第五節 期間限定英雄

 オル・フェーズ第十五地区。

 エイスナハルの教会を中心に大きな道が引かれ、商店と居住区が雑多に立ち並ぶその街は、ヘルフリートの圧政が始まった今でも多くの住民がいる。

 そのメインストリートとでも言うべき広い道で、ラウレンツは槍を構えて声を張り上げていた。

 自分よりも先に行かせた部下達はその背に荷物を背負っている。それらはオルタリアの武器庫や食糧庫から奪ってきた物資の数々だ。

 既にオル・フェーズでのゲリラ戦が始まってから数日。相手も警戒を強めているであろうと言うラウレンツの予想通り、今回の襲撃は順風に終えられたとは言えなかった。

 本来ならば散り散りになって逃げるための道は大半が封鎖され、別れて敵を攪乱することもできなかったラウレンツ隊は苦肉の策として、一塊になっての強行突破を決行。

 敵の包囲を抜けることには成功したものの、そのまま追撃を受け、遂には逃げきれず追いつかれてしまった。

「行け、ほら行け! 早く!」

 部下達を背を押すようにして、裏通りへと押し込んでいく。ここから先に行かせてしまえば、そう簡単に補足されるものではない。

 オル・フェーズは広大で、街の中央付近ならともかくとして外れの方になればその地理を完璧に頭に叩き込んでいる者の方が少ない。

 紆余曲折あったが、作戦は成功する。

 ここでラウレンツが殿としての役割を果たせればの話だが。

「ったく……。あの軍師殿を信じてみたはいいが、こりゃいよいよもって貧乏籤を引かされたみたいだな」

 愚痴りながら、手の中で回転させた槍を構える。

 ラウレンツが立ち止ってそうするだけで、追撃してきていたオルタリアの兵もそこで武器を構え、警戒態勢を取る。

 今のところ敵の数は十名。これから他方に散った連中が集まってくればどれだけになるか予想は付かないが、当面はラウレンツ一人で持たせるつもりだった。

 そのために部下には厳命してある。決して後ろを振り返るな。任務を果たすまでは助けにくる必要はないと。

「さあ来な。オル・フェーズの兵がどんなもんかは知らねえが、稽古つけてやるよ」

「ラウレンツ卿! 投降してください! 今ならばまだヘルフリート陛下もお許しになるはずです!」

「お優しいことで。涙が出てくるな。だがな、俺だって馬鹿じゃねえ、気の迷いなんかでこんなことはしねえよ」

「そうですか。……ならば!」

 兵士の一人が踏み込んでくる。

 真っ直ぐに振り下ろされたその剣撃を槍で絡め捕り、石突きで身体を殴打する。

 そのまま身を捻ってもう一人を刃で斬る。

 態勢を崩したところを一突き。一人を葬り次は倒れた二人目。

 瞬く間に二人を倒したラウレンツは、そのまま更に前に出る。

 三人、四人と槍の前に兵士が倒れる。多勢に無勢だが気迫は充分。自分達の戦いに疑問を持っている連中など、物の数ではない。

「苦戦しているようだな」

 その兵達の後ろから、無機質な声が響く。

 言葉は人のものだが、その声がラウレンツには人間のものとは思えなかった。

 調律を失敗し、音が狂った楽器を無理矢理奏でて出しているような不自然で不規則、嫌に耳に残るその音に、思わず振り回していた槍を止めてその方向を睨む。

 兵達の後ろにそれは立っていた。

 黒地に金の意匠が施された軍服を纏い、顔には仮面をつけたその人物。

 ヘルフリートの親衛隊を名乗る、突然現れた奇妙な連中のうちの一人だった。

 ラウレンツは戦場を恐れない。武器を持って戦いに出る以上、そんな心はとっくの昔に捨て去って来た。

 そのはずなのに、無性に身体の内側がざわついた。戦ってはならない何か、決して人が触れてはいけない禁忌が、目の前にあるような気がする。

 気付けば、冷や汗が鎧の中を伝っていた。

 槍を握る手が震えている。

 それはラウレンツだけではないようで、本来ならば親衛隊の仲間であるはずの兵士達ですらも情けなく全身を震わせ、彼の次の言葉を裁きを待つ罪人のように待ち続けている。

「ようやくお出ましか」

 だが、ラウレンツは違う。

 彼は天の沙汰を待つ罪人ではない。震える身体を無理矢理に押し留めて、逃げ出したくなる心に杭を打ち込んで、どうにか自らをその場に留めた。

 それでも少しばかり声が震えていたのは何故だろうか。その理由はラウレンツ本人にすら判らない。

「ラウレンツ・ハルデンベルク。エーリヒ・ヴィルヘルム・ホーガンの子飼いの貴族か。その行いはヘルフリート様を酷く傷つける。その命を差し出し罪を認め、許しを請えばその魂を救済してやろう」

