七章 立ち上がる狼煙(上)

第一節 秋雨降る

 しとしとと秋雨が降り注ぐ。

 激動の間に夏は過ぎ、いつの間にか季節は秋へと入り込んでいた。

 日が出ていればそうでもないが、今日のような雨の日は厚着をしていないと肌寒い。

 普段ならば肌を露出した格好を好むクラウディアも、今日は厚めの服を着込み、傘を差して通りを歩いていた。

 つい先日まで活気がったこの街は、今は何処か寂れている。人々はこれまでの生活に戻れるように努力はしているものの、それでも指導者である王女を失ったという事実がその心に重くのしかかる。

 商店街を進んでも、今までは立ち並ぶ店先で声を張り上げて客引きしている姿が目立っていたのだが、その声が僅かにしか聞こえないのは今日が雨だからと言う理由だけではないだろう。

 立ち並ぶ建物と、人の間を擦り抜けるように器用に進んでいると、路地の裏から何やら揉め事のような声が聞こえてきた。

 建物の間、人が三人は並んで歩けないような狭い道の奥で、何やら揉め事のようなことが起こっていた。

 街を行く人は見てみぬ振りをする。これまでならばすぐに兵士が飛んできたものだが、今はそれにかまけている余裕もないほどに人手が足りていない。

 そんな内情を知っているからか、クラウディアはそれを見捨てることができなかった。誰の目にも止まらぬようにふらりとこと歩調で路地裏に入り込んでいく。

 どうやら男が無理矢理女に言い寄っているらしい。付近に仲間の影も見えず、突発的な犯行のようだった。

「なにしてんのさ?」

 背後から声を掛けられて、びくりと男は身体を竦ませる。

 首を後ろに回して、立っているのが自分より、今しがた手を伸ばしていた女よりもずっと小柄なクラウディア一人だと判ると、表情を怒らせて声を上げる。

「邪魔すんじゃねえ!」

「別に邪魔するつもりもなかったんだけどね。声が煩いよ、外まで響いてる」

「だから何だよ! おれは元兵士だぞ! この間の戦いでも大勢殺したんだ!」

「……ふーん」

 男が威勢よく叫んでも、クラウディアは何処吹く風といった態度で受け流す。

 次第にそれに苛立って来たのか、先に男の方が手を伸ばしてきた。

「痛い目を……!」

 ひょいと、伸ばされた手をクラウディアは避ける。

 苛立っているのは何も彼に限った話ではない。

 そうして後ろに背負っていた、布に包まれた銀色の銃を取り出して、その銃口を顔面に突き付けた。

 オールフィッシュ、彼女の愛銃を撃つにはもう充分な理由がある。短気なクラウディアにここまで食って掛かったのだから。

「ひっ……」

「アタシとどっちが沢山殺したかな? ここでその頭に風穴開けちゃえば、比べることもできなくなるけど」

 そのまま数秒間、無言の時間が過ぎていく。

 男は逃げたいのかじりじりと後退って行くが、次にクラウディアがどんな行動に出るかも判らないと動けないでいた。

 やがて焦れてきたのはクラウディアだった。

「さっさと失せなよ。じゃないと本当にぶっ放すよ」

 その言葉で、男は悲鳴を上げながら退散する。

 尻餅をついている女性に向けて手を伸ばし、クラウディアはできるだけ心配させないように微笑む。

 例え街が陰鬱な空気を纏おうと、彼女に罪はない。

「ほら。あんたもね。路地裏は危険だから通らない方がいいよ」

 礼を言いながら頭を下げて、その女性は表通りに出ていく。

 クラウディアもその動きを追うようにしながら、本来の目的地に向けて歩き出した。

「……来たばっかりの人かな?」

 ここ数ヶ月でイシュトナルの事情は大分変っていた。

 魔物は今も絶えず出現し続けている。そうして周囲の集落や街を襲うものだから、それらから人々を護るために兵達は常に何処かに出払っている状態が続いていた。

 勿論イシュトナルを護る部隊も残されているが、その数はほんの僅かであり、街の警備までは殆ど手が回っていないような状態だった。

 そして滅ぼされた街から流れ込んできた難民によって、街の治安は悪化の傾向にある。表面上はそれほど変わりはないのだが、今のように路地を一本曲がった先で暴力沙汰などは多々起こるようになっていた。

