第十五節 魂魄のイグナシオ

 今まで何をしていたのだろうか。

 身体の奥が熱くなって、一気に頭に血が上ってからの記憶がない。

 気付けばカナタはアレクセイの目の前で剣を振りかぶっていた。

 ウァラゼルの姿もない。アレクセイの部下達は殆どが死にかけでまともに動くこともできない状態だった。

 そして当のアレクセイも、何かを懇願するような目でカナタを見上げている。

 カナタの意識を戻したのは、アレクセイの後ろから聞こえてきた声だった。

 シスターの姿をした彼女が、相変わらずの微笑を浮かべたままゆったりとした仕草で歩いてくる。

 そんな彼女の違和感を覚えなかったのは、カナタ自身も必死だったからだろう。

「アンナさん!」

 アンナはこちらを一瞥しただけで何も語らない。

「アーデルハイトを助けて! アーデルハイトが!」

「ええ。判っておりますよ。彼女はわたくしにとっても大切な人ですから」

 微笑を湛えて優雅にお辞儀をして、この場にはあまりにも似つかわしくない所作でアンナは倒れているアーデルハイトに近付いていく。

 そして、その襟首を掴んで乱暴とも言える仕草で小さな身体を持ち上げた。

「アンナさん……?」

 カナタの位置からでは、アーデルハイトがどんな状態になっているかをよく見ることはできない。ただ意識はなく、その身体は釣り下げられるようにだらりと垂れていた。

「やっぱり」

 楽しげに言う。

「もう、死んでるじゃないですか」

 その声色は無邪気過ぎて、その意味がカナタに伝わるのに若干の時間を要した。

「嗚呼、でも。素敵な結果を残してくれました。はい、それではお人形さん。さようなら」

 そうしてアンナは無造作にアーデルハイトの身体を放り投げる。

 力なく地面を滑って、アーデルハイトの身体はされるがままに倒れた。

「では次は、アレクセイさんですか」

 まるでカナタなどいないかのように、次にアンナが向かった先はアレクセイの傍だった。

 未だ地面に尻餅を付いたままの彼を見下ろして、変わらない表情で声を掛ける。

「アレクセイさん」

「し、シスター・アンナ! お願いだ、助けてくれ! そこの女を説得してくれ! そうしてくれたら村からは手を引くし、なんなら金だって幾らでも置いて行ってやるから!」

「それは困りましたねぇ」

 頬に手を当てて眉を顰める。

 その仕草すら優美で、穏やかに見える。

 目の前で怯えながら喚き散らす男の姿などまるで見えていないかのように。

「なあ、頼むよ! ちょっと調子に乗ってただけなんだよ、これからはおれ様も悪事から足を洗って平和に生きるよ! そうだ、なんならあのヨハンって奴に協力してやっても」

「フェイズⅡのギフトを持つエトランゼは貴重なのですが」

「お願いだ、許してくれ! だって仕方ないじゃないか、この世界に来ておれ様は奪われる側で、だから力を手に入れたから、そうなるのも、それが人間で、だから……げっ」

 支離滅裂なアレクセイの言葉を、勢いよく腹に降ろされたアンナの足が止める。

 身体の中心に衝撃を受けて、アレクセイは言葉を切って呻き声を上げる。

 全身から力が抜けて、地面に大の字に倒れたアレクセイの頭の辺りに、持ち上げた足を移動させる。

「そうです。そのまま頭を地面に付けていてくださいね。はいはい。動かないでくださいませ、ね!」

 ぐしゃりと、固い果実が潰れる音がした。

 アンナの足に踏みつけられたアレクセイの頭部は一瞬で形を失って、方々にその欠片を飛び散らせる。

 カナタの足元にも赤い何かが飛び散って来て、思わず足を避けていた。

「アンナさん……? なんで、どうして?」

「ええ、はい。自己紹介が遅れてしまったことをお詫びいたします。シスター・アンナとして過ごしていた時間が長く、楽しかったものですから、ついつい少しでもこの時を伸ばそうとしてしまいました。昔から、計画通りに物事を進めたことのないのが欠点でして」

 少しだけ弾んだ声で言いながら、くるりと振り返って、アンナは腰を折る。

 そうして蠱惑的な笑みを浮かべて、いつの間にかその声色は妖艶なものへと変わっていた。

「では、初めましてでよろしいですね? わたくしの名はイグナシオ。御使い、魂魄のイグナシオでございます。親しみの気持ちを抱いていただくために更に言うのであれば」

 言葉が切れて、アレクセイを一瞥する。

「御使い、悪性のウァラゼルはそうですね……人間で言うところの姉妹に当たる関係でありました。ですから彼女が人間に倒されたと聞いたときは、少しばかり驚いたのですよ」

「……御使い……」

「ええ、そうですとも。御使いですよ、カナタさん。貴方と同じ、天空の光であるセレスティアルを操る絶対者。地上を見守り導く者、と言うのは随分と昔の話になりましょうが」

