第三節 星空の下で

 それから二日後の夜。

 ヨハン率いる別動隊はオルタリアとハーフェンとの間に鎮座する、巨人の膝元にまで軍を進めていた。

 軍と言ってもその戦力は必要最低限で、その目的は本隊が王都を奪還するまでの間、巨人を牽制することにある。

 今、ヨハンは一人、小高い丘の上から天に聳える巨人を見ていた。

 その足元には小さな篝火が幾つか。恐らくは監視のために派遣された兵だろう。

 昼間のうちに派遣した斥候が言うには、巨人は動かずその周囲にも戦力と呼べる戦力はない。例の黒き尖兵達の姿もないとのことだった。

 当然、それが楽観に繋がることはないが、ある意味ではヨハンの予測が正しいことを現していた。

 こうして自分の目で見てみても、巨人に動きはない。もしかしたら、もう既に死んでいるのかも知れないと、そんなことすら考えてしまう。

 だが、そう思うたびにヨハンの中の何かが訴える。あれはまだ死んでいない、完全に殺さなければならないものだと。

 額に手を当てる。

 頭の中に響く疼痛は、日々大きくなっている。

 あの巨人を倒さなければならないと、何者かが叫んでいる。ヨハンの中にある誰かが、あの災厄を滅ぼせと。

 記憶のない、名無しのエトランゼ。

 この世界にやって来た際にそれは失われたと思っていた。世界を転移するほどの衝撃があれば記憶が混乱することも無理からぬことであろうと。

 どうやら、それは違った。ヨハン以外で記憶を失ったエトランゼは知らない。仮にそう言った事態があったとしても、それはこの世界に来てショックを受けてのことだった。

 ずっと目を背けてきた事実がある。

 最強のギフトと持て囃された力。

 そんなギフトが本当に在り得るのだろうか。

 果たして、それはギフトなのだろうか?

「よーくん」

 背後から聞こえてきた声に、ヨハンの頭の中が透明感を増していく。

 不安は一人の時だけに抱けばいい。誰かといる時は、その感情は必要のないものだ。

 ここにいる誰かの正体など、大半の人間にとってはどうでもいいものなのだから。

「イブキ」

 草を踏む音と共に、イブキが隣に並ぶ。

 結ばれた彼女の黒髪が風に踊り、ヨハンは一瞬だけその姿に目を奪われた。

 その視線に気付いたのか、イブキは照れくさそうに笑って見せる。

「どうしたの? こんなところで一人で。明日も早いんだから、早く寝た方がいいよ」

「お前もそうだろう。早く寝ろ。判っているだろうが、明日は主力になってもらう」

「うんうん。判ってるよ。あたしの力が必要なんだもんねー」

 何処か嬉しそうに、イブキは言った。

 そのことにヨハンが疑問を抱く前に、彼女は自らその答えを口にする。

 まるでヨハンの考えを見透かしているかのように。

「よーくんに頼られるのって、なんかくすぐったいね。変な感じだ」

「……俺はいつでもお前を頼りにしていたつもりだったがな」

「そーれーはー、嘘。昔は全部一人でやるつもりだったでしょ?」

 イブキの言葉は概ね当たっている。

 昔、冒険をしていた時はヨハンはイブキの後ろを付いて歩くだけだった。

 彼女が持って来たトラブルを解決する。周囲に呆れられながら、そうしてずっと旅を続けていた。

「退屈はなかったがな。次から次へと、よくもあれだけの事件を起こせたものだ」

「あはは……。あたしも若かったからなぁ。いや、うん。今でもやれって言われたらトラブル持ってくるよ? 持ってこようか?」

「やめろ。ラニーニャとの一件は前科として数えているんだからな」

「えー。結果オーライだしいいじゃん」

「なにが結果オーライだ」

 その頬に手を伸ばして、思いっきり引っ張ってやる。

「痛い痛い! そう言うのは竜化してる時にやってよ! だったら痛くないからさ」

「だから今やっている」

 一頻り引っ張り終えると、イブキは赤くなった頬を労わるように両手で撫でている。

「今は逆だね」

「逆?」

「よーくんを、あたしが手伝ってる。よーくんの見たい場所に、一緒に歩いてるんだ」

 くるりと身体を回して、イブキはヨハンに背を向けた。

 彼女の視線の先には星空がある。

 今日の月は蒼く、エトランゼがやってくる夜ではない。

 瞬く白い光が幾つも地上を照らしている。その中の幾つかは月の光に影響されて、青白い光を放っていた。空気が澄んでいるのか見上げ空の姿は圧巻で、夜の黒い部分の方が少なく見えるほどだった。

