第十三節 目覚め

 アシュタの村で事が起こる少し前。

 ヨハンはイブキと共にアレクセイの屋敷へと向かうアンナの見送りに、アレクセイの屋敷のすぐ近くまで来ていた。

「この辺りで大丈夫です。我が儘を言って申し訳ありません」

 そう言って、アンナはぺこりと頭を下げた。

「いや」

 小高い丘を上がれば、すぐにアレクセイの屋敷が見える。

 彼女がこれからそこで味わうことになるであろう苦痛を思うと、ヨハンは苦い表情を隠すことができなかった。

「よーくん? どっか痛い?」

「いや。大丈夫だ」

 じゃれついてくるイブキをあやしていると、それを見ていたアンナが不意に微笑んだ。

「イブキさん。無事に治るといいのですが」

「手は尽くす。それより、その……」

 今度はヨハンが頭を下げた。

「すまなかった。俺の力不足の所為で」

 ヨハンの謝罪に対して、アンナは変わらず慈母のような笑顔を崩さない。

 一歩傍に寄って、こちらを怯えさせないとでもしているかのようにゆっくりと手を伸ばす。

「お手を」

 言われてヨハンが差し出した手を、アンナが握った。

「この手は、多くの人を救った手です」

 愛おしそうに、我が子にするようにその手を撫でる。

 くすぐったい感触を抑えながら、ヨハンは彼女の行動に不思議な安心感を覚えていた。

「この世界で目覚めて、沢山の人を救い、北の大地で御使いに一度は敗れたとしても、こうして再び誰かを救おうと振るわれる。わたくしはそんなヨハン様のお手を、何よりも尊いものと覚えます」

