第七節 失い、それでも
イシュトナルから少しばかり東に向かうと、ヤムルナと言う小さな街がある。人口は千人ほどでかつてはオルタリアから派遣されてきた貴族が治めていたが、ウァラゼルが襲撃してきた際に本国に引き上げている。
その貴族とは全く逆の道筋を辿るようにオルタリアにやって来たイェルス・アスマン伯爵は今、そこにある屋敷に居を構えていた。
彼がここに来たことに計画性はない。元々はイシュトナルにいたイェルスは、エレオノーラが行方不明になった折にここに逃げてきただけの話だ。
自分がオルタリアで暮らしていたものよりも数段小さな屋敷で、彼は今日も昼間から酒を飲んで柔らかな椅子に腰かけて腹を揺らしていた。
「土台無理な話だったのだ。あの力を持つ、神の使いだぞ、相手は! 御使いに人が逆らえばどうなることか!」
彼の叫びを掻き消すように、外からは絶えず降り注ぐ雨が窓を叩き続けている。
彼とて敬虔ではないがエイスナハルの信徒。神々に弓を引くことの愚かさはよく理解している。
それでも彼が御使いを倒したエレオノーラに従っていたのは、その信仰心よりも遥かに保身の方が上回っていたからだった。
神に祈ろうと人は救われない。ヘルフリートの専横による理不尽な振る舞いを、神が裁いてくれるはずもないのだから。
そうして逃げた先で、彼は自分の目で見てしまった。
御使いのその力を。
せめて貴族の義務は果たそうと、兵士達を率いて近くの街や村に救助に行こうとしていた矢先、それは目の前に現れた。
銀の髪を持つ御使いは、圧倒的な力を以て人を蹂躙する。
神の裁きは下された。人がそれに抗う術などない。
だからこうして、イェルスは引きこもって酒に溺れる日々を過ごすことにした。
「イェルス様」
扉がノックされるのと同時に、給仕の女の声が部屋の中に響く。
それにすらも怯えて、イェルスは身体を固くしながら上擦った声で怒鳴る。
「な、何事だ!」
「面会を希望しているお方がいらっしゃっております」
「……面会だと?」
尋ねるように聞き返すと、些か戸惑った声で給仕は答える。
「はい。魔導師様。……ヨハン様です」
心臓が大きく跳ねる。
その名前は、聞きたくなったものだ。
「……通せ」
だが、逃げてばかりもいられない。仮に力尽くで追い返せば次はない。イェルスは相当数の兵を抱えているが、エトランゼの大半はヨハンについている。彼と事を構えて、無事でいられる保証はなかった。
それから少しして、足音が近付いてくる。
ノックに対してイェルスが答えると、「失礼します」と丁寧な声がして、その人物は部屋の中に踏み入って来た。
給仕から渡された布で雨を拭きながら、ヨハンは部屋の中をぐるりを見渡す。
そしてその隅の方でテーブルに置いた酒を喰らっているイェルスを見た。
「イェルス殿。昼間から酒は」
「黙れ。元はと言えば貴公が予告もなしに現れたのではないか」
「……まぁ、確かに」
苦笑して、ヨハンはイェルスの前まで歩いてくる。
その姿に威圧感を覚えて、イェルスは酒を飲む手を止めて、自然と姿勢を正して座っていた。
「よ、用件は判っている」
「話が早くて助かります」
「わしの持っている戦力が欲しいのだろう? アスマン家に仕える兵も将も、ヴィルヘルムほどではないが精強だ。貴公に貸し与えるには勿体ないほどにな」
「実際に用兵するのはクルト卿になると思われますので、その辺りはご心配なく」
「……若造に務まるものかな」
悔しさから心にもないことを吐き捨てる。
反乱の鎮圧経験こそあれど、まともな戦場に出たことがないイェルスよりも若者達の方が遥かに有能であるなど、自分自身がよく判っている。
どうせ今日、イェルスは全てを失うのだ。ならばこれぐらいは言ってやってもいいだろう。
「やってもらうしかありませんね。人手不足ですから」
「だろうな。ディッカーも苦労するだろう」
ディッカー・ヘンラインはイェルスにとっては取るに足らない地方貴族の一人に過ぎないが、イシュトナルに集まった者達の中では信用できる人物だった。彼は立場こそエレオノーラの側に付いてはいるが、決して今力を持っている貴族達に礼儀を欠いたりはしない。そこがエトランゼやエレオノーラに心酔する若い貴族達とは違う。
だから、ヨハンは次に言った一言はイェルスに大きな衝撃を与えた。
「ディッカー卿は戦死なされました。彼の直属の部下達と一緒に」
「……なんと……」
イェルスからすれば、彼が戦場に出ていることすら知らなかった。
その程度のことも、知らせられることはなかった。
改めてそれが、自分が如何に道化であったかを思い知らされる。
伯爵としてエレオノーラに次ぐ地位を持たされていながら、その実はお飾りになるどころか、いてもいなくても同じような存在だったと。
まだ年端もいかない少女であるエレオノーラも、イェルスのことなど全く無視したうえで、自分で自分の進む道を決めてしまった。
剣を取り、自分の血を分けた兄と戦うという道を。
