第六節 遠き場所より
そこは不可思議な世界への入り口だった。
空には蒼い月。
枯れはてた木々が手招きするように風に揺れ、遠くから知らない生き物の鳴き声が聞こえてくる。
無限に続く回廊は永遠の迷路で、一度囚われたら決してそこから出ることはできない。
しかし、そこは余りにも魅力的な世界だった。
空に幾つもの文字が浮かんでは消えていく。
見たこともない、読めるはずもないその言葉はそこに秘匿された神秘の力を、教えてくれている。
星のように煌めくのは無数の知識だ。
そこに描かれた幾多の知恵が、誘っている。
その回廊をアーデルハイトは一歩一歩踏みしめるように歩み続けていた。
伸ばした右手はずっと、迷路の壁に触れているが、その壁すらも気が付けば消えてまた異なる形になって立ち塞がっている。
右に曲がり、左に曲がり。
階段を上り、階段を降りて。
自分が何処にいるのかも判らず、この先にあるものが何かも知ることはなく。
それでもアーデルハイトの歩みは止まらない。
ゆっくりと、目的地へと進んでいる。
果たしてそれが何であるか、辿り付いた先に何が待っているかも判らないというのに。
ただ、脚だけが動く。
この先にある知識が欲しい。そこに秘められた神秘の力に触れて、自らのものにしたい。
魔導師とは元来、貪欲な生き物だった。
この世界にエトランゼが現れる前、彼等は確実に神秘の世界の住人で、この大地の根幹を成していた。
彼等は生涯を掛けて、魔法を編み出す。
己が生きた意味を、他の全てを投げ打った証を創りだす。
そんな者達であったと、書物は伝えていた。
アーデルハイト達はその後に生まれた世代の魔導師だった。
彼等の残した技術や知恵を解き明かして、それを自らの力とする。
結果として一人当たりが使える魔法の数は爆発的に増大したが、一つの力を研鑽し極めることに関しては過去の魔導師の方が優れていると言われていた。
それでも、アーデルハイトは魔導師だ。
例え直接的な血の繋がりがなくても、一度それを学べが血脈は受け継がれる。
これは魔性の世界だと、アーデルハイトは理解した。
触れれば決して後戻りはできない。
そこに望むものがある。
先代のヨハンが、大魔導師と呼ばれた偉大なる祖父が触れて、怯えてしまった力。
人であることを捨てさせるほどの何かが、この先にあるのだ。
だからアーデルハイトは迷わない。
足元の感触が変わる。
硬質な地面から、草を踏みしめるように。
柔らかな大地に、青白い光で数多の文字が浮かんでは消えている。
それは見た傍からアーデルハイトに様々な真理を告げていた。
あらゆる力が、世界の成り立ちが、頭の中に刻み込まれては消えている。
これはまだ予習の段階。
この力はまだアーデルハイトのものにならない。
きっとまだ足りない。
だからもっと先へと進まなければならない。そして準備を整え、それらを受け入れるべく魂を変貌させる必要がある。
――不意に、声が聞こえてきた。
低い女の声。
「……お母さん?」
どうしてそう思ったのだろうか。
実の母の声は知らない。拾ってくれた母の声は全く似ても似つかない。
なのに何故かその一言が口から出てしまったのは、響いてきたその声がアーデルハイト自身によく似ていたからだ。
自分の声を少しばかり低くしたような声音。
何処か遠くで反響する自身の声のようなそれに導かれるままに、アーデルハイトはゆっくりと歩いていた。
無意識に笑みが漏れる。
この先に行けば全てが手に入る。
大魔導師と呼ばれる存在になれるかも知れない。憧れていた祖父に近付けるばかりか、超えることすら不可能ではない。
そうなれば、もっと多くのものが手に入る。
余計なしがらみを捨てることができる。
何を手に入れようか。
邪魔をするものは全て壊してしまえばいいか。
いつしかその笑みは邪悪なものに変わり、心は歪んでいく。
本人も気付かないままに、力に取り込まれていく。
「起きろー!」
そう。
頭から冷水を掛けられるという事態がなければ、きっとアーデルハイトはこのまま何かに取り込まれていたのだろう。
▽
「えっ、と……。なに?」
怒るわけでもなく、落胆する間もなく。
まず口を継いで出たのは疑問だった。