 傘に当たる雨音がより憂鬱な気持ちを喚起させる。

 広々とした中央通りも人は疎らで、これまでは大量に押し寄せていた商人達の姿もあまり見えない。

 その先にある、薄紫の靄に隠されたイシュトナル要塞。

 これまではこの街の象徴だったそれが、今となっては寂れた偶像のようにしか思えない。

 その方向に向かって、クラウディアはゆっくりと歩いていくのだった。


 ▽


 先日の災厄から、色々なことがあった。

 細かいところまで目を向ければキリがなく、今もなおその悲劇は広がり続けている。

 取り敢えずクラウディアが把握している大きなところは二つ。まずはオルタリアがこの事態に対して大きな動きを見せなかったこと。

 首都オル・フェーズは巨大な結界を張って街を囲い込み、ヘルフリートはそこに引きこもってばかりで魔物の発生に対する対策を何一つ打たないでいる。そればかりか今もなおイシュトナルに攻撃命令が出ているというのだから驚きだ。

 もう一つはエレオノーラが消えたことだった。

 御使いによる拉致。その事実は生き残った兵達の口を通じて多くの人に伝えられた。

 それによる世論は大きく分けて二つ。なにがなんでも奪回すべき。これは当然だとクラウディアも同意する。

もう一つは神の僕たる御使いに召されたのだから、人が手を触れるべきではないとのこと。

なまじ御使いと戦ったことがあるだけに、クラウディアからすればその意見は「なにを阿呆なことを」と一蹴すべきなのだが。

 しかし、世の中はなかなか自分が思っているほどに簡単にはいかないものだ。

 敬虔なエイスナハルの信者は心の底からそう唱えるし、そうでない者達もいる。

 特にヘルフリート恐ろしさにイシュトナルに付いていた貴族達の多くは後者を言い訳にして、自分の兵力だけを率いてどこぞに引き上げてしまっていた。

 そんな彼等のふぬけた態度も面白くない。それでも男かと、股座を蹴り上げてやりたかった。

 クラウディアの視界に、これまでぼんやりとしか浮かんでいなかったイシュトナル要塞がはっきりと浮かび上がってくる。

 道中擦れ違った兵達は皆疲労困憊で、恐らくは今から魔物の討伐にでも向かうのだろう。

 要塞の敷地内に足を踏み入れようとしたところで、三つに分かれている道の別方向から見知った影が歩いて来ているのが見えた。

「あら」

「あ」

 二人はほぼ同時に声を上げる。

「クラウディアさん」「ラニーニャ!」

 歩を早めて、クラウディアは彼女の元へと近寄って行く。

 浅葱色の髪をした少女は、小柄なクラウディアよりも身長が高く、彼女を軽く見上げるほどの距離に並ぶのが二人の習わしだった。

「退院したの? お見舞いに行こうと思ってたんだよ?」

「ええ、つい先日に。クラウディアさんがマルク様達の様子を見に行っている間でしょうか。お二人ともご無事で何よりです」

 ハーフェンの傍にあの巨人が現れたことから、一時はマルク達の生存は絶望的だったのだが、奇跡的にハーフェンに大規模な襲撃がなかったことにより、そこに駐留していたイシュトナルの兵達によってどうにか身柄を確保されていた。