「……じゃあ、最初からボク達を騙してたの?」

「うふふっ。随分と不思議なことを仰られるのですね。最初も何も」

 唇が裂けるように、イグナシオの表情が変貌する。

 心底何かを嘲笑するようなその顔に、カナタは寒気を覚えた。

「北の大地に愚かにも踏み入ったエトランゼ達を殺戮し、ヨハンを名乗る名無しのエトランゼの魂を造り替えて祖のギフトを封印、イブキさんの魂に傷をつけたのも全てはこのわたくしですのよ」

「それじゃあ、全部アンナさんが!」

「それに付いては言葉を濁させていただきます。そもそもあの方達が北の大地への現れなければ、そうなることもなかったのですから。貴方達の世界の言葉の、自業自得と言うものです」

「……だからって……!」

 カナタの手の中で極光の輝きが強まる。

 意識を取り戻しても、カナタの怒りに呼応するようにその紅い輝きは変わらずそこにあった。

「許せるわけないよ!」

「あら、怖い怖い」

 イグナシオの目の前に飛び込んでの一太刀は、彼女の軽やかな動きによって回避されてしまう。

 そのまま続けざまに放つ斬撃も、一撃とて彼女を捕らえることはできなかった。

「ええ、そうでしょうね。人には様々な価値観があり、考え方があります。わたくしにとってくだらないものであったとしても、それが当人には決して譲れないものであることもありましょう」

 カナタのすぐ傍にイグナシオの身体がある。

 いつの間に、どうやって距離を詰められたのか、全く判らなかった。

 セレスティアルの壁を展開するが、そこで驚くべきことが起こった。

 イグナシオの手が、やすやすとセレスティアルの壁を突破する。

「ですから、それを奪って破壊するのは至上の喜びとなるのです。ご理解いただけますか?」

 言うのと同時にカナタの身体を拳が打ち抜く。身体が吹き飛んで、背中から地面に転がる。

「い、ま……」

「本日の茶番もなかなかに楽しめました。村の方々の魂に少しばかり影響を与えて、狂気に駆り立てる。後はそこに少しの力が加わればこの通り」

 イグナシオが横目で村の惨状を眺める。

 一方のカナタはそれどころではなかった。

 彼女の言葉に一層の憎悪が沸くが、それをどうすることもできない。

 全身が痺れている。立ち上がろうとしても身体が全くいうことを効かない。

 彼女の拳はセレスティアルを纏っていない。

 だというのに、容易くカナタのセレスティアルを貫通して見せた。

 目の前に立つ彼女は、何かが違う。

 悪性のウァラゼルとも、光炎のアレクサとも全く違う次元の強さを持っていると、その一撃だけでカナタに理解させた。

「では、決めるとしましょう。貴方が生きるべきか死すべきか」

 わざと時間を掛けて、イグナシオは歩み寄ってくる。

 それはカナタに恐怖心を与えるためか、それとも別の理由があるのかは判らない。

 せめてもの抵抗として、カナタは手の先にセレスティアルを集中させてイグナシオに向けるが、もう光の色は赤ではなく、短剣程度の大きさを出すので限界だった。

「お別れと致しましょう」

「待ったーーーーーーーーーー!」

 空から落ちてきた何かが、イグナシオの頭を掴んで地面に叩きつけた。

 土埃を派手に巻き上げながら着地したその姿を、カナタは知っている。

「イブキさん!? ……でも」

 その姿は、カナタの知っているイブキとは少しばかり異なる。

 背中から生える一対の翼、頭から生える二本の曲がった角。

 その両手は黒々とした鱗によって保護され、イグナシオを掴んでいる指は野太く、鋭い爪が付いている。

 そして極めつけは、背中の少し下から生えている尻尾。長くて太いそれが、彼女の感情を現すように強く地面を叩いた。

「飛んでけー!」

 無造作にイグナシオの身体を放り投げる。

 イグナシオはまるで弾丸のように空を飛んでいって、はるか遠くの地面に轟音を立ててぶつかっていた。

「急いで飛んできたんだけど大丈夫? えっと、カナタちゃんでいいんだっけ?」

 振り返って、イブキは顔についている赤い血を拭った。

「は、はい。そうですけど……。えっと、なんて言うか」

「時間がないから簡潔に答えるわ。そう、無事に戻ったの。ご迷惑をおかけしました。よーくんが大怪我したけど、一応は無事。でも危ないから急いで戻らないと。後もう一人のあの青っぽい女の人も助けたけど、そっちも重傷、だから」