 まるで降り注ぐような銀色の河の輝きと、その前に立つイブキの姿に心を奪われていた。

「イブキ。お前は、どんな世界が見たかったんだ?」

 かつて、彼女と共に歩んだ道。

 誰にも負けない、最強の力を持つ二人として仲間達と一緒に生き急いだ日々。

 その果てにイブキは、何かを見ていたのだろうか。

 ふと、そんなことが気になって、ヨハンは疑問を口にしていた。

 それに対して、イブキは振り返ることなく答える。

「んーん。何にも」

「そうか」

 別段、落胆も何もない。

 きっとそうだろうと思っていた。ただ、それを彼女の口から聞いて確認したかっただけだ。

 そうして、彼女の目指したものに意味がないことを知って。

 イブキと言うエトランゼの少女が求めたものが単なる楽しい日々であることを確認して。

 もう、そこには戻れないことを自覚した二人の旅は、今終わりを告げたのかも知れない。

「でもね、今はちょっと違うよ」

 ポニーテールの髪が揺れる。

 イブキは背を向けて空を見上げたまま、小さく身体を揺らした。

「今のあたしには目標がある。見たい未来がある」

 振り返る。

 その目は真っ直ぐにヨハンを見て。

 心が痛くなるほどに瞳は輝いて、それはあの日の少女そのままで。

 この世界を好きになろうと提案した、彼女の姿は何も変わっていない。

「よーくんの作る未来が、あたしも見たい」

 彼女の言葉は真っ直ぐだ。

 それはいつだってそうで、だからこそ無気力だったあの日の彼はそれに期待したのだった。

「びっくりしたんだよ。あんなに冷たかった世界が、エトランゼはエトランゼとして生きてくしかなかった世界が変わってるんだもん。イシュトナルはこの世界の人もエトランゼも同じように暮らしてるし、仲良く一緒にお酒だって飲んでる」

 長い眠りから目覚めた彼女は、その変化に驚いた。

 少しずつその中で暮らしていては気付かなかっただであろう変化一つ一つに感動していた。

「あたし達だけが好きになるんじゃなくて、みんながこの世界を好きになれるかも知れない。よーくんはきっと、そう言うものが創れるんだと思う」

「……買い被り過ぎだ。それは大勢の人が努力した結果に過ぎない」

「それは、そうだよ。うん、沢山の人が頑張ったからそうなったの。攫われちゃったお姫様とか、色んな人がね」

「そうだろう。だったら」

 トンと、何かが肩に触れる。

 それはすぐ傍に立っていたイブキの額だった。

「でも、よーくんもその一人だよ。あたしにとっては誰よりも価値がある、たった一人」

「……イブキ」

「ほら、ハグしてよ。友情のハグだよ。だから合法合法」

「……まったく」

 いつだって彼女は強引で、そこに理屈なんかない。

 そうしてヨハンはそれに絆されて、呆れ顔でこうして従ってしまうのだ。

 彼女の両肩を優しく抱きしめると、満足そうにイブキは息を吐く。

 ヨハンの腕の中にある熱は、思っていたよりも暖かくて小さいものだった。

 抱擁の時間は短く、一分にも満たないものだった。

 二人はどちらともなく離れて、イブキは顔を上げる。

「よっし。これにて宣戦布告は完了。明日からあたしもよーくん争奪戦に参戦します!」

 ピッと、ふざけて敬礼をして見せる。

 それに対して何か突っ込みを入れる前に、イブキはヨハンの横を通り過ぎて丘を降りていってしまう。

 全ては明日からの戦いが終わってからだと、言葉にしなくてもそう言っているのが伝わって来た。

「言いたいことが沢山ある。お喋りしたいことがいっぱいあるんだから」

 一度立ち止まって、彼女はそう言った。

「――ああ、俺も。旅の思い出を振り返って、それからお前がいなかった日々の話もな」

「それって、他の女のことの惚気話とかじゃないよね」

 顔を背けながらでも、彼女の表情がよく判る声色だった。

「できるだけ、そうならないように努力はする」

「信用できないなー。よーくん、そう言うのいまいちだからなー」

「自覚はある。諦めてくれ」

「あははっ。ま、許してあげよう。それじゃあ、おやすみ!」

 元気よく言い残して、イブキは丘を降って行く。

 その背を見送り、目の前に聳える巨人を見上げ。

 ヨハンは決意を新たにする。

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