六章 目覚めたる災厄(下)
第一節 目覚めの刻
旧きエイスの聖典に曰く。
海を裂き、地を砕き、空を割りてそれらは現れる。
大地を埋め尽くし、生命を喰らい、人を殺す悪鬼の群れ。
星よりも数多く、光無き夜よりも昏く、怒れる御使いよりも無慈悲。
故に、彼は地上へと降りたのだ。
故に、彼女は空へと舞うのだ。
天の光、神々の一柱。人を見捨てられぬ慈愛を持つ哀れで愚かな神、エイス・イーリーネ。
大いなる父神は御使いを従え、それらを倒した。
人の世を拓くために。
古き大地の者達を、この地に残さないために。
「嗚呼」
女の声がする。
修道服を纏い、黒いヴェールからはみ出した緩やかなウェーブを描く銀色の髪を潮風に靡かせながら、その方向を見る。
切り立った崖の上、エトランゼが現れる紅い月に照らされた水面が揺れる。
暗い暗い夜の海は何処までも広く、水平線の彼方が月に照らされて赤く染まっていた。
女はそれを見て笑っていた。
こことは違う場所で、人々はそれを見て世界が終わるのだと嘆きの声を上げた。
大地が揺れて、海が割れる。
誰も味わったことのない天変が巻き起こる。
そうしてしばらくの静寂の後。
彼等は知った。それが単なる前兆に過ぎなかったことを。更なる破壊と混沌は、これよりもたらされることを。
何かが海から上がってくる。
まず見えたのはその頭部。まるで不気味な黒い花が咲いているかのように広がり、その中心には女の姿を象った何かが生えている。
次にその胴体。黒い甲殻によって包まれたそれは、木の幹のように野太く頑強で、両側に二本の腕のようなものが付いていた。腕の先には手が見えるが、指のように広がったものの数は三本しかない。
最も異形なのはその下半身だった。無数の触手が交じり、絡まり合って胴体を覆う甲殻の中から生えている。それらを起用に動かして海底を這い、その生き物は少しずつ地上へと近付いていた。
人間よりも、建物よりも遥かに大きなその化け物は、見ただけで人の心に恐怖を植え付け、精神を蝕む。
海岸から陸上に上がって来たそれを見て、すぐ傍にあるハーフェンの街は大混乱に陥った。
女――魂魄のイグナシオが立っている崖の上からでも、逃げ惑う人々の姿がよく見える。
普段ならばその様子を面白がるところだが、今日ばかりは事情が違う。イグナシオの観察対象は別のもの、その怪物にあった。
「なんという醜悪。なんという、悍ましい怪物なのでしょう!」
嘆くように叫びながらも、そこに悲哀の感情など欠片もありはしない。
この御使いが望むのは決してそれの死ではない。
「黎明のリーヴラ。まさかあんなものを蘇らせるほどに人の世に関心が消えていたとは。……いいえ、よく考えてみれば、あのウァラゼルを好きにさせていた時点で既に、と言うもの」
女の声は、その怪物が蠢く音に掻き消えて他の何処にも届かない。
元より本人にそのつもりなどはなく、ただ独り言を言っているに過ぎないのだが。
陸に上がった化物の触手が這う。征く道の途中にある集落を、立っている家をその一撃が容易く破壊する。
人が長い時間を掛けて築いた村も、そこで生きる命も儚いものだ。その化け物の前では等しく、一瞬にして奪い去られその価値をなくしていく。
「ですが、ですが昂ります。実に興味をそそられるのです。かつては世界を滅ぼしかけた災厄、そのたった一欠片とて百万の人間を屠るには充分。嗚呼、それでも」
女は落胆する。
イグナシオにとってその程度の災厄を呼び覚ますことは児戯にも等しい。
もっともこれは、オルタリアに居を構える黎明のリーヴラの思惑など全く度外視した彼女の勝手な意見に過ぎないが。
「詰めが甘い。災厄はもっと壮大に、試練を与える必要などないのです。所詮は定命の者達。いずれは朽ち果て消え去る運命なのですから。わたくし達にできるのはそれを弄ぶこと。精一杯に美しきを見せ、希望を語り、愛を注ぎ、滅びを受け入れさせる。それこそが御使いの意義なのですから!」
