第五節 贈り物

 ラニーニャが目覚めたのは、宿代わりに借り受けているイシュトナルにある共同住宅の一室だった。

 これまで誰にも使われていなかったこの部屋は、家具と呼べるものは最初から備え付けられているベッド一つとテーブル、それから椅子ぐらいしかなく、がらんとして何処か物悲しい。

 そんな部屋の中、窓を叩く雨の音が煩わしくて目を開けると、たった一つしかない椅子をベッドの傍に引き寄せて座るクラウディアと目が合う。

 彼女はラニーニャが目覚めたのを見て、一先ず安堵の息を吐く。それからジトっと眇めた目で睨みつけた。

「あのさー。アタシも大概無茶な自覚あるけどさ、ラニーニャはそれ通り越してもう馬鹿の領域だと思うよ?」

「なにを。ラニーニャさん頑張ったじゃないですか。まずは感謝の言葉が先でしょう」

「この間大怪我したばっかりじゃん! なのにまたこんな生傷作って!」

 折角取れた包帯が、また身体の至る所に巻かれている。しかし現状痛みはあるものの動かない場所はないし、以前よりは遥かに軽傷だった。

「……手加減されましたね。随分と」

 もし彼女が本気だったのなら、きっと五体満足ではなかった。

 無論、その代償を支払わせることには成功したつもりだが。

「……ラニーニャ。アタシのためにあんなに頑張ったの?」

 顔を伏せながら、クラウディアがそう尋ねる。

「半分当たりです。もう半分はラニーニャさんが気に入らなかったからです」

 完全に見透かされていた。

 結局のところ、自分の無力さに対する苛立ちを何処かにぶつけたかっただけの話だ。

 そして都合のいいタイミングで、都合のいい存在であるイブキがやって来た。

 たったそれだけの話。

「でもこれで判ったじゃないですか。あの人は強いけど、クラウディアさんにはラニーニャさんがいる。一人でできなければ二人でやればいいんです」

「……ありがと」

 それで全部が納得できたわけではないだろう。

 物事をそう簡単に割り切ることなどはできはしない。それはラニーニャだってそうだ。

 それでも彼女は顔を上げて、笑顔を見せてくれた。

 それだけでも、痛い思いをした甲斐があると言うものだ。

「気に入りませんけど、認めましょう。あの人は強い。きっとよっちゃんさんの手助けになります」

「……そうだね」

「逆転の発想ですよ。あれだけ強い人が傍にいれば、よっちゃんさんも死なないじゃないですか」

「……うん」

 その役割を自分が負いたかった。

 そう思うのは、単なる驕りでしかないが、その気持ちは痛いほどにラニーニャも理解してあげられた。

「それにですね」

 比較的傷の浅い右腕が動いて、彼女が剣を振るうのと同じだけの速度でクラウディアの胸に伸びる。

 そしてそのまま豊かな膨らみを容赦なく揉みこんだ。

「ひゃぁ! なに、何なの!」

「おっぱいは勝ってます!」

 柔らかい、至高の感触だ。これまで何度か触ったことがあるが、こうして鷲掴みにするのはまた違った趣がある。これがジャパニーズ・ミヤビと言うことか。日本人はここにはいないが。

「嬉しくない!」

「いいですか、クラウディアさん。以前も言った通り、男の人はおっぱいに弱いのです。その最強の武器を使って攻めればあっという間に陥落します!」

 絶対、きっと、多分そう。昔読んだ雑誌の読者投稿欄に書いてあった気がする。

「いや、それは……。恥ずかしいし……」

 消え入るような声だった。

「なにを! それだけ強力な武器を持っていて使わないのは愚かとしか言えません! 大丈夫、彼女もそれなりに大きかったですが、クラウディアさんには年齢のアドバンテージが……!」

