第五節 暗闇は深く

 ハーフェン方面に向かっていた部隊で戻ってこれたのは、結局最初に出発した四分の一以下の数しかいなかった。

 エーリヒは敵の包囲を脱すると同時に残された部隊を回収しなければならないと、僅かに残った手勢を引き連れて行ってしまった。

 カナタとしては敵とは言え頼りになる大人であるエーリヒには一緒に来てほしかったのだが、それを言えるような状態ではない。

 こちらもクルトが撤退戦中に負傷。息はあるが意識が戻らないとのことで、すぐに病院に運ばれた。

 数日ぶりに戻って来たイシュトナルは、不幸中の幸いか破壊がここまで及んだ様子はない。

 ただ街中の様子は目に見えて活気が減っている。夜が明けたというのに、人々はまだ空が暗いかのように家に閉じこもって出てこない。

 イシュトナルに街が拓かれてから、こんなことは初めてだった。

 肩を落としながらも、クルトの副官と共にカナタは要塞を訪れる。話によればいち早く帰還したエレオノーラが指揮を執り、街の外に現れた魔物達を撃退したのだと言う。

 そこにヨハンがいるのかどうかが気になっていた。

 疲労困憊で、夜通し歩き続けたカナタも副官も会話もないままイシュトナル要塞に辿り付く。

「では、自分は報告書を纏めなければならないので。申し訳ありませんが、エレオノーラ様への報告をお願いしたい」

「は、はい。大丈夫です」

 そう言って立ち去る直前、副官は兜を脱いでカナタに深々と頭を下げた。

「今回の戦い、貴方がいなければ我々は全滅していました。生き残った全員を代表して、お礼を言わせていただきます」

 カナタが答えるよりも早く、彼はその場を立ち去って行く。

 残されたカナタは一度深く息を吐いて、それから改めてイシュトナル要塞を見上げる。

 南方諸国の攻撃からこの地を護るために築かれた要塞はその無骨な姿を聳えさせている。

 ひょっとしたらこの要塞が本来の使われ方をする時が来るのかも知れない。漠然と、そんな嫌な予感が頭を過ぎる。

 そうならなければいいと願いながら、カナタは要塞の中へと入って行く。

 中の様子はイシュトナルの街とは異なり、嫌な意味で活気があった。

 要塞の医務室や仮眠室では負傷した兵達が大勢治療を受け、石造りの広い廊下はエトランゼの給仕達が右往左往している。

 貴族達は付近の集落を助けるために兵を集めようと声を張り上げてはいるが、現状ではろくな戦力が集まりそうにもない。

 廊下の隅を歩くようにしながらカナタは三階の、エレオノーラの執務室へと足を運んだ。

 扉をノックすると、疲れ果てた声で「入れ」と帰ってくる。

「失礼します」

 扉を開けながらカナタが部屋に入ると、エレオノーラは疲れた顔を上げて、その表情が一瞬で切り替わった。

「おお、カナタか! よく無事で戻った!」

 それは純粋にカナタと会えて嬉しかったからと言うのがあったのだろう。エレオノーラは椅子から立ち上がって、カナタを迎え入れてくれた。

「本当に、よく戻ってくれた……。そなたが補給部隊とはいえハーフェン方面に行っていると聞いたときには、心配でなかったぞ」

「ご、ごめんなさい」

「いや、よい。ヨハン殿と相談あってのことだろう」

 言われて、カナタは頷く。

「あの、それで」

「……ヨハン殿は未だ戻ってはいない。妾達を逃がし、そしてあの巨人に一矢報いるために砦に残った」

 先回りしてエレオノーラが答える。

 カナタは一瞬不安そうな顔をしたが、それを見たエレオノーラは努めて明るく言った。

「あの巨人が動きを止めたということは策は成功したということだろう! それにエトランゼの英雄と、ハーフェンの商家の娘もついている。どちらも先の戦場では大活躍したのだぞ」

 クラウディアの戦場での勇敢さには目を見張るものがあるし、何よりもイブキは単純に強い。その二人がいて、巨人も動かなくなったということはヨハンは勝ったということだとエレオノーラは予想していた。

