第十七節 英雄と呼ばれた彼女

 魔物が大量発生したとの知らせを受けたイシュトナルの調査隊がアシュタの村に到着し、そこでぼろぼろになったヨハン達を発見した。

 一行はそこで身柄を保護され、無事にイシュトナルへと帰還することになる。――人数こそ変わりないが、その中の一名が別の人物に入れ替わる形で。

 あれから三日後。ヨハンは容体を心配したエレオノーラに自室での待機を命じられていた。

 あの時、正体を現したイグナシオに腹を貫かれたヨハンは間違いなく重傷だったが、彼女は敢えてとどめを刺さずに泣きじゃくるイブキとヨハンをそのままにしてカナタの元へと向かっていた。

 その結果イブキはショックで記憶が戻り、今へと繋がることになった。

 何故イグナシオがそんなことをしたのかは判らない。何か狙いがあるのか、それとも単なる気まぐれか。

 今はそんなことに思案を巡らせることも億劫なほどに、ヨハン自身も消耗しきっていた。

 一人で暮らすにも狭いと思っていた部屋は、今となっては思いの外広い。

 ヨハンが働いている間にいつの間にやら設置されていたもう一つのベッドや、彼女が使いやすいように配置換えされた食器棚。

 高所に納められている物を取るための踏み台などが嫌でも視界に入り、胸の中に暗い影を落とす。

 報告は聞いた、全て余すことなく。

 語るのも辛いであろうカナタは、何度も何度も謝りながらアーデルハイトのことを語ってくれた。

 それを聞いていたヨハンの表情はどんなものだったか、果たして泣いていたのかそれともただ茫然としているだけだったのか、それすらも今は思いだすことができない。

 エレオノーラの気遣いが残酷に心を締め付ける。

 彼女がいないこの部屋を見ていることが何よりも辛い。

 考えなければならないこと、やらなければならないことは幾らでもあるはずなのに、身体が思うように動かない。

 情けないものだと自分を嘲笑してみても、奮い立つものがない。

 彼女がどれほど自分の中で重いものになっているかを、失ってから初めて気が付いた。

 そのまま何をするまでもなくベッドの上で、壁に身体を預けたまま、半日もそうしていると、部屋の扉が控えめにノックされた。

「開いている」

 軋みを上げて扉が開き、外からの光が差し込んでくる。

 立っていたのはカナタだった。ヨハンの姿を見て一瞬立ち竦むが、彼女は臆することなくそのまま部屋の中へと踏み入ってくる。

「起き上がらなくていいよ。怪我、まだ治ってないでしょ?」

 そう言うカナタも身体中に包帯が巻かれた酷い有り様だ。ヨハンほどではないが、彼女も相当な傷を負っていた。サアヤの治療を受けなければ、本来ならばまだ起き上がることすらできなかっただろう。