 それでも犠牲は出たが、クラウディアとしては父が無事だっただけで胸を撫で下ろす思いだった。

「あ、ラニーニャ。その目」

 元気に立って歩いている彼女だが、その右目には痛々しい包帯が巻かれている。

 それを見て、クラウディアは胸の奥が疼く。

 まだヨハン達とも出会う前に、未熟な自分を庇ってつけられた傷。それは彼によって視力を取り戻していたはずなのだが。

「ええ。片目ラニーニャさんに逆戻りです。でもまぁ、命が無事だっただけ良しとしましょう」

「……うん」

「そんな顔しないでくださいな。これはこれで格好いいでしょう? この包帯の下に隠された邪眼がどうのこうのって」

 ラニーニャの言っていることの意味は理解できないが、元気付けてくれていることだけは判った。

 ならばあまり気にすることではないと、クラウディアも気を取り直す。

「それで、クラウディアさんは要塞に御用で?」

 傘に雨が弾く音に溶けるように、優しくラニーニャが質問する。

「んなわけないじゃん。ラニーニャは?」

「違いますよ」

 お互いに答えてから顔を見合わせる。

 その時クラウディアが一瞬見せた、誰も気付かないような不安の表情を、ラニーニャは見逃さない。

「では、行きますか」

 ラニーニャがクラウディアの手を握る。

 お互いの服の袖が濡れることも厭わずに、二人は要塞の敷地内、ヨハンの工房がある方向に向けて歩き出した。

「あのさ、ラニーニャ。別に手を握らなくても、道判ってるんだけど」

 誰かに手を引かれるなんて何年ぶりかのことで、どうにも照れくさい。

「でも急いだ方がいいでしょう? ゆっくり歩いていると、風邪引いちゃいますよ」

 雨脚は少しずつ強くなって来ている。言われてみれば先程よりも体温が落ちているのか、肌寒さが身体を覆っていた。

「何か後ろめたいことでもあるんですか?」

「……別に、ないけど」

「どうして嘘つくんです?」

「いや、本当に後ろめたいとかじゃないし」

 言いながらも、歩調は落ち着いたものになって行くのだが、ラニーニャは決して歩くことを止めさせてくれるわけではなかった。

 長い付き合いである彼女には嘘がつけない。

 一人ならばこれだけ迷うこともなかっただろうに、ラニーニャの姿を見てほんの少しだけ心が変わってしまっただけの話だ。

 水たまりに足を踏み入れてしまう。

 跳ねた泥が二人の靴を汚した。

 それがきっかけになったわけではないが、クラウディアは自分の胸中を吐露し始める。

「よっちゃんに、言いに来たんだ」

「何をです?」

 ラニーニャの口調はいつもの通り軽いが、ここで余計な茶化しを入れない辺りが、真剣に話を聞いてくれている証拠でもあった。

「もうやめてもいいんじゃないって」

「……へぇ」

 ほんの僅かにだけ、ラニーニャの声が低くなる。

「だって、よっちゃん頑張ったじゃん。でもさ、どうしようもないよね。あんなのが来たら、誰だって無理だよ」

 一度戻ったハーフェンの地で、ここまで歩いてくる人々の世間話で、ヨハンの噂はクラウディアの耳にも入ってくる。

 その意見が大半と言うわけではないが、中には彼を批判する言葉も数多くあった。

 無理をして返り討ちにあったと言うものもいる。

 酷い話では、最初に御使いを倒したことで怒りを買ったなどと、今更言ったところでどうしようもないことの責任を追及しようとする声すらもあった。

 苛立って、ぶっ放してやろうとも思ったけど、それでは何も解決しないばかりか余計にヨハンの立場が悪くなるのでやめた。

 でも、その嫌な空気はまるでクラウディアの体内に入り込んだかのように、胸の中で蟠り続けている。

「あー。そう言うあれですか。そんなの気にしても仕方ないでしょうに。人間なんて言うのは基本的にお馬鹿なんですから、何かに責任を負わせてないと自分が保てないんですよ」

