第七節 此方の道

 目覚めた時、カナタの身体は木でできた揺り籠の中にあった。

 それを眺めていたイアは、突然の覚醒に反応することができず、カナタはその一瞬の隙をついてセレスティアルを広げる。

 紅い光ではない、いつもの極光で自身を囲む枝を切り開いて、偽りの揺り籠から飛び出した。

『ドウシテ……?』

 紅く染まった瞳。

 そこにいるのは、ひょっとしたらもうイアではないのかも知れない。

 カナタの知らない何かに彼女は変貌してしまったのかも知れなかった。

 それでも。

『シアワセナセカイ。カナタノノゾムセカイナノニ』

「違うよ」

 首を振る。

 彼女がそうしていたように。イアの言葉を否定する。

 例え呪いに逆らえず、カナタを害することになってしまったとしても、それでもカナタを傷つけようとしなかった彼女の優しさを否定した。

 そうしなければならない理由がカナタにはあるから。

「それはボクの望んだものじゃない。ボクはもう、偽物の世界なんていらないから。だから、イアの優しさには応えてあげられないけど」

 手の中の光が消える。

 彼女を怯えさせる光は今は要らない。

 必要なことは一つ。カナタが本当にやりたいこと。偉大な海賊が教えてくれたたった一つのこと。

「負けないで、イア! 一緒に行こう!」

『ア……』

 紅い目が大きく見開かれる。

 そこから流れ出る血の涙が、イアの身体を深紅に染める。

「ボクがあいつを倒すから。頑張って倒すから! だから」

『カナタ。ヤサシイ』

 イアの身体がぐらりと揺れる。

 地面に張った木の根が、苦しげに脈動している。

 血に交じって透明な雫が、彼女の目から落ちた。

『カナタ』

「イア」

 彼女が手を伸ばす。

 だから、カナタもそうした。

 その手を掴めば、きっと何かが伝わると信じて。

 ――現実は残酷で、その祈りは届かない。

『シネ』

 イアの腕が形を変える。

 一本一本が木の幹のように解けて、再び錘状に絡まりなおす。

 先端から赤黒い毒が滴るその刃は、カナタに向けて振り上げられていた。

 その呪いに打ち勝つことはできない。

 心なんてもので、そんな不確かなものでそれを封じることはできない。

 絶対的なもので、決して抗うことはできなくて、それでも誰かを助けたくて。

 ――だから、立ち上がったのに。

 セレスティアルを広げるのももう間に合わない。

 目を閉じて痛みに備える。

 生暖かい液体が、カナタの顔に降りかかった。

 それから、いつまで待っても痛みは訪れない。

 恐る恐る目を開けた。

「な、んで?」

 自分の口から漏れるか細い声。

 助かったはずなのに、そこに安堵はない。

 イアのその凶刃が貫いたのはカナタではなく、自分自身の胸を差し貫いていた。

『コエガスルノ。コロセッテ、コワセッテコエガスル。デモ、ムリ。カナタノコトハスキダカラ、ムリ』

 何かが近くで地面に落ちた。

 彼女自身から伸びていた、地面に這う植物の根が、まるで腐り落ちるように力を失って崩れていく。

 それに従って、イアも自身を支えておくことができなくなって、前のめりになって倒れていく。

「イア!」

 その身体を抱きとめると、イアはカナタの胸に顔を埋めたまま、安らかな顔で語りかけてくる。

『カナタ。ゴメンネ。タスケラレナクテ』

「何のこと? ボクは、別にイアに……」

『カナタ』

「……イア」

 彼女はもう助からない。

 助かるつもりもない。きっと、それをすればまたカナタを傷つけようとしてしまうから。

 そうなる前に、自分で死を選んだ。

 それを助ける手段はカナタにはない。死していく身体を繋ぎ止める方法など、持っていないのだから。

『イノリヲアゲル』

「祈り……?」

 イアの身体が光に包まれる。

 彼女の肉体が壊死するよりも早く、その新緑の輝きはイアの身体全体を包み込んでいく。

 それはまるで、魂が必死で声を上げている様だった。

『カナタ』

 頭の中の声が、次第に弱々しくなってくる。

 何度も何度も、確かめるように呼び続けられたカナタの名前も、もう掠れてしまって殆ど聞こえない。

 それでも、イアは必死でその名前を呼び続けた。

 そこに何の意味があるのか、カナタには判らない。ただ、黙って名前を呼ばれる度に頷き続けている。

『カナタ』

 光に包まれた身体が小さくなっていく。

 もう彼女の肉体は半分も残ってはいない。

 それでも必死にその名を呼び続ける。

 彼女にとっては特別な、知らなかった『誰か』の名前を。

『シアワセニナッテ』

 はっきりと聞こえたその言葉を最後に、イアの声が消える。

 同時に、カナタの腕の中にいた彼女も、光に包まれるように消滅していった。

 ざあ、と風が吹いて、千々となった彼女の身体の残滓が飛ばされていく。まるで元居た樹海の中へと回帰するように。

「……ぐっ……。いったい何がどうなった?」