「傷つくようなたまかね、あの王様が」

「返答は拒否で構わんか? ならば無様な死体を晒すだけだぞ」

 無機質な声は雑音のように心を掻き乱す。

 喋っているだけで無意識に後退りそうになるのを必死で堪えながら、ラウレンツは虚勢を張り続けた。

「どっちも一緒じゃねえか! それによ、俺は殿を引き受けたんだよ、お前さんを止めなきゃ部下が死ぬ。隊長として、あいつらの命を預かる貴族としてそれだけはさせられねえ」

 例え身分は違えど、多くの戦場を共に駆けた。

 こうしてヘルフリートに弓を引くことになってさえ、ラウレンツを信じて付いて来てくれた兵達を、どうして恐怖などと言う感情に負けて見捨てられるだろうか。

 そんな軟弱な男に育ったつもりはない。

 ラウレンツ・ハルデンベルクは家柄に誇りはない。小さな、領地すらもロクに持たない地方貴族の一人に過ぎないのだから。

 だが、ヴィルヘルムの将だ。

 この国を護る護国の将軍、エーリヒに認められ共に戦場を駆けた戦士だ。

「死んでもここは通さねえ」

「ならば死ね」

 影が揺れる。

 一瞬で、その姿は目の前にあった。

 それは遠くにいる時はそれほど意識していなかったが、長身のラウレンツよりも一回りほど大きい。大凡人間とは思えない体躯をしていた。

「くっ!」

 槍と何かが弾ける。

 剣ではない。広がった軍服の袖の中に隠れているのは、硬質な爪のような刃だ。

「こんなところで……!」

 心臓が止まりそうなほどに恐ろしい。

 目の前の男が、怪物か何かにしか思えない。

 捕食者を前にした動物のような、本能的な恐怖がラウレンツの動きを鈍らせて、判断を誤らせる。

「だがなぁ!」

 恐怖を踏み越えろ。

 思い出すのは初陣のその日。

 初めて戦場に立った時、心は震えていた。

 初めて敵を屠った時、身体が震えていた。

 いつかは自分もこうなるのだと、そんな予感が頭の中を支配して、身体が強張って動けなくなってしまった。

 その恐怖に比べれば、目の前の仮面男の何が恐ろしいものか。

 奥歯を噛みしめ、相手を正眼に睨む。

 ラウレンツのその態度に驚いたのは、親衛隊も同様のようだった。

 振り下ろされた爪を、槍の穂先が弾く。

 会心の受け流し。跳ね上げられたその腕は、もう身体を護ることはできない。

 一気に踏み込み、渾身の一突きを放つ。

 電光石火の一撃は、紛れもなく親衛隊の身体へと吸い込まれていく。

「もらっ……た!?」

 硬質な音がした。

 肉を貫いた感触がない。

 巨大な虫の甲殻を叩いたかのような、生物と金属の狭間の感触。

 それが、ラウレンツに己の敗北を告げた。

「人間風情が」

 ジャキ、と。

 金属が擦れる嫌な音が聞こえる。

 両の袖から五本ずつ、計十本の曲刀のような爪が覗く。

 それが左右から、ラウレンツに向けて襲い掛かろうとしていた。

 ――もし、彼方から吹き荒んだ炎の風がなければ、それは確実にラウレンツの身体をずたずたに引き裂いていただろう。


 ▽


 身体に重大な負荷が掛かる。

 振り下ろされた爪のような刃は、人の力を以て放たれたものではない。

 軽く上から抑えるような動作がこちらに与える重圧は、人間を相手にしている時を遥かに超えていた。

 それでも、耐える。

 耐えなければ人が死ぬ。自分が今背に庇っている男が、一度は刃を交えたその騎士が死んでしまう。

 だからトウヤは必死でその場に踏みとどまった。

 ラウレンツと親衛隊に挟まれるようなその位置に。

「しょ、少年……」

「無事か! 無事だったら早く下がってくれ、長くは……!」

 放り投げるように親衛隊と距離を取る。

「このっ……!」

 爪と剣が交差する。

 ギギギと擦れ合う音を立てて、刃は火花を散らす。

「すまねえ! すぐに増援を連れてくるからよ!」

「任せた!」

 ラウレンツが去り、一先ず安堵する。

 彼をここで死なせるわけにはいかない。例え一度は敵として戦った身であろうとも、いやあるからこそ判る。

 彼以上に頼りになる指揮官は、このオル・フェーズには他にいない。

「エトランゼ」

 仮面の下の目が光る。

 背筋が凍るような寒気が走る。

 本能的なものが訴える。あれは捕食者であると。

