第十六節 失われた再会
イグナシオの身体が突然崩れて落ちる。
まるで見えない何かに上から抑えつけられているかのように、その身体が地面にへばりついていく。
いや、事実見えない負荷が彼女とその周囲に掛けられていた。
その証拠にイグナシオだけではなく、彼女の周りの地面も上からの圧力を受けて陥没していっている。
「ようやく……、お目覚めですか」
苦しげな声がイグナシオから放たれる。
いつの間にかカナタに背を向けて、まるで無から湧き出たかの如くそれは立っていた。
風に揺れる肩程までの緩いウェーブの金色の髪。
黒と赤の、ふわりと広がったスカートが特徴的なドレスを纏った彼女は、その背中をカナタに向けて、イグナシオと対峙するようにそこに立っている。
イグナシオが唇を歪めて笑った。
喜んでいるようでもありながら、そこには僅かな憎悪も見て取れる。
「世界に取り込まれた者。エトランゼの成れの果て。魔人、アルスノヴァ」
そう呼ばれた女は答えない。
ただ彼女が手を翳しただけで、イグナシオに掛かる圧力が強くなった。
彼女の身体だけでな地面も沈み込み、大きな音を立てて少しずつ下へと下がっていく。
その力の前にはセレスティアルも役に立たず、イグナシオは力を振り絞るようにして立ち上がり、そこから一瞬で姿を消した。
「まったく、相変わらず無粋ですね。あの時と変わって……!」
イグナシオが移動した場所に、アルスノヴァと呼ばれた女が手を向ける。
また見えない何かが放たれて、間一髪でイグナシオがそれを回避する。
その背後にある家が、横からの重さに押しつぶされるかのように歪んで、一瞬にして倒壊した。
「変わっていませんね」
「失せなさい。魂魄のイグナシオ。もしこれ以上やるのならば、私が相手をするわ」
「うふふっ。そうですね。元より貴方が来た時点でわたくしの目的は達成。そちらのカナさんにはもう少し生きていていただくことにしましたから、安心したでしょう?」
重々しい破壊音がして、イグナシオの周囲の建物が幾つも同時に潰れていく。
イグナシオ本人はそれを避けて、また違う場所に移動していた。
「はいはい。それでは今日のところはお暇するとしましょう」
その言葉を最後にイグナシオの姿が消えた。
カナタは自分に背を向けたまま立ちすくむその姿を見て、心臓の鼓動を抑えることができなかった。
ようやく少し動けるようになった身体で、そのスカート裾を掴む。
そうして恐る恐る、その名を呼んだ。
イグナシオが口にしたそれとは違う、カナタが知っている彼女の名前を。
「アリス、だよね?」
アルスノヴァは黙ったまま、カナタの手を振りほどいて離れていく。
そうして彼女はイグナシオが投げ捨てたままになっているアーデルハイトの傍に寄って、屈みこんでその身体を抱き上げた。
「アーデルハイトをどうするの!? ねえ、アリスなんでしょ? なんでそんな恥ずかしい名前名乗ってるの? 誤魔化しても判るよ、だって……!」
カナタの知っている彼女よりも成長しているが、間違えるはずもない。
この世界に来る前、彼女とは本当に仲のいい親友だったのだから。
でも、彼女は答えてくれない。
カナタがアリスと呼んだ彼女は、ただ黙ってカナタのことを一度だけ見た。
その目が余りにも冷たいものであったから、カナタはそこから先の言葉を失う。
それでもアーデルハイトだけは連れていかせるわけにはいかないと、必死で身体を奮い立たせた。
「アーデルハイトを返してよ」
「もう動かないわ」
初めて、彼女がカナタに向けて言葉を発した。
その声は少し低くなっているが、間違いなくカナタの中にいるアリスと言う少女のもので、その事実が更に混乱を呼ぶ。
「何とかなるかも知れないじゃん。イシュトナルに怪我を治せるギフトを持っている人がいるから、それで……!」
「その人は怪我を治せるだけでしょう? 消えた命を再び戻せるの? 壊れた魂すらも治せるというの?」
「消えた……?」
「ええ、消えた」
淡々と繰り出される現実。
それが次々とカナタの心を抉っていく。
「そんなわけ……! そんなわけないよ! だってアーデルハイトと約束したもん。絶対一緒に帰ろうって、絶対……、だから……!」
受け入れたくない現実が目の前にあって、それでももうそれを否定する材料がなくて。
この世界に始めてきた時よりも深い絶望がカナタを襲う。
涙声で叫ぶその言葉を聞いて、アルスノヴァは一度だけ眉を顰めた。
その表情にどんな意図があったのか、彼女が今何を考えているのかはその姿を見上げるカナタにはもう判らない。
かつては、もっと心が通じていたと信じていたのに。
「それじゃあね、カナタ」
ふわりと彼女の身体が浮かぶ。
アーデルハイトを抱えたまま、空中に浮かんだアルスノヴァはカナタを見下ろして一言呟いた。
「もう二度と会うこともないでしょうけど、元気でね」
黒い球体に包まれるようにして、その姿が一瞬で消失した。
彼女の言葉が、今日のこの村であったことが、カナタの頭の中をぐるぐると回り始める。
再会した親友は冷たい眼でカナタを見た。
そしてアーデルハイトはもう帰ってこない。
気付けばその場にはもう、カナタとイブキしかいない。
アレクセイの部下も生き残った村人も、とっくに逃げ出していた。
少女の慟哭が、誰もいなくなった村に響き渡る。
それを慰める声も、抱きしめる手も、今ここには何もなかった。
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