 小柄な体躯に大きな胸。これは神が与えたもうた一つの奇跡だろう。

「いつまで揉んでんだよ!」

 怒鳴られて、渋々ラニーニャは手を離した。

 そのまま感触を思い返すように、右手を何度も握り込む。

「それ、やめて」

「えー……。別に良いじゃないですか。減るもんじゃないし」

 増えもしないが、と。自分の、剣を振り回すのに極めて適した大きさの胸を見下ろしながら、心の中でだけ呟く。

 不満そうに口を尖らせてから、今度は悪戯っ子のような表情でクラウディアを見る。

「それにしても、随分としおらしいじゃないですか。クラウディアさんらしくもない」

「……なんの話?」

「よっちゃんさんの話です。別に本気ではなかったんでしょう? いざとなったら逃げるぐらいの気持ちだったのに、どうしたんです?」

「……まぁ、色々あってさ」

 そっぽを向いて、クラウディアはぶっきらぼうにそう言った。

 その『色々』の部分が気になるのだ。何せ命の恩人であり親友のことであるのだから。

「教えてくださいよー。今日はラニーニャさん、クラウディアさんのために頑張ったんですよ」

「頑張ってくれたのは認めるけどさー。負けちゃったじゃん」

「負けてません! いいところ引き分けです!」

「……ううん。負けだよ、今日のところはね」

「……まぁ、かも知れませんね」

 さして悔しそうでもなく、ラニーニャは認めた。

「でも次は勝ちますよ。わたし達はわたし達にしかできない戦いをしましょう」

「例えば?」

「それは思いつきませんけど、何かあるはずです。あの脳筋蜥蜴にはできない、よっちゃんさんの助けになれる何かが」

 さっき心の中で決めたあだ名はもう忘れた。でもやっぱり冬になったら冬眠してしまえ。

「……よっちゃんの助けになる、何か」

「あるはずですよ。例えばクラウディアさんお金持ちですから、お金とか資金とかマネーとか」

「ラニーニャ、アタシのこと馬鹿にしてない?」

「ははひひへはへんはらほほほひっはらはいれくらはい」

 親友として断言できる。クラウディアの強さはお金とおっぱいであると。

 ぐいーっとラニーニャの両頬を伸ばしながら、そう尋ねると、彼女は涙目になってこくこくと縦に頷いた。

「お金持ちって、今何の役にも……立つね」

 言いながら、クラウディアは窓の外を見る。

 思い当たることを見つけて、クラウディアは唐突に席を立った。

「ラニーニャ、ごめん。アタシちょっとやることで来たから、行ってくる」

「はい。行ってらっしゃい」

 傘を持って、クラウディアは部屋を出ていく。

「そうです。いい女は戦場で輝くだけじゃありませんよ。しっかりと男性を支えてこそですからね」

 それを見送るラニーニャは、その顔に優しい笑顔を浮かべてそう呟いた。

 脳筋蜥蜴と剣を合わせて、きっと仲良くなれないことは理解した。

 そして同時に、自分達は戦いの中で生きることに喜びを見出していることも、判ってしまった。

 剣を振るい、敵を屠る。それが少しでも楽しいと思ったから、もう逃げられない。

 だからせめて、クラウディアにはそれ以外の道があってもいい。戦場に出ることも否定しないが、そうではない人の支え方を知って欲しかった。

 そう思って窓の外に顔を向けると、未だ降りやまない秋雨が、静かに世界を靄の中へと包み込んでいた。


 ▽


 ラニーニャのイブキの決闘があったことなど全く知らされていないヨハンは、家で一人珈琲を飲んでいた。

 時刻はまだ夕方だが、例の問題に対する解決の糸口も見いだせず、早めに切り上げて部屋で魔導書を読み耽っていた。

 元々は一人で暮らしていたはずなのだが、彼女がいなくなった部屋は随分と広々として、何処か寒々しい。

 それを誤魔化すために、珈琲の熱と香りが必要だったのかも知れないと、そんなことを思う。