「それに道中にも兵を残して来てある。上手く合流できていればきっと明日にでもイシュトナルに辿り付くはずだ」

「そうですね! うん、ヨハンさんなら大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、カナタは言う。

「……して、そちらはどうか? ここに報告に来たのがそなたと言うことはつまり……」

 カナタは戦場で起こったことを説明する。

 魔物の包囲を突破するために殿が必要だったこと、それにヴェスターとディッカー達が志願したこと。

 そして、ディッカーによって生かされたエーリヒがオルタリアに戻ったこと。

「……そうか」

 噛みしめるように、エレオノーラは頷いた。

 彼女がイシュトナルに街を拓いて以来、ずっと傍で支えてきたのがディッカーだ。直接的に動くことが多かったのはヨハンだが、彼は縁の下でエレオノーラを支えてきたまさに忠臣だった。

 勿論、まだ死んだと決まったわけではない。それでもこちらに関しては生存が絶望的で、決して楽観することはできない。

「……しかし、悲しむのは後だな。妾達にはまだやるべきことがある。兵を纏め部隊を再編し、魔物達を一掃する。然る後、今度こそ兄様と雌雄を決さなければならない」

「……まだ戦うんですか? こんな状況になっても、まだ」

「兄様が戦いを望むのならばな。エーリヒは恐らくオルタリアに戻って兄様を説得してくれるだろうが、今の間の共闘ならまだしも、戦いが落ち着けば再びこちらに牙を剥くのは確実だ」

「……どうして」

 カナタの疑問はヘルフリートに対してのものだが、それ以上の意味を含んでいた。

 何故こんな状況になってまでも、いずれ矛を交えることを考えなければならないのか。

 その答えを持たないエレオノーラもまた、黙ることしかできない。

 二人の間にある静寂を断ち切ったのは、扉をノックする音だった。

「入れ」

「失礼します」

 カナタに言ったときのようにエレオノーラが答えると、湯気の立つカップをお盆に乗せたサアヤが部屋に入ってくる。

「お茶をお持ちしました。それから、無事だったカナタちゃんにも」

 先んじてこちらに戻って来ていてサアヤは、カナタを見て頬を緩ませる。彼女なりに深く心配してくれていたようだった。

 一つをカナタに手渡して、もう一つをエレオノーラに。

「サアヤ……。そうだ、そなたにも随分と助けられた。聞いてくれカナタ。サアヤは此度の防衛戦の際、多くの人の命を救ってくれたのだ。単純にギフトだけでなく、的確に部下を動かして民間人や負傷兵の救護をして」

「そんな……。わたしはただ無我夢中だっただけですから」

 褒められて、照れくさそうにサアヤが頬を手で押さえる。

「カナタちゃん。無事戻って来てくれてありがとう」

「……うん」

「これからまだ大変だと思うけど、温かいお茶飲んで今日はゆっくり休んで、頑張ろう」

 頷きながら、両手で持っていたカップに口を付ける。

 同時にエレオノーラもそうして、爽やかな香りと味に二人は熱の籠った息を吐いた。

「ああ、そうだな。カナタ、そなたは少し休むといい。……これからは手を借りることになる」

「ボクでよければ、ボクができることなら、やります」

 もうこれ以上誰かに犠牲になって欲しくはない。

 そう願ったカナタの言葉だった。

「それじゃあカナタちゃんは帰りましょうか。ヨハンさんの部屋でいいですよね?」

「え、いや一人で帰れるけど……」

「駄目。カナタちゃんいっつも無理するから、休めるまで傍にいるからね。怪我も治さないといけないし」

 そう言われてしまっては断ることもできなかった。

 カナタからカップを受け取ると、その手を引っ張るようにしてサアヤは部屋を出ていこうとする。

「待て、サアヤ」

 その動きが止まる。

 少し考えてみれば当然の疑問をエレオノーラは口にした。

「ヨハン殿の家にカナタを連れていくのは別にいい。だが、主不在では家も閉まっているだろう?」

「ふふーん。これ、なんだと思います?」

 そう言ってサアヤが給仕服のポケットから銀色に光る何かを取り出す。

「あ、い、か、ぎ~」

 ノリノリでその物体の名前を口にした。

「なんでそなたがそんなものを持っているのだ!?」

「それは企業秘密です。さあ、行きましょカナタちゃん」

 実際のところはアーデルハイトがいない今、ヨハンから留守を預かる名目で借りているのだが、一人で入る勇気はなかっただけの話だった。それがカナタと言う絶好のダシを手に入れたことで、サアヤをそこに踏み入らせようとしていた。