目の前には先程まで読書をしていた机に、開かれたままの魔導書が一冊。自分が座っている椅子や周りも含めて水でびしょびしょなのが、魔導書を読んで集中し始める前との違いだった。
「ちょっと! なんてことをするの!」
慌てて魔導書を持ち上げて水から遠ざける。
幸いにして被害はそれほど大きくはないので、安全な場所において上から優しく布を掛けて水分を吸い取る。
そうしてようやく、アーデルハイトはその犯人に対して厳しい視線を向けた。
「何のつもり?」
犯人は空っぽの桶を構えたまま固まっていたが、アーデルハイトに睨まれて居住まいを正す。
その顔は反省しているというよりは、こちらを心配していた。
「いや、何のつもりも何も……。アーデルハイト、話しかけても全く無視するんだもん」
「本に集中していたのよ」
「嘘だよ。揺すってもくすぐってもスカート捲っても無反応だったもん! 痛い!」
「スカートは余計よ」
「すぐ電気出すのやめてよ! 鰻じゃないんだからさ!」
スカートを捲るのは論外だが、まさかカナタがそこまでしていたとは思わなかった。
少しばかり集中していた自覚はあったが、それでも揺すられれば流石に気が付くはずだった。
棚の上に避難させた魔導書を見やると、アーデルハイトの中に猛烈な寒気が襲い掛かってきて、両手で自分を抱きしめるようにして身を縮める。
「アーデルハイト? 大丈夫? なんか怖いことでも書いてあったの?」
カナタが傍に寄って来て、アーデルハイトの髪や濡れた服を優しく布で拭いてくれる。それだけでも、大分心が落ち着いてきた。
「……いいえ、大丈夫。でも」
完全に取り込まれていた。
アーデルハイトの意識はこの世界にはなく、間違いなくあの本の中にあった。
広がっていた不気味な世界は幻想だが、間違いなく本物で、あれ以上長くあの場所にいたら戻れなくなっていたかも知れない。
いや、きっと戻っては来れたが、それがアーデルハイトである保証は何処にもなかった。
「……危険ね、あの本は」
「そうなの? 横から見てたけどなーんにも判らなかったけど」
「それはそうでしょう。あれは」
第一にカナタはこの世界の文字が読めないというのがあるが、理由はそれだけではないだろう。
あの本はその対象を選ぶ。
魔法に触れ、その力に憑りつかれた者、つまり魔導師だけをその中に取り込もうとしていた。
その果てに何が起こるのかは判らない。
先代のヨハンにそれを渡した人物、果てはあの魔導書を書いた人物の狙いが何なのかすらも。
「とにかく。助かったわ、ありがとう」
「水かけただけだけどね。最初は突き飛ばそうと思ったけど、それじゃそのまま頭打って危ないと思ったからさ」
「水もどうかとは思ったけどね。……でもまさか、そんな手段で戻ってこれるとは」
アーデルハイトがまだ浅い位置にいたから無事だったのか、それともまさか魔導書の作者もそんなことをやる奴がいるとは思ってもみなかったのか。
「後者なら少し面白いけどね」
「ん?」
「何でもないわ。そろそろ彼等が戻ってくる頃だと思うけど」
「よーくん! そっちじゃないよ! あたしの部屋はこっち!」
言い聞かせるような、イブキの声が廊下から聞こえてくる。
それと同時に足音が二つ響いて来て、それはアーデルハイト達がいるこの部屋の前で止まった。
部屋の扉がノックされて、外から声が聞こえてくる。
「入っていいか?」
「どうぞ」
アーデルハイトが答えると、木製の扉が小さな軋みと共に開いた。
入った来たのはヨハンと、その腕にしがみついて自分の部屋に連れていこうとしているイブキだった。ラニーニャも一緒に出掛けていたようだが、恐らくは早々に撤退したのだろう。その気持ちはアーデルハイトもよく判る。
ヨハンの腕を抱きかかえるように、イブキが張り付いている。当の本人はその状況に何の疑問も抱いていないようで、部屋の中にいる二人を見てにっこりと笑顔をくれた。
「調子はどうだ?」
「なかなか、思っていたよりは上手く行かなさそうね。実際のところ、少し時間が必要よ」
「……そうか。まぁ、仕方ない。物が物だ。ゆっくりとやっていくとしよう。それで、体調はどうだ?」
「……別に普通だけど?」
「少し顔色が悪い。無理はしないで少し休め」
