第五節 虚ろなる瞳
周囲を徘徊する、エトランゼであった泥のような生き物をヨハンが拳銃で撃ち抜く。
頭に当たる部分に風穴が空いたそれは、身体を保つことができなくなって地面に溶けるように倒れていく。
同じようにヨハンの傍でオールフィッシュを構えるクラウディアが、掃射で纏めて数匹を蹴散らしていく。
景気の良い乱射、そして的は確かに蜂の巣のようになって沈んでいくというのに、クラウディアの表情は焦りの色がまざまざと浮かんでいる。
それは当然、離れたところで人外の戦いを繰り広げている親友を心配してのことでもあるが、もう一つ、決定的なものがある。
「よっちゃん! キリがないよ!」
たまらず、クラウディアが叫んだ。
「判ってる……!」
片手に持った拳銃で、傍に近付いた異形の頭を撃ち抜いていく。
倒れ行くその間に覗くその人物を見て、ヨハンの胸の中で何かが騒めく。
あれを倒さなければならない。あれらは、この世界に在ってはならないものだと。
だと言うのに、引き金が引けない。無防備に立つ彼女を害することが、未だにヨハンにはできないでいた。
「……サアヤ」
無表情にこちらを見つめる彼女の瞳には、何も映っていない。だと言うのに彼女から溢れる癒しの輝きが、倒れた異形達を即座に再生させて再び戦列へと舞い戻らせているのだった。
ヨハンとクラウディア、そしてその後ろに控えるイシュトナルの別働隊も隊列を組んで異形を押し留めてはいるが、幾ら倒しても蘇るそれらを相手にしていても埒が明かない。
今はまだいい。決して敵の戦力は多くはない。どうにか犠牲も少なく押し留められている状況だ。
だが、いずれは疲労によって押し切られる。そうでなくても、一刻も早くイブキ達の援護に向かわなくてはならないのだから。
決断の時は迫っていた。
打ち倒された幾つもの異形を再び立ち上がらせながら、サアヤの無機質な瞳がヨハンを見る。
強く唇を噛んで、ヨハンは拳銃を握る。
あげようとしたその手に、柔らかいものが触れた。
クラウディアがヨハンを押し留め、残った片手でオールフィッシュの先端をサアヤに向けている。
その間には異形達が立ち塞がっているが、全力で乱射すればそれごとサアヤのことを薙ぎ払うこともできるだろう。
「よっちゃん。辛いならアタシがやる。それでアタシのこと恨んでもいいし、憎んでもいい。でも、よっちゃんが死ぬのは嫌だから」
「……クラウディア。いや」
その言葉で目が覚めた。
何を迷っていたのだと、自分を叱咤する。
こんなところまで来た理由をもう忘れてしまったというのだろうか。たった一つの困難が立ち塞がったところで。
そうじゃない。
ヨハンは絶望するために、ここで死ぬため来たわけではない。
「全軍」
号令を掛ける。
言ってしまえばもう後戻りはできない。目の前に聳える巨人を倒すまで、イシュトナルの軍勢が止まることはないだろう。
だが、それでいい。多くの人の協力で切り開かれた道を、ヨハンの迷いで塞いでしまうわけにはいかないのだから。
「進っ……!」
『漸ク動ケルヨウニナッタトイウノニ』
何かが身体の内側を撫でる感触があった。
頭の中に響いた声が、そのまま全身を内側から削り取るかのような痛みになって身体の中を迸る。
「なに、これ」
目を見開いて、クラウディアが一歩後退する。
それはあの黒き尖兵を見たときと同じだ。原初の恐怖が、勇猛な彼女すらも怯えさせてしまっている。
その根源、壊れた楽器を無理矢理に鳴らし、狂った演奏会にでも流れてそうな悍ましい音に、全身が粟立つ。
この場でそれを耐えたのはヨハンだけだった。
クラウディアはオールフィッシュを取り落としてヨハンの背に隠れ、進もうとしていた兵達やエトランゼすらも武器を捨ててその場に釘付けになっていた。
『楽シイ余興ヲ台無シニシテモラッテハ困ルナ』
それは、折り重なった巨人の触手の影から姿を現す。
この世のものとは思えない音を放つその正体を見て、ヨハンは絶句する。
