第二節 ラス・アルアの樹海

 ぽたりと、頬に雫が落ちて、その冷たさでカナタは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

 てっきり雨か何かが振って来たのかと思って慌てたが、木々の間から差し込んでくる太陽の光が、それをすぐに否定する。

「……んー」

 ごそごそと荷物に手を伸ばすが、近くには何もない。

 トゥラベカが片付けてしまったのかと思い、恐らくは先に起きて朝食の準備をしているであろう彼女を手伝うためにカナタも起きることにした。

 傍にある太い木の根に手を掛けて、身体を起こす。

 足元で生い茂った草が、かさかさと音を鳴らす。

「……根っこ? 草?」

 はて。

 昨日眠った時、自分は何処にいただろうか。

 昨晩はあのままトゥラベカと喋っていて、いつの間にか眠ってしまっていた。勢いに任せて恥ずかしいことも行ってしまったので、思い返すと少しばかり顔が熱を持った。

「……ここ、何処?」

 眠ったのは、荒野の上に敷かれた布の上だったはずだ。夜は冷える荒野で風邪をひかないために厚めの布を身体の上に掛けて、疲れもあって深い眠りについていた。

「ホントに何処!」

 一気に意識が覚醒する。

 夢ではない。気の所為でもない、そしてここが何処だかも判らない。

 只事ではない事態にカナタは飛び上がってトゥラベカの姿を確認する。

 辺り一面に木々が生い茂り、その根が地面を無数に這っている。

 あちこちに草花が咲いているこの場所は当然荒野などではなく、森の中のようだった。

 周囲からは幾つもの生き物の気配がする。少し目を凝らせばその辺りの植物に擬態するように、虫達が暮らしている。

 きょろきょろと辺りを見渡してみても、トゥラベカの気配はない。何かが動いている様子はあっても、恐らくは彼女ではないだろう。

 取り敢えず、冷静になるべきだと、カナタは自分に言い聞かせる。

「取り敢えず、トゥラベカさんボクより強いし。ボクが無事ってことは大丈夫だと思う」

 うんうんと一人頷く。

 もし何らかに巻き込まれたのだとしても、カナタが無事である以上は恐らくはトゥラベカにも大事はないだろうと。

 こういう時はまず自分の安全を確保して、それから他のみんなの心配をすればいい。

 特にそれが自分よりも優れた能力を持っている人ならば、下手に浮足立っても意味はない。

 これまでの生活で、カナタが学んできたことだった。

「で。なんでボクはここにいるのかな?」

 原因を考えようとして、一秒でやめた。こんな状況理解できるわけがない。

 可能性があるとしたらトゥラベカがカナタが寝ている間にここに連れてきて放置したことであるが、流石にそれはないと信じたい。

 となれば次はこの森から抜け出さなければならない。そのためにはまずどちらの方向に歩くべきか。

「木しかない」

 目印になるものは何一つない。

 果たしてここで闇雲に歩いて無事に抜け出すことはできるのだろうか。

 下を見れば、生い茂った草木の一部が倒れて、道のようになっているのが見えた。

「これ、辿ってけば誰かに会えるかな?」

 ひょっとしたら、これがトゥラベカが残した何らかのメッセージなのかも知れない。

 そんな淡い期待を込めて、カナタはそのけもの道とでも呼ぶべき道を、拾った太い枝で草木を掻き分けて進んで行くことにした。

「歩きにくいなぁ、もう」

 これだけ深い森の中を歩いた経験はない。どうやら殆ど人の手が入っていないようにも見えるが、人間が暮らしているんだろうか。

「奥の方に住んでたりしないかな? この世界の人、色んな所に住んでるから」

 都市部出身のカナタに取って、そもそも森の中に暮らすという実感が沸かない。田舎の祖父母の家に行った時ですらその何もなさに驚いたほどだ。

 言うなれば毎日キャンプをしているようなものなのだろう。それはそれで楽しそうだが、一週間もすれば嫌なことの方が多くなりそうだ。

 そんなどうでもいいことを考えながら進んでいると、近くで何か低い音が聞こえてカナタは立ち止った。

 生き物の声がした。それほど離れていない場所で。

 恐らくはそれがしたであろう方向を見て、カナタは声を上げる。

「誰かいませんかー!」

 その呼び声は木々にぶつかって反響し、次第に小さくなって消えていく。

 気の所為だったかと軽く溜息をついて歩き出そうとしたところで、再び声が聞こえてきた。

「やっぱり誰か……」

 言葉が途中で途絶える。

 その声はよくよく聞いてみれば、間違っても人のものではない。樹海を一人で彷徨う不安から、その判断ができなかったようだ。

 低い唸り声が、カナタの呼び声に答えてくれたようだった。

 がさがさと激しく草木が振動する。

 遠くで木々を薙ぎ倒すように、大きな影が脈動した。

 それは真っ直ぐにこちらに向かっており、やがてカナタの目の前にその全容を現した。

「……ど、どうも」

 それは四足歩行の獣だった。

 肌に毛はなく、暗い緑色の硬質な肌で覆われている。

 裂けた大口からは無数の牙が伸びて、それが肉食であろうことは見るからに明らかだった。