「そうか。……そうか。それで、だから貴公はわしの兵力を掠め取りに来たと」
手で額を覆いながら、そう口にする。
対してヨハンは若干戸惑った声で、
「人聞きの悪いことを。協力してほしくて来たのです」
と言った。
「協力だと? 無理矢理にわしの財産を奪っていくつもりなのだろう? エレオノーラ様がいなくなるやすぐに逃げだしたわしは、裏切り者なのだからな」
「裏切り者?」
以外にもきょとんとした顔で、ヨハンは尋ね返す。
イェルスが静かに頷くと、何かを思案するように天井を眺める。
そうして数秒ほど経過してから、穏やかな声色で話し始めた。
「イェルス卿は裏切ってなどいないでしょう。王家に仕える貴方が、姫がいなくなったことでその場を去るのは道理。むしろヘルフリートの陣営に参加しなかっただけ、救われました」
「白々しい! 今更ヘルフリート様の下になど行けぬわ!」
だからこうして、イシュトナルからそれほど離れていないこの場所で酒を飲み、無為な時間を過ごしていたのだ。
「そしてこの街を護っていてくれた。俺にとってはそれだけ充分な助けとなりました」
「……貴公……」
「今日ここに来たのは改めて嘆願するためです。既に姫という大義を失った我々ですが、国を憂う者の一人として、俺達を率いてほしい」
「……貴公は正気か? わしが貴公等の先頭に立てと?」
「残った貴族達の中で一番高い位を持つのが貴方です。なにもおかしなことはないかと。姫様が戻り、共にヘルフリートを討ては、その名声はこれまでにないほどに高まるでしょう」
イェルスの太った身体がぴくりと反応する。
ヨハンの言葉が、耳障りよく溶け込んでくる。
もし、イェルスが率いるイシュトナル軍がエレオノーラを救いだし、ヘルフリートを討ち新たな政権を打ち立てたとしたら。
その活躍は国中に響き渡り、更なる名声を手に入れることができる。五大貴族が六大貴族と呼ばれる日も来るかも知れない。
「だ、だが貴公はいいのか? 貴公こそ、名を上げる機会だろう?」
「そんな心はありません。ただ、エレオノーラ様を助けて、彼女の理想に従いたいだけですから」
慇懃にそう語るヨハンの姿に、イェルスは急激に熱を持った身体が冷めてくのを感じた。
或いはその返答が野心を含ませたものならば、彼がその疑問を持つこともなかったのかも知れない。
「二つ、聞きたい」
「はい」
「勝てるのか? 敵はヘルフリート様だけではないのだろう? あの突然現れた巨大な魔物。わしはあれをエイスナハルの教典に書かれている『災厄』と思う」
天地創造の後、人を殺戮すために現れた災厄。
それに対して立ち向かうは父神エイス・イーリーネと、その僕たる御使い。
永き戦いの後、災厄は滅びた。父神は勝利し、その災厄達を世界に封じて、それらを監視するために御使いをこの地上に残した。
そして封印しきれなかった災厄の僕達が、この世界に残る魔物達だと語られている。
「勝てるのか? 人の力で、災厄に」
再度、問う。
「勝ちます。そうでなければこの国は滅びるでしょうから」
それはイェルスの疑問に対する答えにはなっていないが、そこに込められた決意の大きさは人を納得させるに値する。
何よりも、どちらにせよ国が滅びるという事実は、イェルスも嫌と言うほどよく理解していた。
だからこそ、もう一つの質問が重要なものとなる。
「もう一つの疑問だ」
「どうぞ」
「貴公は、なんだ?」
「なんだ、とは?」
それを聞かれたヨハンの表情が、変わる。
聞かれたくないことだったのだろうか、それとも誰かにそれを聞かれること自体が全く想像していなかったか。
だが、イェルス・アスマンからすれば――もっと言えば、彼に対して好意的でない者達からすれば、ヨハンと言う男ほどに不可解なものはない。
「わしは貴公が恐ろしい。貴公の意思はなんだ? この世界で成し遂げたいこととは、なんだ?」
「……この世界の人も、エトランゼも、どちらもが今よりも前を向いて生きられる世界です。俺はそれを目指して、その為に姫様に協力している」
なるほどそれは、気高い理想だ。何よりもエレオノーラの願いとも合致している。
「その後はどうする? この世界の住人も、エトランゼも導いて、それから貴公はどうする? 姫様に仕えて権力を手にするのか?」
「そんなつもりはありません。必要ならば手を貸しますが、俺自身にそんなものは必要ない。権力はあくまでも手段であり、目的ではない」
「……それが余りにも、わしには恐ろしい。権力が目的でないのだとしたら、貴公は最終的に何処に行きつくのだ?」
「……それは……」
やはり答えられない。
そう言う男であると、イェルスは思っていた。だからこそ怪しくて、恐ろしい。
「家族を亡くしたそうだな」
それは単なる噂話に過ぎないが、イェルスの耳にも入っている。別段、今日までわざわざそれを言うほど、イェルスは悪辣ではないので黙っていただけの話だ。
「わしももう妻を亡くしている。その時は当時の政務も忘れて、五日間は誰とも会わずにいるほどに落ち込んだものだ」
