の終わり。

 後に魂魄のイグナシオと名を知る女による、無残に終わらせられた旅。

「……そうだ、あたし」

 何をこんなところで無様に倒れているのか。

 それではあの時と同じじゃないか。仲間達を失い、大切な人から力を奪ってしまったあの悲劇の時と。

「まだ終わりじゃない」

 起き上がろうとすると、全身を痛みが貫く。

 もう立ち上がりたくないと、身体が訴えていた。

 それに鞭を討つ。今まで散々無茶をしてきたのに、今更なんだと。

 壊れてもいい、だからせめて今だけは更なる力を欲する。

 その求めは世界を伝わり、イブキに応える。

 背中から生えた翼が一層巨大になって広がる。

 その余波が大気を伝い、振動となって周囲の空気を揺さぶった。

 もう片目は潰れて見えない。左手は何処かに飛んでいった。

 脇腹からは今も出血が止まらない。だらだらと今も垂れる血は、鮮やかな赤ではなく濁っている。

 それでも、まだ動く。

 まだ前に進むことができる。

 先を行こうとする彼等に、道を切り開いてあげることができる。

 翼をはためかせて、イブキが飛び上がる。

 異形の王の残骸の上空で、視界の先にそれを捉えた。

 同時に、イブキの姿を発見したヨハンの姿も。

「……少しでも、力が戻ったんだね。よかった」

 まだ全部ではないが、イブキが奪ってしまったものの一部が戻ってくれた。

 それをやってくれたのは、ヨハンが力を失ってから縁を深めた人だ。

 彼女だけではない。ここにいるのは、ヨハンを支えて立ち上がらせているのは全て、力を持っている彼では決して出会うことができなかった人々だ。

 最強の双璧を成す二人では、強すぎたから。

 誰にも理解されず、理解することもできず、そうして盲目なままに破滅へと突き進んでしまった。

 でも、きっと今は違うのだろう。

 もうその心配はない。そして。

「あたしは、もう要らないね」

 嘘だ。

 それは強がりだ。

 本当はもっと一緒にいたい。彼の進む道を共に歩みたい。

 ――それは、叶いそうにもないから、そう口にした。そうやって納得したのだと自分を慰めるために。

 イブキの姿を見たイグナシオが、その顔に喜色を浮かべながら近付いてくる。

 相変わらず身に纏った光の帯は、その数十数本がいつでもイブキを貫けるようにその先端を向けている。

「まあ」

 両手をパン、と合わせる。

「わたくし、貴方を誤解していました。とても、とても素敵ですわ。あれだけ痛めつけられてもまだ立ち上がる。まだ死なず、生命の足掻きをわたくしに見せてくれる。苛立ちだけでなく今度はそのような感情をわたくしに抱かせてくれるのでしょう? 嗚呼、楽しみで楽しみで仕方ありません!」

「もう、アンタにあげるもんなんかないよ」

「それは残念です。でも、それでは不思議です。でしたら何故立ち上がって来たのです? いいえ、別段問題はないのですよ。どちらにしても皆様には死んでいただこうと思っていたところですので」