 獣が、人間ですらも他の生き物に対してそうであるように、他種を喰らうことを当然とする食物連鎖の上位種。

 それが放つ恐怖が、本能を支配しようとする。

 だが、それだけだ。

 トウヤの刃は炎を纏い、振りかぶられた親衛隊の爪を纏めて斬り飛ばす。

 溶けたような斬れ跡を見て、親衛隊のその男は一歩後退った。恐怖し、心に負けたのは相手の方だ。

 人間には武器がある。それによって本来ならば自らを喰らおうとする獣たちを克服してきた。

 この世界の人間にはまだそれはないのかも知れない。だから、目の前の強者に対して怯えを封じ込めることができないでいる。

 トウヤは達は違う。

 決して望んだことではないが、この世界に来て貰った贈り物がある。

 声にならない声がする。

 それはどちらかと言えば人が放つ音ではなく、獣の咆哮にも似た、不気味な唸り声だ。

 それはやがて生き物としての体裁を失い、まるで怨霊の嘆きのような響きを持って辺りに木霊する。

 二人の戦いを見守っていた野次馬達が、追撃に来ていた兵士達がそれに怯えて、その場から動くことができなくなる。

 ある者は無意識に後退り、ある者は腰が抜けて立てなくなり。

 この怪物に対する恐れを隠すことができなくなっていく。

 親衛隊の服の間から何かが伸びる。

 先端に鉤爪のようなものがついた触手が三本、無軌道な動きを持ってトウヤの身体を傷つけようと迫って来た。

「そんなもんで!」

 足元に叩きつけた炎が上に燃え盛る。

 触手は炎に巻かれてあっという間に炭化し、ぼろぼろと崩れ落ちていく。

 トウヤの持つ炎を纏った剣が正面から仮面を打った。

 そのまま顔面まで真っ二つにしてしまいかねないほどの勢いだったが、硬質な手応えと共に弾かれる。

 仮面が割れる。

 そこから現れたのは、顔のない貌。

 目の部分がくりぬかれたように赤い光を放つ、人のものではない何かの顔だった。

「化け物だ!」

 後ろで誰かが叫ぶ。

 親衛隊はそれを許さない。

 距離を取ろうとする味方の兵士達に向けて、その背から幾本もの触手が伸びる。

 足を絡め捕り転倒させ、仰向けに倒れたところを尖った先端に顔面を滅多刺しにされて、一人が力尽きた。

 それに更に怯える兵士や民衆に向けて、親衛隊は身体中から触手を伸ばして攻撃を仕掛けようとする。

「なんてことを!」

 その瞬間、トウヤは考えることを捨てた。

 目の前の敵に対して残っていた恐怖が、心の中で完全に燃え尽きて炭となっていく。

 こいつに対する恐怖であるとか、正体とか、勝機とか、そんなものは最早どうでもいい。

 罪もない人々を巻き込むその行為、そして仲間すらも傷つけるその非道な行いを許しておくことはできない。

 炎が天に巻き上がる。

 トウヤの放つ最大火力が赤い柱となって空へと伸びていく。

 親衛隊は思わぬ攻撃に怯んだが、それでもまだ動きを止めることはなかった。

 炎の中から腕が伸びてくる。

 そこに生えた五本の刃が、トウヤを狙って振るわれた。

 そんなものに当たりはしない。

 訓練をすれば、悪魔と呼ばれたあの男に散々痛めつけられたのだ。

 今更この程度の攻撃に当たってやるほど、未熟なつもりはない。

 お前のその動きは、先日トウヤが戦いつい今しがた助けたラウレンツの槍の、何分の一の速度だ。

 得体の知れない恐怖で人を惑わせて、それだけが強さの奴に負けてやるわけにはいかない。

「お前を!」

 炎が晴れる。

 焼け焦げてぼろぼろになった軍服の下から覗くのは、やはり人のものではない肉体。

 黒い甲殻に覆われたそれは、魔物達を統率する黒い尖兵によく似ている。

 だが、今はその肉体も炎によって崩壊寸前にまで傷つけられていた。

「ここから!」

 炎を纏った剣が、既に半分ほど溶けかけた鋼の刃がその肉体を斬りつける。

 紫色の血を吐きだして、ようやく親衛隊を名乗るその怪物は怯んだ。

 窪みに嵌め込まれただけのような虚ろな赤い目がぎょろりと動いてトウヤを睨みつける。

 そこにある感情は怒りだろうか。

 だとしたら上等だ。

 こちらの方が怒りは遥かに上なのだから。

「出すもんかぁ!」

 ガギン。