熱に浮かされたようなイグナシオの言葉に答えるかの如く、その化け物が咆哮を上げる。
黒い装甲が形を変え、至る所に無数の口が浮かび上がる。
その空気の振動は不快な響きを持って、世界を満たす。
心の弱きもの達はたったそれだけで意識を失って、或いは竦み上がってその場から動けなくなってしまうだろう。
「醜悪にして美麗。滅びの歌とはかのような響きでしたか」
悲劇はそれで終わりではない。
その咆哮は単なる産声にして、合図に過ぎない。
光がその口の周りに浮かび上がり、化け物の正面で収束して一つになる。
それは巨大な魔法力の塊。魔導師と呼ばれる者達が必死で加工し、人が使える規模にまで落とし込んだ力の、原初たる姿の一つ。
純粋なる破壊のエネルギーは、二度目の咆哮と共に放たれた。
巨大な深紅の輝きは人の住む場所を幾つも通過点に焼き払い、そこにいる生き物達を無慈悲に殺し、彼方へと飛び去って行く。
光の線が細まって消えてから、しばしの静寂があった。
それはイグナシオが立っている場所だからそう感じるだけで、人々の間では幾つもの悲劇が生まれ、甘美な悲鳴が木霊していたことだろう。
それを聞き逃したことが残念で、イグナシオは一人自分の迂闊さに呆れていた。
「わたくしとしたことが……。ですがいいでしょう。楽しみはまだまだ続くのですから」
それは単なる合図に過ぎない。
再び地面が蠢く。大地が割れるような音と共にそれらはやって来た。
遥か遠き過去、その者達に率いられ蹂躙を繰り返した者達。
神の威光により住処を、主を奪われ迫害され続けていた、魔物と呼ばれている醜悪で残虐な獣達。
彼等は目覚め、蹂躙を再開する。
そこに人の都合など知りはしない。本能のままに、邪悪なる主が命ずるままに地を埋め尽くすのだ。
「……こんなに楽しい催しを企画しているとは、リーヴラも愉悦と言うものが判って来たのですね。その心に報いて差し上げるとしましょう」
闇の中にイグナシオの姿が消える。
それは今しがた目覚めた巨大な災厄とは別に、更なる悲劇の予兆であった。
▽
モーリッツ率いる軍を打ち破り、フィノイ河を越えた先で陣を張っていたヨハン達の目に、その光は飛び込んできた。
「……なんだ、あれは……」
初めて御使いを見たときのような――否。
それ以上の衝撃が、ヨハンだけでなくその場にいる全員の動きを止めていた。
真紅の光はヨハン達からは大きく逸れていたものの、ハーフェン近くの海岸から西側へを一直線に薙ぎ払っている。
夜空を貫くその輝きの美しさは言葉にできないほどのものだったが、そんな感傷に浸っている場合ではないことは、その場の誰もが判っていた。
暗い影が大地を覆う。
それが地上から伸びる巨大な生き物であると理解するのに、数秒の時間を要した。
「……よっちゃん」
隣で、クラウディアが不安そうにヨハンの袖を掴んだ。
すぐ近くで兵達と談笑していたイブキは浮足立つようなこともなく、周囲の人々に落ち着くように言っているが、当の本人も不安を隠せない様子でいる。
「状況を確認する。早馬を飛ばし、あの光が薙ぎ払った場所を調査しろ」
そう命令すると、弾かれたように部下が飛び出していく。
そしてそれと入れ違いになるように、エレオノーラが駆け寄ってくる。
「ヨハン殿! あれは……」
「……判らない。だが、只事ではないのは確かだ。モーリッツの陣へと使者を」
「うむ。一先ずは停戦と言うことでよいな?」
「頼む」
エレオノーラは素早く近くにいた将兵に指示を出して、伝令の使者を向かわせる。
何が起こるか判らないこの状況に身を固くしていると、程なくして慌てた様子の斥候が戻ってくるのが見えた。
ヨハンは自分から斥候の方に近付いていき、状況を尋ねる。
