第五節 二人の共同作業
それから一日療養のための休みを貰って二日後、サアヤは朝の爽やかな気分と共に執務室の扉を叩く。
部屋の中から気持ち元気のないヨハンの声が聞こえてきたが、きっとまたアーデルハイト辺りと喧嘩したのだろう。
そう思って、尚更元気付けるために勢いよく扉を開いた。
「おはようございま……」
サアヤは絶句する。
いつもの机は見えなかった。ヨハンは埋まっていた。
「おはよう」
「何ですかこれ!?」
何も土や砂に埋まっているわけではない。
部屋の中にこれでもかというほど堆く積み上げられたそれは、書類の山だ。
ヨハンはどうにか目の前のそれを退けて顔を出すと、重々しい溜息をついて説明を始める。
「昨日一日、保護したエトランゼの手続きで戸惑っていたら、今朝のこれだ」
「これって全部……」
「祭り関連のことだな。屋台の出店、出し物の許可、それから当日の警備に付いて。他にも雑用を数えればキリがない」
言いながらヨハンは書類を読み、サインを書いて分けていく。その速度は尋常ではないが、それでもこれが一日で終わるとは思えない。
「加えて来客予定も山ほどある」
「これって」
「ああ。全部、今日までに終わらせなければならないものだ」
本来ならば昨日と二日がかりでやるものだが、昨日はほぼ一日が潰れてしまっていたのでそのしわ寄せが来ていると言うわけだった。
元々祭りをやること自体が急に決まり、スケジュール的にも無茶があるのは承知の上ではあったがこれは予想外の事態だった。
「て、手伝います!」
腕まくりをして、既に処理が終わっているであろう書類を来客用のテーブルに運ぶ。
「助かる。こっちを頼む。判らないことがあったら聞いてくれ」
「はい!」
ヨハンに渡された書類を眺めて、同じようにサインを書いていく。駄目そうな場所は相談しながら修正案を書き込み、後で差出人と相談しなければならない。
そうして二人は時に弱音を吐き、時に励まし合いながら、大量の書類との戦いを開始したのだった。
▽
「これで……最後ですね」
「……ああ」
夜も深けたころ、ようやく全ての書類が終わり、二人は同時に身体を伸ばした。
執務机の後ろにある大きな窓から見える景色はもう真っ暗で、灯りが付いている場所はほんの少ししかない。
青白い月の光に背を向けて部屋の中のサアヤを見ると、彼女は書類を纏めてヨハンの机の上に重ねていた。
後はこれを明日提出すれば大方の仕事は終わる。まだまだやることは沢山あるが、ヨハンとして一つの山場を越えたと言ったところだ。
「お茶、煎れてきますね」
「頼んだ」
そう言ってサアヤが部屋を出ていく。
この時間ならアーデルハイトももう寝ているし、夕飯は夜でも開いている酒場にでも食べに行くしかないかと考えていた。
その場合、ヴェスター達をどうやって避けるかが命題となる。先日は結果的にはサアヤを助けることに繋がったが、一人で飲みに出たところを見事に連中に捕まってしまったのだった。
妙にサアヤが戻ってくるのが遅く、様子を見に行こうかと椅子から立ち上がろうとしたところで、ちょうど部屋の扉がノックされた。
「あの、開けてもらっていいですか?」
言われるままに扉を開けると、お盆を持ったサアヤが立っていた。
片手に持ったお盆の上には皿の上にいい香りのするパンとチーズ、それから焼いた鶏肉が乗せられている。
もう片方の手には見覚えのある瓶と、グラスが二つ持たれていて、そちらに視線を向けるとサアヤは恥ずかしそうにはにかむ。
「ちょっとだけ飲みませんか?」
「……そうだな」
仕事の終わりは開放感がある。明日は書類を出すだけだし、少しぐらいは夜更かししても問題ないだろう。
