第五節 少女の決意
その日の夜。
宿代わりに借りている教会の一室で、ヨハンは簡素なベッドに腰かけながら、小さな灯りで一冊の本を読んでいた。
ヨハンの後ろには寝る瞬間まで傍を離れようとしなかったイブキが横になり、静かな寝息を立てている。
既に手に持った分厚い本――先代から受け継いだ魔導書を読み始めて一時間ほどになる。休憩がてら顔を上げて、安心しきった顔で寝入っているイブキへと視線を向ける。
「……お前は」
あの日。
雪山でイブキを背負ったまま転んだヨハンが必死で顔を上げ、放り出してしまったイブキを助け起こしたとき。
意識が戻ったイブキは泣いた。泣き喚いた。
まるで親とはぐれた子供のように。
寒いと、痛いと、これまで決して言わなかった弱音を吐きながら泣きじゃくった。
それだけの出来事があった。無理もないと、ヨハンはイブキを宥めながら必死で人里まで降りてきた。
彼女を落ち着かせて、一晩休めば落ち着くだろうと自分に言い聞かせたが、それは間違いだった。
イブキは戻らない。心が壊れてしまった。
その原因の一端を担っているのは、間違いなくヨハン自身だ。
外はいつの間にか雨が降り、雨粒が窓を叩き始めていた。
その音が気に障ったのかイブキは寝返りを打ちながらぐずるような声を上げる。
そっと手を伸ばすとそれを握って、また満足そうに笑顔で眠りについた。
彼女がヨハンに懐いているのは、きっと意識が戻って最初に見たからだろう。刷り込みのようなものだ。
もし記憶が戻ったら、どうするだろうか。
最強と呼ばれていながら、御使い相手に打開策を見いだせず大勢の仲間を死に追いやったヨハンのことを許せるのだろうか。
「お前は俺を許してくれるか?」
「そんなこと、今考えても仕方のないことでしょう?」
「ああ、そうだ……な?」
すぐ傍で声がして、慌てて振り返る。
よく見知った小柄な姿が目の前にあって、ヨハンは慌てて膝の上に置いてあった本を取り落としそうになる。
「アデル、いつの間に?」
「普通に扉から入って来たのよ。……その女に夢中で気付かなかったみたいだけど」
不機嫌そうに言って、本に手を伸ばす。
ヨハンはすぐに本を閉じて頭上に掲げると、アーデルハイトの眉間の皺が深まった。
「どうしてよ」
「お前が読むものじゃない」
「おじいちゃんの残した魔導書でしょう? どうして孫であるわたしが読んではいけないの? 悪いけど、あなたが読むよりは余程意味があるわ」
その言葉は正しい。
そこに掛かれている魔法技術や道具を再現することができても、それはほんの一部。
魔導書の神髄はそこにある魔法の知識、それを元にした力。
ギフトが消えたヨハンにそれを再現することはできない。どうやら魔法そのものを扱うことができなくなったらしく、何度か試してみたが全く使うことはできなかった。
アーデルハイトは正面からヨハンの膝に乗り、掲げられた魔導書に手を伸ばす。
ヨハンはそれに対して身体を仰け反らせてアーデルハイトから遠ざけていく。
見た目には限りなく間抜けだが、当の本人達は至って真面目に取り合いをしていた。
すぐ至近距離で、アーデルハイトが不機嫌そうに問いかける。
「どうして? 何故、わたしがそれを読んではいけないの? 魔導師である以上、大魔導師と呼ばれた祖父の物に手が伸びるのは自然なことでしょう?」
「……違う。違うんだ、アデル」
「何がよ? ……後少し……!」
ヨハンの態勢に限界が来て、二人でベッドに倒れ込みそうになるところを、どうにか片腕で支えている。
アーデルハイトは見事に魔導書を奪い取り、満足そうにそのままヨハンの膝の上に正面から居座っている。
「……あなたが本当に読むなと言うのなら、わたしはこれを開かない。納得できる理由を聞かせてもらえればね」
「……そうだな」
嘆息する。
「これは、先代の魔導書ではない。……先代は、大魔導師ではなかった」
「……どういうこと?」
果たしてその称号がどれほどの意味を持つのか、魔導師の世界に身を置かないヨハンには今一つ判らない。
ただ、先代ヨハンはその名を誇らしげに名乗っていたし、その名声は広くオルタリアの外にまで響いていた。