そう言って、棚の上にある魔導書を手に取るヨハン。何故濡れているのか不思議に思いながらも、丁寧にしまい込む。
「外でも出歩いてきたのか?」
くしゃりと、濡れているアーデルハイトの髪に手を触れて、大きな手が軽く撫でまわす。
「……別に」
ふいと顔を背けるアーデルハイトに、カナタは意味深な視線を送っていた。
「とにかく、心配してくれてありがとう。そっちはどうだったの?」
「ねえねえよーくん。あたしのことも褒めて!」
「別にお前は何もしてないだろうに」
呆れてそう言いながらも、ヨハンはイブキの頭を撫でる。
「……そっちはどうだったの?」
怒りを込めて、アーデルハイトは改めて質問をぶつける。
「交渉は決裂だ。明日にでも一度イシュトナルに戻って、対策を講じる必要がある」
「そう。それで、その……イブキはどうするつもり?」
じっと、アーデルハイトとイブキの視線がヨハンを見上げている。
「よーくん。行っちゃうの?」
「……アンナと相談してのことになるが、俺はイシュトナルに連れていこうと思っている」
「やっぱりね」
彼女を戻す方法にある程度の心当たりがある以上、ここに預けている理由はあまりない。加えてアレクセイ一味のことを考えれば、むしろアシュタに置いておくことは危険ですらありうる。
「問題はイシュトナルはここに比べて人も多いし騒がしい。後は日中何処に預けておくかとも考えなければ」
「その話は聞きたくないわ。一人で考えて」
「……ああ、判った」
「よーくん、どしたの?」
「イブキ。ここを離れることになっても大丈夫か?」
「えっ、一人はやだ」
イブキはぶんぶんと首を横に振る。
「一人じゃない。俺も一緒なんだが。……やっぱりアンナがいた方がいいか?」
「よーくんと一緒がいい! ずっと一緒にいられるの!?」
「いや、ずっとではないが……!」
喜びを全身で表して、イブキはヨハンにとびかかる。
どうにかそれを受け止めたものの、よろけたヨハンは先程までアーデルハイトが座っていた椅子に勢いよく座ることになった。
「用件は終わり? わたしはもう行くわ。カナタ」
「う、うん」
これ以上二人を見ているのが嫌で、アーデルハイトは部屋を出ていこうとベッドから立ち上がる。
そこに、息を切らせたアンナが飛び込んできた。
「た、大変です皆さま!」
銀髪を汗で額に貼り付けて、アンナは部屋に入ってくるなりそう叫んだ。
「魔物の群れが観測されました……。これまでにない数で、この辺りの集落へと襲い掛かっているのです!」
▽
空には分厚い雲が掛かり、小雨だった雨は今は大粒となって辺りを靄の中に包み込んでいる。
ヨハン達がいる場所は屋外。アシュタの村の申し訳程度に作られた柵を見回りながら、簡単に作れる濠や塹壕の指示を出している。
魔物の群れが発見されてこの周辺の村が派遣している見張りが戻って来たのはつい先程の出来事。
魔物は人間に対して姿を隠すつもりもなければ、作戦を立てることもない。その進軍速度は通常の軍隊よりも早い。
「武器はこれで全部か?」
「は、はい……。一応、魔物が何度か襲撃してきた辺りで村にも何か必要だって話にはなったんですが」
村の若い衆が、ヨハンの質問に答える。
「何分余裕があるわけでもないし、シュンさん達もいるからって」
その目線は、手勢を引き連れて声を張り上げているシュンの元に向けられる。雨に濡れることも構わずに、身体を泥に塗れさせながら作業を行っていた。
シュンはヨハンの視線に気が付いたのか、行っていた塹壕掘りを仲間に任せると、大股でこちらに歩み寄ってくる。
「まだいたのか? さっさと失せろ」
「そう言うわけにはいかん」
「なんだと!」
胸倉に伸びた手を掴み取って、跳ね除ける。
「ここで理由の説明が必要なほどに馬鹿だとは思いたくはない」
この暗闇の中、魔物の襲撃を避けながらイシュトナルに帰還することはできない。下手に注目を集めてしまえば他の集落にまで被害が飛び火するかも知れない。
それにもう一つ、村がこうなっている状況を見捨てられるほどヨハンは冷血漢にはなれそうにもなかった。
「ちっ。偽善者め」
「お互い様だ。お前の言葉に習うなら、さっさとエトランゼだけを連れて逃げればいいだろうに」
