六章 目覚めたる災厄(上)

第一節 ロスト

 あれから約一ヶ月が経った。

 アシュタの村での一件はヨハン達の心に暗い影を落とし、それでも世界の動きはひと時の休む時間も与えてはくれない。

 扉を開き、緊張した面持ちのサアヤがヨハンの執務室に入る。ここ数日はいつもそうだった。

 黒髪の少女は手に、紅茶の入ったカップを握ってテーブルへと近付いていく。

 顔を上げることなく書類に何かを書き込み続けるヨハンを見て、サアヤはまるで何かに憑りつかれているようだと思う。

 一歩間違えれば彼のことも連れ去ってしまいそうなほどに怖くて、理由なき不安を駆り立てられた。

 一度だけ、視線が誰もいないソファを見る。

 そこに座って硝子テーブルで仕事を手伝っていた少女はもういない。

 どうにか彼の役に立とうと背伸びしていた彼女がアシュタの村から帰って来ることはなかった。

 いつか、そんな日が来るのではないかとサアヤも覚悟はしていた。

 戦いに出ている以上、誰もが常に安全であるという保障はない。アーデルハイトに限らずカナタも、ヨハンも、そしてサアヤ自身ですらもいつ危険に晒されるかは判らないのだから。

 ただ、いざ来たときに対する心の構えなどと言うものは、どれだけ頑張ってもできないものだ。

 小さなライバルが姿を消したその日の夜、サアヤは一人で泣いた。恐らく、彼女を知る誰もがそうであったように。

「ヨハンさん」

 名を呼ばれて、ヨハンは顔を上げる。

 いつも通りの仏頂面だが、生気がない。表情も何処か虚ろで、魂が入っていない人形のようにも見えた。

「お茶を煎れました。少し休憩しましょう」

「いや。まだ働き始めたばかりだし、キリのいいところまで」

「もうとっくにお昼も過ぎてますよ!」

 少し強い口調でそう言うと、ヨハンは背後の窓から外を見て嘆息した。

 彼はここ数日、それまでかなり早く出勤していたサアヤよりも早く家を出てイシュトナル要塞にやって来ている。

 そうして日が落ちるまで一心不乱に仕事をして、帰っては寝るだけの日々を過ごしていた。

 その様子はカナタも判っていたが、彼女からは掛ける言葉が見つからないと、サアヤは数日前に相談を受けていた。

「む。……そうか。ならサアヤ、すまないが珈琲を」

「今日は紅茶です」

「珈琲豆は以前ハーマンから買い付けておいたと思ったが?」

「夜眠れなくなるからです。こっちの方がリラックスできます」

「リラックスする時間ではないと思うが」

「してください。休憩時間は休むためにあります」

 机の端にカップを乗せて、サアヤは勝手に書類を纏めて束ねていく。勿論目を通したうえで、混ざらないように細心の注意は払っていた。

 そうして勝手に綺麗になった机の上、ヨハンの目の前に紅茶が差し出された。

「ご飯、ちゃんと食べました?」

「多分」

「多分って何ですか? 食べたか食べてないかぐらい判るでしょう」

「……食べたような気がするが、覚えていない」

 そう言って、ヨハンは気まずそうに目を逸らす。

 アシュタの村で色々なことがあって――色々なことがあり過ぎて、今はサアヤと会話をするのも億劫なのだろう。

 そうは言ってもサアヤとてここで引くわけにはいかない。下手をして彼に倒れられてはそれこそ何もかもが立ちいかなくなる。

「ご飯の用意、してきますね」

「いや、大丈夫だ」

「してきます。軽いものにしておくので、ちゃんと食べてください」

「サアヤ。本当に、大丈夫だ」

「全然大丈夫に見えないから言ってるんです。いつものヨハンさんだったらわたしの好意を蹴るなんてしませんから」

「そうだな。いつもの俺じゃない」