何度か見せてもらった彼の力はその辺りの魔導師やギフトを持ったエトランゼを遥かに凌駕し、ある意味では人間を超えていた。――それでも、名無しのエトランゼには遠く及ばなかったのだが。
「大魔導師に成り損なったと言っていた。その本を読み、知識を手に入れ、それを力へと変える。先代の人生の後半はそれに費やしたと言っても過言ではないそうだ」
「それはおじいちゃんが書いたものではないの? わたしはてっきり……」
「貰い物らしい。何処の誰にかは教えてもらえなかった。ただこれを解読し、力と変えることができれば至高の魔導師の座が手に入ると」
「……そう」
その一言には、小さな落胆があった。
彼女の中で先代は、滅多に口にこそ出さなかったが大きな存在だった。恩人であり、尊敬する人物だった。
それが全て崩れてしまったわけではないが、それでもすぐに納得することができないぐらいにはアーデルハイトは幼い。
「俺はそれでよかったと思う。先代は言っていた。この本を渡されたとき、これを全て読めば全知に触れ、至高の力を手に入れる。但しその代償に、人間ではなくなると」
「……人間でなくなる?」
「俺自身がそうだったから、なんとなく理解はできる」
名無しのエトランゼであった頃。
最強と呼ばれる力を振るっていたあの時のヨハンは、果たして人間と呼べる存在だったのだろうか?
少なくともその心は人ではなかったと、今ならば思う。人間の振りをした、神にもなれない哀れな何かだ。
魔導書を読み切れば、それと同じものになってしまうのではないかとヨハンは考えている。
すぐ傍で、アーデルハイトが唾を飲む音が聞こえる。
好奇心と、恐怖と、それからもう一つの感情が鬩ぎあっているのが判った。
魔導書をじっと見つめたまま、アーデルハイトは身動ぎ一つしない。
彼女のように才能のある魔導師にとって、それは甘い蜜であり、陰惨な毒でもある。
きっと彼女はここに書かれている内容を理解して、その力を得ることができるだろう。
そして恐らく、それを止めることはできなくなる。
触れれば最期、その全てを知って、力を手に入れたくなる。
それほどまでの魅力がその一冊の本には秘められていた。
誰も知らない知識が、誰も得たことのない力がそこには封印されている。
魔法を使えないヨハンでさえもその一部には助けられている。普段使っている武器や道具の大半は、そこから知識を得て作られたものなのだから。
アーデルハイトは意を決したように話し始める。
そこから続く一言は、ヨハンの心を揺さぶる強い言葉。
「そこにある知識を使えば、彼女を救えるかも知れない」
だから、ヨハンはこれをずっと見ていた。
そこに掛かれている魔法を、どうにか自分が使うことができないだろうかと。
以前ならばできたのだ。長い時間を掛ければ、一瞬であるとはいえその力を再び得ることすら可能だった。
だが、それはウァラゼルを止めるのに使ってしまった。
それでも諦めきれずに、何か方法を探るためにこうして魔導書を眺め続けていた。
「お前は、イブキのことが」
「ええ、嫌いよ。能天気で、人のことを子供扱いして、いい思い出なんか何にもない。この女さえいなければあなたはずっと傍にいてくれたわけだし」
「でも」と、アーデルハイトは付け加える。
ヨハンの膝の上からその顔を見上げて、慈しむように彼女は笑っていた。
「あなたはそれを望むでしょう?」
その真っ直ぐに見つめる翡翠色の瞳に、嘘をつくことはできない。
例えこの場を誤魔化したとしても、彼女はすぐにそれに気が付いてしまう。そうなれば、その溝は一生埋めることなく二人の間に刻まれることだろう。
それを避けたいと思ってしまったのは、自分自身の弱さだろうか。
その問いかけをしている時間も、するべき相手もいない。
「そう、だな」
絞り出すような声だった。
それでも彼女を救いたい。
もう一度、イブキと話をしたい。不手際を謝り、例え許されなかったとしても。
彼女が生きる世界を望んでしまった。
それを聞いてアーデルハイトは、ヨハンを安心させるように小さく笑う。
そしてそのまま両腕を伸ばして、ヨハンの首に腕を回して抱きついた。
「心配しないで」
頭のすぐ横から、アーデルハイトの声がする。