「ラニーニャさん。意識が戻ったって」

「……そうか」

 詳しい怪我の状態については尋ねなかった。

 今のカナタにそれを語らせるのは酷だろうと判断してのことだ。

「お医者さんの話だと、命に別状はないって。サアヤさんが頑張ってくれたおかげだけど」

「……今回の件でサアヤには頭が上がらないな」

 ぼろぼろになって戻って来たヨハン達を、彼女はギフトを使って決死で治療してくれた。

 その力は決して無限ではない。代償としてサアヤの体力を著しく消耗させるものであるにも関わらず、ここ三日はほぼ寝ずに治療に専念してくれていた。

 それきり、二人の間から声が消えた。

 時折ヨハンがベッドの上で身を捩る音と、カナタが移動する足音と床の軋みだけが、不規則に部屋の中に木霊する。

 カナタの視線はアーデルハイトのベッドを見ていた。

 何度か泊まりに来た際に二人はそこで一緒に寝ていたこともある。アシュタの村に行く前の日も確か、二人一緒にそこで眠っていたはずだった。

 そんなことが、もう随分と遠い昔のことに感じられた。

 床の軋みが大きくなってヨハンの耳に届く。

 いつの間にかカナタはすぐ傍に来ていた。

「……魔人、アルスノヴァか」

 その名に、カナタの身体が大きく反応する。

 カナタの親友だというその人物は、突然現れカナタ達を助けてくれた。

 しかし同時に、何故かアーデルハイトを連れ去った。イグナシオが死んでいると言ったにも関わらず。

 その行動に果たして何の意味があるのか、ひょっとしたらアーデルハイトは生きていたのかも知れないが、そこに希望を見出せるほどに楽観的ではない。

 結局のところ、アーデルハイトがヨハン達の目の前からいなくなって、再会できる可能性がゼロに近いことに変わりはないのだから。

 ベッドが沈む。

 気付けばカナタがその上に膝をついて、四つん這いになるように上がり込んでいた。

「おい」

 言葉で退けようとして、それをやめる。

 すぐ真正面にあるカナタの目には、大粒の涙が浮かんでいた。

「ヨハンさん、怪我大丈夫?」

「大丈夫ではないが、少しの間から我慢してやる」

「……ん。じゃあ、我慢して」

 そう言って、カナタはヨハンの胸に飛び込んだ。

 彼女の体重を受けて傷が疼くが、意地で耐える。その程度の甲斐性もないから、こんなことになったのだと自分に言い聞かせて。

 初めて出会った時のように、カナタは嗚咽を上げて泣いた。

 零れた涙がヨハンの服に落ちて大きな染みになっていく。

 くぐもった声はあっという間に部屋の中を満たして、狭いその空間に反響する。

 まるで子供のように、赤ん坊のようにカナタはヨハンの胸の中で泣き続けた。

 今はお互いに掛ける言葉などありはしない。

 だからこうやって感情を発露して、できるだけ早く今までの自分に戻るしかない。

 例え大きなものを失ったとしても、行く先が見えなくなったとしても、立ち止まることはできないのだから。


 ▽


「よぉ、久しぶりだな。英雄さん」

 イシュトナル要塞の廊下を歩いていたイブキに、そう声が掛かる。

 振り返った先に立っていたのは、金髪に鋭い目をした男だった。

「久しぶりだね、ヴェスター君」

「君付けはやめろって。痒くなる」

 廊下を歩くエトランゼの兵士が、それなりに名の知れた二人の邂逅に立ち止まろうとするが、ヴェスターに睨まれてすぐに退散していった。

「有名人は大変だね。スターの復帰みたいなもんだから仕方ねえか?」

「あたしはそこまで大したものじゃないよ」

「ああ、知ってる。手酷くやられたみたいじゃねえか」

 愛想笑いを浮かべたまま、イブキの表情が固まった。

 広い廊下を通り過ぎる者達は二人の間に流れる不穏な空気を感じ取るが、それを諫める勇気のある者は誰もいない。

 エトランゼにとっては英雄と呼ばれた少女と、今悪魔の名を持つ男の間に入ることなど、自殺行為にも等しい。

「嫌味を言いに来たの? 数年越しに? 君が来てくれたら違う結果になってたと、あたしは思うんだけどなー?」

