第三節 夜風に包まれて

 それから三日後。約束の日を違えずハーフェンの豪商であるマルク・ユルゲンスは自らの傘下である商人達を引き連れてイシュトナルへとやって来た。

 彼等を迎え入れるために、イシュトナルに建てられた屋敷が用いられ、その一室であるホールはまるで舞踏会の会場のように美しく彩られていた。

 商人達だけでなく、彼等の子供達も一緒にここに訪れており、あわよくば貴族達との関係を結ぼうとの魂胆が見て取れた。

 イシュトナルの指導者として、黒髪が映える白いドレスに身を包んだエレオノーラは、床一面に引かれた豪奢な絨毯の上で彼等の話を聞いては相槌を打っている。

 普段のローブとは違い、貴族が着るようななれない正装を纏ったヨハンはその様子を眺めながら隅の方で邪魔にならない程度に料理を摘まみ、酒を飲んでいた。

 エレオノーラではないが、確かに今はこんなことをしている場合ではない。下手をすればもうオルタリアの軍は動きだしているかも知れない。

 ゼクスに頼んでオルタリア領内にいる反ヘルフリートを掲げる組織を活発化させてもらってはいるが、それも焼け石に水。

 こんな戦争は早く終わらせなければならない。

 アシュタの村で出会った御使い、魂魄のイグナシオ。

 カナタが再会した友人であり魔人アルスノヴァと名乗った女性。

 その二つのことを思いだすと、頭に疼痛が走る。その感覚はあの時、アンナが正体を現したときによく似ていた。

 ならば、一つの過程が立てられる。

 名無しのエトランゼ。記憶のない自分はこちらの世界に来たショックで記憶を失ったのではなく――。

 ヨハンがいる壁際の、真横にある大きな窓が開けられる音がして、外から入り込んできた夜の風が夜会の中を走り抜けていく。

 各々が弁舌に躍起になっている貴族や商人達はそれに気付くことはなかったが、その子息子女たちは涼しい風を受けて一層会話を盛り上げていた。

 その中で、窓を開けた張本人がヨハンのすぐ傍に立っている。

 小柄だが女性らしく成長した身体。金色の髪を靡かせて歩くその姿はこの中では王女たるエレオノーラに次いで、人々の注目を浴びるに相応しい。

 長いスカートの、ワンピース型の黒いドレスがその髪色を引き立たせ、非常によく似合っている。

 一瞬、ヨハンはそれが誰だか判らなかったほどだ。

「折角の夜会なのに、こんなところでじっとしていることもないでしょう?」

 いや。

 その言葉を発して、余計にヨハンには判らなくなった。

 ただ彼女の父であるマルク・ユルゲンスが二人の仲を周囲に見せつけるために、余計に声を上げて周りの注目を集めさせる。

「でも確かに、この場は少しばかり騒がしいですね。もしよければ、二人きりになれる場所に行きませんか?」

 そう言って、口元を小さく開いて笑う。

 その様子に呆気にとられ、またここ数日の仕事疲れもあってかヨハンは何も言うことができなかった。

「では、お手を。それともエスコートして頂けますか? 素敵な魔法使い様?」

 可愛らしく小首を傾げる仕草も絵になる少女は、ヨハンの返事を待たずにその手を引いて夜会の会場を後にする。

 扉が閉まってから、噂好きの子女達の歓声が会場から漏れだしてくる。

 あれよあれよという間にヨハンは手を引かれて、連れていかれたのはある一室。今日ここに来た賓客達の寝室として宛がわれている部屋だった。

 部屋の中は綺麗に整えられており、来客をもたらすために職人に作られた家具が並んでいる。

 少女は部屋に入るなり扉を閉めて鍵を掛けて、それから窓を開けてバルコニーへとヨハンを招く。

「んー! 風が気持ちいいー! あんなとこにいたら息が詰まっちゃうよね」

 別人のようにいつもの調子に戻った彼女を見て、ヨハンはようやく呆気にとられた状態から正気に戻ることができた。

「……クラウディア。久しぶりだな」

「うん! 久しぶり!」

 言いながらもヨハンを手招きする。

 バルコニーは狭く、二人同時に外に出ると腕が触れあうほどの距離になる。

「黙って抜け出そうとするとパパが煩いからさ。よっちゃんと一緒なら、納得してくれるからね」

「その分、誤解を招くことになるがな」

「誤解って?」

「いや。判らないならいい。それよりも、ラニーニャの件だが、すまなかった。俺の力不足で」

「あー、うん。仕方ないって。相手は御使いでしょ? 生きてただけ儲けもんだよね」

「ラニーニャには会って来たのか?」

「当然! ここに来てすぐ行ってきたよ。ぼろぼろだったけど、元気そうでよかった。後遺症とかはなさそうなの?」