それはとても優しい、落ち着く声色だった。
少し低く掠れ気味の彼女の声が、ヨハンの身体の中に溶けるように染み込む。
「……アデル」
「無理はしない。必要な部分だけを読み取ったらすぐに本を閉じる。本音を言えば全て読みたいのだけど」
アーデルハイトの身体が離れる。
膝の上から降りて、ヨハンの顔を正面から見つめるその頬は、林檎のように赤い。
「それは、今度二人で読みましょう? あなたの監督の上で」
「……そうするか」
彼女のその様子を見て、きっと無茶はしない。アーデルハイトと言う少女は魔導書の誘惑に負けず、戻って来ることができる。
そんな確信めいた予感がした。
▽
アシュタの村から少し離れたところに貴族の屋敷がある。
元々はこの辺りを治めていた領主のものだったが、ウァラゼルの軍勢相手に戦いを挑み敗れたことで、それ以来無人となっていた。
アレクセイは手下と共にそこに勝手に住んでいるらしい。そこからあちこちの村に出かけては、力を誇示することで食料や金を手に入れているそうだ。
「でも、それだって決して一方的な関係じゃないんですよ。イシュトナルの手が回らないこの場所で、魔物や盗賊達から身を護る必要がある。中には他の国から略奪に来る軍隊だっているぐらいですから」
先頭を歩くテオフィルは、アレクセイの行いにそんな意見を述べた。
オルタリアが治める領地の南西に位置するこの辺りは、確かにイシュトナルの管理が及んでいない部分でもあった。ハーフェンのように栄えた港町もないこの周辺の事情が後回しになっていたのは、ヨハンが反省すべき点でもある。
加えて国境が近いこともあり、隣国の兵達が盗賊に姿を偽装して略奪に来ることもあるらしい。アレクセイ達は結果的に、それらからこの地域を護る役割も果たしていた。
「だからって、あの態度が許されるとは思いませんけどね。盗賊にやられるか彼等に奪われるかの違いしかないでしょう」
憮然としてラニーニャが吐き捨てる。付いてこなくてもいいと言ったのに、ラニーニャは半ば無理矢理護衛を申し出てくれた。
「最近は少しやり過ぎだと、僕も思いますよ。だからシュンさんの方に協力して、何とかしようとしてるんですけど」
「何年越しの計画か知りませんが、両方から甘い汁を啜ろうなんて言う態度では解決するはずもないでしょう」
「ごもっとも」
ラニーニャの辛辣な言葉に、テオフィルはさして気にした風もなく肩をすくめて見せた。
そしてちょうど話が途切れたころに、小高い丘の上に聳える少し古めかしい貴族の屋敷が見えてきた。
三階建ての大きな建物は特に城壁などに囲まれている様子もなく、外観だけ見ればオルタリア地方に数ある貴族達の住居の一つに過ぎない。
テオフィルに案内されるままに、ヨハン達は庭を抜けて正面玄関へと向かう。庭は誰も整備していないのか、荒れ果てていた。
誰も守衛のいない玄関をくぐると、エントランスが広がっている。掃除が行き届いていないのか、埃や汚れが目立っている。
「……うぇ」
ラニーニャが口を抑えて声を漏らす。
それも無理もない。中に入ったとたんにそこかしこから聞こえている女の嬌声と、男の下卑た笑い声。中には悲鳴染みた声も交じっており、助けに走りたい衝動に駆られたが、今はそれに構っている暇はない。
残酷なようだが、ここで少ない人数を助けてアレクセイと事を構えるわけにはいかなかった。
「ラニーニャ。戻っててもいいぞ?」
「いいえ。こんなところによっちゃんさんを一人置いておけませんよ。腕の立つ護衛が必要でしょう?」
「助かる」
テオフィルの案内があるとはいえ、そもそも彼自身が両方に味方をすると宣言している以上、完全に信用することはできない。
「こっちがアレクセイさんの部屋です。一応、今日の朝のうちに話しを通しておいたんで、大丈夫だとは思いますけど」
テオフィルを先頭に二階に上がり、廊下を進んでいく。
黴臭い匂いと、あちこちから聞こえてくる下品な声に顔を顰めながら歩くと、すぐに一つの部屋の前でテオフィルは立ち止った。
「テオフィルです。イシュトナルからの使者をお連れしました」
「入っていいよぉ」
間延びした、馬鹿にするような声が部屋の中から聞こえてくる。
