第四節 銀の御使い

 翌朝、ヨハン率いる別動隊は巨人の足元にまで侵攻を開始する。

 元は広い草原が広がっていたその地は、巨人に近付くにつれて草木のない荒野のような地面が淡々と広がっていた。

 ヨハンを先頭とした遠距離武器を主体とした部隊は、既に巨人を射程に抑えるだけの距離にまで近付いてきている。

 しかし、未だに敵の姿はない。オルタリアの兵はおろか魔物の影すらもなかった。

 不審に思ったまま、部隊は足並みを揃えて巨人のすぐ傍まで接近していく。

 巨人の足から伸びた無数の触手が地面に這い、まるで木の根のようにあちこちに波打つように根差している。

 石灰のような色に、血の赤や緑が入り混じった不気味な太い触手。丸太のようなそれに腰か掛けるその姿を見て、ヨハンは全軍に停止命令を出す。

 優雅な仕草で、彼女はそこに座っていた。

 黒い修道服。ヴェールからはみ出した緩やかに伸びる銀色の髪。

 見た目麗しいその女は、愁いを帯びたような顔で遠くを見つめている。

 そうしてヨハン達を見るや、待ち合わせに恋人が来たかのように顔を綻ばせて、そこからひょいと飛び降りた。

 一見すれば可愛らしい、たったそれだけの仕草。

 足元に伸びる触手を踏み越えてこちらに歩み寄るその小柄な影を見て、先頭を歩くヨハン達は一斉に警戒を強めた。

 それが、人ではないことはもう知っている。

 人知を超えた者、御使い。

 その中でも指折りの怪物であることを、ヨハン達は嫌と言うほどに思い知っている。

「まあ。来ていただけましたのですか!」

 ぽんと両手を叩き。

 小動物のように小首を傾げて、彼女はそう言う。

 まさか、今更騙すような意図もない。

 そう言うことをする女だ。

 何でもないことのように人を殺し、踏み躙る。

 だから今この時も彼女にとっては決戦ではない。ただ単純に、遊び相手が来たと、その程度のことでしかない。

「こんなに大勢で、わたくしとしたことが少しばかり恥ずかしいですね。おもてなしの用意をロクにしておりませんのに」

 誰が答えずとも彼女は言葉を紡ぐ。

 別段、虫けらの返答など聞いていないとでも言いたげに。

「はい。ですが精一杯、用意したのですよ。勿論、ヨハン様と、その他大勢の方とはわざわざ別々に」

 一度巨人を振り返る。

 その表情に、それまでの少女じみたものとは違う、凶悪な笑みが浮かぶのをヨハンは見逃さなかった。

「来るぞ!」

 黒い泥のようなものが、巨人から伸びる触手より染みだした。

 そうしてそれは人の形を作り、瞬く間にその存在を創り上げていく。

 それは黒い泥だ。

 泥を捏ねて、人間の形にしたような悪趣味な人形。

 そんな物体が動いて、水気のある音を立てながら一歩一歩近付いてくる。

「本来ならば個性としてのギフトは残しておきたかったのですけど、なかなか上手くいかない物でして。恐らくは魂の大半が飲み込まれてしまった影響だと思うのですけど」

 残念そうに、女は語る。

 その意味をヨハンはすぐに理解した。

「……こいつらはエトランゼか?」

「はい。わざわざヘルフリート閣下から、オル・フェーズのエトランゼを処分するために貰ってきましたの。その血肉と魂は、あの巨人を修復するための餌に。そうして残った魂の欠片に、肉体を与えてみました」