 雨が窓を叩く音に交じって、ノックの音が響く。

 時計を見れば、今の時間は夜の八時。来客があるには少し遅い。

「誰だ?」

「あたしだよ」

 と、イブキの声に警戒を解く。

 椅子から立ち上がって扉を開けると、そこに立っていた彼女の姿を見てヨハンは一瞬言葉を失った。

「……誰にやられた?」

 全身血塗れで、イブキはそこに立っていた。

 そこ出血は雨でも流し切ることができず、全身が濡れているのも相まって凄まじい様相となっていた。

「ラニーニャちゃん。あ、でも大丈夫だよ。倍ぐらいお返ししてあるから」

「……色々と言いたいことはあるが、お前達は貴重な戦力なんだ。喧嘩は控えてもらえると助かる」

 後でラニーニャにも傷薬を届けなくてはならないなと、そんなことを考えながら苦言を呈する。

 二人の相性が悪いのはなんとなく判っていたが、まさか殺しあい一歩手前まで発展するとは思っていなかった。

 ラニーニャは多分、アーデルハイトのことを気に病んでいる。だからと言ってヨハンが何か言ったところで解決する問題でもないが。

「あたしから挑んだから、あんまり怒らないで上げてね。あ、あたしのことも怒らないでね」

「お前が何をしにここに来たかによるが。まあいい、少し待っていろ」

 棚を漁り、治療薬を探してテーブルの上に並べる。

 部屋を汚してしまっては拙いと思っているのか、玄関で立ちっぱなしになっているイブキを手を振って中に招き入れる。

 椅子を引っ張ってそこに座らせようとすると、その前にとイブキはごそごそと自分の懐を漁って何かを取り出した。

「はい、これ」

 そう言ってテーブルの上に置かれたのは、赤い液体で満たされた小さな瓶と、尻尾のような何かだった。

「……お前」

 ような、ではない。それは紛れもなく生き物の尻尾だ。そして、ヨハンはそれに見覚えがある。

 間違いなく、竜化した彼女の腰から生えていたものだ。

「なにをした?」

「ラニーニャちゃんとやりあったって言ったじゃない。いやー、あの子強いね。見事にすっぱりいかれちゃったよ。本当は角辺りにしてもらうつもりだったんだけど」

「……どういうつもりだ?」

「んー……。ほら、竜の尻尾とか血って凄い魔力を秘めてるらしいじゃん。どっかで聞いた話だけどさ。本当は心臓が一番らしいんだけどそれは流石にあげられないし」

「イブキ。俺はそう言うことが言いたいんじゃない。判るな?」

「あー、うん。判るよ。判ってる。でもさ、よーくんにも必要でしょ? それに多分、尻尾も時間が経てば生えてくると思うんだよね」

「イブキ」

 真剣に彼女を睨むと、彼女は観念したように椅子に腰かけた。

 誰もこんなことは頼んでいない。己を切り売りするような真似を彼女にさせてしまったことが、ヨハンの心を締め付ける。

「ごめん。でも思いついちゃったからさ。それから、よーくんの役に立ちたかったし」

「……お前はな」

 何かを言おうとして、諦めた。

 昔からそんなところのある彼女だった。思い付きで、突拍子もないことをして、それで周囲を振り回す。でもそれは決して自分のためじゃなくて、他の誰かのためにやるのだ。

 言っても無駄、と言うことはもう判っていた。それでも自分を傷つけるような行為は、厳しく諫めておく必要があるが。

「後はもののついでにね。ほら、ラニーニャちゃんとも一回喧嘩すれば判りあえると思ったんだよ」

「で、結果はどうなった?」

「多分、一生仲良くなれそうにないことが判った」

「それは何よりだ」

「痛い!」

 消毒液が染み込んだ布で、彼女の傷を撫でていく。

「で、貰ってくれる? ちょっと重いプレゼントだけど、好きに使っちゃっていいからさ」

「もし拒否したらどうする?」

「血は捨てるよ。汚いし。尻尾は……ラニーニャちゃんの晩御飯にでもしよっか?」

「なら、貰わないわけには行かないな」