テオフィルが扉を開けて中に入ると、中央の辺りに置かれたソファの上に、アレクセイは深く腰を沈めるように座っていた。
その前に置かれたテーブルには酒瓶が何本も置かれていて、うち幾つかは空になっている。グラスの中には飲みかけの酒がまだ残っていた。
「にょほほっ。来たね来たね。うん、お土産を持ってくるとは感心感心」
「土産?」
静かにテオフィルが下がり、ヨハンは代わりに前に歩み出る。
喋りながらアレクセイは酒瓶の口の部分をヨハンに差し出したが、首を横に振ってそれを拒否する。
「その子のことだよ。結構綺麗じゃないか。うん、この間連れて来た子は部下に上げちゃったから、ちょうど足りなくなってきたところなんだよ。気が利くねー」
「ちっ、誰が」
小声で、ラニーニャが舌打ちする。今の一言がそれほど気に障ったようだった。
「残念ながら、こいつが俺の護衛だ。土産ではない」
「ふーん。まあいいけど」
ぐいっと、グラスの中の酒を飲み干す。
酒臭い息を吐いてから、背もたれに寄りかかっていた身体を起こして、改めてアレクセイはヨハンの顔を見た。
「イシュトナルの人だっけ? それで、何の用かな? おれ様もこう見えても忙しいから、できるだけ早くしてもらいたいんだけど」
「なら単刀直入に用件を言わせてもらう。先日アシュタの村で行っていたような略奪行為を直ちにやめさせろ」
「あー、そう言うあれかぁ」
ヨハンのその言葉に、アレクセイは一瞬は考える仕草を見せたが、その表情は明らかにこちらを格下に見ているもので、話し合いをするつもりは見受けられない。
「質問があるんだけどさ」
「なんだ?」
「おれ様が下等民族から奪って、何か問題ある?」
「あるに決まっているだろう」
「何処が? だってこの辺りは国の外れ過ぎて今までお前達の目も届かなかったわけだろ? そんなのあってもなくても同じじゃん」
「こちらに不手際があったのは認めるが、だからと言ってお前達の行いを知ってしまった以上、見過ごすわけにはいかん」
「そこだよ、おれ様が判らないところはさ」
テーブルの上に置いてあったペンを拾って、アレクセイはその先でヨハンを指した。
「今までなくてもよかったものなんだから、別に今更手に入れる必要なくない? そこはほら、お互い協定を結ぶ形でさ」
「……どうにも話が噛みあっていないように思える。それと略奪行為と何の関係があるんだ?」
「うーん。物分かりが悪いな。下等民族と触れあってると頭まで駄目になるのかな?」
無言でカトラスの柄に手を掛けたラニーニャを視線で制する。アレクセイの言う下等民族と言うのはこの世界に住む人々であり、そこにはラニーニャの友人であるクラウディアも含まれる。
彼女の逆鱗に触れたことに気付いているのかいないのか、アレクセイは全く悪びれる様子もなく話を続ける。
「お前達が欲しいのは結局金とか人とか武器とか……。つまり力だろ? 聞いてるよ~、オルタリアとの戦争で大変みたいだしねぇ」
笑いながらアレクセイはなおも酒を手に取って口に含む。
それを飲み込んでから、指を一本立てて話を続ける。
「こっちからの提案だ。おれ様がここでやってることを見逃せば、なんだったらオルタリアと戦うのに協力してやってもいいよ? 勿論、報酬は弾んでもらうけどね」
そう言って、厭らしい目でラニーニャを見る。
彼女は怒りのあまりすぐに部屋を出ていこうとしたが、本来の役割を思い出してどうにかそこに踏みとどまった。
「一つ、質問がある」
「なんだよ?」
「お前はその力を、ギフトを人々のために使うつもりはないのか?」
「それ、わざわざ答える必要ある?」
「……そうだな」
その回答は判りきっていた。それでも、恐らくはエレオノーラならばそう質問したはずだった。
「こっちからも聞かせてくれよ。お前のやってることの意味って何だよ? おれ様達はエトランゼ、異邦人でこの世界の異物に過ぎない。今更善人ぶって何になる? ギフトがあるんだ、それを使って生きたいように生きればいいのさ」
「その理屈が通れば、力の弱い者達はどうなる? 強いギフトを持たない者達は? 貴族や王族のように強い地盤を持たない民達は? 奪われ、殺されるだけだ」
「そうだよ?」
それが何か問題が?