 彼女の名誉のために書いておくとするならば、別に疚しいことをする気持ちはない。ただ、入ってみたいというだけの話だ。無論、あわよくば掃除や洗濯などをして好感度を上げておきたいという下心はあるが。

 先行してサアヤが扉を開ける。

 そのまま出ていこうとして、そこに立っていた人物にぶつかりそうになってサアヤは急に足を止めた。

「あ、ごめんなさい! エレオノーラ様に何か御用ですか? ……えっと、シスターさん?」

 黒い修道服、ヴェールからはみ出した緩くウェーブする銀髪。

 その容姿は美しく、男が彼女を見れば思わず目線を釘付けにされることだろう。

 そこに立っていた人物は、かつてシスター・アンナと呼ばれていた。

 サアヤは道にぼうっと立っていた彼女とぶつかりそうになっても気を悪くした様子もなく、身体を半歩逸らしてエレオノーラにその姿を見せる。

 そしてそうすることで、カナタの視線にもその姿が入り込む。

「イグナシオ!」

 視界が紅く染まる。

 それまでの疲れなど全く吹き飛んだかのように、カナタは俊敏に動いた。

 サアヤを突き飛ばし、紅いセレスティアルを展開。

 それをそのまま長剣の形に変えて、シスターに向けて振り下ろした。

「カナタちゃん!」

 驚くサアヤだが、もうその声もろくに聞こえない。

 こいつだけはこの場から排除しなくてはならない。どうして現れたかなどは聞く必要もない。

「うふふっ。そんなに激しく求められると、わたくし少し困ってしまいます。で、す、が」

 カナタの身体が吹き飛ぶ。

 紅いセレスティアルはイグナシオの身体に触れることはなく、それよりも早く彼女の掌底が強くカナタの身体を打った。

「うぐっ……!」

 呻くような声を上げて、カナタはエレオノーラが座っていた椅子に容赦なく叩きつけられた。

 そうして一歩、イグナシオが部屋の中に立ち入る。

「な、何者だ貴様!」

「お初にお目に掛かります、異端の王女エレオノーラ様。わたくしの名は魂魄のイグナシオ。……見ての通り、単なる御使いです」

「御使い……! 誰か、誰かいないのか!」

「お仲間を呼ぶのは結構なことですけれど……」

 エレオノーラの声に、下の階から兵士達が殺到する。

 入り口までやって来た武装した兵は、イグナシオの姿を見て若干動きを鈍らせたものの、部屋の奥で倒れているカナタを見て事態が切迫していることを理解して、剣を抜く。

 しかし、そこまでだった。

 イグナシオは目にも止まらぬ速さでやって来た兵達を殺し、その死体を廊下に放り投げる。

「この通り、死体が増えるだけですよ」

「エレオノーラ様……! 逃げて!」

 必死に身体を起こしながら、カナタが叫ぶ。

「うふふっ。逃げても結構ですよ。取り敢えずは最初の用事を済ませることにするだけですから」

 再び部屋に戻ったイグナシオは、呆然とするエレオノーラの横を通り過ぎる。

 立ち上がろうともがくカナタに腕を伸ばして、襟首を掴んでその小さな身体を持ち上げた。

「ぐっ……!」

 手足をばたつかせて抵抗しても、その拘束は緩まない。

 そのまましばらくカナタを宙づりにしてイグナシオは喋り出した。

「わたくしとしたことが、一つ失敗をしていたことに気がついたのです。まったく、何年たってもこのうっかり癖は治りませんね」

 誰に言うでもなく、世間話をするような口調で、イグナシオが言う。

「アルスノヴァに用があったことを思いだしまして。……ですが彼女、器用にわたくし達からは姿を隠している様子」

 ぽいと、カナタの身体を投げ捨てた。

 再び床に倒れたカナタを、エレオノーラが助け起こす。

 傍に寄って来たサアヤのリザレクションにより、カナタの身体からは傷が癒えていくがイグナシオはそんなことは意にも介さない。

「困っているのです。そこでカナタさん、貴方を痛めつければ来てくれるかと思いまして。友達なのでしょう? ああいえ、元でしたか」

 イグナシオの言葉がカナタの心に小さく傷を作るが、今はそんなことに構ってはいられない。

「二人とも、逃げて」

 そう言いながら、セレスティアルを広げる。