「右目の視力に関してはどうなるかは判らん。壊れたレンズの破片が突き刺さって、下手をすれば完全に見えなくなるかも知れん」

「……そっか。ほら、謝ろうとしないの!」

 先手を取って、クラウディアはヨハンが頭を下げようとするのを止めさせた。

「海から見る星も綺麗だけど、こっちもそれなりだね」

「星?」

 言われて見上げると、空には満天の星空が広がっている。

 大きなもの、小さなもの、幾つもの輝きが地上を照らし、その存在を強く主張して煌めいていた。

「一緒に星を見上げるとかロマンチックだよね。……そんな気分じゃなさそうだけど」

「……それは、そうだな」

 隠し事をしても意味はない。ラニーニャと会ったということはアーデルハイトのことも知っているだろう。

 本当は今ここでこうしている時間すらも億劫で、この胸の内にある何かをぶつけなければ自分が壊れそうになってしまうほどに心が擦り減っていることだけは知られたくなかった。

 だから早くこの場を去りたい。何も言わずに要塞に戻って、オルタリアへの対策を考える。それがヨハンにとって一番充実している時間でもあった。

「じゃ、今度はこっち」

 バルコニーからするりと抜け出して、クラウディアはベッドの上に勢いよく座り込む。

 よくスプリングが効いた花柄のカバーが掛けられたベッドはよく軋み、彼女の身体が勢いよく上下に動いた。

 そこで、ヨハンを見ながら両腕を招き入れるように広げる。

「さあ。あたしのおっぱいを貸してあげよう」

「……何を言ってる?」

 本当に、意味が判らなかった。

「あれ? おっかしいなー。ラニーニャがよっちゃんが元気ないから元気付けてやってくれって頼まれたのに」

「それでどうしてそうなったんだ?」

 バルコニーを出て、クラウディアの正面に立って溜息を吐いた。

「うーん。なんかラニーニャが男が元気がない時はおっぱいだって言ってたからやってみたんだけど、駄目?」

「駄目だな。だいたい、そんなこと誰にでもやるもんじゃない。後でラニーニャには……」

「誰にでもなわけないじゃん」

 いつも通り、彼女は朗らかに笑う。

 そこに一切の照れもなく。ただ純粋に。

「よっちゃんだからだよ。あたしの旦那様だもん」

「クラウディア。いい加減その話も」

「そりゃ判ってるよ。色々大変だって。アーちゃんのことだって聞いてる。でもさ、ううん。だからあたしはよっちゃんに元気になって欲しい。気付いてる?」

 クラウディアが手を伸ばして、ヨハンの額に触れた。

 それから目元を解すように優しく撫でていく。

「隈、凄いよ。全然寝てないんでしょ? そんなんで戦いに勝てるの?」

 優しくクラウディアはヨハンの身体を抱き寄せる。

 それに一切の抵抗をしなかったのは、彼女の言う通り疲れていたからだろうか。

 いや、本当のところは誰かに甘えたかっただけだろう。人の目のないところで、失ったものの重みを忘れて、子供のように。

 クラウディアはヨハンの身体をベッドに横たえると、胸に抱くのではなく自分の膝の上に頭を乗せる。

「あはは。やっぱりおっぱいはちょっと恥ずかしいから、今はこれで我慢ね」

 ここで言葉を発することが、なんだか妙に恥ずかしいことのように思えてヨハンはただ黙っていた。

 クラウディアもそれを察してくれたのか、ヨハンの言葉を待たずに一人で喋りはじめる。

「子供の頃、アタシがぐずるとママが決まってこうしてくれたんだ。ママってアタシが小さいときに死んじゃったから殆ど覚えてないんだけど、このことだけは覚えてる」

 そっと、ヨハンの頭に手が乗せられる。

「だからさ。えっと、なんて言えばいいのか判らないけど……。その、アーちゃんのことは残念だったし、アタシも悲しいよ。でも、ごめん。これって凄く勝手なこと言ってるし、よっちゃんは怒るかも知れないけど」

 おぼつかない言葉を紡いで。

 クラウディアはなおも続けた。

「引っ張られないで。どんなに悲しいことがあっても、辛いことがあっても、それに引っ張られて変わっちゃうのって、一番いけないことだとアタシは思うからさ。よっちゃんには、あんまり変わって欲しくないから」

 それがヨハンの耳に届いたクラウディアの最後の言葉だった。

 なんと返事をしたのか、それと黙ったままだったのかは判らない。

 ただ彼女のその優しげな声を聴きながら、ヨハンは久しぶりに深い眠りへと落ちていった。

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