「ここは俺が拠点にしてた村だ! 見捨てていけるか!」
「……その気持ちを他の者達にも持ってもらえれば話は早かったんだがな」
「うるさい! 俺はお前の指示なんか聞かないからな!」
「百も承知だ。むしろ村人の指揮は任せた。俺は俺が連れてきた連中と一緒に遊撃する」
村人達の信頼は、ヨハンよりもシュンの方に向いている。ここでヨハンが頭を取ったところで素直に言葉を聞いてくれる者達はいないだろう。
彼等は戦いに慣れていない。指示を受けて、一瞬の迷いが即座に死に繋がるのだから。
「お二人とも!」
ちょうど話が終わったところで、アンナが小走りで近寄ってくる。
シュンは罰が悪そうにその場を去ろうとするが、アンナに腕を引っ張られて足を止めることになった。
「シュンさん。どうか、ご無理はなさらないように」
「お前に言われる筋合いはない。俺が別にお前達を護るために戦うわけじゃないんだからな」
「はい。……それでも、シュンさんがいなければわたくし達はどうすればいいか判らずに一方的に滅ぼされていたでしょう。シュンさんは、やはり恩人です」
「う、うるさい! 俺はもう行く、邪魔をするなよ!」
腕を振りほどいて、シュンは雨の中に消えていく。
「ヨハン様。何かお手伝いできることはありませんでしょうか?」
「女子供の避難をお願いしたい。包囲が薄くなったら脱出を試みる。その時までみんなを勇気付けてくれ」
「……はい!」
「負傷者も大勢でる。村中から衣料品や布を集めて教会へ」
「はい。そちらはもう完了しております」
「なら話が早い。後は……イブキを頼んだ」
「畏まりました」
アンナは教会の方へと去っていく。
それとは入れ替わりに、ラニーニャが小走りで駆け寄ってくる。
「ここにいましたか。非戦闘員はだいたい教会にしまい終わりましたよ。でも、療養施設があるだけあって怪我人も多いですから」
その後を言い淀む。
全員を教会に収容することはできない。中にはベッドの上から動けない人もいるし、自分から拒否する者もいた。
「……自分のことはいいからと、言ってくれた人が大勢いました。最低限の武器を持って療養施設で囮になってくれるそうです」
「……そうか」
全員の命を護ることなどできはしない。
その事実が改めて圧し掛かって、ラニーニャは重い声でそう報告した。
「俺達は遊撃を担当する。ある程度戦って数を減らしたら、相手の勢いが弱まったところを狙って避難の誘導だ。その後はイシュトナルの部隊と合流できる場所まで護衛を続ける」
「はい。ですが大丈夫ですか? 村で戦っている人達を見捨てる形になりますけど」
「男達とは後で合流すると言っておくしかないだろう。下手に足並みを乱されれば全滅する」
「……そう、なりますよね」
村で戦うのは決死隊だ。彼等は元より命を捨てるつもりで、生きて帰れる保証は何処にもない。
むしろその大半が命を落とすであろうと、ヨハンは予想している。
「残酷なようだが、俺達もここでは死ねない。俺達にできることは最大限命を生かして、無事に脱出することだ」
「……ええ」
「……幻滅したか?」
「いいえ、むしろ」
その気になれば、ヨハン達だけが村を見捨てて逃げることは決して難しくはない。
カナタがいて、ラニーニャがいて、アーデルハイトがいる。魔物との正面衝突を避ければ全員が生き残る確率は極めて高い。
だが、ヨハンはそれをしなかった。
一人でも多くの人を救いながら、一番自分達の被害を少なくする方法を選んだ。
「嬉しく思います。貴方がクラウディアさんの旦那様で」
「候補だ、候補」
「それでもクラウディアさんの旦那様と言うことは、将来のラニーニャさんのご主人様なわけですし、これは活躍したらご褒美をおねだりしてもいいのでは?」
「どんな理屈だそれは。……百匹斬ったら考えてやる」
「たった百匹で? 判りました。それじゃあご褒美、期待していますよ」
そう言ってレンズが嵌め込まれた片目を閉じるラニーニャ。
それから彼女と一緒に村の各所を回っていると、村の見張り台からけたたましい鐘の音が鳴り響く。
それは、魔物達がもうすぐそこまで迫っている合図だった。
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