 カナタの後ろで声がする。どうやら今の風で、カナタと同じように眠らされていたゲオルクも目を覚ましたようだった。

「カナタ、無事か? それで、あいつはどうなった?」

 カナタの横に駆け寄って来て、座り込んだままのカナタの腕の中を覗き込む。

 その様子と、その手の中にある物を見てゲオルクは全てを察したようだった。

「……そうか。辛かったな」

「……はい」

 涙声でそう答えて、手の中にある物のうちの一つをゲオルクに差し出した。

「こいつは?」

「多分、生命の実だと思います。イアが最後に残してくれた」

 カナタの手の中にあったものは二つ。

 小さな木の実と、小さな苗木。

 その木の実は何故だか、ゲオルクに渡すべきな気がした。イアが教えてくれたかのように。

「いいのか?」

「多分。イアはゲオルク様にも感謝してたんだと思います。ここで一人で過ごしてきた時間が長かったから、その寂しさを埋めてくれた相手として」

「……だといいがな。結局俺ばっかり喋って、あいつは一言も返しちゃくれなかったが」

 木の実を受け取ると、ゲオルクは疑うこともせずに口の中に放り込む。

「……言っちゃあなんだが、味は不味いな」

 苦心しながらそれを飲み込むと、ゲオルクの身体が小さな光に包まれる。

 それはすぐに何事もなかったかのように消えた。

「ん? おおっ! カナタ、見ろ! 呪いが消えてるぞ!」

「見せなくていいです!」

 ゲオルクの胸にあったその呪いはすっかり消えていた。

 これで恐らくは、この聖域の外に出ても大丈夫なのだろう。

「この苗木はボクが貰っていいですか?」

「愚問だな。そいつはお前とイアの繋がりの証だろ? そんな大事なもんを取り上げる権利は、王どころか神様にだってないだろうよ」

 ゲオルクがそう答えると同時に、苗木はまるで意志を持っているかのようにカナタの懐へと入り込んでいく。

 服の内側で小さな熱を持つそれは、イアが一緒にいるかのように温かい。

 そこを優しく撫でるようにしてから、カナタは改めて立ち上がった。

「行きましょう、ゲオルク様」

「そうだな。自国の民が苦しんでいるのをこれ以上は見過ごせん。で、出口はどっちだ?」

「さあ?」

 首を傾げる。

「……おい」

「だってボク、イアに連れられてきただけですし」

 唇を尖らせてそっぽを向く。

 それから二人でどうするべきかを相談していると、近くの木々が揺れて、そこから一人の人物が聖域に降り立った。

「ここにいましたか、カナタ。それから、そちらの方は……!」

「トゥラベカさん!」

 トゥラベカはカナタと、それから隣に立つゲオルクを見て驚きの余り絶句していた。

 彼女からすれば、死んだと聞いていた隣国の王がこの場所にいるのだからそれも無理はない。

「久しぶりだな、トゥラベカ! ベルの奴は息災か?」

「は、はい! ですが何故、ゲオルク様がここに?」

 慌てて跪こうとして、ゲオルクがそれを止めた。

「今はそんなことをしてる場合じゃない。すまんが、この樹海を急いで抜けたい。案内を頼めるか?」

「畏まりました。元よりこの樹海は私にとっては故郷のようなもの。問題ありません」

「よし! そうと決まればすぐに脱出だ!」

 そう言って先にトゥラベカが来た方向に歩いていこうとするゲオルク。

 彼が少し離れてから、トゥラベカは改めてカナタに向き直る。

「正直、驚きました」

「えへへ。トゥラベカさんがボクをイアに預けたんですよね?」

「はい。彼女は古代樹と呼ばれるこの樹海に千年以上前から存在する護り主。決して貴方を害することはないと判断してのことでしたが」

 トゥラベカが辺りを見る。

 ここの残った戦いの後を見て、決して穏やかなだけではなかったことを彼女は察していた。

「私の判断力不足でしたね。申し訳ありません」

「そんな……。いいんです。そのおかげでイアと出会えました」

 じっと、トゥラベカがカナタの顔を見つめる。

 数秒ほどそうしてから、その手が伸びてカナタの頭を撫でた。

「わ」

「詳しくは聞きません。ですが、成長したようですね。――いいお顔になりました」

「……はい」

 強く頷いて、二人はゲオルクの後を追っていく。

 聖域を出る瞬間、カナタは一度だけそこを振り返った。

 ここでの出会いは、悲しいものだった。

 また救えなかった命が増えた。背負わなければならないものが重くなった。

 でも、それを背負って、前を向いて歩けるだけの力を貰ったような気もする。

 例え偽りでも、それは否定されてしまうものだったとしても。

 彼女の見せてくれた夢は暖かくて、カナタに前に進む勇気をくれた。

 誰にも知られることはない英雄と。

 偉大なる大海賊と。

 優しくて、カナタのことが大好きだった古代樹の声。

 それらに見送られて、カナタもまた一歩を踏み出していく。

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