 誇らしげに胸を張る。

 そんな彼女の態度も長くは続かなかった。

 ヨハンの背後から飛び出したイブキが、その顔面に全力で拳を叩きつける。

「イグナシオ!」

「あらら、イブキさん。まだお話しの途中ですのに」

 白い光の壁、イグナシオのセレスティアルがイブキの拳を止めているが、その衝撃はイグナシオを通り抜け、棒立ちしたままの黒い泥達を纏めて数人吹き飛ばした。

 地面に叩きつけられるようにぶつかって、元の形を失った兵隊を無視して、イグナシオはなおも話を続ける。

「まったく、躾のなっていない方ですわ」

 ぐっとイブキの腕を掴んで、無造作に地面に叩きつける。

 砂煙を巻き上げてイブキが地面にめり込むと、イグナシオは追撃をするために拳を振りかぶる。

 そこに、割れた地面から染みだした水が意志を持って襲い掛かった。

「あら」

 二方向から伸びた薄い水の刃を、イグナシオは拳で払う。

 その隙にそこに飛び込んだ影を、容易く光の壁で押し留めながら、困ったように眉を歪めた。

「あらあらあら。困りました。血の気の多い方達ですこと」

「貴方に言われたくはないですね。悪趣味シスターさん?」

 浅葱色の髪を揺らしながら、ラニーニャが剣撃を浴びせる。

 常人には目で追うことも不可能なそれを捌きながら、イグナシオは少しだけ早口でヨハンを見ながら言葉を口にする。

「あらあら。でしたらこの方たちのおもてなしはわたくし自身ですると致しましょう。ヨハン様、本当ならばもっと色々とお話ししたかったのですけど、残りは彼女と直々にと言うことで」