 突き出した二本の角をカナタに向けて、今まさに襲い掛からんと、興奮の荒い息を吐いている。

「道、とか」

 考えてみればそれも当たり前のことだ。

 獣道がある以上、そこを進む何かがいると言うことにどうして気が付かなかったのか。

 そして人の気配が今のところ全くないこの樹海の中に、人間に友好な生物がどれだけいるかなど、すぐに想像できる。

 低い唸りはやがて咆哮となる。

 びくりと身体を竦めると、それを隙と判断したのかその巨獣は地響きを鳴らすような勢いで足元の土を蹴り、カナタに飛びかかった。

「悪いけど!」

 紅い極光が、障壁となって目の前の展開される。

 鋭い爪が幾つも付いたその巨獣の前足は、直撃すれば一撃でカナタの細い身体を圧し折るほどの威力があるであろうが、深紅のセレスティアルの前には無力だった。

 何が起こったのか判らずに、巨獣は呆然とする。

「あの、これで無駄だって判って帰ってくれると助かるんだけど」

 駄目元で言ってみるが、獣に言葉は通じない。

 次に牙を突き立てようとして、やはりカナタのセレスティアルを貫くことができずに、その牙が数本纏めて折れた。

 悲鳴を上げ、後退する巨獣だが、その闘争心はまた尽きてはいない。むしろ自らのテリトリーを荒らす怪しげな生き物を、なんとしてでも逃がさんとより興奮しているようだった。

「だよね……。ごめん、ご飯になってあげるわけにはいかないから!」

 紅い光が一閃。

 剣と化したセレスティアルが、獣の前足を傷つける。

 切断するほどには至らない小さな切り傷だが、巨獣は目の前の小さな獲物が、自分に傷をつけたことが余程驚きだったらしい。

 事実、この獣は樹海の中で生活しているが、人里に降りれば一匹で小さな街一つぐらいならば壊滅させるほどの被害をもたらすほどの力を持っている。

 だと言うのに、それは最早カナタの敵になってさえいなかった。

 突き出された前足を盾で弾いて、更に前進。

 先程よりも深く刃を突き立てようとしたところで、カナタを異変が襲う。

『……! …! …………!』

 カナタの身体が脈動して、動きが止まる。

 頭の中に鉛を流し込まれたかのような重さと、針で神経を抉るような鋭い痛みがして、思わず立っていられなくなって、その身体を草の上に投げ出す。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 頭を抑えて転がりまわるが、その痛みは全く治まることはない。そればかりかより酷くなって、カナタを苛める。

「あああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 だからと言って巨獣との戦いを中断するわけにはいかないと、紅いセレスティアルを生み出すが、その瞬間痛みは倍増してカナタの頭を締め付ける。

 棘の付いた万力が強まるような痛みに耐えきれず、カナタは遂にセレスティアルを展開し続けることすらできなかった。

 のた打ち回りながら、巨獣の位置を確かめる。これだけの時間があれば、カナタがあれの胃の中に納められるには充分な時間だったはずだ。

「え、誰?」

 カナタの呟きには答えない。

 人がそこに立っている。

 いや、厳密にはそれを人間と評してしまうのは些か的外れな気がした。

 翡翠色の髪は、地面に擦れるほどに長い。

 透き通るような白い肌に、身体を覆う草木で編まれたような薄布。

 足元には木の根のようなものが伸びて、絶えずその周囲を動き回っている。

 柔らかそうなその見た目は、間違いなく少女のものだった。

 カナタよりも少しばかり身長が高いが、その表情はあどけなく、同年代のようにも見える。

 そんな森の精のような少女が、巨獣の前で手を翳している。

 驚くのは、何の力もないように見えるその掌を前にして、巨獣の動きがぴたりと停止していることだった。

 それから少女が何度か頷くような仕草をすると、巨獣は背を向けて、重苦しい足音を立てて樹海の奥へと帰って行った。

「た、助けてくれたの?」

 少女が振り返る。

 髪色と同じ、翡翠の瞳をした綺麗な顔に、カナタは一瞬言葉を失う。

 或いはそれが、失った友達と同じ瞳の色をしていたからかも知れないが。

『……!』

「なに!」

 頭の中で何かが響く。

 鈴を鳴らされたような可愛らしい音だったが、まるで超至近距離で鳴らされているようで、カナタは驚いて一歩後退った。

 少女は少しだけ悲しい顔をして、手を差し伸べる。

 するとカナタの足元から木の根が伸びて、両足に絡み付いてくる。

「やっぱり敵なの!」

 気が付けば頭痛は消えていた。

 紅いセレスティアルを生み出して、即座に剣に変える。

 足元の木の根を切断すると、今度は盾の形にして二人の間に展開する。

 目の前の少女が敵か味方かはまだ判らないが、一先ずは距離を取ることが先決だった。

 だが、それを見た少女の様子がおかしい。

 何かに怯えるような顔をして、それから頭を抑えて叫ぶように口を開ける。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 そうして再び頭痛が来た。