その一言にはそんな意思が含まれていた。
アレクセイは本気で自分以外の誰かが傷つき、不幸になろうが問題にしてない。
「それは獣の世界だ。人が生きる場所じゃない」
「弱肉強食。いい言葉じゃないか。強い者が弱い者から奪う。実に判りやすい」
「……それが答えか」
「最初から言ってるでしょ? おれ様はおれ様のやりたいようになる。別にイシュトナルがここに攻めてくるならそれでいいよ。全員返り討ちにしてやるだけの話だからさ」
アレクセイはそう言って不敵に笑った。
本心から、何が来ても勝てると思っているのだろう。それが事実なのかそれとも単なる自意識過剰なのかは判らないが。
「逆に聞きたいんだけどさ」
酒瓶を持ちあげ、重さで何も入っていないのが判ると、アレクセイはそれを適当に床に放り投げる。それは絨毯にぶつかって重い音を立ててから、ごろごろと床を転がっていった。
「お前はなんでそんなことをしてるの? イシュトナルのお姫様って美人らしいし、ここに連れて来てくれればお前もおれ様達の仲間にしてあげてもいいよ? ……怖いなぁ、そんな顔で睨むなよ」
「言っても理解できないだろう」
「お互い様ってわけ? まあいいけどね。でも気付いてないなら教えてやるけど、そんなの単なるお前のエゴに過ぎないよ」
「そんなことはありません!」
それに答えたのは、今まで黙っていたラニーニャだった。
ヨハンを押し退けるように前に出て、アレクセイを強く睨む。
「貴方には理解できないと思いますけどね、この人のおかげで助かった人は大勢いるんですよ!」
「でも不幸になった奴も沢山いる。例えばお前がおれ様達を倒そうとすれば、おれ様の部下は大勢不幸になるねぇ。別におれ様としてはあんな役立たずは死んでも痛くも痒くもないんだけどさ」
「悪事を働いている人がその報いを受けるのは当たり前でしょう」
「いやー、どうかなぁ? おれ様はそうは思わないけどなぁ。この世界に飛ばされて、下等民族共に好き勝手な顔されて、死に物狂いで生きてきた連中だっている。そんな奴等に道徳を解いて、誰かのために生きましょうって言ったところで納得するとは思えないけどねぇ」
「……それは……!」
ラニーニャは言葉に詰まる。
彼女とて、この世界に来た人の中では運がよかった方だ。クラウディアと言う友を見つけて、苦しいながらも楽しい日々を過ごすことができた。
しかし、この世界に飛ばされたエトランゼの中には、そうでない者の方が多い。むしろ大半が突然の事態に混乱し、未だにその理不尽を自分の中で消化できないでいる。
それは当たり前のことだ。傷つけられ、奪われた記憶は癒えることはない。だから誤魔化すために、違う誰かを傷つける。
「更に言いうなら、おれ様はお前ほど人を不幸にしてないと思うよ? 下等民族の百人や二百人ぐらいが死んだからってなんだよ? 余計な理想に付き合わされて、これから何人の人が死ぬんだか」
「……判った。どうやら話し合いは無意味のようだな」
「最初から言ってるだろ?」
「邪魔をした」
これ以上話しても事態が変わることはない。ヨハンはそう判断して、アレクセイに背中を向ける。
ラニーニャは今にも斬りかかりそうだったが、ヨハンにその気がないことを察して我慢してくれたようだった。
「おれ様はずっとここにいるから。いつでも掛かって来ていいよ」
返事はなく、ヨハンは扉から廊下に出ていく。