 光が二人の間を裂くように奔る。

 次の瞬間には黒い影が上空から踊るようにイブキに向かって襲い掛かっていた。

 まるで半身を竜と化したような身体でそれを受け止めるイブキだが、彼女を放り投げたその圧倒的膂力を持ってしても、イグナシオを抑えきることはできていなかった。

「お久しぶりですね、イブキさん。北の大地以来でしょうか?」

「ああ、そうだね。あたしとしてはさ!」

 組み付いたまま態勢を入れ替えて、イグナシオを地面に放り投げるイブキ。

 そしてそのまま、竜と化した足で強く踏みつける。

 その衝撃が辺り一面に伝番して、地面が次々と罅割れていく。

「もう会いたくなかったけどね」

 それだけのエネルギーを直接受けても、イグナシオの身体に傷はなく、またその顔に浮かんだ笑みも消えてはいなかった。

「相変わらずの野蛮さですね」

「君以外にはもう少しお上品なんだけどね!」

 力を込めて大地ごと踏み砕こうとするが、嫌な予感を感じてかイブキは咄嗟のその場から離れた。

 カナタの隣に着地して、イグナシオの方を睨みつけながらイブキは言った。

「あのさ、格好良く登場しといてこんなこと言うのも悪いんだけどね。知っての通りあたしとよーくんの二人でもあいつに勝てなかったの」

 立ち上がったイグナシオは、光を纏っている。

 天の輝き、セレスティアルに照らされたイグナシオは一層美しく、女神のように荘厳だ。

 それは或いは、彼女から伝わってくる底知れない恐怖があってのことだったのかも知れない。

「やはり、思った通りでしたね」

 ぱちんと両手を合わせるイグナシオ。

「君、何がしたいのよ? あたしをああしたのも君なら、戻したのもそうでしょう? よーくんの血をわざわざ派手にかけてくれちゃってさ」

「ええ。血と魂には深い繋がりがある。特に想いの繋がった者同士ならより強い効果をもたらすこともあるでしょう。わたくしとしてはどちらでもよかったのです。ただ、そうだという結果を見届けたかっただけ。その果てにイブキさんが何をどうしようと知ったことではありません」

「言ってくれるじゃん。いや、うん。確かに君は強いけどさ。やってることが理解不能」

「うふふっ。イブキさん、まだ勘違いをなさっているご様子ですね」

「なにを……!」

 今度は逆にイブキの身体が地面に強く叩きつけられた。

 そのままイグナシオは無造作にイブキの身体を家屋に向けて放り投げる。

 そしてそこに追い打ちとばかりに、無数のセレスティアルが杭のような形で突き刺さっていった。

「わたくしにとって貴方は、単なる実験動物。存在自体に価値はない、と言うことです」

「が、ふざけんな!」

 イブキから放たれた一閃の光がイグナシオへと直進する。

 しかしそれすらも、彼女の掌から広がる強固なセレスティアルの前には弾かれ、霧散して消えていった。

「ドラゴンブレス。竜のギフトを持つその力は流石と言ったところでしょうか。それはこの世界においても他のギフトとは一線を画す深奥に触れる力の一片ですから。でも」

 セレスティアルの塊がイグナシオの手の上に浮かぶ。

「貴方、ではないのです。カナタさんも不運でしたね。やはり運命に選ばれなかったということで、ここで消えていただいましょう」

 その光はカナタに向けられていた。

「やめ……!」

 叫ぼうとしたイブキに、更に大量のセレスティアルが叩きつけられる。

抵抗しても意味はない。例え防ごうと、避けようとしてもそれが不可能であることはさっきのやり取りでもう理解していた。

カナタはそのセレスティアルによって殺される。

 最早どうしようもない。死への恐怖に何の抵抗もできず、カナタにできることはただ目を閉じてその時を待つことしかできなかった。

 せめて心の中で、助けを呼ぶ。

 それでも、いつもは助けてくれたヨハンも今ばかりは来れそうにない。

「あら」

 イグナシオの声色が変わる。

 優美なそれから、何処か喜色を孕んだものに。

 それはすぐに、苦悶の声へと変化した。

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