 その言葉を最後に、イグナシオはラニーニャと、態勢を立て直したイブキとの戦いに集中する。

 同時にエトランゼ達が動きだし、その紅い光を持ってヨハン達に向けて攻撃を開始した。

「迎撃! 何としてもこいつらを突破して……!」

 彼女がヨハンの視界に入り込む。

 その瞬間、ヨハンの頭から一瞬だけ全てが消えた。

 それでもどうにかすぐに戦う態勢を取り戻せたのは、多くの命を預かっているという事実があったからだるお。

 そうでなければ完全に思考が停止していた。

 エトランゼ達の向こう、それに囲まれた一人だけ異なる影。

 彼女は、同じ人間の形をしている。泥ではなく、あの日と同じような姿で立ち尽くしている。

 ただ異なることがあるとするならば、その目は余りにも虚ろで。

 彼女から溢れんばかりに零れる癒しのギフトの力で、地面に染み込むように消えて行った泥達が元の姿を取り戻していた。


 ▽


 身体が熱い。

 堪えろと理性が訴えても、どうしようもなく血が騒ぐ。

 その感情が戦場に於いて死を招くものだっとしても、この胸の奥のざわめきを止めることはできなかった。

 かつて英雄と呼ばれたエトランゼ。

 多くの人の期待を背負い、それを成すことができなかった残骸の片割れ。

 仲間を犠牲にして生き残り、魂を改変され長く眠りについていた哀れな女。

 イブキに取って目の前の女は仇だ。

 仲間の命を奪い、イブキの時間を奪い。

 そしてイブキの大切な者の力を奪った。この世界を変えられるかも知れなかった最強のギフトを奪い去った仇敵。

「まあ、随分と怖い顔をなさっていますね。僭越ながら言わせていただけば、これから始まるのは楽しい余興のようなもの。決してそのような態度で臨むものではありませんよ」

「……今更アンタの言葉を聞くつもりなんか、ない!」

 竜化し、暗い青色の鱗を纏ったその足が、爪が地面を踏みしめる。

 それだけで大地が震えるほどの振動が辺りに伝わり、辺りが罅割れていく。

 そこに込められたイブキの怒りが、竜の力と呼応してあらゆるものに畏れを抱かせるほどの圧を放っていた。

 だが、それを受けても。

 共に戦う仲間達すらも怯えさせるほどの眼光に睨まれてさえ、彼女は全く怯んだ様子も見せることはない。

 涼風を浴びるか如く、平然とそこに立っていた。

 それこそが絶対的な差なのかも知れない。

 人間と御使い。

 天から降りた神の使い、圧倒的な力を持ち人の上に君臨する上位種族。

 だからと言って退く理由はない。負けるつもりもない。

 咆哮と共に放たれた青白い炎を纏った閃光の吐息は、その細い肢体を貫くように真っ直ぐにイグナシオに向かう。

「ふふ」

 小さく笑う。

 淑女がそうするような、優美な笑み。

 そうしてイグナシオが片手を掲げると、光の壁が目の前で出現し、イブキの放った光のブレスはそれに当たって飛散して消える。

 その余波が背後に聳える巨人の足元を削り取り、その触手を大量に破壊したが、イグナシオはそれを気にする様子はない。

 無論、それはイブキとて同じこと。

 今の一撃で倒せるとは思っていない。渾身の力を込めた攻撃だが、それが必殺になるほどに相手は甘くはない。

 ブレスが途切れると同時に、イブキは背に生えた翼でその場から飛び去っていた。

 上空高く飛び上がり、急降下。

 突き出した右足は真っ直ぐにイグナシオの身体を捉えている。

 まともに喰らえば地面ごと陥没し、身体は拉げて死ぬであろう威力を込めた蹴り。

「今のはいい動きでしたね」

 イグナシオはそれにすらも反応して見せた。

 超高速の一撃は、彼女が掲げていた腕が僅かに斜め上に逸れただけで、そこに広がったままのセレスティアルの防壁によって阻まれる。

 無理矢理にそれを突破するために力を込めるが、それは破れない。御使いが人を裁くために振るう天空の光は、地に住む者達の生半可な攻撃で突破できるものではなかった。

 余波が辺りの地面を容赦なく削り、イグナシオが立っている場所を中心にクレーターができていく。

 それでも彼女に傷はない。それどころか涼しい顔をして、イブキの渾身の一撃を受け止めている。

 やはり、正真正銘の化け物。

 何が御使いかと、心の中で舌を打つ。神様の使いと言うよりはまるで悪魔にしか見えない。

 僅かに目標を逸らして、イブキはイグナシオの目の前に着地する。

 地面を割り砕きながらその足が地に付き、間髪入れずに拳を振りかぶる。

「イグナシオ! アンタがあたしから奪ったものを、返してもらう!」

「それは誤解と言うものです。奪ったのではなく失われた、その原因の一端は確かにわたくしにあるのかも知れませんが」

 光の壁は壊れない。

 だが、イブキとて簡単に事が済むとは思っていない。

 だから、何度も拳を叩きつける。

 ありったけの力を込めて、強靭なはずの竜の鱗に護られた拳に、血が滲むのも厭わずに。

「全ては無力さが招いたこと。それにあの力は人の身には過ぎたるもの。単なる人の身に墜ちた者には、特に」

 びしりと、音が響く。

 イグナシオの表情が一瞬、強張った。

「ははっ」

 笑いが零れる。

 まだ何も終わってはいない。それどころか始まりにすら辿り付いていないのかも知れないが。

 一つの達成感があった。

 奴の光に傷をつけてやった。

 絶対無敵を誇ったイグナシオのセレスティアルに、罅が入った。

 小さなものではあるがまるで硝子のように、その強度が完璧ではないことをイブキは証明して見せた。

「お見事」

 ゴッ、と。

 凄まじい音がする。

 イブキの身体は一瞬にして天空に跳ね上げられ、何が起こったのか判る前に無防備に地面に落下した。

 状況を確認する前に身体が勝手に動く。半ば本能的に危機を察知し、それを回避するために行動していた。

 イブキが一瞬倒れていた場所に、何かが叩きつけられる。

 それが彼女が無造作に振り回した、巨人の足から一本?ぎ取った触手であると気付くのに一瞬の時間を要した。当たり前のことだ、まさかそんなものを武器に使うとは全く想像できない。