『……!』

 少女は何かを訴えるように口を動かしながら、精神派のようなものでカナタに頭痛を送りつけているようだった。

 その表情から何かを察して、カナタは痛みに耐えて叫ぶように声を上げる。

「これが駄目なの? 怖いの!? だったらやめるからそれもやめて!」

 セレスティアルを解除する。

 その瞬間、少女から怯えが消えて、穏やかな表情に戻った。

 同時に、カナタの頭痛も嘘のように消えていく。

『ダメ? ダメ。ダメ。コワイ』

 リンと頭の中に直接響く声に、意味が生まれた。

 それはまるで人の声のように形を持って、カナタにその意思を伝えてくれている。

「じゃあほら、これで大丈夫でしょ? 大丈夫だよね?」

『ダイジョ? ……ダイジョウブ?』

 首を傾げる少女の仕草が、妙に微笑ましい。

 頭を抑えながらカナタは立ち上がると、少女の目の前に立った。

 再び地面から根っこが伸びてきたのを見て、それを手で制する。

「それやめてよ。びっくりするから」

『ビック?』

「びっくり。こう」

 身振りで驚く仕草をして見せる。

 どうやらそれが伝わったようで、根っこは地面に引っ込んでいった。

「……で、君は何者なの? 悪い人には見えないけど……」

 木が人になったような姿をしたその少女は、地面を踏みしめてカナタに近付いてくる。その足を見れば裸足だったが、草で切れて傷ついている様子もない。

 そして手を指しだして、カナタの額の辺りに触れる。

 キィンと、一度頭の中で甲高い音が鳴った。

 それが何を意味するのかは判らないが、今は頭痛もなく、害を加えられた様子もなかった。

『コレデ、ダイジョブ。ツウジル?』

「え、あ。うん! 通じてる」

 聞こえはたどたどしいが、頭の中でしっかりと言葉として伝わってくるようになった。どうやら、カナタの中にある言葉を読み取ったようだった。

『アノヒカリハダメ。アカイノ、ヤメテ』

「紅いのって、これのこと?」

 掌に小さく、紅いセレスティアルを発生させる。

『ヤメテ!』

「はいやめます!」

 頭痛が一気に襲い掛かって来て、カナタはすぐさまそれを引っ込めた。

『……ヤメテ』

 どうやら余程あれが恐ろしいようで、顔を伏せてしまう。

 何やら悪いことをしてしまったような気がして、カナタは彼女を覗き込んで改めて謝罪の言葉を口にする。

「ごめんね。怖がらせちゃったのかな? あの、そんなつもりは全くなかったんだけど、正当防衛って言うか」

『ヤメテクレレバイイ』

「あ、そう。えっと、それで君は何者?」

『ドライアド』

「なにそれ。ドライアイ?」

 頓珍漢な返答に、ドライアドを名乗った少女が溜息を吐いた。

「今、ボクのこと馬鹿だと思ったでしょ?」

『ソンナコトナイ。ヘンナダケ』

「……それはそれで複雑なんだけど。で、そのドライアドが名前ってことでいいの?」

『ナマエ?』

 今度は彼女が首を傾げる番だった。

「そう。名前。ないと不便でしょ? ボクはカナタだよ」

『カナタ?』

「カナタ。君は?」

『ナイ』

「そうなの? じゃあボクが付けてもいいかな?」

 こくりと頷く。

「うーん。ドライアドでしょ? ドライアド、ドライアド、ドライア……。イアちゃんでどう?」

『イア?』

「いあ」

『ワカッタ。イア』

 少女は納得したようで、自分の名前を反芻するように口の形を動かしている。

 そこから声が発せられることはないが、どうやら喜んでいるようだと、カナタは勝手に解釈することにした。

「それでさ、イア。ボク、目が覚めたら急にここにいたんだけど、帰る方法知らない?」

 そう質問すると、イアは少しだけ困ったように首を傾げて、何かを考え込む仕草をする。

『カナタ、ツレテキタ、イア』

「え? じゃあ帰り道教えて」

『ヤダ』

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