「ま、魔物の大発生です! これまで見たこともない数が現れて、あちこちに散っています! この陣もいつ囲まれるものか……!」
伝令の兵士が言い終えるよりも早く、彼の言葉を裏付けるように遠くから獣の声にも似た咆哮が聞こえてくる。それも単一のものではない、まるで呪詛のように折り重なったその声は、命ある者全てを喰らい尽くさんとする闇夜の声そのものだ。
「聞こえたな! エレオノーラ、すぐにイシュトナルへと撤退を! これはもう、戦っている場合ではない!」
「わ、判った! 全軍、緊急事態だ! すぐに陣を引き払いイシュトナルへと撤退する!」
彼女が声高に叫ぶと、兵達は言われた通りに撤収の準備をする。
「……何故、このタイミングで……!」
大凡考えうる限り最悪のタイミングと言っても過言ではない。
魔物の襲撃が増えていることは知っていた。だからこそ何かが起こることは予想していたが、事態はヨハンが想定していた規模を遥かに超えている。
そして何よりも東の空に塔のように聳える異形の怪物。
あんなものは知らない。この世界のものとは思えないほどに醜悪な化け物は、地上を見下ろし、自らの庭であるかの如く悠々と進撃する。
だが、不思議なことがあった。
ヨハンはその化け物を知らない、そのはずなのに。
胸の内が焦げ付くように熱い。
心臓の辺りが騒めき、何かを訴えている。
「よっちゃん、何処か痛いの?」
心臓の辺りに拳を当てるヨハンを不審に思ったのか、心配そうな顔でクラウディアが覗き込んでくる。
「いや、大丈夫だ」
「ひょっとして、怖いとか?」
「かもな」
誤魔化す意味も込めて、適当に相槌を打っておく。
するとクラウディアはヨハンの拳を解くように掴み、手を繋ぐ。
そうして余った方の手をヨハンの胸に当てて、柔らかく笑いかけた。
「大丈夫、アタシがいるよ」
「……ああ、期待している」
「へへっ」
一寸先は闇と化した。
これから先何が起こるか、全く想像もつかない。
その中で彼女の優しさは、本当に小さなものではあるが馬鹿にできない力を与えてくれる。
これから先に待ち受けるものを知らないヨハンは、純粋にそう思っていた。
▽
その異変の余波を受けたのは、何もイシュトナルの軍だけではない。
一度は敗走したものの未だ大量の戦力を抱え、近くの拠点に待機させておいた予備兵力と合流を果たしたモーリッツもまた、砦内部でその報告を受けていた。
戦争中の唯一の楽しみでもある食事を中断し、直ちに砦の屋上へと駆け上がる。
石造りの、三階建ての建物から見えたのは遥か東からこちらに向かって進んでくる巨大な化け物と、その足元に集うように地を駆ける魔物の群れ。
遠方を覗くための遠眼鏡を副官に手渡して、その後ろを付いて来ていた伝令へと顔を向ける。
「聖別騎士団の連中は何をしている!」
「そ、それが……。あれが観測されるや否や、これは聖戦であると唱え、何処かに姿を消しました。恐らくはエイス・ディオテミスに帰還したものかと」
「あの狂信者どもめ!」
苛立ちから屋上の床を踏み鳴らすモーリッツだが、彼の苦難はまだこれだけでは終わらなかった。
今後の対策を考えようと下に戻ろうとすると、そこに続く階段から足音が聞こえてくる。
モーリッツ、副官、伝令の三人は互いに顔を見合わせて首を傾げる。今この場に立ち入りを許された者は誰もいないはずだった。
「何者だ?」
モーリッツが尋ねると、答えが来るよりも早くそれは姿を現した。
帽子を被り、整った礼服を纏ったその男は、五大貴族と言うこの国で王に次ぐ地位を持つはずのモーリッツを見ても何ら顔色を変えることなく、一定の歩調を維持したまま傍まで歩みよってくる。
それを止めようとした伝令も副官も、その男が纏う異様な雰囲気に気圧されて、言葉を発することができなかった。
「何者だと、私は聞いたのだが?」
「失礼。自分はヘルフリート王直属の親衛隊である」
「王の、親衛隊? そんな話は聞いたことがないな」
