第四節 誰にも知られぬ英雄譚

 魔物達の死体が転がる戦場の中心。

 その後に現れた黒い鎧の兵隊を見て、ヴェスターは何かを悟った。

 額から汗が流れている。

 後ろを見れば傷ついている味方の兵達が、これまで以上の痛みを感じて地面をのた打ち回っていた。

 それは多分、恐怖によるものだ。

 更に言うならば、人の精神を、肉体を破壊する呪いが溢れだしている。

 黒い鎧の兵団。彼等が持つ剣は、纏う鎧は、覚えがある。

「――なるほどな」

 ようやく、自分の力を理解した。

 魔剣を操るなんて言うのは、単なる副産物に過ぎない。

「ひょっとしたら俺は、てめぇらの側かも知れないってことかい?」

 だらりと垂れ下がった腕が、奴等の進軍に応じて揺れる。

 それはまるで、ヴェスターに対して手招きしているかのようにも見えた。

 死と呪いを纏う兵団は真っ直ぐに、ヴェスター達に向けて進んでいた。

「……勝てぬかな、あれは。もう少し時間を稼げればよかったのだが」

 息を切らしながら、ディッカーが呟く。

 既に彼の剣は折れ、鎧は所々が破損している。

 それでもなお立ち続けていた彼も、その呪いを受けてか弱気なことを口にする。

 それはディッカーだけに限った話ではなく、その後に続いて決死隊に志願したその部下達もまた、僅かに残った体力と気力を奪われ続けていた。

 人の原初の恐怖を呼び起こす軍勢。

 歩く呪いそのもの。

 この世界から人を駆逐するために使わされた死神。

 そう呼ぶに相応しい威容が、群れをなして蹂躙する。

 何のことはない。魔物とは単なる前座に過ぎなかった。

 不規則に大地を踏みしめる音が、

 鎧が擦れる不愉快な音が、

 顔の下部から漏れる嗚咽のような鳴き声が、

 その何もかもが、人を狂わせる。

「――ハ」

 だとすれば。

 いや、だとしてもだ。

 彼は変わらない。やることも、その心も。

 そしてお決まりとなった、戦場で浮かべる獣のような笑みも。

「あれをぶっ殺せば終わりか? 数は三十、四十、五十……。髭野郎相手にするよか楽そうだな」

 その声に、その言葉に、誰もが息を呑む。

 目の前の男の言っていることが理解できずに、兵達は顔を上げて彼を覗き見た。

 笑っている。

 少年をからかう時と同じように、酒を飲んでいるときと何も変わらずに。

「おっさん。もう帰っててもいいぞ、後は俺が一人でやる」

 血に飢えた獣がいる。

 頭がイカれた男が一人。

 誰もが恐怖し、怯え、立ち竦むなかでただ一人だけ、何事もなく立ち向かっていく。

 獣が駆ける。

 跳躍する。

 まずは目の前、先頭を歩く一匹目。

 人間よりも頭二つ分ほどの巨体を持ったその黒の兵隊は、ヴェスターの魔剣の一太刀を頭から受けて、その身をよろめかせる。

「ちっ、固てぇ!」

 黒い兵隊が長く垂れ下がった腕を振り上げて、手に持った無骨な黒い剣を振るう。

 所々に紅い魔力の線が走ったそれは、ヴェスターが持っているものと同じもの。

「こいつはてめえらのもんってことか!」

 黒い刃が重なる。

 神を討つ忌まわしき黒曜石、オブシディアンでできた刃は打ち交わされて、辺りに衝撃と共に不愉快な呪いを撒き散らした。

 例えその呪いが受けただけで精神が蝕まれるものであっても、関係ない。

 この男は呪いを受けない。それを自らの力とする、人間や神の使いに対する敵対者、それこそが彼の持つギフトなのだから。

「やるじゃねえか!」

 兜の下の目が細まったように見えた。