嫌な空気が充満する廊下を抜けて、二人は屋敷を後にする。
途中で擦れ違った如何にもガラの悪い男達はラニーニャをにやにやと笑いながら見たり、口笛を吹かれたりして彼女は更に機嫌が悪くなった様子だった。
その怒りが爆発する前にどうにか玄関から外に出ると、いつの間にか姿を消してたテオフィルが立っていた。
「駄目だったみたいですね」
「そうだな。折角案内してもらったのに、すまない」
「いいえ。そうなったら僕はこれまでの生き方をするだけですから」
その物言いをヨハンは特に気にも留めなかったが、先程からずっと我慢していたラニーニャの中で、遂に何かが爆発した。
「貴方のように状況を判っていながらなにもしないような人がいるから、しなくてもいい苦労をする羽目になったんですけどね」
「酷いな~。でも事実だから、何も言い返せませんね」
「このっ……!」
今度は我慢できず、カトラスを抜いたラニーニャを、ヨハンは背後から抑え込む。
「やめろラニーニャ。テオフィルに罪はない」
「でも、こんな……! こんな人達ばっかりだから!」
「いやー、ははは。僕だって頑張ってるって言っても信じてもらませんよね? アレクセイさん、本当に強いですからね」
「だからって!」
「ラニーニャ、いい加減にしろ。テオフィル、すまないが」
「ええ、はい。僕は戻った方がいいですよね」
寂しげに笑って、テオフィルは屋敷の扉に手を掛ける。
両開きの扉を開けはなって中に入る直前、テオフィルはこちらを見て力なく笑った。
「アレクセイさんが正しいとは思いません。でも、やっぱり人から奪って、傷つけて、それを心の拠り所にしてる人も大勢いるんですよね。哀しいことに」
それを止めるために、ヨハンは努力しているのだが、今ここで高らかに言えるほど厚顔無恥ではない。
事実、ヨハン一人ではこの場の誰も救うことができないのだから。
扉が閉まり、暫くしてようやく落ち着いたラニーニャは、静かに呟く。
「……もう落ち着きました。離してください。セクハラですよ。色々な人に言いふらしますよ」
「それは勘弁してくれ」
静かに抑えていた腕を解く。
落ち着いたのか、ラニーニャはゆっくりとヨハンから離れていくが、何も言うことはなかった。嫌味の一つでも覚悟はしておいたのだが。
「恥ずかしいところをお見せしました」
「いや、恥ずべきは俺の方だ。余計な、小難しいことを考えるのに夢中で奴の言葉に自分の答えをぶつけることができなかった」
「それはそうでしょう。よっちゃんさんまで感情的になったらわたし達はお終いですよ」
「まあ、それも確かに」
納得すると、ラニーニャはくすりと笑う。
「それから」
ある言葉を言うべきかどうか迷ったが、口にしておくべきだと判断する。
「アレクセイに対して俺のことで声を荒げてくれたこと、嬉しく思う」
「……でしょう? 一応は親友の旦那様候補ですからね。と言うわけにはいきません。ラニーニャさん、できる女ですよね?」
そう言って、ラニーニャはヨハンに背を向けて街道を歩いていく。
彼女が一歩踏み出すと、昨晩の雨からまだ続く曇り空から、水滴が落ちてくる。
「また振って来たな。急ぐか」
「そうですね。アーちゃんさん達の方もどうなったか気になりますし」
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