 そんなことはヨハンにだって判っていた。

 いつもの自分ではない。何処かがおかしいということぐらいは。

 だからと言って何ができるわけでもない。もう起こってしまったことは変わらないし、それに対して無感情を貫けるほどに冷血にはなれそうにもなかった。

「……覚悟が足りなかったのかもな」

「……覚悟って」

「誰も傷つかないわけがなかったんだ。この世界で、誰も失うことなどありえないと、北の大地で学んでいたはずだったんだがな」

 吐露された心情、その弱音を聞いて、サアヤは胸が締め付けられる思いだった。

「遅かれ早かれ起こることだったのかも知れない。だから」

 ばんっ、と。

 机に両手が叩きつけられる。

 サアヤが怒りに任せてそうしたことで、机の上にあるカップが揺れて、その水面が波打つ。

「覚悟って何ですか?」

「サアヤ?」

「誰かがいなくなって、悲しくないわけないんです。いつもと同じなんて絶対にありえません。だから、わたしはそれを責めたりするつもりはありません」

 二人の顔はごく至近距離で見つめ合っている。

 いつものサアヤなら恥ずかしくも嬉しくなるところだが、今日ばかりは違った。

 真剣な顔をして、ヨハンの目を見つめている。

「だから、いいんです。大丈夫なんですよ。ヨハンさんが悲しんで、落ち込んで、いつも通りになれないのは普通のことなんです」

「俺には立場がある。多くの命を背負っている」

「そんなの関係ありませんよ。命を背負うのと、自分を殺すのは別のことですから」

 ヨハンは今悲しんで、苦しんでいる。

 自分を責め続けているし、それは下手をしたら一生背負い続けなければならないのかも知れない。

「自分を傷つけるのは違います。悲しいですけど、いつかは乗り越えなければならないんですから」

「……サアヤ。そうだな」

「はい」

 精一杯、笑顔を向ける。

 そうして、誤魔化すようにサアヤは踵を返した。

「ご飯、持って来ますね」

 返事も聞かずに、サアヤは執務室を後にする。

 そうして廊下に出て、左右を見て誰もいないことを確認してから、胸に手を当てて壁に寄りかかるように床に崩れ落ちた。

 それは単なる予感。

 そこに根拠なんてない。

 でも、サアヤは思ってしまった。あのヨハンの表情を見て、何かを理解してしまった。

「きっともう、戻らない」

 失ったものは戻ってこない。

 彼女を亡くした心の傷は、きっと癒えることはない。

 失ってしまったものは余りにも大きすぎたのだと、実感を持って理解してしまった。


 ▽


 医者からは絶対安静を告げられているが、どうにか杖を突いて、誰かに肩を借りながらならば歩けるようにはなっていた。

 イシュトナルにある病院。木造りの建物の広い廊下をカナタに肩を借りながら、浅葱色の髪の少女が歩いている。

「いや、すみませんね、カナタさん。リハビリに付き合ってもらっちゃって」

 ラニーニャの身体の至るところには包帯が巻き付けられており、特に右目に巻かれたものが痛々しく目を引く。

 ラニーニャよりも身長が低いカナタは彼女の体重の大半を支えることになるのだが、弱音を吐くことはなかった。

「大丈夫大丈夫。それで、何処に行くの?」

「それじゃあまずはよっちゃんさんのところにでも行きましょうか。彼もこの美少女ラニーニャさんに会えなくて落ち込んでいるでしょうから」

「無理だよ! ここから結構遠いよ!」

 平時であれば何のこともない距離だが、大怪我を追ったラニーニャの体力では辿り付くことは難しい。何せ何もない廊下を歩くのと、勾配の道や人波を進んでいくのでは全く勝手も違うのだから。