「……アンナ」

「わたくしはそんな貴方のお役に立てることを、誇りにするのです。それに、そんな顔はしないでください。まだ帰ってこれないと決まったわけではないのですから」

 務めて明るい声で、アンナはそんな希望的観測を口にする。

 それがヨハンを慰めるための言葉に過ぎないと判っていても、今はそれに対して何かを言うこともできなかった。

「あの人も苦しんでいるのかも知れません」

「アレクセイがか?」

「はい。貴方達エトランゼはこの世界に来たときに、誰しもが大切なものを失います。或いは、この世界で生きていながらも、失うことだってありえるでしょう」

「……あいつにもそんな理由があるというのか?」

「あくまでも、可能性の話です。ですが空虚な心は憎しみを生むもの。わたくしがその心を満たせば、これ以上の悲劇は起こらないかも知れません」

 彼女の口から出る言葉は、何処までも慈愛に満ちて、希望に溢れている。

 ヨハンはそれを完全に信じることはできなくても、それでもアンナのやろうとしていることに意味があればいいと、心の中で願った。

「アンナ!」

 イブキがその名を呼ぶ。

 アンナはイブキの方を見て、自分のより少し背の高い彼女の頭に手を触れた。

「イブキさん。ヨハン様と一緒に生きてください」

「アンナは? イブキ、アンナも一緒がいい!」

「残念ですがそれはできないのです。でも、これからはずっとヨハン様が一緒ですよ。嬉しいでしょう?」

 そう尋ねられて、イブキは一度ヨハンの顔を見てから「うん!」と、元気よく頷いた。

「北の地で御使いに付けられた魂の傷を癒して、いつかまた貴方が元の溌剌とした希望へと戻らんことを。わたくしは父神エイス・イーリーネへと祈ります」

 両手を組んで、アンナは祈りを捧げる。

 その姿を見ながら、ヨハンはアンナの言葉を反芻する。

 何か違和感がある。彼女の言葉が何処か、決定的におかしい部分が。

「よーくん?」

「……いや」

 首を横に振る。別れに、自分の無力さに感傷的になっているだけだと言い聞かせる。

 そうしてアンナが顔を上げ、最後にまた二人に向けて頭を下げた。

「それでは、わたくしはもう行きましょう」

「……ああ」

「うん! アンナ、またね!」

「ええ、また」

 最後に言い残して、アンナは二人に背を向ける。

 大きく手を振るイブキの姿を見ていると、そんな子供っぽい仕草はこうなる前の彼女と大して変わらないものだと気が付いた。

 北の大地で御使いと戦う前の彼女と。

「アンナ!」

 自分でも驚くほどに大きな声で彼女の名前を呼んでいた。

 イブキが驚いて、身体をびくつかせてヨハンから一歩距離を取る。恐らくは怒っていると勘違いしたのだろう。

 怒っているのならばまだマシだ。

 心の底から、何かがせり上がってくる。

 吐き気のように喉に絡み付くそれは、実体のないものだ。

 一歩、前に踏み出す。

 足が震えている。

「アンナ」

「はい?」

 ヨハンから少し離れたところで、アンナは変わらず柔らかな表情で振り返ってくれた。

 そこに浮かべた笑顔が、今は恐ろしい。感じてしまった違和感が少しずつ実体を伴って、ヨハンの内側にへばりつく。

「……どうして」

 その一言で、取り返しがつかないことになるかも知れない。

 それでも確認せずにはいられなかった。もしくは自分の勘違いであると、そうアンナに言ってほしかったから。

 そうなれば、どれほどよかっただろうか。

「どうして、御使いを知っている?」

 アンナの表情が凍り付く。

 驚愕でも、恐れでもない。彼女のその聖母のような笑顔のまま、固まった。

「俺は先代にも、アンナにも御使いの話はしていない」

 話すはずがない。ウァラゼルと戦った後ならばともかく、エイスナハルに名を刻まれる御使いと戦ったなどと言ったところで誰も信じはしないのだから。

 ならばカナタか誰かがそう言ったか? その可能性は低い。ヨハンがあの北の大地で戦った相手が御使いであると知っているのは、直接戦ったヨハンとイブキだけで、それすらも真実かどうか危ういのだから。

