六章 目覚めたる災厄(中)

第一節 戦場へ

 馬に乗り、行軍する部隊の先頭を進みながら、ディッカー・ヘンラインは本当に数奇なものだと一人考える。

 口元に小さな髭を生やした、如何にも人畜無害そうな顔立ちの男だが、鎧を纏って馬を駆るその姿は真剣そのもので、一介の指揮官と


しての風格がある。

 その物憂げな表情に何かを感じ取ったのか、同じように隣を馬で併進するクルト・バーナーが声を掛けた。

 こちらは短い髪をした、まだ年若い端正な顔立ちの男性で、その表情はこれから始まる戦いを前に固く強張っている。

「ディッカー卿。何か不安でもありますかな?」

「戦の前はいつもそうだよ。何年戦い続けても、そればかりは変わりはしない」

 平原を進むイシュトナルの軍隊。その数は様々な兵種を統合すると千を超える。

 これまでディッカーはここまでの規模の軍を率いたことはない。

 この男がオルタリアでヘンライン家の家督を継いでから既に数十年、その間に外部からの侵略はない。

 その代わりにエトランゼに関係のあるなしに関わらず内乱や大規模な盗賊や反乱の被害が相次ぎ、今オルタリアで武名を誇る家柄はそ


の大半がそれらで活躍した者達だ。

「私は凡庸だからね」

 自嘲するように、ディッカーが言う。

 長年そう呼ばれ続けていた。最初にそれを言ったのは誰であったか、そんなことはもう覚えていない。

 最早本人にとってそれは貶すための言葉でもなく、ただ単純に自分を指す一言となっていた。

「は。凡庸ですか?」

「そうだ。バーナー卿はまだ若いから知らないだろうがね。私が王宮にいたころは、周りからそう呼ばれ続けていたんだよ」

「では、その者達は見る目がありませんでしたね」

 クルトはさらりとそう言って、ディッカーの自嘲を流してしまう。

「そんなことを言うものではないよ。あのヴィルヘルム・ホーガンやベーデガーの先代も言っていたのだ」

「どちらも今は故人。それも敵ではありませんか」

 この若い貴族は、思いの外思い切りがいい。

 イシュトナルにありながら未だオルタリアの貴族達との繋がりを求める他の貴族達にも見習わせてやりたいほどだ。

 その理由としては彼の若さと、何よりも普段からエトランゼに接していることにあるのだろうと、ディッカーは予想する。

「自分からすればディッカー卿は見習うべき御仁であり、尊敬の対象です。それを凡庸と呼ぶとは……」

「は、は、は。それは買い被り過ぎと言うものだ。事実、私はイシュトナルで何も成せてはいない。全て君達若者の功績だよ」

 そこにはエレオノーラと、あのエトランゼの青年も含まれている。

「ですが、ディッカー卿は助けを求めてきたエレオノーラ様を真っ先に保護したのでしょう?」

「私もイシュトナルを追われていたからね。立場は同じだったというだけの話さ」

「エレオノーラ様の首を持ってヘルフリートに帰順するという手もありましたでしょう」

 その言葉に、ディッカーは呆気にとられた表情をする。

「それは思いつかなかったなぁ」

「ディッカー卿。貴方が姫様の志に惹かれていた証拠です。正しいものを見極め、その為に行動できる人物の何処が、凡庸でありましょ


うか?」

「……嬉しいことを言ってくれるな。だが、それを証明するためにも勝たねばならん」

「……ええ。勝ちましょう。そして姫様が正しきことをしていると、世に知らしめなければなりません」

 所詮、どれだけ綺麗事で取り繕っても、この世界から血の匂いは決して消えることはない。

 勝った者が正義。その理屈は覆らず、ここでエレオノーラ達が負ければその功績は愚行として歴史に刻まれる。

 日々を生きるエトランゼ達には関係のないことだが、彼等は違った。

 この世界で生きて、今日まで貴族としての誇りを護って来た彼等はその行いの正しさを歴史に証明する必要がある。

 だからこそ、勝たねばならない。

 このまま愚か者として歴史に名を残すことは、子々孫々と血脈を繋いできた先祖たちに申し訳が立たないのだから。