 もうこれ以上二人の仲が拗れるのは、ヨハンにとっても好ましくはない。

 もっともそんなものは単なる建前で、今目の前にある二つの竜の欠片が貴重な材料であることは確かだった。

 呆れながら、的確にイブキの怪我を治療していく。

 治療薬を塗り込み、薬草を染み込ませた包帯を患部に巻く。

 腕や足だけでなく太ももや腹部など、本来異性に触らせるには抵抗のある個所もあったが、お互いにそんなことは気にしない。

 かつては、そんなものは日常茶飯事だった。

「……変わっちゃったね。前は魔法で一気に治せたのに」

「これはこれで味がある。この状況ではあるに越したことはないが」

「だよねー」

 笑いながら同意して、それからすぐに彼女の表情が変わる。

「あたしの所為だよね」

「それは違う。誰の所為でもない。……仕方なかったんだ」

 余りにも弱い言葉だった。

 仕方がない。そう一言で全てを納得で来てしまうほど、目の前にいる少女は物分かりがよくはない。

 それ故に、皆を救おうとした。

 その身に余る希望を背負って、結果として潰えることになったのだから。

「よーくんはそう言ってくれるけど、判るでしょ? あたしはあたしが許せない。よーくんから力を奪って、あの子を奪っちゃったこと」

「イブキ。気に病むな。本当に、誰の所為でもない。もし責任の所在があるとするなら、それは俺だ」

 いつの間にか治療は終わっている。

 それでも二人は至近距離で見つめ合ったまま、動かない。

 彼女を責めるつもりはない。

 北の大地のことも、未知の世界に生きている上で、予想不可能なことが起こるのはある意味では当然のことだ。

 そして先日のアシュタの村のことも、予想できるはずがなかった。それを知って危険を避けられるとしたら、それこそ神のような存在でもなければ不可能だろう。

「これはね、そう言う話じゃないんだと思う」

 首を振るイブキ。

 ヨハンは立ち上がって、冷めた珈琲を手に取って一口に含む。

「あたしは自分を許せない。だからね、あたしの全部をよーくんにあげることにしたの。よーくんのために戦って、よーくんのために死ぬ。本当は心臓だってあげたいけど、それはできないからね」

「……イブキ。お前」

「なーんてね!」

 わざと大きな音を立てて、イブキが椅子から立ち上がる。

 数歩玄関の方に歩いて、ヨハンの方へと振り返った。

「らしくないかな? ちょっと重いし、困っちゃううよね? でも、あたしは本気だから」

 そう言って見せる表情は、いつもの屈託ない彼女そのままで。

 それを見たヨハンは無性に胸が締め付けられる。

 このままでいいはずがないと、そんな悲壮な覚悟は許せない。

 それでも、ヨハンに彼女の考え方を変えさせる術はない。だから。

「……今はそれでいい」

「よーくん」

「でもそれは、全部取り戻して、全部終わるまでの話だ。そうしたら俺はお前に借りていたものを全部返して、それから」

「それから?」

「……それからのことは、そうなってから考える。また、旅をするのも悪くない」

 それは本心か建前か。

 無意識に、彼女が喜ぶ言葉を探してしまっただけなのかも知れない。

 そんな判断すらもつかないものだったが、それでもイブキはそれを聞いて笑ってくれた。

「うん。待ってる」

 そう言って、部屋を後にする。

 後に残されたのはヨハンと、彼女が持って来た重すぎるプレゼント。

 今はそれが必要だと、自分に言い聞かせる。

 弱いから、誰かに頼る必要がある。自分一人では何もできはしないのだと。

 だからせめて全てが終わったら、その時こそ色々な物を返そうと、そう固く決心し、ヨハンは雨の中を工房へと向かっていくのだった。

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