 意識があるとは思えないその獣だが、抵抗する人間に対して面食らっているのかも知れない。

 二度、三度と刃が交わる。

 撓る腕を利用して叩きつけられる剣に技術はないが、その一撃一撃は人間が振るうものよりも遥かに重い。

 紛れもなく、奴等が化け物であることを証明する太刀筋だった。

「ハハッ、こいつぁ! 並の剣士が裸足で逃げだすほどの相手だ! 真っ当に修行してきた奴は可哀想になぁ!」

 そして何より、敵は一体ではない。

 ヴェスターの背後から、もう一体の黒き尖兵が振るう刃が襲い掛かる。

 間一髪、野生の勘だけを頼りに振り返ったヴェスターはそれを弾き返したものの、もう一匹の剣を持っていない腕がその頭部を掴み、遠方に放り投げる。

 地面を滑るように転がってから再び立ち上がり、ヴェスターは即座に自分に殺到してきた三体を斬り払う。

 しかし、多勢に無勢、どれだけ鋭い斬撃を繰り出したところで視界に入る敵の数は減ってはいない。

 黒い刃がヴェスターの身体を傷つける。

 放たれた呪いが肉体に入り込もうとして、ギフトによって遮断されて意味なく掻き消えた。

「んな顔すんなよ。一人で相手してやってんだから、このぐらいのハンデは許せっての」

 顎の下から突き刺した一撃が、髭のような触手を貫いてその脳天まで貫通する。

 飛び散った紫色の血液を浴びて、ヴェスターは嫌そうに一瞬だけ顔を顰める。

 それで倒せるかどうかは半信半疑だったが、やはり人型をしているだけあって頭を潰せば死ぬようだった。

 仰向けに倒れる巨体に一瞥もくれる間もなく、次の相手に襲い掛かる。

 横合いや背中から伸びた刃が身体を傷つけることも厭わずに、斬撃を叩き込む。

 だが、それは倒れない。反撃を剣の腹で受けるが、それが想像以上に重い。

「がっ……!」

 腹を剣が裂く。

 背中から拳が打ちつける。

 持ち上げられたヴェスターの身体が、ゴミでも捨てるかのように地面に無造作に放り投げられた。

 止めを刺そうと黒き尖兵が剣を振り上げる。

 人間のものよりも遥かに長い腕が天を差し、その手に持った刃が振り下ろされようとした刹那。

 突き込まれた槍が、その頭部を弾いた。

「これで少しばかりは」

 震えが混じった声がする。

 声だけではない、手に持った槍の切っ先が揺らいでいるのは固い兜を叩いたからではないだろう。

 目の前に現れた人間を殺すための尖兵に恐怖しながら、それでもその将は戦場に立つことを選んでいた。

「格好いいところを見せられましたかな?」

 ディッカー・ヘンライン。

 彼を凡庸と呼んだかつての誰かを嘲笑う理由は、その場の全員が得ていた。

「ディ、ディッカー様に続けぇ!」

 兵達が後に続く。

 そのなけなしの勇気を、既に浸蝕されて狂気に陥っている心を無理矢理に奮い立たせて。

「いや、充分格好いいぜ、おっさん」

「それは光栄」

 槍は使い物にならないと、地面に放り捨てる。

 そして腰から剣を抜いて、ディッカーは兵達の先頭に立ってそれを構えた。

「実に恐ろしい敵だな。我々の理解を遥か絵に越えて、遥かに強靭で強い。私には彼等が何者なのか見当もつかぬ」

 ディッカーも唇の端を歪めて見せる。

 ヴェスターが戦いの前に浮かべるものと同じと意識したそれは、随分と不格好なものだった。

「だが、少しだけ安心している。正体の判らぬ化け物から民や仲間を護ることは、同胞同士で傷つけあうよりどれほど心が奮い立つものか。君達も子供の頃に一度は憧れたのではないか? お伽噺の英雄譚、作られた伝説に」