 ▽


「斥候が戻りました」

 そう言いながら野営地の天幕に入り込んできたのは怜悧な風貌の、背の高い男。その名をルー・シンと言い、エーリヒ・ヴィルヘルム


・ホーガン率いる軍の軍師を務めている。

「おぉ! 戻ったか! で、奴等は?」

 口から顎まで伸びる鬚を生やし、貴族服を来た大柄な男はそのエーリヒ本人で、彼は今ハーフェン側にある橋の近くに陣を張り、イシ


ュトナル軍の動きを観察していた。

「はい。やはり別働隊がこちらに向けて進軍を開始しているようです。動きは素早く、このままでは橋でぶつかることになるかと」

「ふーむ」

 布一枚が引かれた地面、その上に置かれた木製の簡素な椅子に深く腰掛けながら、エーリヒは顎鬚を撫でて思案する。

 目の前のテーブルにはこの辺りの地図が広げられており、ペンを取り出してフィノイ河に掛かる橋に丸を付ける。

「では、橋での戦いとなるか?」

「それは愚行かと」

 遠慮ない物言いで、エトランゼの男はそれを否定する。

 エーリヒがテーブルの上に投げ出すように置いたペンを手に取って、その丸の上にバツ印を書き加えた。

「橋上での戦いは一度にぶつかれる数に限りがあります。敵は寡兵、その条件を上手く生かさせることもありますまい」

「だが、こちらの精鋭を持ってすれば奴等雑兵など一気に蹴散らすことができるかも知れんぞ?」

 試すような口ぶりでエーリヒが尋ねる。

 対するルー・シンはやや呆れたような口調で答えた。

「前回奴等の銃兵と砲兵に煮え湯を飲まされたことをお忘れですか?」

「それは確かに! あれらは狭い場所の方が真価を発揮するということか!」

「その通りです。逆に言ってしまえばあの砲も銃も未完成。拠点攻めならまだしも野戦でその真価を発揮することはできません」

「うむ。それは確かだな」

「それから、閉所での戦闘はエトランゼに分があります。我等はギフトを持つ故に、兵種としての特異性を確立しています。背後から打


てば倒れるエトランゼも、正面からの戦いでは脅威となる」

 エトランゼの全般的な特徴として、戦いの経験に乏しい。それは昨日まで戦いとは縁のない日常を送っていたのだから当たり前のこと


だ。

 そうだとしても、彼等の持つギフトはその一人一人を精兵と呼んで差し支えない強さに押し上げる。

 だが、どれだけ強い力を持っていても所詮は素人。正面からの敵には対応できても側面、後背から狙われてはひとたまりもない。

 逆に言えば狭い橋上での戦いは、彼等一人一人に正面だけを相手にすればいい状況を作らせてしまう。

「なるほどな。ならば野戦を挑むべきと言うのは判った。で、本題は打つかそれとも打たせるかだが」

「エーリヒ様!」

 エーリヒに負けないぐらいの大声が響いて、天幕の中に入り込んでくる巨体があった。

 その後ろからは中年の貴族、ラウレンツがバツが悪そうな顔で続いてくる。

「オーラフ卿! まずいですって!」

 ラウレンツを引きずるようにして部屋に入り込んできたのは、オーラフ・クンツェ。今回の行軍に際してヘルフリートから遣わされた


貴族の男だった。

 大柄なエーリヒですら見上げるほどの巨体はその体躯に見合うだけの戦果を挙げてきた勇士でもある。

「ええい、黙っていろラウレンツ! エーリヒ様、お言葉ですが奴等イシュトナルの兵は寡兵にて脆弱、こちらから仕掛けて一息に蹴散


らして見せましょうぞ!」

「……と、オーラフは言っているがな。ルー・シン」

 ルー・シンが何か言おうとするのを、オーラフが遮る。そればかりかその身体を押し退けるようにして、天幕の隅に追いやってしまっ


た。

「このようなエトランゼの言葉を真に受けてどうするのですか! 我々は誇り高きオルタリアの貴族。こんな怪しい男の知恵など借りず


とも、勝利できるはずです!」

 ヘルフリートに今でも付き従っているだけあって、オーラフは典型的な貴族だった。特別エイスナハルを信仰しているわけではないが