そのことを思い出せば、今でも悲しい。お互いの親同士が決めた許嫁であったが、仲睦まじい夫婦であったと、イェルス自身は思っている。
ヨハンは拳を固く握って、それを黙って聞いていた。
「悲しくはなかったか?」
「……今も悲しいし、悔しい。でも、家族を殺したのは御使いで、だから俺は彼等を倒す術を探している。御使いが人に牙を剥けば、それこそエトランゼだなんだと騒いている場合ではなくなる」
「死んだ家族のことを想うよりも重要か、それは?」
「重要でしょう。生きているそれ以上の人を救わなければならないのですから」
「……ははっ。そうだな。貴公は正しい。イェルス・アスマンは貴公等に協力しよう。盟主として持ち上げるも、ただの一貴族として扱うも好きにするといい。本当に欲しいのはわしの兵力なのだろう?」
ヨハンは何も答えない。
取り繕うことすらやめて、彼は淡々と今後のことに付いて話し始める。
戦力を充実させ軍を再編。そしてまずは災厄を目指して進軍すると。
その道中に立ちはだかるのは恐らく魔物達と五大貴族の一人であるモーリッツ・ベーデガー。
彼の軍を打ち破るためを策を練らなければならない。
そう言って彼はイェルスの屋敷を後にする。
彼がいなくなって、イェルスは酒を片付けさせるために給仕を呼ぶためのベルを鳴らそうとする。
ベルを手に取った自分の手が震えていることに気付いたのは、その時が初めてのことだった。
「大魔導師の名を継いだ、名無しのエトランゼ」
彼の本当の名は何なのだろうか。
何をするために、この地上に在るのだろうか。
疑問は尽きないが、それを解き明かす術などイェルスにはない。
それでも、その名無しのエトランゼの背後に、もっと大いなる何かを見てしまったのは、恐らくは酒が見せた幻影などではないのだろう。
イェルスが外に視線を移すと、あれだけ長く続いていた雨はいつの間にかあっさりと止んでいた。
▽
イェルスの邸宅から外に出て少し歩くと、街の広場がある。
噴水を象徴としたその広場は秋の花が咲き誇り、先程まで降り注いでいた雨の水によって瑞々しく輝いている。
その一角に備え付けられたベンチ。未だ濡れていることも構わずにヨハンはそこに倒れ込むように腰を下ろした。
腕を目に当てて、世界を見ないようにする。暗闇の中で、自分の発言を反芻する。
「俺は、何と言った?」
死んだ家族よりも、御使いを倒すことが重要だと言った。
そこには御使いだけでなく、あの災厄も含まれてはいたのだが。
「重要なはずがあるか」
失った痛みは消えない。だから無理をするほどに働いてヘルフリートを倒すための策を練った。
今も胸の内はじくじくと疼いている。決して消えない傷になって刻み込まれている。
そのはずなのに。
こうして動いている。そうしなければならないのは理解している。
理解している、が。
その行いが果たして人として正しいのか、それが判らない。イェルスに指摘されるまでは考えもしなかったことが、頭の中を錆のように浸蝕する。
そして今もなお、アーデルハイトに並ぶほどに大切な人達を死地に送ろうとしている。
無論、そこには様々な理由がある。
これは全て、イブキを初めとする彼女等の協力なしでは成功しない策ではあると。
だが、本来ならばどうなのだろうか。
失うことを恐れ、感情を優先するのが人なのだとしたら。
「……俺は、なんだ?」
感情とは別の何かが後押しする。
あの災厄を倒せと、そう告げる。
それに逆らうことができない。
意識の奥底にある何かが、囁くようにヨハンを蝕んでいた。
「……よーくん?」
声がして、ヨハンは目を開ける。
目の前には閉じられた傘を持ったイブキが立っていた。
「遅いから迎えに来たんだけど、体調でも悪くした? 病院まで飛んでく?」
竜化して羽を広げようとした彼女を手で留める。
「いや、大丈夫だ。行こう」
立ち上がって、歩き出す。
雨が上がったから、いつの間にか広場にはちらほらと人の影が見え始めている。
こんな状況になっても子供達は元気に駆け回り、水たまりに踏み込んでは綺麗な服を汚して遊び回っている。
その光景を見て、やはり確信する。
護らなければならない。この景色はきっと、理不尽に奪わせていいものではないのだと。
なのに、心は暗い。ヨハンが決意して動くたびに何かが犠牲になって行くのではないかと。
そしてその度に、本当に自分が傷つくことができるのだろうかと。
そんな疑問ばかりが浮かんでは消えていく。
「よーくん」
腕が取られる。
柔らかい感触と、温かな体温がヨハンの思考を奪った。
「あたしは何があってもよーくんの味方だから。絶対に、今度こそずっと傍にいる。例えそれが罪滅ぼしのためだとしても」
その言葉は果たして救いの一言か、それとも破滅に導く甘言か。
今のヨハンには、その判断もできはしなかった。
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