「もっと格好いいもん使いなよ、折角なんだからさ!」

「ええ。わたくしも貴方達のように素敵な武器を振るい、格好良く戦ってみたいものですが、残念なことに」

 立ち上がったイブキの目の前に、イグナシオの姿があった。

「はやっ……!」

 身体を回し、尻尾で打つ。

 だが、それは未だ形を保っているセレスティアルによって阻まれた。

「争い事は苦手なのです。見ての通り」

 腹に衝撃。

 胃の中の物を吐きだすほどの痛みに、吹き飛ぶこともせずにその場で蹲りそうになる。

 どうにか堪えたイブキの顔面に、イグナシオの拳が迫る。

 頭をやられるのは不味いと、咄嗟に回避行動をとるが、間に合わない。

 彼女が不自然に拳を止めなければ、完全に顔面を打ち抜かれていた。

 その理由は、すぐに判った。

 いつの間にかイブキとイグナシオの間に割り込んだ蒼い影が、流動する双剣を持ってして彼女に斬りかかっていた。

「でしたら、大人しく引っ込んでいてもらいたいものですね。地面の底とか、海の底とか、とにかくわたし達の目に付かないこところに」

「あら。どちらさまでしたか? ええと、添え物さん?」

「別に名前を覚えてもらうつもりもありませんけどね。ですが、いい加減におふざけが過ぎるんじゃないですか?」

 咄嗟に後ろに下がって避けようとしたイグナシオに、ラニーニャは容赦ない追撃を仕掛ける。

 反撃に繰り出される拳を、紙一重で避ける。竜の護りを持つイブキにすらダメージを与える彼女の攻撃を、中身のラニーニャが一発でも貰えば致命傷。

 恐るべき度胸と集中力、そして身のこなしだった。少なくとも同じ立場でイブキは彼女のようには動けない。

「困りました。わたくしはいつでも真剣ですのに」

「ああ、そうですか!」

 罅の入ったセレスティアルの壁が断ち切られる。

 それに驚いたのはイブキだけではない。イグナシオ自身も、まさか多少強度が下がったとはいえ自身の極光を水の剣如きで突破されるとは思っていなかったようだった。

 僅かな飛沫を残して、清流の刃が空気を斬り裂く。

 イグナシオの着ている修道服の首から少し下の部分が裂けて、そこから赤色が滲んだ。

「……そうですか。フェイズⅡのギフトですか。やはり以前そこまで至った方は適正が高いということでしょうか」

「なにをぶつぶつと訳の分からないことを! 負け惜しみのつもりですか!」

「……いいえ」

 空気が変わる。

 決して戦いはラニーニャの優勢ではない。イグナシオを傷つけることに成功したとしても、逆に言えば未だそれしかすることができていないのだから。

 セレスティアルが解かれて、再び新たに編まれる。

 先程のものよりもより強固に、鋭く。

 今度は壁ではない。彼女の手に、剣のような形で握られていた。

 その剣の一振りは咄嗟に防御しようとしたラニーニャの水の剣を二本纏めて消し飛ばし、一切速度を落とすことなく彼女の顔を目がけて伸びる。

 イブキはそれを、ラニーニャの後ろ襟を掴んで無理矢理に自分の元に引き戻すことで、彼女の命を救う。

「調子乗らない! 足手まとい」

「……今のは、素直に助かりました。内心では一緒に切り刻んであげたい気持ちですけど、大人なラニーニャさんは口だけではお礼を言っておきます」

「この期に及んで減らず口が叩けるなんて、そこは凄いね。添え物ちゃんの癖に」

「ほんっとに性格悪い」

 吐き捨てるように言って、ラニーニャは再びイグナシオの方を見る。

 彼女の戦意は薄れる様子はなく、未だそこの見えないイグナシオ相手にも引くつもりはないようだった。

 無駄にいちゃもんを付けてきたこの女は気に入らないが、その度胸はイブキとて感心するものだった。何せ、彼女はイブキに比べて数段弱いのだから。

「でもま、正直助かったよ。君があれを斬ってくれなかったら、心折れてたかも」

「でしょう? ラニーニャさんは無敵ですから。その凄さを認めてジャパニーズ・ドゲザで感謝してくれてもいいんですよ」

「や。それとこれとは話は別でしょ」

 二人の間を光の槍が通過する。間一髪で避けたのではなく、イグナシオに最初から当てるつもりはなかったようだ。

「のんびりお喋りをするのならお茶を煎れましょうか? 一緒に団欒するのも悪くはないでしょうから」

「冗談」

「貴方とお茶の席を一緒にするぐらいなら、こっちの性悪さんとお喋りした方がマシですよ」

「それは同感。ってことで」

 同時に大地を踏みしめる。

 イグナシオの放つセレスティアルと、竜化したイブキから溢れる魔力が周囲の空気を歪めていく。

「第二ラウンド」

「はい。まだまだ楽しめそうで、リーヴラに協力してまでここに来させてもらった甲斐もあったと言うものです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る