「心にもないこと言うなよ。御使いには俺一人いたってどうにもならねえよ。無駄に死体を増やしたかったのか?」

「……あはは、手厳しいねー」

「能天気な面してんな。二度もあいつから奪っといてそんなに楽しいのか?」

「そんなわけないよねー。ヴェスター、悪いけど。あたしも今は虫の居所が悪いんだよ」

「ハハッ、そうそう。それを待ってた」

 ヴェスターの顔に凶悪な光が灯る。

 既に腰には魔剣を持ち、いつでも戦える状態になっていた。

 イブキの方も顔には笑顔を浮かべていたが、その声色は固く、研ぎ澄まされた刃のような冷たさを放っている。

「俺はてめぇらの理想になんざ興味はねえ。だからあの日もお前の誘いを断った。それに後悔はないが、一つだけやり残したことがあってな」

「どーせ君のことだから戦ってみたかったんでしょ? その場合よーくんはどうなるのかな?」

「あ? 言ってなかったか? 俺はあいつにもう負けてんだよ。別にその結果に対して言い訳するつもりもねえが」

「まー、仕方ないよね。よーくん強かったし。で、次はあたしなわけだ」

「そう言うこった。で、どうだい? 世のため人のために働く正義の味方さんよ」

「……あたしになら勝てるって?」

 イブキの瞳孔が変化する。

 人間のものから、爬虫類のような瞳へと。

 その色も彼女の黒から、血のような赤色へと変貌していた。

 周囲を魔力を帯びた空気が漂い始め、感覚が鋭い者などは嫌か予感がして即座にその場から逃げるように去っていく。

「さあね。それを確かめるんだろ?」

 あくまでも挑発的な態度を崩さないヴェスター。

 それに対してイブキは一睨みを効かせるが、当然彼がそんなことで態度を変えることはなかった。

 そうして、二人が睨み合い長い時間が過ぎて。

 イブキは深い溜息をつく。

「なーんで過去のあたしは君なんかを仲間に誘ったんだろうね。かんっぺきに落ち度だわ。黒歴史ってやつね」

「あん?」

「やめとくやめとく。新参者が騒ぎ起こすわけにはいかないでしょ。ただでさえ、よーくん周りの人からの印象は最悪なんだし」

「けっ、つまんね」

 そう聞いてヴェスターは興味を失ったように、イブキに背を向けて去っていく。

 あれだけ煽った相手に対して無防備な背中を向けるというのは、ひょっとしたら奇襲されるのを期待しているようにも見えた。

「ってことはこれからお仲間ってことか」

「そう言うことだね」

 立ち止まって振り返って、ヴェスターが疑問を口にする。

 イブキがそれに頷くと、楽しげに笑って何度も頷き返した。

「ハハハッ、そりゃ楽しみだ。エトランゼの英雄が、どんな風の吹き回しだい?」

「……あたしはよーくんから色んなものを奪っちゃったからね。それを返すだけだよ」

「そうかい。じゃあ精々頑張んな」

「言われなくてもね。よーくんに借りを返すためなら、なんだってするつもりだから」

 それが罪滅ぼしとなるのなら、彼の理想のための手駒にでもなってやろう。

 もう既にイブキの理想は崩れたのだ。だから、これまで付き合ってくれた男のために全てを捧げる。

 そのつもりで、イブキはイシュトナルにやって来ていた。

 それは悲壮な決意だが、全てを失って、二度も彼を巻き込んだイブキにはそうする他に罪を償う方法がないと、そう信じ切っていた。


 ▽


 気が付けば、アシュタの村に立っていた。

 厳密に言えば、かつてアシュタの村があった場所と言った方が正しいだろうか。

 人の形をした怪物達が暴れまわったおかげで既に家屋は幾つも破壊され、未だ何人かの死体は野晒しにされたままとなっている。

 あれからどれぐらい時間が経ったのかは判らないが、見たところそれほど日にちも立っていないように見える。

 次に疑問に思ったのは、自分に何が起こったのかだった。

 確かに死んだはずなのに、どうしてここに立っているのか。

 それを神様がくれた奇跡だと勝手に判断できるほどには、世の中を甘く見ているつもりはない。

 死んでいた人間を生き返らせられるほどの力、その持ち主。

 そう考えればおのずと答えは見えてきた。

「お目覚めの調子は如何ですか?」