最悪の事態を想定していなかったわけではない。
サアヤ達が無事でなかった可能性も、頭の中には入っていた。
だが、ここまでか。
こうまでの事態を作り上げるほどの悪辣さが敵はあるのだと、それを予想できなかった自分に嫌気がさす。
黒い甲殻のような鎧を身体に纏い、その肌は白く、死人のよう。
爛々と輝く眼は紅く、それが忌むべきものであると告げている。
しかし、その姿は美しい。
長い黒髪が風に靡く。
美貌を讃えられることもあるその容姿は、例え色を失っても少しも欠けることはない。
ただ、その中身はもう違う。
恐らく、彼女はいない。
ヨハンと一緒に歩んだ彼女の身体、その中にいるのは一匹の獣だ。
だが、それでも。
その名を呼ばずにはいられなかった。何かが起こるわけはないと判っているのに、絶望の中にある小さな希望を捨てきることができなかった。
「……エレオノーラ」
『マダ我ヲソノ名デ呼ブカ。ツクヅク哀レナ生キ物ダ』
その怪物は歩いてくる。
ひょいと折り重なった触手を乗り越えて、異形達の群れの真ん中、サアヤの隣に立って嘲るような表情でヨハンを見た。
「貴様は、なんだ?」
拳銃を構えながら、ヨハンはもう片方の手で胸の辺りを抑える。
それを目の前にして、鼓動が抑えられない。
あの巨人を見た時と同じような破壊衝動とでも呼ぶべき波濤が、無意識に引き金に指を掛けさせていた。
『ヤハリ。ヤハリ貴様カ。我ノ前ニ立チ塞ガルノハ』
「どういうことだ?」
『ソノ反応……。ナルホド。貴様ハ前回ノ貴様トハ別人ト言ウコトカ? 確カニ、忌々シイ純化シタ力ハ消エタヨウダガ』
目の前の、エレオノーラの中に入っている何かは、ヨハンのことを知っている。そう言う口ぶりだ。
しかし、それはおかしい。
知っているわけがない。例え記憶がなかったとしてもヨハンはエトランゼだ。
こんな奴等は知らない。エトランゼがこんな連中と戦った記録など、聞いたことがない。
そう自分に言い聞かせる。今この状況はそんな情報すらも雑音でしかない。
例え目の前のそれとどのような因縁があろうと、ヨハンがやるべきことは一つしかないのだから。
「お前は、あれなのか? あれの中にいたのがお前と言うことか?」
彼女の後ろに聳える巨人を視線で指す。それは生気なく佇むだけで、今この状態になっても動く気配もなかった。
『ソウ言ウコトニナルナ』
「何のために人を殺す? 共存の道があるのなら」
『フハハハハハッ』
ヨハンの提案を、それは一笑に付す。万に一つの可能性を掛けてのことだったがやはり無駄だった。
『馬鹿ナコトヲ』
「知性があるのなら、話が通じることもあるはずだ」
『ソレハ大キナ間違イダ。例エ知性ガアッタトコロデ、我等ハソレニハ頼ラナイ。我等ハ強ク、神ニ等シキ虚界ノ力ヲ持ツ者。故ニ人ト同ジ理ニ在ラズ。コウシテ貴様ト戯レヲシテイルノハ、我ノ器トナッタコノ人間ノ力ニ過ギナイ』
「器の力……? そうか、エレオノーラは」
第二世代のエトランゼ。
ベルセルラーデやカナタがオル・フェーズで出会った子供と同じ、父か母にエトランゼを持つ者。
その力は通常ならば目覚めることはないが、何らかの要因でエトランゼとしてのギフトを得ることがある。
エレオノーラの場合は、その身体を支配されたことが切っ掛けとなったということだろう。
『何故殺スカ。ソレモ愚問。人ヲ殺シ、世界ニ君臨スル、ソレコソガ我等ガ目的ニシテ絶対ノ摂理。ソレヲツマラヌカラトクダラン理由デ否定シタノハ他ナラヌコノ世界ダ』
「摂理だと……?」
それは、確かにそう言った。
当然にそう在るべき流れだと、異形の王は語る。
確かに、それはある意味では正しいのかも知れない。
だからこそこの世界の人は奴等に恐怖を感じる。絶対に勝てぬものと判っているから、戦うことすらも避けようとする。
だからと言って、ヨハンがここで殺されてやる理由もない。
隣で怯えるクラウディアを見て、それは正しいことだと確信する。
例え、その身体ごと破壊することになったとしても。