そう考えて、ヨハンは自分の席に戻ろうとすると、来客テーブルの上に酒と料理を置いたサアヤが服の裾をつまんで止めた。
「そんな遠くで飲むなんで寂しいじゃないですか」
「いや、しかしな……」
来客用のテーブルに、ソファは片側しかない。そこに座れば、自然とお互いはすぐ傍で密着することになる。
「大丈夫です。わたしは問題ありません」
「……これはよくない兆候だな」
判っていながらもヨハンも男だ。好いてくれる女の好意に真っ向から逆らうことはできそうにない。
ソファに座ると、サアヤはやはりその隣に腰かけてグラスを手渡してくる。
そこに景気よく酒を注ぎ、自分の分にも手早く注いだ。
「それでは、かんぱい」
かちんと、小さくグラスがぶつかり合う音が暗い部屋の中に響く。
それから二人は同時にその中にある液体に口をつけた。
「ん。甘い」
「甘いな」
「サクランボのお酒みたいですねー。なんか懐かしい味がしますね。あ、料理も食べてください。簡単なものしかありませんけど」
「いや、助かる。ちょうど夕飯をどうしようか悩んでいたところだったからな」
チーズを乗せたパンを齧り、香辛料で辛めの味付けがされた鶏肉を口に運ぶ。
甘い酒にはそれほど合わないが、料理単体で見れば充分に美味しい。つい食事が進んでしまい、一気に半分ほどを食べてしまっていた。
「いい食べっぷりですね」
「腹が減っていたし、何よりも美味いからな。残りはサアヤが食べてくれ」
「わたしはちょっとつまみ食いしちゃったんで大丈夫ですよ。お酒でも飲みながら、ゆっくり二人で食べましょう」
彼女の言葉に頷いて、今度は酒を交えながら少しずつ料理をつまんでいく。
そうして小一時間ほど経った頃だろうか、そこでようやくヨハンは仕事終わりの開放感と疲労から自分の観察眼が鈍っていたことに気が付いた。
サアヤの様子がおかしい。顔は赤く、いつもよりもぽーっとしている。
対する自分も、それに気付かないほどに思考が緩くなっていた。
「ほらー。ヨハンさんお酒が進んでませんよー。もう一杯飲みましょー」
とくとくと注がれる酒。
まだ瓶の中にはかなりの量が残っている。どうやら甘みに騙されたが大分アルコール度数が高いようだ。
「えへへー。自分にもお酌ー」
「サアヤ。あまり飲み過ぎない方がいい」
「だいじょーぶですよー。ぜーんぜん問題ありません。だってわたしは大人ですからー。二十歳以上なのでー合法でーす」
「いや、だからと言って飲み過ぎは……」
「もー! なんなんですかヨハンさん! わたしはー、自己判断で行動できる大人なんですよー。免許も持ってますしー、あれ?」
ぽんぽんと身体を叩いても当然出てくるはずもない。
「そう言えば異世界でした」
にへっと笑って、しなだれかかってくる。
「ん」
こくこくとグラスの中を空にして、次に手を伸ばそうとするが、流石にそろそろ拙いであろうとヨハンは彼女から酒瓶を取り上げる。
「あー! 返してください! なんで意地悪するんですかー!」
「これ以上飲むな」
「そんなこと言ってー。知ってるんですよ、わたし。ヨハンさんの弱点」
テーブルの上にグラスを置いて、来ている服の胸のボタンを外す。
下着が見えた状態で再びサアヤは、その身体をヨハンに預けた。
火照った身体と彼女の柔らかさはヨハンの理性を刺激するが、その程度で負けるほど軟なつもりはない。
「お、ね、が、い」
潤んだ瞳で見上げながらそう口にする。
魅力的でなおかつ蠱惑的なのだが、普段の彼女がこのことを覚えていたら明日の朝どんな反応をするのだろうかと、そんなことばかりを考えていた。
「駄目だ」
「むー! なんで駄目なんですか! わたしが大人だからですか? やっぱりヨハンさんは小さい女の子が好きなんですか!」
「なんでそうなる?」