「此度の戦の前に極秘裏に設立されたものであるからして、知らぬのも無理はない」
「ふむ……。で、その親衛隊が何の用だ? 加えて、五大貴族の一人であるモーリッツ・ベーデガーにその口の利き方、王であるヘルフリート閣下の面を汚すことになると知れ」
この程度で剣を抜くほど、モーリッツは感情的ではないが、彼のその態度は間違いなく不遜に当たる。
「心配はご無用。我等親衛隊の権限は王より賜ったもの。即ち我等の言葉は王の言葉、その意味は五大貴族を遥かに超えている」
「ふざけたことを! だからと言って、お前達が私よりも上の地位と言うわけではあるまい」
「果たしてそれはどうだろうか? モーリッツ卿、貴殿の振る舞いしだいではその身を拘束し、王の前に引っ立てる権限があることは理解しておくのだな」
「……まあいい。今はそんな些事に構っている暇はない。王の親衛隊ならば知っているだろう、この事態に王都からの増援は? 私達はイシュトナルと停戦し、共闘戦線までも考えているところだ」
「そのことに付いて話があり参上したのだ。簡潔に言えば、王都からの増援はない。この緊急事態に対して非常警戒態勢を取る。魔法学院の技術を最大利用し、オル・フェーズに結界を張る。出ることも入ることもできぬ結界をな」
「……なんだと? ならば外からの難民はどうなる? これだけの魔物の数、相当な被害が出るぞ」
「その答えを必要とするほどに蒙昧であったか? 五大貴族とは」
「……見殺しにするというのか」
王都の危機に守りを固めるという判断は悪くはない。そこが攻め落とされれば国は機能を停止し、更なる混乱が訪れることは想像に難くない。
だが、それではあまりにも。
「それから加えてもう一つ。イシュトナルとの和平は許可できない。お前達はイシュトナルに追撃を掛け、この機会に奴等を殲滅するのだ」
「馬鹿な!」
モーリッツが親衛隊に掴みかかろうとするも、彼は一歩身体を後ろにずらすことで軽々と伸ばされた腕を避ける。
「ヘルフリート陛下は正気なのか! いや、それともこれは貴様が勝手にやっていることではないだろうな!」
「これは全てヘルフリート陛下の指示。その証拠を見せてやろう」
親衛隊が差し出したのは、王家の印章が入った掌程度の大きさの石の板だった。
それこそが彼が王家から勅命を受けている証となる。
それを知っていたモーリッツは膝から崩れ落ちる思いだった。ヘルフリートは王として無茶な振る舞いが目だったが、まさかこれほどまでに周りが見えない男だったとは。
「戦力はどうなる? 横合いから魔物の襲撃を受けたら? それに、あれはどうするのだ! あの怪物を仕留めるには国中の力を結集するしか!」
今も天に聳えるそれを指で示す。
巨人は悠々と、大地を踏みしめてその足元になるあらゆるものに破壊をもたらしていく。
これは、あの悪性のウァラゼル以上の災厄となりうる。なにがあろうと止めなくてはならない。
「それは自分が答えることではない。貴殿がやるべきはイシュトナルを追撃し、エレオノーラの首を取ること。やって見せよとの命令だ。五大貴族の誇りに掛けて、な」
にやりと底意地が悪い笑みを浮かべると、その言葉を最後に親衛隊は後ろを振り返って階段を降りていってしまう。
「親衛隊、だと……?」
呆然と呟いたモーリッツの横で、副官が一言呟く。
「妙ですな」
「……ああ、判っている」
あれが発生してから、まだ一日も立っていないのだ。
どうしてそこまで早急に伝令代わりの親衛隊を走らせ、王都を護る準備を整えることができる?
それは少し考えただけで自ずと答えが出るほどの簡単な問い。
「……ヘルフリート陛下……。いや、その傍にいる何者かは知らぬが、この事態を知っていた」
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