第十節 触れ合う心
そうして日が暮れて、夜がやってくる。
ヨハンは昼間のうちに荷物を纏めて、周囲の様子を探索していた。
あれだけいた魔物は殆どが姿を消したようで、もし遭遇したとしても撃退できる程度の数しか残っていなさそうだった。
その間ヨハンの後ろを付いてきたイブキはもう疲れて眠り、今はアンナと同じ部屋で二人で最後の時間を過ごしている。
それはアンナ自身が提案したことだった。この村で最後に、自分が先代シスターから頼まれたイブキと一緒に過ごしたいと。
カナタとラニーニャは何故か泥だらけになって帰って来て、汚れを落としてからは二人ともぐっすりと眠っている。
ヨハンも今日のところはもう寝るだけなのだが、その前に気になってアーデルハイトの様子を見てきた。
そろそろ薬が切れてもいい時間帯だと思って部屋に入ると、思った通り彼女はベッドの上で状態を起こして窓から外を見つめていた。
「あら、夜這いかしら?」
言いながら、彼女は何処か嬉しそうに頬を緩めている。
「元気そうで何よりだ」
軽口をいなして後ろ手に扉を閉める。
「傷はどうだ?」
「痛みがないと言えば嘘になるけど、気を失う直前よりはよくなってるわ」
「そうか。ならよかった」
部屋の中央辺りにある椅子を引っ張りだして腰かけようとすると、アーデルハイトは自分のベッドの端をぽんぽんと叩く。
折り曲げた身体を再度伸ばして、そこに近付くと、彼女が伸ばした膝の丁度横辺りに腰かけた。
「無茶はするなって?」
言おうとしたことを先回りされて口籠る。それをやったアーデルハイトは得意げな顔でこちらを見ていた。
「あれは事故でしょう?」
「……そうだな」
「難しい顔をしてる」
伸びた白くて小さな手が、ヨハンのこめかみ辺りに触れる。そのまま額を撫でるように滑っていった。
「あれに勝たないといけない」
「難しいわね」
一度は勝っているが、様々な要因が重なった上での奇跡のようなものだ。もし悪性のウァラゼルの力を全て使えるのだとしたら、勝ち目は万に一つもない。
明日にはここアシュタを去るが、それは単なる問題の先送りに過ぎない。アレクセイがオルタリアの、イシュトナルにいる限りはいずれぶつかる時が来る。
「弱いな、俺は」
「……そうね。弱くなったわ、とても」
慰めの言葉が欲しかったわけではない。
ただ昔馴染みに、なんとなく漏らしてしまった言葉に彼女は的確な言葉を返してくれた。
ヨハンがそれに対して何も言えないでいると、アーデルハイトは不思議と上機嫌そうに向こうから口を開いた。
「ねえ。もう少しこっちに来て。靴を脱いで、ベッドの上に。そう、壁に寄りかかるように」
言われるままにベッドに上がり、窓のすぐ横の壁に身体を預ける。
ヨハンの邪魔にならないように移動していたアーデルハイトは同じように壁に寄りかかって、ヨハンの肩に自分の頭を乗せる。
「以前のあなたは強かったもの。嫉妬して、憧れて、必死で追いすがろうとしたくなるぐらいには」
「それは何と言うか、残念だったな」
「ええ、でも」
アーデルハイトは言葉を切る。
その先を口にすることを躊躇って、ぐっと拳を握って意を決する。
「わたしは今のあなたの方が好き」
見上げる、少し潤んだ瞳には気付かない。
「そう言ってもらえると、力を失ってよかったと思えるな」
アーデルハイトなりに元気付けてくれているのだろう。そう判断して、ヨハンは苦笑して誤魔化そうとする。
しかし、アーデルハイトはそうではなかった。
指を顎に当てて何やらぶつぶつと言ってから、至近距離でヨハンの顔を見上げる。
「今のはわたしが悪かったわ」
「何の話だ?」
「一度しか言わないからよく聞いてね。いえ、これで二度目だけど」
「何の話だ?」
首を傾げるヨハンに、アーデルハイトはその顔を見上げたまま、大きく息を吸い込む。
それから、少しの間があった。
ヨハンにとっては小さな時間だったが、きっと彼女にとっては大きな時間だっただろう。
その決意をしてから言葉が出るまでの時間は無限に引き伸ばされ、その記憶は彼女の心の中に深く刻まれる。
その先にある結末が、どのようなものであっても。
「好きよ。あなたを愛してる」
「それはまた……」
それだけではない。彼女の、本当に囁くような声のその一言はまるで見えない力を纏っているかのようにヨハンの心を強く揺さぶる。
それはきっと彼女と過ごした時間があって、その間でお互いに生まれた家族と言う絆があって、そして何より今自分を見上げている潤んだ瞳が、手を触れてしまいたくなるほどに輝いているからだろう。
「ありがたいな」
「困らせる意図はなかったのよ。言っても信じてもらえないともうけど」
「いや、信じるよ。……なんで俺なんだ?」
「さあ」
アーデルハイト自身もそれにはこてんと首を傾げる。
「……あのな。お前はまだ子供だ。認めたくないかも知れないが、それほど経験を積んだわけでもない。これから先生きていればもっといい男と出会うかも知れないし、その可能性を閉じるような考え方は」
ごんと、アーデルハイトの頭がヨハンの肩を打つ。