「侍らせてるじゃないですか。カナタちゃんとか、アーデルハイトさんとか」
「別に侍らせてはいない」
「でも、ちょっと嬉しいんでしょ? 頼られたり、ご飯作ってもらったりして」
「……それはまぁな」
「ほらー! ロリコン、変態、ヘタレ、むっつりすけべ!」
ぐりぐりとヨハンの太ももに頭を押し付けながらそんなことを叫ぶ。
一頻り騒いで落ち着いたのか、今度は仰向けにヨハンに寄りかかりながら、サアヤは料理の皿を手に取って自身の腹の上に乗せ、そこから掴んだパンをヨハンの口に寄せる。
「はい。あーん」
「サアヤ。いい加減に」
酔っ払いの相手は疲れる。
ヴェスターの襲撃を受けたときは軽い殺意が沸いたが、サアヤにこうなられると普段から世話になっているだけに困惑の方が勝る。
「あー、いい気持ちです」
当の本人が楽しそうだから、そんな毒気もすぐに抜かれてしまうわけではあるが。
「これが元の世界だったらなー」
その言葉は、優しい刃だ。
両の刃で、ヨハンもサアヤ自身をも傷つける。
それでも、例え酔いに任せたとしても彼女がそれを口にしたのは、清算しておく必要があったからだろう。
弱音を吐いてしまう、弱い自分を。
「ヨハンさんと一緒にお酒飲んで、一緒に仕事して……。うん、きっと楽しい毎日ですよ」
「……かも知れないな」
「なーんちゃって!」
しんみりした空気を吹き飛ばすほどの勢いで、サアヤは顔を上げた。
ソファの上に膝を付けて座って、向けるその表情は笑顔だった。
「判ってますよ。そもそもこの世界に来なかったら、ヨハンさんに会えなかったって。それに、わたし結構この世界好きですから」
「……そう言ってもらえると助かるな」
「そこは優しく抱っこしてくれるところですよ!」
言いながら、再びヨハンに倒れ込んでくるサアヤ。
ヨハンがそうであるように、触れたところから伝わる体温が心地よいのだろう。
頬を腕の辺りに押しつけるようにして、甘えた声で言葉を続ける。
「ほんとに、駄目駄目です」
「一応言っておくが、それなりに傷つくぞ」
「知ってます。普通の人だってことも、それでも必死でやってるってことも。だって、好きな人のことですもん」
「……そうか」
「別に強くなくても、格好良くなくても、わたしのことを好きになってくれなくても……好きなんですよ」
「そう言うものだろう。俺が言うのもおかしな話だが」
「口ばっかり。でも、好き」
甘い囁きが耳から心に染み込んでいく。
サアヤの言葉一つ一つが、じんわりと心を包み、そして溶かしていく。
これは毒だ。甘いが、一度溺れればもう抜け出すことはできなくなる。
「サアヤ。すまないが」
だからヨハンは線を引く。
彼女の想いが嬉しくて、そして恐ろしいから。
「判ってます。判ってますよ、判ってるんですよ。いいじゃないですか、酔っぱらった時ぐらい。明日からは普通のサアヤです。普段通りのわたしに戻ります。だから、今だけ」
ぎゅっと、身体にしがみつく力が強くなる。
当たる息が熱い。
それは怖いが、少しも嫌ではない。
一歩間違えれば全て受け入れてしまいそうなほどに温かく、心地よい想いだ。
「……う」
そこで、それまでの甘い空気からは想像できないほどに低い声がサアヤの口から零れた。
「急に動いたから……。なんか、気持ち悪……」
「おい、やめろ、耐えろ!」
それから起こったことはサアヤの名誉のために、ここでは語らない方がいいだろう。
そしてその翌日、すっかり力尽きて執務室で眠りこけていた二人は第一発見者のアーデルハイトに厳しい追及を受けるのだが、それはまた別の話である。
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