第四節 夜の中の来訪者達
夜もすっかりと深け切った頃に、その飲み会は解散となった。
クレアは後は帰って寝るだけだが、サアヤには明日の仕事がある。無理をして寝坊するわけにもいかない。
そうは思いつつも、酔いに思考を支配されているサアヤは、いつもならばすぐに家に帰るところを少し寄り道してみようなどと、柄にもなく考えた。
空に大きな紅い月が上がっていたのも、彼女にそうさせた理由の一つにはなるだろう。
「紅い月……。懐かしいなぁ」
ふらふらと彷徨うサアヤはやがて街を出て、イシュトナルの北に広がる何もない草原に出ていた。
紅い月の夜に、エトランゼはこの世界に現れる。
元の世界で彼等がどうなっているか、残された者達が何を思っているかは誰にも判らない。
後から来た者に聞いても、行方不明の知らせなどは出ていないというのだ。
その理屈も、理由も不明。ただ彼等はこの地に現れて、ギフトと呼ばれる力を与えられる。
「……帰れるのかな、わたし達」
既にその結論はサアヤの中で半ば出ていたものだった。
それでも帰れるのならば帰りたい。家族の待つ世界へ。
地を照らす星々と、負けじと不吉な輝きを見せる紅い月。
そのコントラストは不気味でありながらも幻想的であり、危うい美しさを放っている。
そんな景色に涙腺を刺激されてか、サアヤの目から涙の線が頬に走る。
それから少しの間、サアヤはぼうっとそのまま佇んでいた。
そんな静寂が破られたのは、少し離れたところで誰かが駆ける足音が複数と、悲鳴のような息遣いが聞こえたからだった。
サアヤは急いで小高い丘に駆け上がり、祖見晴らしの良いそこから周囲の様子を確認する。
「……いた」
軽装備の賊が三人。追われているのも三人。
獲物を嬲るように追い詰めるその姿を見て、サアヤの頭の中が怒りで染まる。
冷静な彼女だったのなら、そこで誰か助けを呼びに言っただろう。
しかし、酔いが正常な判断を鈍らせた。或いはそれでは間に合わないと、無謀な選択を取らせた。
走るうちの一人が足を取られて転ぶ。
その隙に追いかける賊は囲みこむように包囲して、武器をチラつかせて包囲を狭めていく。
「やめなさい!」
駆け寄ったサアヤの声を聞いて、その場の全員が彼女に注目する。
武器を持つ男達の恐ろしさに身が竦むが、今ばかりははったりを利かせてでもこの場を凌ぐしかなかった。
せめて追われている人達が逃げる隙を作れればそれでいい。
「イシュトナルの者です。そちらの方達はこの世界に来たばかりのエトランゼですね? ここはエレオノーラ様の治める地。勝手は許しません!」
「ちっ、邪魔が入ったか」
「どうする?」
「女一人だ。纏めて連れてっちまえ!」
サアヤの言葉は逆効果だったようで、彼等は武器を抜いて、こちらを威圧してきた。
それに対して、足に来る震えを堪えつつ、サアヤは負けじと声を張り上げる。
「わたしにはギフトがあります」
サアヤのギフトは戦いの役に立つものではない。
それでも自身さえ崩れなければ、相手が勝手に勘違いをしてこの場を退いてくれる可能性がある。それほど、エトランゼのギフトとは恐ろしいものだ。
「残念だったな! おれ達もエトランゼなんだよ!」
月明かりによって生まれた男の影。その腕の部分が伸びて、直立する。
それは黒い人型になったかと思うと、その手に持った影の短剣を持ってサアヤに斬りかかった。
「そんな……!」
致命傷は避けたが、どうやら相手はわざとサアヤをいたぶるつもりのようだ。
必死になって影の攻撃を避けながら、こちらの様子を見てにやにやと笑っている男達に怒声を浴びせる。
「エトランゼならどうして! 同じ世界から来た人達を傷つけるような真似を!」
「関係ねえよ! この世界で生きるためだ! 他人を食い物にするしかねえだろうが!」
「……そうならない世界を目指してるのに……あうっ!」
サアヤの肌に、朱色が走る。
最初は腕、痛みで動きが鈍るや今度は足を狙う。
辛うじて動けなくなることは避けたが、無茶な耐性で避け続けたためにサアヤはバランスを崩して草むらに転がった。
「なにがそうならない世界だ! そう言うのは、飯を食うのに困らなかった運のいい奴の戯言だ!」
「だとしても! これからこの世界に来る人を傷つけていい理由には!」
「うるせえ!」
影がサアヤの身体を上から抑えつける。
「お前等! そいつらをちゃんと見張ってろよ! おれはこの女に痛い目見せてやる!」