「何故、俺達が御使いに敗れたと知っているんだ?」

 チリチリと頭の中が焼け付く。

 小さな火花が幾つも散って、何かが延焼するような熱が身体の中を滑っていく。

 何かが解かれようとしていた。

「違う……!」

 ヨハンは知っている。

 目の前の女を知っている。

 北の大地に立っているその情景が、今はまるで昨日のことのように思い越すことができる。

 どうしてこんなものを今日まで思いだせなかったのだろうかと、自分の頭を殴りつけたくなった。

 そう。

 そうだ。

 あの地で、出会っていた。

 雪の中に彼女は立っていた。

 吹雪の中を行軍していた。準備は充分にしていたので遭難の心配はないし、いざとなればヨハンのギフトでなんとなかる。

 そして急に吹雪が晴れた。

 雪の中に、それは立っていた。

 今、目の前にいるのと同じ姿で。

 黒い修道服、ベールから零れる銀色の髪。

 息を呑むほどにその姿は美しく、心に安らぎを与える様はまるで聖母だと、その時も思った。

「くす」

 女が笑う。

 シスター・アンナであった彼女は、これまの笑顔とは全く別の意味を持つ嘲笑をその口に浮かべた。

「嗚呼」

 歌うような声だ。

 先程までと同じはずなのに、耳を打つその音は心まで蝕むほどに蠱惑的だ。

「ようやく、思い出していただけましたか」

 女の姿が消える。

 腹の辺りから嫌な音がして、ヨハンは視線を下げた。

 自分の腹から、貫手が飛び出している。真っ赤な血が飛び散って辺りを濡らしていた。

 遅れて痛みが来て、視界が揺らいだ。

 頭の奥が嫌な音を立てている。

「では、始めるとしましょう。楽しい楽しい歌劇を」

 耳元で囁かれるその言葉を最後に、ヨハンは意識を失った。


 ▽


 ほんの一瞬、一秒にも満たない間気を失っていた。

 自分が仰向けに転がっていることに気が付いたラニーニャは即座に立ち上がろうとして、それができずに膝を折る。

 腹に強い衝撃を撃ち込まれたようだった。まるで内臓を掻き混ぜられたかのような不快感に抗えず、その場でのたうち回った挙句に今朝食べたパンを胃液と共に吐きだしていた。

「クハハハハハッ! なかなか可愛い姿見せてくれんじゃねえか。さっきよりも魅力的だぜ?」

「げっ……ほ。こ、の」

 腹を抑えながら顔を上げて、笑い続けるテオフィルを睨みつける。

 その右手には彼の長剣。そして先程ラニーニャに何かをした左手をぷらぷらと振っていた。

「油断したお前さんに非があると思うぜ、俺は。ギフトはエトランゼなら誰でも持っている力なんだからよ」

「それも、そうですね。これは、反省しました」

 気合いで身体の調子を整えて、何とか立ち上がる。

 見えない何かに撃ち抜かれた腹がずきずきと痛み、頭はまだ何かに揺さぶられているかのようだ。加えて視点は今一つ定まらず白黒している。

「おいおい、無茶しない方がいいんじゃねえか? 腹に一発くれてやったんだ。ガキ作れない身体になっちまうぞ?」

「余計な……。お世話です、よ」

 水筒を開けて、そこから流れ出た水を剣の形へと変える。

 それを両手に握って、テオフィルに向けて駆けだしたが、その速度は万全な状態の彼女に比べてあまりにも遅い。

「遅せえなぁ!」

 一振り目が空を切る。

 身体を半回転させて二振り目を振るう前に、また見えない何かがラニーニャの身体を上から下へと叩き伏せた。

「がふっ」

 ぬかるんだ地面に顔面から突っ込んで、それでも半ば本能でその場から転がって避ける。

 ラニーニャがいた場所を、再び見えない何かが地面ごと抉っていた。

 跳ねるように立ち上がって再度攻勢に出ようとしたラニーニャに、テオフィルは笑いながら左手で何かを押しだすような仕草を見せた。

 胸に重い衝撃が走る。

 出鼻を挫かれて踏み出すことができなかったラニーニャの腹に、再度衝撃。

 倒れることも許さず、今度は顔面と両足にそれをぶつけられて、ラニーニャの身体が成すすべなくその場に崩れ落ちる。

「厄介だよな。見えない力ってのは。でもよ、俺だって最初からこんなに強かったわけじゃないんだぜ?」

 水たまりを靴で踏みしめて、テオフィルが近付いてくる。

 俯せに倒れたラニーニャは反射的に起き上がり剣を振るうが、最早力は入りきらず、手首を掴まれて側頭部に衝撃を受けてまた地面を転がった。

「おおー。怖い怖い。その闘争心はどっから来るのか不思議だねぇ。気が強い女は嫌いじゃないぜ」

 顔に二度も衝撃を受けたことで、口が巧く動かない。声を出すこともできずに、その代わりに全力でテオフィルを睨みつける。

「まあお察しの通り、俺のギフトは衝撃だ。見えない力ってのは便利でな。不意打ち闇討ちに利用させてもらってるぜ」

 玩ぶようにテオフィルが左手を振るい、ラニーニャの近くの地面が幾つも爆ぜて、それを避けることもできずに、ラニーニャはただされるがままに弾け飛んだ地面の泥を身体中に浴び続けていた。

 必死で身体に動けと命令するが、全く動かない。もう手も足も、口を動かすことすらもできないのだから当然なのかも知れないが。

 全身が痛い。骨が砕けたか、それとも内臓が幾つか潰れたのか、まだ原型を保っているのが我ながら驚きだった。

「威力があんまりないのが欠点だけどな。でもまぁ、それも含めて俺は気に入ってる。こうやって」

 下から上に突き上げるような衝撃を受けて、ラニーニャはまた宙を舞う。

 無防備に叩きつけられた場所は、アーデルハイトの手首が今も転がっている、赤く染まった水たまりだった。

「少しずつ痛めつけられるわけだからよ。よぉ、ちょっと物は相談なんだが」

 耳鳴りでテオフィルの御託もよく聞き取れないが、それは今は都合がよかった。

 首を動かすと、薄れた視界に人の手が入る。

 小さな、華奢な手だ。ラニーニャよりも幾分か幼い少女の。

 彼女等は無事だろうか?

 どうしてこんな目に合わなければならないのだろうか?

 自分達で選んだ?