『天ノ僕ハ面白イ余興ヲ用意シテクレタ。本来ナラバ相容レヌ我等デハアルガ、御使イモ長キ時ヲ経テ変ワッタト言ウコトカ。我ガ本ハ強靭ナ肉体ダガ、忌マワシキ貴様達ニ封印サレタ影響デ本来ノ力ヲ発揮スルコトハデキナイ。ナラバト、代ワリニコノ肉体ヲ与エラレタ』
やはり、その後ろに聳える巨人は最早ただのハリボテ。
クラウディアの狙撃によって破壊された跡は完全に修復しているようだが、そこに魂はない。抜け殻にも等しい物体と化しているのだろう。
『脆イトイウ欠点モアルガ』
そう言って、異形の王は自らの片腕を掴んで、引き千切る。
「なにを……!」
ぽいと放り投げたエレオノーラの細腕が、ヨハンの足元に転がった。
彼の行動の真意を問う前に、サアヤその前に傅くように立ち、手を触れる。
そこから放たれたギフトの光で、瞬く間にエレオノーラの腕は元の形に戻って行った。
『コノ通リダ。本来ナラバ来訪者共ノ魂ヲ喰ライ我ガ肉体ヲ完全ニシタカッタノダガ……。魂ノ量ガ足リヌ。ダガ』
エレオノーラの身体の、その目が細まってヨハンを見る。
舐めるような、妖艶とも言えるその視線に、ヨハンは無意識に一歩後退っていた。
『貴様ノ魂ガアレバ、丁度ヨサソウダナ。貴様ヲ殺シ、ソレヲ喰ラウコトデ我ガ肉体ノ再誕ヲ祝ウ儀式トシヨウ』
エレオノーラが前進する。
それに合わせて周囲の異形もまた、進軍を開始した。
ヨハンの後ろに立っていたクラウディアだったが、彼女が傍に来ることに耐えられなくなったのか、ローブから手を離して逃げるように後退る。
エレオノーラのギフト。
恐らくは声を伝えるそれが、心の中に直接注ぎ込んでくる声は恐らく呪詛。
目の前の異形達が存在しているだけで放たれる呪いの声が、まるで万力で絞めるように心を締め上げて破壊しようとする。
それから必死で逃げようとすることを、ヨハンは止めることはできなかった。
『戦エルノハ貴様一人ノヨウダガ?』
ヨハンの頭の中で、幾つもの選択肢が生まれて一瞬のうちに消えていく。
撤退して作戦を立て直す?
否、それは現実的ではない。ヨハン達だけならば逃げることはできるかも知れないが、イグナシオと戦っているイブキとラニーニャは間違いなく死ぬ。
彼女達がイグナシオを倒すまで時間を稼ぐのも現実的な話ではない。むしろ本来ならば、こちらが早く片付けて援護に向かわなければならないような相手だ。
それに、仮にオル・フェーズに向かった本隊と合流したところで意味はない。理由は判らないが、異形の王を前にして立っていられるのはヨハンだけだろう。
ならば、取るべき道は一つ。
銃を構えて、武装を展開する。
ローブに刻まれた文字がヨハンの身体にまで伝搬し、特徴的な文様となって青白い光を放つ。
「武装、展開」
戦うしかない。
どうにかサアヤの動きを止めて、エレオノーラを解放する。
例え殺すことになったとしても。
『イイ顔ダ。コウシテ無力ニナッタ貴様ヲ傍デ見テミレバ、悪クハナイ』
「余裕は足元を救われるぞ、化け物」
単なる虚勢を、エレオノーラの姿のそれは笑い飛ばす。
彼の放つ、泥を纏った人間のような軍勢がヨハンの前に立ちはだかった。
そしてその背後からは、異形の王の掌に収束する紅い光。
それがヨハンを害するものであると判断するのは容易い。
『天ノ光ノ模倣ニ過ギヌガ、貴様ヲ殺スノニハ充分ダ』
襲い掛かって来た異形を、銃で撃ち抜く。
伸びてきた泥が身体に纏わりついて、動きが鈍る。
間違いなく、それらはヨハンの動きを留めるように攻撃してきていた。止めを刺すという最上の余興を、彼等の王に味合わせるために。
異形の伸ばした泥が、ヨハンの腕に絡み付く。
ローブの袖から展開した浮遊するダガーがそれを断ち切るが、僅かに間に合わない。
『死ネ』
「絶、対」
声が交じる。
悍ましい異形の王の声に交じって聞こえてきたのは、幼さを残した高い少女のソプラノ。
ヨハンの前に飛び込んだ小さな影は、そこに全くの恐れを見せることもなく両手を前に付きだす。