「よくはない。朝は苦手なもんでね」

「そうですか」

 背後から女の声がした。

 何度か聞いたことのある、冗談みたいによく響く、可憐な声だ。

 その声の主が尋常ならざる精神を持っていることを知っている。

 そう、全てを知っていた。

「テオフィルさん」

「俺は死んだんじゃねえのか? シスター・アンナ」

「うふふっ。それは仮の名前。どうぞこれからはイグナシオとお呼びください」

 振り返ればそこに立っている。

 修道服を来た美しい女が。

 テオフィルの真の飼い主が。

「ええ、死にましたよ。ですが生き返っていただきました」

「生き返ってって……。なるほどね。神様からすれば人間程度の命なんざ自由自在ってことかい」

「そう言うわけではありませんよ。それにわたくしは神ではなく御使いですので、お間違えのないように」

 そう言ってイグナシオはテオフィルの左胸を指さす。

「勿論人間として蘇らせるのはなかなか難しいものでして。早急な対処として貴方にはアルケーとなっていただきました」

「アルケー?」

「わたくし達御使いの僕と言うことです。詳しい説明は求めていないでしょう?」

「クハハッ。そりゃそうだな。どうせ言われても判んねえ。つまり俺は生き返ったってことでいいのか?」

「はい。相違ございません」

「お優しい雇い主を見つけて俺は幸せ者だね」

 そう軽口を叩いて見せる。

 全てが始まる前。

 アレクセイがこの村にやってくるよりも早く、テオフィルとイグナシオは結びついていた。

「なんで俺を生き返らせた? まさか慈悲ってわけじゃねえだろ?」

「はい。貴方はまだまだ役に立ちそうでしたので。フェイズⅡのギフトの持ち主は貴重ですから」

「はーん。じゃあ、アレクセイの野郎も今度から同僚ってことかい?」

「いえ、それなのですが」

 何故か、女は恥じるような仕草をする。

 ちらりと横目で、今も死体が転がっているその場所を見た。

「確かにあのお方のギフトは貴重で、なおかつ強力なものでした。ですが余りにも品性がなかったもので、その、つい。ぐしゃりと踏み潰してしまいました」

 両手を頬に当てて、恋を語る少女のように身体をくねらせる。

「品性なら俺だって変わらねえだろうが」

「ええ、はい。否定は致しませんが。でも貴方に力を与えた方が、単純に面白うそうだと判断したもので」

「はっ、そりゃ」

 とんでもない女だ。

 力を持っているくせに、テオフィルには想像もつかなに何らかの目的があるはずなのに。

 行動が余りにも行き当たりばったり。そこに本当に計画性があるのかすらも判らない。

 そもそもアシュタの村の一件すらも、本来ならばテオフィルが動く必要もない、この女一人で事足りたはずなのに、面白そうだからと言う理由であそこまでの茶番劇に仕立て上げたのだ。

「まあいいさ。それで、俺は何をすればいい?」

「……別になにも。当分は暇なので、自由に殺して壊して、わたくしを楽しませてくださればそれで構いませんよ」

「あん? そりゃ拍子抜けだな。もっと壮大な計画とかがあると思ってたんだけどな。国家転覆とか、大量虐殺とか」

「ふっ」

 テオフィルの言葉を聞いて、イグナシオが我慢できずに噴き出す。

「ふふふふふっ。そんなものが壮大だと? たかが人間の国一つ、たかが人間の群れを殺すことが」

 それを語る女の顔は、やはり何度見ても怖気がするように美しい。

 男ならば一度はそれを抱いてみたいと思うほどに蠱惑的だが、同時にテオフィルは知っている。

 目の前の女がそれで笑ってしまえるほどに凶悪で、捻じれた心を持っていることを。

「だから様子見なのでしょう。貴方にはこれから起こることを知っていただく必要があるのですから」

 楽しげに語る女を見て、テオフィルの背中に冷や汗が落ちる。

 見た目はこうも美しいのに、こうまで歪んだものが他にあるのだろうか。

「これからもよろしくお願いいたしますね。わたくしの大事な手駒、テオフィルさん」

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