 違う。

 そんなはずがない。こんな理不尽な運命を選ぶ馬鹿はいない。

 訳も判らずこんな世界に飛ばされて、死にたくなくて、生きていたくて。

 狂犬のように暴れていた。そうしたら、一人の少女に救われた。

 彼女が困っていた、だから手を貸した。例え右目を失おうと後悔はなかった。

 ――まるで走馬灯のように、この世界に来てからの記憶が蘇ってくる。

 嫌だと、死にたくないとラニーニャは心の中で叫ぶ。そうしながらも、ダムが決壊したかのように思い出が流れ込んでくる。

 右目から血の涙が流れた。

 きっとヨハンに貰ったレンズが壊れて、眼球を傷つけてしまったんだろう。

 彼は今どうしているんだろうかと、そんな疑問が浮かんだ。

「なあ、聞こえてるか? 手足の骨を全部砕くとの、達磨にされるならどっちがいい? アレクセイは達磨にしろって言ってるんだが、それじゃ勃たないって奴もいるからよ」

「……るさい」

 うるさい。

 喧しい。

 今大事なところなんだから黙ってろ。

「へっ」

 派手な音がして、水が爆ぜた。

 まるで雨のように水滴が降り注ぎ、地面に叩きつけられてバウンドしたラニーニャの身体が、無造作に落ちる。

 上からの衝撃に叩き潰されて、視界の端で彼女の手が、今度こそ形を失うのが見えた。

 もう痛みはない。

 いや、判らなくなっているだけだろうが。

 代わりに頭の中に鈍痛が響いている。

 視界が妙に明るい。ちかちかする。

 誰かが何処かで騒いでいる。身体の中、心の奥、決して見えないそこをざわめきが満たしていた。

「おい、なんだその目は?」

 テオフィルの声に苛立ちが交じる。

 ラニーニャの目はまだ彼に屈していなかった。それがこれまで彼が倒してきた者達と違ったからだろう。

 或いは、これから起こるであろう何かに対しての予感的な恐れがあったのかも知れないが。

「判ってるかね、お嬢さん。てめえはもう負けてんだぜ?」

 返事を返すこともない。

 もうそれはただの雑音だ。

 ラニーニャの心の中は別のもので満ちている。

 それは怒りとか、主にそんなようなものだ。

 なんでこんなところでこんな目に合わなければならないのか。

 ここで自分が殺されれば、カナタもアーデルハイトも無事ではない。彼女達にそんな義理はないと言いたいのだが。

 生憎と、彼女等はラニーニャの友達の友達だ。それを失った姿を見たくない。

「よし。決めた。やっぱてめえは達磨だ。そんで死ぬまでアレクセイの部下共にヤられてろ」

 ああ、もう。

 本当にうるさい。だいたいなんだ、べらべらと喋りやがって。

 わたしは今、怒っているんだ。こんな痛い目に、くそみたいな目に合わせやがって。

 こんな理不尽に奪われてたまるか。

 こんなところで死んでたまるか。

 ――だから!

 何でもいい。奇跡なら起これ。

 わたしに力を寄越せ。

 一度失って、また奪われてたまるか。

「あん?」

 その違和感にテオフィルが気付いてからそれが起こるまで、数秒と立たなかった。

 彼が立っているのは、先程までアーデルハイトの手首が浸かっていた水たまり。衝撃のギフトで大分散ってしまったが、それでもまだ幾らかの水が残っている。

 その水面が動いている。テオフィルが動いたからではなく、不自然な脈動をしていた。

「なん、だ?」

 水が足に絡み付く。

「なんだと!? この女!」

 テオフィルは、ラニーニャの能力を、手に触れている水を操るものだと判断していた。

 彼女はこれまでそれによる攻撃しかしてこなかったし、もしそれ以外ができたのならばこんな有利に戦いが進むはずがない。

 それは事実だった。

 今までは。

「お前、まさか!」

 その声に焦りが交じる。

 仰向けに倒れたままのラニーニャが、半ば無意識にテオフィルの方にその掌を向けている。

 エトランゼはこの世界に来て、ギフトを与えられる。

 己の内に在る力、その使い方は不思議と誰もが最初から知っている。まるで生まれたときから持っている特技のように。

 それは力が次の段階に進んだ時も同じこと。

 その初歩を既に持たされていた。

 テオフィルが衝撃を放つよりも早く。

 絡み付いた水が彼の左手を引っ張り、その狙いがずらされる。

 その足が浸かった水たまりが吹き飛ばされて、多量の水が空へと舞う。

 それらは空中で短剣へと形を変えて、上空からテオフィルに襲い掛かった。

「てめえっ!」

 上空から降り注ぐ無数の刃を剣で弾き、また衝撃を放って吹き飛ばす。

「てめえも来やがったか、この段階に! アレクセイや俺と同じところに!」

 最早一刻の猶予もない。

 アレクセイがそうであるように、力の覚醒を果たしたエトランゼは以前とは全く別物と化す。

 正真正銘の怪物だ。

 だからテオフィルはラニーニャを生かすことをやめた。彼女の命を奪い去る。

 そう決めて剣を振り上げて走った。

「ぐ、お」

 悲鳴が漏れる。

 同時に口から溢れた真っ赤な血がテオフィルの足元を濡らす。

 彼の背後から野太い水の槍が、その心臓を貫いていた。

「な、ん」

 それは完全にテオフィルの見落としと焦りだった。

 彼女の能力が『水』に関するものであるならば、油断して背を向けることは許されなかった。

 先日の雨はまだこの辺りに幾つもの水たまりを残していたし。

 何よりもその胸を貫く形のない槍は、赤黒く濁っている。

 それは、テオフィルが傷つけた彼女等の血を混ぜた水だった。

 水の槍が消失する。

 力を失って単なる水となって地面に落ちて、弾けて消えた。

 テオフィルの身体が俯せに倒れて動かなくなるのも、それと全く同時だった。

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