、余所者であるエトランゼが名を上げることには否定的で、戦場ではやはり武こそが戦いを制するものと決めつけている。

「だいたいにして、自分はエーリヒ様がこのような一大事にエトランゼ如きの言葉を聞いているこの状況が理解できませぬ。それではヘ


ルフリート様への反抗と取られてもおかしくはないでしょう! 本国では既にエトランゼの収容及び処刑も始まっており……」

「オーラフ卿!」

 慌ててラウレンツが声を荒げる。

 オーラフはそんなことはお構いなしとばかりに、エーリヒの傍に近付いてテーブルに大きな両手を置いた。

 エーリヒは頭に手を当てて、軽く溜息をついてから、

「では、先鋒はオーラフとラウレンツに任せていいな?」

「お任せください! 本来ならばラウレンツすらも必要ありませぬが……」

「それはそうかも知れんが、雑用係は必要だろう?」

 言いながら、片目を閉じてラウレンツに合図を送る。

 それを受け取った中年貴族は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めながらも頷いた。

「はははっ、そう言うことならば仕方ありませんな! おい、ラウレンツ。すぐに戦の準備だ!」

「はいはい。判りましたよ」

 上機嫌そうに、大股でオーラフが出ていく。

 その後に続いて若干顔色を悪くしたラウレンツも天幕を去っていった。

「……と、言う手筈になったが問題は?」

「今生まれましたな。二つほど」

「やはりか。しかし、こうでもせねばオーラフは止まるまい」

「……ええ、確かに。ならば、それはそれとして戦いを運ぶとしましょう」

 既にルー・シンの頭の中では戦術が組み上がっていた。

「では、手前はこれにして失礼します。ラウレンツ殿に言っておくことがありますので」

「おう。今回の頼んだぞ、ルー・シン」

 小さく頷いて、エトランゼの軍師は天幕を後にする。

 同胞が収容され、処刑されているという話を聞いても彼は顔色一つ変えることはなかった。

「ルー・シン。大した拾い物だが、果たしていつまでオルタリアの味方をしてくれるか。ヘルフリート陛下、あまり早まった真似はして


ほしくないものだがな」

 何処まで行っても彼はエトランゼ。

 例えエーリヒがルー・シンを信頼し、地位を与えてもその事実が消えることはない。


 ▽


 ヴィルヘルムの軍より遅れること数時間。イシュトナルから出発した本隊は、フィノイ河を挟んで敵軍と相対した。

 フィノイ河のほとりに建てられた砦に部隊は集結し、ここまでの行軍に対して与えられた僅かな休憩を享受していた。

 急造の砦の城壁内部にはまだ建材の残りが散乱していて、どうにも狭苦しい。とは言えこの中に入れるだけでも待遇としては立派なも


のだ。大半の兵士は砦の外側にテントを張って野営するしかないのだから。

 トウヤもその中に兵士として参加する一人である。エトランゼの遊撃隊の一人として、日々ヴェスターの下で働いている彼は斬り込み


役として周囲からの信頼を得ていた。

 そのため今は最優先で休憩が与えられたのだが、周りが忙しなく動いているときに休憩しているのがなんとなく悪いような気がして、


仕事を探してうろついている。

 物資を運ぶ兵達に声を掛けようとすると、トウヤの肩に大きな手が置かれる。

 後ろを振り返りながら顔を上げれば、立っていたのは金色の髪に日に焼けた肌の見上げるほどの大男。

「ヘーイ、トウヤ! 今は休憩時間のはずだけど、どうしたんだい?」

 白い歯を光らせながら、そう尋ねる男の名はテッド。

 エトランゼで、元々の世界にいたころは従軍経験もある。その経験を銃兵や砲兵に対してのアドバイザーとしての地位に就いている。

「いや、なんか……。俺だけ何もしてないのが落ち着かなくて」

「ハッハッハ! トウヤはナイスガイだね! でも心配はご無用さ。戦いが始まったら嫌と言うほど働いてもらうことになるわけだし、