 紅に染まる光。

 数多の魔物を葬った天の光は、目の前にいる御使いの前では信じられないぐらいに弱々しい。

「――あら」

 軽くイグナシオが床を蹴った。

 そのままの勢いでカナタを拳で打って、その身体は廊下にまで吹き飛ぶ。

 壁に背中を叩きつけられながらも、カナタはすぐに態勢を立て直して再びエレオノーラの部屋に飛び込む。

「いなくなられてしまっては困ります。いえいえ、別に観戦者が欲しいとかそう言った類のことではなくてですね、事態はもう少しばかり深刻なもので」

 カナタの紅い刃を、イグナシオは捌きながら世間話のように喋る。

 必死で剣を振るう姿が見えてもいないように拳で弾き、時折その身体に手加減をした打撃を浴びせ、少しずつ体力を削っていく。

「あの巨人。原初の災厄とでも呼べばいいでしょうか? まぁとにかく、あれの話になるのですが」

「はああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 勢いを乗せて、カナタが巨大化した剣を横に薙ぎ払う。

 部屋のテーブルや椅子を巻き込んでイグナシオごと両断しようと振るわれた光の大剣は、完全に彼女の身体を捕らえていた。

「カナタさん」

 だが、遠い。

 届かない。

 イグナシオが広げた白い極光が、カナタの紅い光をその場に押し留めていた。

「弱いですね」

 言いながら彼女が具現化したのは、セレスティアルによる棒だった。剣ではなく、そこに切れ味はない。

 それでカナタの横腹を打ち据え、屈みこんだところを顎を上から下に跳ね上げる。

 仰け反る間もなく、カナタの身体が打ちあがって無防備に床に叩きつけられる。

「カナタちゃん! ……ひっ」

 助けに行こうとしたサアヤの目の前に、イグナシオが立ち塞がる。

 そうして手も伸ばさず、ただ威圧感で彼女を動けないようにしたまま喋り続けていた。

「あれはまだ不完全なのです。人に対する殺戮特権を持った虚界の支配者。ですが奴等は敗れました。誰にだか判りますか?」

 その問いに答える者いない。

 イグナシオはサアヤに手を伸ばし、その頬を優しく撫でる。それはまるで花を手折る際に、花弁を壊さぬようにと気を使いながら触るようでもあった。

「エトランゼにです。故に来訪者は彼等を恐れない、彼等に支配されない。勿論、だからと言って彼の者達も一筋縄ではいきません。エトランゼに与えられた原初の力を取り込み、自らを進化させようと考えたのです。もう判りますね?」

「サアヤさん! 離れて!」

「うるさいですよ」

「あぐっ!」

 起き上がろうとしたカナタをイグナシオは無関心に蹴り飛ばす。

 床を転がるカナタには目もくれずに、イグナシオはサアヤの輪郭を、首筋を撫でていく。

「ふふっ、可愛らしいものですね。それに魂に植え付けられた『贈り物』も面白い。これはまた楽しい余興になるでしょう。……っ」

 イグナシオの背を剣が貫き、その切っ先が腹から飛び出している。

 彼女の背後にはエレオノーラが、腰から抜いた剣を突き立てた状態で全身を押しつけるようにして立っていた。

「下郎……! 御使いとはいえ妾の友人をここまで傷つけるとは!」

 激高し叫ぶ。

「まあ」

 その迫力には目を見張るものがあったが、その程度ではイグナシオは揺るがない。

 彼女は御使い、あらゆる意味で人間を遥かに超えている。

 愛玩動物に過ぎない人が幾ら吠えたところで、一切の恐怖も怒りもない。

 むしろ興味を引き、より可愛らしいものだと構いたくなる程度のものだ。

「オルタリアの王女、国を追われた哀れな女。わたくしは貴方に関心はありませんでしたが」

 エレオノーラの手が、掴んでいた剣の柄を放す。

 突き立てたところで意味がない。その事実に、最期の抵抗を放ったエレオノーラは心を折られかけていた。

「こうして近くでよく見れば……。なるほど、貴方も『そう』でしたか」

「なにを……!」

「エトランゼとこの世界の人間の血の混じりは、新たなギフトを生む。そんな話もありました。わたくし達御使いからすれば小さすぎることなので意識したこともありませんでしたが」