 軽くラニーニャは一言で切り捨てる。

 勿論、クラウディアもそんなことは理解している。

「……クラウディアさん?」

 身を屈めたラニーニャが、クラウディアの傘に入り込んで顔を覗き込んできた。

「な、なに?」

 突然のことに驚いて後退りしようとするその顔を、片手で掴んで固定する。

 そのまま数秒ほどじーっと見つめて、ラニーニャは顔を離した。

「なに? 何なの?」

「いえ、別に。そうですかそうですか。うん、ラニーニャさんとしては妹の成長を喜ぶ姉の気持ちで、嬉しいようでありながらちょっとだけ複雑な心境で」

 にんまりと、ラニーニャは意地悪く笑う。

 彼女が何を言っているのかは理解できなかったが、不思議な居心地の悪さがある。

 だからと言って怒ってこの場を去るほどでもない。絶妙な、くすぐられているようなむず痒さだった。

「だってさ、よっちゃんも最近工房に籠ってばっかりなんでしょ? もう戦いたくないって、そう思ってるのかも知れないじゃん! それを無理矢理に引っ張り出しても……」

 言葉と足を止める。

 二人は気付けば、ヨハンの工房の前にまでやって来ていた。

 石造りの四角い、小さな建物。

 その周辺には同じような建物が幾つも並んでいるが、ここだけは彼にしか立ち入りを許されない専用の空間だった。

 エレオノーラに頼まれてイシュトナルの運営に力を貸すことになった際に、彼が要求したものはこれだけだったという。

「行かないんですか?」

「……行くよ」

 行って、ヨハンに言わなければならない。

 もう充分頑張ったのだと。だから後は他の誰かに任せてもいいのだと。

「だってさ、みんな言ってるんだよ。よっちゃんの所為でこんなことになったって」

「ええ、はい」

「だったら自分達でやればいい。自分達で御使いと戦って、あの巨人を倒して、ヘルフリートも倒せばいいのに」

「いや、まったく。その通りですね」

 ラニーニャは何故かにこにこして話を聞いている。

 それが更に、クラウディアの中の苛立ちを加速させていた。

「だってよっちゃん別に強くないし、無理しても死んじゃうかもしれないし」

「行かないんです?」

「行くってば!」

 後一歩踏みだしてその扉を叩くのが、なかなかに難しい。

 昨日の夜から頭の中に言葉を詰め込んできたというのに、気が付けばそれが少しずつ流れ出ていってしまっていた。

「……それでやめるような人でしたっけ?」

 その一言は、彼女が振るう刃のように鋭い。

 そんなことは判っている。

 別にクラウディアが願ったわけでもなければ必死で頼ったわけでもない。

 だと言うのに彼は御使いを、光炎のアレクサを倒した。

 元々そう言う人間だったのだ。

「……だけどさ、アーちゃんいなくなって苦しんでたよ」

 あの日、あの夜再会したヨハンは明らかに憔悴していた。

 それでもなお、戦おうとしていた。何かに憑りつかれたかの如く。

 そして今、重なるような悲劇に襲われて、それでもなお戦えというのは身勝手がすぎるのではないか。

「カナタだって、もういなくなったったのに」

「でも多分、やめませんよ」

「なんで判るの?」

「判りますよ。ラニーニャさん、できる女なので」

「料理もろくにできないくせに? 船乗り達の間で顔だけは完璧だけど絶対に結婚したくないって言われ続けてたのに?」

「それは今は関係ありません! ……それ、本当にクラウディアさんも望んでます?」

「うるさいなぁ! 別にアタシのことはどうでもいいの!」

「どうでもよくないですよ! このラニーニャさんの親友の話なんですから!」

「親友だったらアタシの言うことに賛成してよ! これでも頑張って考えたんだからさ!」

「あのですねぇ、クラウディアさんの頭で頑張って考えたところで、たかが知れてるじゃないですか。……クラウディアさん、ここでやめちゃったよっちゃんさん、苦しまないと思います?」

「それは! ……そんなの!」

 言葉が出てこない。

 そんなことは判っている。なんなら誰よりも理解していると怒鳴ってやりたい。

 ラニーニャの言葉は図星を突いていた。

 もしクラウディアの言葉を受け入れて、ヨハンがここで全てを捨てたとしたら、彼は一生後悔する。

 それを傍で見続けるのは、他でもないクラウディアだ。

 だからそれだけの覚悟をしてきたというのに、あろうことはその親友は軽々とそれを否定する。

「そんなの……!」

 何かを言いかけたところで、不意に木の擦れる音がした。

「うるさいぞ。用事があるなら……」

 扉が開いて、そこからヨハンが顔を出している。

 考えてもみれば当然のことだ。別にこの工房は防音をしているわけではない。

「どうした、二人揃って? まあいい、風邪を引く前に早く中に入って来い」

 言われるまま、招かれるままに二人は工房の中へと招き入れられる。

 口論も途中、クラウディアの考えもまだ空中に放り投げられたままだと言うのに。

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