 兵達は皆、恐怖していた。

 誰もが言葉を発さない。

 そんな人間達を蹂躙するために、歩調を落とした黒き尖兵達が迫る。

 ――だが、逃げる者はいない。その数はもう五十名を切っているが、誰もが真っ直ぐに死地を見据えている。

「今がその時だ。お伽噺の英雄に、一度は憧れた勇者になろうではないか。私達のほんのちっぽけな、誰にも理解されなかった誇りを賭けて」

 声を張り上げて兵達は進む。

 その先頭を駆けるディッカーには迷いはない。

 己がやるべきことを理解し受け入れた男の矜持だけを持って、凡庸と呼ばれた彼は戦場を疾駆する。

 出遅れて、ヴェスターは敵を見据える。

 黒き尖兵達の戦力は強大で、こちらは寡兵の上に呪いを受けてまともに身体が動きもしない。

 事実一度振るわれた刃で二、三人は吹き飛ばされるし、動かなくなる者もいた。

 ディッカーも威勢はよかったものの、彼がどれだけ必死で、生涯を賭けた剣を振るったところでそれは届きもしない。

「格好付けやがって。まともにできてねぇ癖によ」

 痺れる手で剣を握りなおす。

 黒い刃が、ヴェスターから流れ出た何かを受けて鈍く脈動した気がする。

「もうちょっとなんだよな。もうちょっとでなんか、掴めそうな気がする。なんか変わるんだけどな……」

 そう呟きながら剣を振るった。

 迫りくる黒き尖兵。

 数でも質でも敵うはずもない。今や人間達は蹂躙されるばかりの哀れな生贄。

 一人また一人と倒れていく。

 勢いは殺されて、すぐに波に押し返される。単なる飛沫が如く。

 ヴェスター自身も敵に囲まれ、叩きつけられた剣の数は十を超えた。

 全身から血が流れ、頭から落ちた赤い線が目に入って視界を塞がれる。

「負けるかよ、負けてたまるかよ……!」

 別に元の世界への帰還を夢見ているわけでもなく。

 何処かの誰かのように、信念や、やるべきことがあるわけでもない。

 いつ死んでもいい命だ、獣のように暴れて消える哀れな魂だ。

 ――だが。

「それは今じゃねえ」

 この世界にはきっと、もっとヴェスターが楽しめるような仕掛けがある。

 それは今目の前にいる黒き尖兵が、遠くに聳える動きを止めた巨人が証明してくれた。

 超常的な何かがいる、御使いかそれよりも強大な奴かは判らないが。

 それに吠え面を?かせてやらなければ気が済まない。自分をこの世界に呼んだことがどれだけ失敗だったのかを思い知らせてやる。

「何処の誰が、何をどれだけ操ってこんなくそったれな状況を作ってるのかは知らねえが、教えてやるよ」

 何かが弾ける。

 呪いが一瞬で全身に行き渡り、夜の闇よりも更に深い色となって具現する。

 黒き尖兵が振り下ろした刃に、ヴェスターは手を伸ばす。

 それをそのまま掴み取って、力任せに折り砕いた。

 破壊された魔剣から零れた呪詛が、ヴェスターの中に取り込まれていく。

 もう、手に持った魔剣を介する必要もない。

 最早ヴェスターそのものが、呪いを媒介する何かに変質していた。

 それこそがヴェスターに持たされたギフト。

 魔剣を操る力はその副産物に過ぎない。

 呪いを受けてもなお揺るがず、それすらも自らの力へと変えて戦う狂戦士。

「てめぇのそのくだらねぇ夢物語が叶うと思ってんじゃねえってな!」

 そして、黒い力を纏った獣が吼えた。


 ▽


 それから何時間経ったであろうか。

 いつの間にか日が昇り、紅い月は消えていた。

 そう言えば、今日ここに降り立つエトランゼは不幸なものだと、そんなことを考える。

「いやー! やりゃできるもんだな!」

 大量の残骸に囲まれて、

 幾つもの死骸の真ん中で、

 能天気に声を上げた。

 後頭部を掻きながらヴェスターは、いつもの調子で上機嫌そうに笑っている。

 全身が傷でぼろぼろになって、返り血で真っ赤に染まったその姿は二目と見られたものではないが、それは勲章と呼んで差し支えないものだろう。

 とにかく、悪夢の夜は明けた。未だに遠くに見えるあの巨人は動かないが、あれが放った黒き尖兵は大半が打ち取られたはずだった。

 魔物達の姿もいずこかに消えて、辺りには不自然なまでの静寂が立ち込めていた。

 朝焼けが丘を縁取るように白く染めながら浮かんでくる。

 余りにも眩しいそれから目を背けながら、ヴェスターは隣人へと話しかける。

「俺の活躍見てたろ? 沢山語れって、女には困らないようにしてくれ。酒でも飲みながらよ。こりゃ夜は美味い酒が飲めるだろうなぁ! お、そうだ、あの髭野郎にも奢ってもらわないとな? 五大貴族ってことは金持ちなんだろ? だったら極上の酒とお姉ちゃんがいる店を……」

 返答はない。

 座り込んだヴェスターの横には、亡骸が一つ。

 その周囲には黒き尖兵と相討ちになるように、兵士五十人の死体が転がっていた。

「凡庸ってのは間違いないな。この程度の戦場で死んじまうなんてよ。やっぱ俺ぐらいスペシャルじゃねえと生き残れないってことか」

 呟きが風に溶けて消える。

 別に涙を流すわけではない、ヴェスターとディッカーは立場が違う、単なる戦場で巡り合った仲間同士に過ぎない。それ以上の関係はない。

 ただ、同じタイミングで振り返っただけだ。ここは自分がやらねばならぬと、答えようもない感情に突き動かされて。

 また風が吹いた。

 踏み荒らされた草の葉が飛ばされて、地面を擦る音がする。

 座り込んだまま辺りを見て、ヴェスターは息を吐く。

 いつもの調子で、決してその死に涙など流さない。戦場で死ぬのは当たり前のことなのだから。

「ま、よくやったんじゃねえの」

 それは彼の最大限の賛辞の言葉だった。

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