「エレオノーラ様、サアヤさん!」

 立ち上がろうとするカナタは、全身に力が入らずに崩れ落ちる。

 そこでようやく、自分の足元を夥しく汚す赤い液体に気がついた。

「……では、計画変更と致しましょう。エトランゼの一人でも連れていければと思いましたが、お二人とも随分と面白い力をお持ちのようですので、片方はあの災厄に組み込み、もう片方はその守護者としてわたくしが責任を持って存在を変えさせていただきます。……あのエトランゼの英雄にそうしたようにね」

 悲鳴を上げる間もなく、イグナシオの拳がエレオノーラとサアヤを打つ。

「……わたくしとしたことが、持ち帰る方法を失念していました。まったく、本当にこのドジは治りませんね、恥ずかしい限り」

 誰に言うでもなく――いや、倒れたまま動けないカナタに視線を送りながら、イグナシオは語る。

 これは彼女の悪趣味な遊びだ。この無駄口の間に立ちあがれれば、また相手をしてやると。

「少々優雅とは言えませんが、これでいいでしょう」

 二人の身体を抱え上げ、悠々と入り口から出ていく。

「……待…って……!」

 血と共に吐きだされたカナタの言葉に、イグナシオは一度、首だけを巡らせる。

「来ませんでしたね、アルスノヴァ。友人と言う言葉が聞いて笑わせます。折角訪ねて来たというのに」

 彼女を包囲する兵士達を、セレスティアルの波が纏めて吹き飛ばす。

 その気になればどうとでもここから脱出できるイグナシオは、歩いて帰ることを選んだ。

 その道中で出会う兵士と戯れ、怯えて逃げる者達を蹂躙することを楽しむために。

 戦いの音、人々の悲鳴。

 耳が痛くなるほどによく聞こえてくるそれらが鳴り響き、次第に静寂が訪れる。

 そうなっても、カナタはその場から動けないでいた。


 ▽


「……なんだ、これは」

 呆然とした様子でヨハンが呟く。

 彼の傍に立つクラウディアもまた、言葉を失っていた。

 あれからヨハン達は撤退戦を繰り返しながら、どうにかイシュトナルに帰還することができた。

 道中逸れた兵達と合流し、廃墟となった街で戦うことで黒き尖兵達も何とか撤退まで追い込むことにも成功した。

 そうして戻って来てみれば、イシュトナルは信じられないほどの惨状に包まれている。

 戦いの跡がある。だが、それは戦争ではない。

 ウァラゼルの時と同じだった。もっと強大な何かに戦い、蹂躙されたような痕跡がそこには残されていた。

「よっちゃん、これ……」

 すぐさま翼を生やして、イブキがイシュトナルの上に飛んでいく。

 三階の窓を破壊して中に入り込み、廊下で声を上げて生存者を探す。

 窓から顔を出した彼女は、静かに首を横に振った。

「……奴等じゃない。いったい、何があった?」

 そこに、後ろ側から駆けてくる姿があった。

 イシュトナルの兵士達で、ヨハンに言うにはこの惨劇があった際には哨戒に出ていたため無事だったという。

 彼等は息のあった同胞からこの惨状の理由を聞いていた。

 御使いの襲来、拉致されたエレオノーラとサアヤ。

 そして要塞にいた兵達はこれだけの被害を被った。

「……そんな」

 もう三日ほどろくに寝ていないのもあって、ヨハンの身体がふらつく。

 どうにかそれを支えたのは、同じく体力の限界が来ているクラウディアだった。

「とにかく、兵を解散させる。俺は要塞内を見回ってくる」

 ヨハンの指示を受けて、それまで集まっていた兵達は散り散りになって行く。

 休息をとる者もいたが、それよりも皆が同胞達や街の様子を見るためにあちこちへと散って言った。

 ヨハンも同じように、要塞の中を歩き回る。

 内部は損壊が激しい死体が幾つも転がっており、兵士だけでなく給仕のものもあった。

「戦わない者まで殺し尽くしたというのか」

 怒りに身を震わせながら、三階へ。

 エレオノーラの執務室は酷い有り様で、扉は無残に破壊され、そこで激戦があったのか死体の数は十ではきかない。

 扉があった場所を潜って、中へと足を踏み入れる。

 そこには当然、誰もいない。

 ただ激しい戦いがあったことを思わせる破壊の後があるだけだった。

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