 そんな音がして、トウヤの両手は頭の上にあった。

 下から伸びた触手が、両手で握った剣を突きあげるように吹き飛ばしていた。

 笑い声のような音が親衛隊から響く。

「だから……!」

 それが奴の誤算。

 剣を失った程度で戦意が消えると本当に思っていたのだとしたらおめでたいことだ。

 道具を持たなければ人は自分達に勝つことはできないと勝手に思い込んでいたとでも言うのだろうか。

 伸びる触手を、襲い掛かる爪を体術だけで避けきる。

 そんなもので。

 自らの特権を生かしただけの無様な戦い方で、本当に勝てると思っていたのか。

 踏み込む。

 目の前に異形の顔が迫る。

 両の手をつきだして、その身体へと押し当てた。

「人間を舐めんな、化け物!」

 放たれた炎は、遠距離から燃やすそれの比ではない。

 瞬く間に親衛隊の身体を包み込み、熱された全身から炎が溢れ、その肉体を燃やし尽くす。

 立ち上る陽炎の下で、その肉体は真っ黒く染まって行き、やがてはぐらりと崩れ落ちていく。

 砂をぶちまけたような音がして、親衛隊であった何かは地面に弾けるような形で転がって動かなくなった。

 静寂が辺りに広がる。

 追撃してきた兵達も、恐怖のあまり逃げようとしていた民衆達も、誰もがその場で固まっていた。

 親衛隊を倒した一人のエトランゼの少年の一挙一動に、視線が集まっていく。

 何をすればいいか判らないトウヤの下に、硬質な足音が一つ。

 幽鬼のように立つ長身の人影は、ルー・シンのものだった。

「見てもらえれば判ったと思うが、あれがこの国に巣食う闇の正体だ」

 街中に、その声はよく響く。

 その場の誰もが、あれが何であるかの説明を求めてルー・シンの言葉に注目していた。

 だが、彼はその説明をしない。できるわけがないと言った方が正しいが。

 そんなことよりももっと重要なことを、人々に教えるだけだった。

「国を蝕み、王を堕落させ、人を喰らう悪魔だが、こうして倒すことができる」

 視線がトウヤを見る。

 一度はルー・シンに注目していた人々も、再びあの親衛隊を倒した少年へと期待を寄せていた。

 自分がやるべきことが、判った。

 ルー・シンが何をさせたいかも。

「……俺は、この国を救いたい。あいつらを追いだして、みんなの暮らしを元通りにしたい。俺はエトランゼで、みんなからしたら信用できないかも知れないけど、それでも」

 言葉が切れる。

 何を言ったらいいのか頭の中は真っ白だった。

 でも、自然とそれらは口から流れ出ていく。

 そこにあるのは紛れもない、トウヤの本心だった。

「力を貸してほしい。この国を、みんなの家族や友達を護るためにも」

 一つ声が上がる。

 少し離れたところから聞こえてきたそれが何を訴えていたのかは、聞き取ることはできなかったが、決して否定するような言葉ではないのは理解出来た。

 それに呼応するように、二つ三つと、小さな声が聞こえてくる。

 あの怪物を、国に巣食う魔物を倒した一人の少年に期待が寄せられて、そして自らもそのための礎になろうと立ち上がる人達がいた。

 最初は、敵対していた兵士達が。

 次に、日々悪くなっていく暮らしを憂いていた人々が。

 いつの間にかこの場には多くの人が集まって、トウヤ達に協力を申し出てくれていた。

 エーリヒの部下であったラウレンツがこちらに協力しているというのも大きいのだろう。自らの上に化け物がいると知った兵達も、次々と兜を脱いで投降してくる。

「約束通り。英雄の誕生だ」

 ルー・シンはトウヤにだけ聞こえるようにそう言うと、人々の間をするり抜けてと立ち去って行く。

 それを見つめるトウヤの胸の内に、薄ら寒いものが去来する。

 あの男はこの事態を読んでいた。全て理解したうえで事を進めていた。

 トウヤには戦略は判らない。だから、これから自分達がどうなっていくのかも、健闘がつかなかった。

 ただ、彼に従うしか生きる道はないと、流れに乗っているだけだ。

 もし、この流れが氾濫しヘルフリートを倒したとして。

 その先にあの男が望むものはいったい何なのだろうか。

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