「でも向こうに行けばあの、サアヤさんが治してくれるかも知れないじゃないですか。お、これは一石二鳥の予感ですね」

「駄目駄目! サアヤさんはお仕事があるし、ヨハンさんも大変なんだから、あんまり負担掛けないようにしないと!」

「……大変、ね」

「……そう。うん、大変なんだから」

 二人は廊下の途中で立ち止まる。

 偶然にもこの時間には誰も歩いておらず、不意の静寂が辺りを包み込んだ。

「やっぱり、大変そうですか?」

「……うん。一応、夜は様子を見に言ってるけど。たまにね、何話していいか判らなくなるの。前はそんなことなかったのに」

 カナタが何かを喋って、ヨハンが相槌を打つ。

 ずっと繰り返されてきたそんな会話が急に上手く行かなくなったのは、そこにいたもう一人がいなくなってしまったことにも原因の一つがあるのだろう。

 急にお互いの間に沈黙が降りる。

 前までならばそれは次の話までのちょっとした休憩だったのに、今はそこから先の言葉が出てこなくなる。

 その変化がカナタの胸を締め付ける。失ってしまった苦しさが心の奥に染み渡ってくる。

「感心します、カナタさんには」

「そんな。ボクなんか全然、何もできてないし」

「わたしだったらそもそも、会いに行く勇気すらなかったと思いますよ。今ですらも、怪我をして時間を置けたこと、ちょっとだけラッキーとか考えてしまってますから」

「ラニーニャさん……」

 それはカナタだって同じことだ。

 逆に言えば、それしかできない。ヨハンの傍にいて、アーデルハイトの代わりになることぐらいしか思いつかない。

「時間を掛けるしかないですよね」

「……うん」

「一先ずは身体を治さないと、ですかね。それじゃあまずは病院の庭にでも……」

 顔を上げたラニーニャが固まる。

 その視線の先に、誰かが立っていた。

 黒髪をポニーテールに束ねた女性が一人。カナタとラニーニャを見つめて、それから一歩ずつ踏みしめるように近付いてくる。

「イブキさん?」

 カナタがその名前を呼ぶ。

 イブキは二人の傍まで近付いてから、小さく笑った。

「お見舞いと、改めてご挨拶にね。エトランゼのイブキです、以後よろしく」

「よ、宜しくお願いします」

「……何の用ですか?」

 戸惑いながらも素直に反応したカナタとは異なり、ラニーニャの声色は固く、そこに込められた感情は間違っても友好的なものではない。

 顔を上げてイブキを見る目は鋭く、彼女を睨みつけていた。

「そんな怖い顔しないでもらえると嬉しいな。ほら、折角の可愛い顔が台無しだよー」

「貴方相手に愛想を振りまく理由がありませんので」

「嫌われちゃったかな?」

「ラニーニャさん! なんでそんな態度取るの? この人はエトランゼの」

「英雄でしょう?」

 咎めるようなカナタの言葉をラニーニャは遮る。

「正確には元、かな。貴方が言いたいことはよく判るよ。あたしは結局、何もできなかった。ううん、そればかりか」

 首を振って、イブキは言葉を続ける。

「貴方達から大切な人を奪っちゃった」

「……別に、貴方の所為ではありませんよ。とでも言ってほしいのですか?」

「違うってば。本当に、お見舞いに来たの。これから付き合いも続くかも知れないから、仲良くできればいいなって思ったんだけど」

「無理ですね」

「ラニーニャさん! 別にアシュタの村でのことはイブキさんの責任じゃないよ!」

 ラニーニャとて、カナタの言葉が間違っていないことは判っている。

 責任は誰にもない。ほんの少し不幸が重なって、タイミングが悪くてああなっただけだ。

 戦いの日々、それも御使いなどと言うこの世界で最も危険な奴等と戦っていて、誰も犠牲にならないはずがないのだから。

 それでも心の整理がつかない。

 何処かで、彼女がいなければ、アシュタの村に行かなければと考えてしまう。

 その怒りを抑えることができない程度には、ラニーニャは子供だった。

「やっぱり無理かー。悲しいね。でもまぁ、これからのことは少しあたしに任せておいてよ」

「信用できると思っていますか?」

「ううん。あたしが勝手にやるだけだよ。みんなの分まで、よーくんの役に立つ。そのためにここにいるんだから」

 彼女の目はもう過去を見ていない。

 ただ真っ直ぐに、これから行くべき道を見据えていた。

 それがエトランゼの英雄。

「それだけ。うん。本当に、それだけ言いに来たんだ」

 そう言って、イブキは踵を返す。

 急にカナタから、ラニーニャの体重が消えた。

 彼女は前に駆けだそうとして、脚に力が入らずに転びそうになる。

 それを慌てて受け止めたのは、イブキだった。

「離してください!」

「だったら無茶しないでよ。腕も使えないのに、顔から転ぶところだったんだよ?」

「判ったような口を効いて、何を一人で納得してるんですか! 誰も納得してないのに、誰も、誰も……!」

 振りほどくにも、その身体を拳で打つにも力が入らない。

 痛みに顔を顰めながら、ラニーニャはただそう叫び続けることしかできなかった。

「なんで貴方だけが平然としているんですか! 何もできなかったくせに!」

「……そうだよ。あたしは、何もできなかった英雄」

 多くの人に望まれて、請われて、自分の力が何かの役に立つならと歩み続けた英雄。

 その結果、何も果たせなかった壊れた希望。

 彼女の存在はヨハン達からアーデルハイトを奪った。

「でも、あたしは止まらない」

 その言葉には力があった。

 そこに込められた彼女の意志は本物で、疑いようもなく、何度失敗しても立ち上がろうとする強さがあった。

「止まれないから、行くよ。今度はよーくんのやろうとしてる理想を叶えに」

 優しくラニーニャの身体を離して、カナタに預ける。

 そうして、今度こそ振り返ることなくイブキは廊下の奥へと消えていった。

 荒い息を吐くラニーニャを傍にあったソファに下ろすと、彼女は俯いて、両手で顔を覆う。

「悔しいんです。無力だった、わたしにもっと力があれば救えたかも知れないのに。悔しくて、悔しくて、後悔して、もっと違う方法があったんじゃないかって。でも」

 顔を上げて、イブキが消えていった廊下を見るラニーニャ。

 カナタもそれに習ってその方向に視線を向ける。

「彼女だって、同じはずなのに」

 そこから先はラニーニャは口にしなかった。

 その代わりと言うわけではないが、無意識にカナタはその続きの疑問を唱えていた。

「どうして、前を向いて進み続けられるんだろう?」

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