それにほら」

 テッドの示す視線の先には、あくせくと働く兵達の前で、これ見よがしに酒を飲みながらからかいの言葉を掛けて回っている男の姿が


あった。

「ユー達の隊長、ヴェスターはあの有り様ね。ヘイ、ヴェスター! あんまり士気を下げるようなことするんじゃないよー!」

 テッドの声が届いて、ヴェスターが面倒くさそうにその場から逃げていく。彼に絡まれていた兵達はほっとして、こちらに会釈を返し


た。

「あの行動はバッドだけど、あのぐらい落ち着いてた方がいいね。そのうち、嫌でも戦いの時が来るんだから」

「……ああ。判ってる」

 休める時に休んでおく。それも兵士として素養の一つである。

「テッドは何を?」

「ミーは今から砦に例のステークを取りつけるね。それから銃兵隊の配置も確認しておく必要もあるし」

「攻撃には使わないのか?」

 前回の戦いでは魔力の籠った杭を打ち出す砲が非常に役に立った。今回もそれを主力として戦うと、トウヤは思っていたのだが。

「ンー。それは難しいね。取り回しも悪いに、持っていると行軍速度が落ちる。それに、向こうにももう種が割れてると、それほどの効


果はないんだよ。拠点攻めならともかく、野戦じゃ殆ど役立たずね」

 下手な使い方をして破壊されれば、本命の拠点攻撃の際に使えなくなる。ならば今は温存して最大限力を発揮できる拠点防衛に回すと


いうことだった。

「……そう言うのもあるんだ」

 トウヤからすれば強力な兵器はどんどん使った方がいい、程度の認識しかなかったので、その意見には目から鱗が落ちる思いだった。

「だから、戦場の主役はやっぱりエトランゼのギフトになるね。ミーのギフトは弱いからその辺りじゃあんまり役に立たないけど、トウ


ヤ達には期待してるよ!」

 バンと、強く肩が叩かれる。

 自分よりも遥かに大柄な男にそうされたことでトウヤはよろけて倒れそうになるが、それが気合いを入れるための善意から来る行動だ


と判っていたので、不快感はない。

「遅くても明日には緒戦が始まりまーす。ミスタヨハンはミー達に本隊を任せてくれました。自分と、姫を囮にしてまで」

 全ての期待はこちらの軍に掛かっている。エーリヒの軍を少しでも早く撃破し、相手の裏側を突く。そうして初めてこの戦いに勝利し


たと言えるだろう。

「この戦いに時間は掛けられないってことか?」

「イエス! 更にプラスで、犠牲も出せませーん」

「……そりゃ、難しいこと言ってくれるな」

「はーい。でも、言われた以上、やって見せるのが軍人と言うものでーす。そのためにミー達は訓練を重ねてきたのですから」

「……そうだよな」

「ミーはイシュトナルの人々が好きでーす。それはエトランゼも、この世界の人達も一緒です。だから、負けられません。軍人とは武器


を持って、大切な人達を護る者達を指す言葉ですから」

 そう言ったテッドの表情に一切の迷いはない。

 この戦いに勝つ。そしてイシュトナルを護って明日からの日々を手に入れる。

「そうだよな。自信がないからって、迷ってなんかいられないよな」

「イエス! トウヤも死んじゃいけませんよ、イシュトナルにガールフレンドを残して来てるんでしょう?」

「……いや、ガールフレンドってわけじゃ……。っていうか、なんで知って……!」

「オゥ! まだ片思いでしたか! それではますます死ねませんね!」

「いや、だからその話から聞いて……」

 最後まで問い詰めるわけもなく、思い当たった。

 こんな悪趣味なことを言いふらすのは一人しかいない。

「……あいつ、戦場で味方から刺されないといいけどな」

 トウヤが言った人物が誰であるかを理解したテッドは、にやりと笑う。

「強いから大丈夫でしょう。刺されても死ぬとは思えませーん」

「……確かに」

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