「ごめん。一個だけあるわ」

 イグナシオと、彼女が背負う蒼穹を睨む。

 思えば空を飛べるこの力があっても、全力で空を駆けたことなんてなかったような気がする。

 本当に、勿体ない。だからせめて今から飛ぼう。

 例え力を失って落ちていくだけだとしても、流星のように。

「あんたにくれてやるのは!」

 帯達が迎撃態勢を取る。

 一斉にイブキに殺到する光の帯を擦り抜け、また翼の衝撃で砕いて、イブキはイグナシオの目の前に飛び出した。

「ギフトが、また進化を……!」

 超至近距離でドラゴン・ブレスを放つ。

 破壊の吐息はイグナシオの身体を包みこみ、そのまま地上を焦がしていくが、致命傷に放っていない。

 それでも、イブキの全霊を込めた一撃はイグナシオの強固なセレスティアルの壁に歪を生んだ。

「この、拳だアアァァァァァァァぁ!」

 世界が揺れる。

 光の壁にぶつかった竜の拳が生み出すエネルギーはその中に納まりきれず、辺りへ拡散していく。

 空中でぶつかり合っているはずなのに伝番する揺らぎは地面を砕き、空間すらも歪ませていく。

「この、力……!」

 イグナシオが目を見開く。

 それは明らかな驚愕。

 多分、今の力を発揮したイグナシオのセレスティアルが打ち破られるとは、想像もしていなかったのだろう。

 極光の壁が割れる。

 多重に重なった分厚い氷のようなそれを突き破り、イブキの拳が迫る。

 その身体を捉えるまで、後一センチ。平時ならばその距離を詰めるのに何の苦労もあるはずがない。

 だと言うのに、それが余りにも遠い。

「まだ、足りないの……?」

「残念でしたね」

 背後から光の帯が、イブキの身体を刺し貫く。

 そのまま空中で串刺しにするように持ちあげて、身体の自由を奪った。

 潰れた果物の果汁が漏れるように、イブキからまた大量の血が流れて落ちていく。

 駄目なのか。

 命を賭けてすら、届かない。

 後はもう、打つ手はなく彼女に蹂躙されるしかない。自分の所為で奪わせて、最後にその罪滅ぼしもできないなんて。

 そんなの嫌だ。

 何でもいい、力を貸してほしい。

 命なんてくれてやるから、まだ力が眠っているから目覚めろ。

 神様がいるのなら祈ろう、あの異形でもいい。

 目の前の女を倒す力が欲しい。

 たった一瞬を、魂を賭けて願う。

 そのために今、生命を燃やしているのだから。

 その願いが通じたわけではないのだろうが。

 何かが、イブキの横を猛スピードで通過していった。

 イグナシオに顔を向けると、彼女の表情が驚愕に染まっている。

 真横を見れば通り過ぎていったのは、異形の王から伸びる一本の触手だった。

 人間の胴体の半分ほどの太さの触手が、その尖った先端をイグナシオの身体にめり込ませている。

「はっ……? 何故、異形の王が……? 彼はもう、死んだはず」

 声と共に、イグナシオの口から血が零れた。

 間違いなく、それは致命傷になっている。

 何故そうなったのか、果たしてそれが本当にイブキの味方をして行われたことなのか。

 そんなことはどうでもよかった。

 無理矢理に、身体ごと引き千切るように光の拘束を解く。部位は腕の一本が残っていればいい、それだけで充分だ。

「リー、ヴラ……。なるほど、わたくしは……邪魔だと、そう言うこと……」

「イグナシオ……!」

 彼女の目には、イブキの姿は入っていなかったようだ。

 だから、急に目の前に現れた半死人に、反応することができなかった。

 後、やることは一つだけ。

 命ごと身体の魔力を、竜の力を全て燃やし尽くして叩きつける。

 刹那、イブキの視線が地上を見る。

 まず、想いを寄せていた彼を見る。

 次に、いけすかない女を。

 最後に、殆ど喋れなかった一人の少女を。

 きっと彼女がヨハンを変えてくれた。手を引いて立ち上がらせてくれた。

 それが、ほんの少しだけ悔しかったが、同時に後を託せる気がした。

「イグナシオ、これで終わり。あたしと一緒に、この世界から去れええぇぇぇぇぇ!」

 突き刺さったままのオブシディアンの剣の柄を持ち、捻じり込む。

 苦痛にイグナシオが動きを止めたその隙に、全てを込めた一撃を叩き込んだ。

 生命すらも燃やし尽くす。

 二人の身体はその場に留まることはなく、イブキに押し出されるままに長い距離を滑空するように落下していく。

 その姿はまさに、燃え尽きながら地上へと落ちる流星のようだった。

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