言葉を途中で中断されて、不満そうにアーデルハイトを見下ろすと、彼女はその何倍も呆れたような、見下すような冷たい眼でヨハンを睨んでいる。
「あのね。一世一代の愛の告白に対してお説教をするってどういうこと? 幾ら何でもデリカシーがなさ過ぎよ」
「しかしな……。俺のことを好いてくれるのは嬉しいが、それはお前の周りに俺以外の男がいなかったからで、もう少し時間が経てば世界が広がって」
「うるさい」
また頭突きが入る。
「そんなお説教には何の意味もないわ。わたしは、あなたがいいんだもの」
「……俺もお前が大切だから、色々なことを知った上で判断してほしいんだ」
「知ったことじゃないわ。人間が一生で経験できることなんてたかが知れてる。その中に今よりも欲しいものが生まれるとは思えないもの。わたしはまだ、『子供』だからね」
「……それは」
「恋をするのに大事なのは未来じゃないわ。わたしの心が騒めいて、心臓が高鳴って、頬が熱くなる。そんな今が大切なの」
言いながらアーデルハイトは姿勢を変えて、ヨハンに甘えるように膝の間にするりと身体を滑り込ませる。
そのまま上目遣いでヨハンを見上げながら、胸の辺りに頭を擦りはじめた。
「でも、今の言葉から察するに少しは期待できる答えがあるって言うことかしら?」
「正直なところ今はそんなことを考えていない。状況を見ればそれは判ってもらえると思う」
「それはまぁ、そうね」
対処しなければならい事が沢山ある。今を超えてもまた幾らでも問題は湧いて出てくるのだから。
「判っていてなんで今なんだ?」
「え? 我慢できなくなったからよ。こうして気持ちをぶつけて発散して、気持ちをほぐすの。うん、今いい気持ちね。こんなことならもっと早くにしておくんだったわ」
なんでもないことのように言うが、少しだけ早口になっているのを見逃さない。口に出すようなへまはしなかったが。
まだ答えも出ていないというのに彼女は上機嫌にヨハンの身体に自分の身体を擦りつけている。
まるで動物が匂いを付けているようだとも思いながら、ヨハンもそれに答えるように優しく髪の毛を撫でていた。
「本当は、少し怖かったからよ」
「……ウァラゼルがか?」
「ええ。空からあの光が落ちてきた時、咄嗟にラニーニャを庇ったけど、心の何処かで助からないかも知れないって思った。それで、多分その一瞬だけ恐怖に心を支配されたの。でもわたしは負けなかった。なんでだと思う?」
「判らん」
「もう少し、フリだけでもちゃんと考えて。あなたに気持ちを伝えるまでは死ねないって思ったのよ」
なんとなくそんなことだろうとは思ったが、流石にそれをヨハンから言いだすことはできそうになかった。
困り顔をしているヨハンの頬をつついて、アーデルハイトは引き続き上機嫌に身体を摺り寄せる。
「ふぅ。流石に少し恥ずかしいわね。顔が熱いわ」
そう言って涼むために窓を開ける。
外から流れ込んできた風が二人の熱くなった身体を冷まして、遠くから聞こえてくる虫の声が部屋の中にまで響き始めた。
開け放たれた窓から差し込む月の光がアーデルハイトを照らす。
彼女の短い金色の髪が風に揺れ、月光を照り返す。翠色の大きな瞳は月の光を受けてくっくりと闇の中に浮かび上がって、それは思わず見とれてしまうほどに綺麗で、ヨハンは無意識のうちにそれに手を伸ばして、慌ててそれを引っ込める。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
まさか先程までのやり取りから、急に心を乱されることになるとは思ってもみなかった。
いや、あの言葉を聞いたからだろうか。
頬を赤く染めながら、何処か寂しげで、それでいて爽やかな表情をする彼女が余りにも魅力的に見えてしまうのは。
「ねえ。今度は横になって」
「今夜は我が儘だな」
「わたしは怪我人よ。甘やかしなさい」
そう言われては有無も言えない。ヨハンが言われるがままにベッドに横なる。
するとアーデルハイトはその身体に抱きつくようにして胸の辺りに顔を埋め、満足そうに息を吐いた。
彼女の小柄で柔らかい身体から伝わる体温が、熱い夜であるというのに不思議なほどに心地よかった。
「今日はこのまま一緒に寝ましょう」
元よりこちらの返事など聞いていないのか、アーデルハイトはそう言ったっきり目を閉じてしまう。
彼女を跳ね除けてここから出ていくのは簡単だが、何故かそうする気にもなれずに、ヨハンは言われるがままにそうしていた。
むしろ先程、月に照らされた彼女を見たときに心を過ぎった一瞬の不安。
まるでその光の中に溶けて消えていってしまいそうなほどに儚い彼女の存在を確かめるように、力を込めて抱きしめる。
アーデルハイトは一瞬驚いて身体を動かしたものの、すぐにその感触に身を任せて眠りへと落ちていく。
ヨハンが意識を手放したのも、それからさほど時間が経たずしてのことだった。
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