そこから広がった眩い極光が、紅い輝きを弾いて霧散させ、消滅させる。
彼女はそこに立っていた。
果たして何処から飛んできたのか、身体に纏った加速のための極光を解き放ち、いつもと変わらない姿で顔だけを後ろに向けている。
余りにも突然な登場に驚いたのは異形の王だけではない。ヨハンもまた呆然と、彼女の名を呼ぶ。
「カナタ……?」
「ヨハンさん。勝手にいなくなってごめん、それから遅れてごめん。後、えっと……色々と纏めて、ごめん」
彼女にも、後ろに立つヨハン達にも一切の被害はない。
『貴様』
その目が見開かれる。
紅い瞳が真っ直ぐにカナタを睨みつけた。
『貴様、貴様、貴様! キサマキサマキサマキサマキサマキサマキサマキサマァ!』
「え、なに? あれエレオノーラ様……じゃないみたいだね」
様子の変わったエレオノーラと、その横に立つサアヤを見てカナタは状況をなんとなく理解したようだった。
だが、あの異形の王の取り乱し用は何なのだろうか。
その顔に浮かんでいるのは怒り。エレオノーラのギフトによって響く声に、確かなそれが滲んでいる。
『死ンダト思ッテイタノダガナ。貴様ハ、確カニ死ンダハズダ。我等ガ同胞ヲ数エ切レズ殺シタ者。忌マワシキ輝キノ主。何故、貴様ガ生キテイル。イイヤ、ソンナコトハドウデモイイ。ナラバコノ手デ引キ裂イテ、今度コソ蘇ラヌヨウニスルマデノコト』
その怒りの声に呼応するように、泥の異形達が一斉にカナタへと殺到する。
「邪魔!」
しかし、カナタはそれを意に介さない。
白い極光の剣を伸ばして、左右から迫るそれらを一瞬で斬り捨てた。
「なんかボクのこと怒ってるみたいだけど……。人違い、だよね?」
「……多分な」
「うん。そうだよね。きっとそう」
自分に言い聞かせるように、カナタは頷く。
彼女もヨハンも薄々は感じている。それは人違いなどではない。
仮にカナタでなかったとしても、それに関係する何かであることに違いはないだろう。
ただ、同様に二人の中に共通していることが一つ。
今は、自分達のことを考えている時ではない。自分探しなど、後で幾らでもやればいい。
「じゃあ、ボクがエレオノーラ様を引きつけるから。ヨハンさんはサアヤさんを戻してね」
「……戻す?」
「そうだよ? ヨハンさんがサアヤさんを戻して、それからエレオノーラ様も元に戻す。それからイグナシオを倒して、解決でしょ?」
何でもないことにように、彼女は言う。
まるでそうするのが当然だと言わんばかりに。
「そう言うのはヨハンさんに任せたから。ね?」
「――そうだな」
一言、そう返事を返す。
のんびりと喋っていられるのはここまでのようだった。
異形の王の放つ光が、その仲間達である泥を薙ぎ払いながらヨハン達に迫る。
カナタはセレスティアルの剣でそれを斬り裂くように薙ぎ払い、そのまま泥の横を擦り抜けて異形の王に迫る。
二つの輝きがぶつかり合い、辺りを余波が襲う。
「……いつの間にあんな芸当が」
以前ならば、セレスティアルを盾か壁にして防いでいたはずだった。
それを器用に、一瞬で反応して剣で斬り伏せて見せたその技量はヨハンの知っているカナとは違う。
ほんの僅かではあるが、成長していた。果たして何処の誰に鍛えてもらったのかは知らないが。
そうして、彼女が戻って来たこと、姿を消していた時間も決して諦めてはいなかったこと。
ずっと前に進み続けてくれていたことが、ヨハンに力をくれる。
ならば、自分も前に進むしかない。カナタが切り開いてくれた道を戻るようなことがあっては、申し訳が立たない。
泥の群れの奥、虚ろな瞳でヨハンを見る人がいる。
或いは彼女は、物言わぬ人形となってさえヨハンに助けを求めているようにも見えた。
「すまん、サアヤ。一瞬でもお前を諦めそうになった」
帰ってくる言葉はない。
「助ける。だから少しの間だけ、待っていてくれ」
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