刃物を携えて、そのエトランゼはサアヤへと近付いてくる。
どうにか逃げようともがくが、影が抑え付ける力は強く、サアヤの腕力では抜け出せそうにない。
「へへっ。抵抗してくれた方が見世物としては面白い。まずはその生意気な面を!」
男が手を振り上げる。
殴って抵抗する気を奪おうというのだろう。
襲いくるであろう痛みに耐えるために、サアヤは歯を食いしばって、目を閉じた。
「な、なんだぁ!?」
だが、予想とは裏腹にサアヤの耳に届いたのは男の驚愕する声だった。
恐る恐る目を開けると、薄青色の半透明の液体のようなものが男の手に巻きついている。
まるでスライムようなそれは自在に形状を変えて、男の邪魔をするように纏わりついていた。
「この、なんだ、こいつ!」
手に持った剣で斬りつけても、二つに増えてすぐにまたくっつく。その間に地面にある本体が、男の足へと絡み付き引っ張るようにして転倒させた。
「こ、こっちに来るぞ!」
それだけではなく賊の仲間達にも襲い掛かり、彼等はその対応に追われてエトランゼ達への包囲をすっかり解いていた。
いつの間にかサアヤを抑えつける影も消えている。
すぐに立ち上がり、エトランゼ達の元へ走った。
一番近くにいた、恐らくは高校生ぐらいの女の子の手を握る。
「こっちへ! 貴方達も早く!」
「逃がすか! うわ、こいつ……!」
追いかけようとするが、賊達は謎のスライムに邪魔されて上手く行かない。剣を振るっても致命傷にはならず、捕まえようとすればするりとその手の間を擦り抜けるそれを無力化するのは至難の技だ。
エトランゼ達に有無を言わせぬまま、サアヤは彼等との距離を離すために方角も確認せずに一気に走り出した。
▽
どうにか賊との距離を稼ぎ、近くにあった雑木林へとその身を滑り込ませたサアヤ達であったが、これで事態が解決したわけではない。
「はぁ、はぁ」
荒い息を吐きながら、一番年下であろう少女が木々を背にへたり込む。
残りの二人、片方は中年の男。もう片方はサアヤと同じぐらいの年齢の女性だったが、彼等も状況を完全に把握できずにこれが現実であるとは信じられていないようだった。
「あの」
「映画の撮影かなんかかよ? おれはエキストラか? だったらまずは話を」
「そうよ! それに今何時? 急にこんなところに連れてきて、ドッキリだか何だか知らないけど明日の予定だって……」
そう口々に言う二人を宥めながら、サアヤは状況を説明する。
途中で挟まれる質問にも丁寧に答えながら、彼等ここが異世界であること、元の世界の住人はエトランゼと呼ばれていること。――そして、帰る方法はないことを伝えた。
それを聞いたエトランゼ達の反応は以前のサアヤやその周囲にいた人々と同じだった。
片方は嘆き、これが夢でないと確認するやもう片方のエトランゼの男はサアヤに食ってかかる。
「ふざけんなよ! 異世界だって? 非現実的にもほどがある! だいたい、本当にここがそうだとしたら……」
夜の闇の中に、梟のような鳥の声が響く。
風が木々を揺らし、草木の香りが強く鼻に付く。
そして空に浮かぶ紅い月。
それが否が応にもここが彼等がこれまで過ごしてきた世界とは違う場所であることを教えてくれた。
「……お気持ちはお察しします。わたしもそうでしたから」
「じゃあ、あんたもそうなのか? 突然違う世界に連れて来られて、それで納得してここで暮らしてるってのかよ?」
「全部が全部納得しているわけではありません。でも、エトランゼに対する生活も保障されてきているし、どうにか生きていくことはできますから」
「それではいそうですかって理解しろってのかよ! おれは昨日まで会社もあって、家族だっていたんだぞ! それが、それが……!」
「そうよ! だいたいあんた一人で落ち着いてるけど、本当は帰る方法を知ってるんじゃないの!」
容赦なく、彼等は言葉を振るってサアヤを傷つける。
それは無理もないことだ。
こんな理不尽に晒されて、何にも八つ当たりをせずにいられるわけがない。
この場合は目の前にいる、状況が判っている上で落ち着いているサアヤが一番適任だっただけの話だ。
なおも怒りの言葉を浴びせかけようとする二人を、その間から聞こえてきたか細い声が遮った。
「ひっ、ぐ。ぐす、帰りたい……。お母さん、お父さん……」
それまで黙って呆然としていた少女は、サアヤ達が話していた言葉の意味を少し遅れて理解したのだろう、最早堪えることもせずに涙を流していた。
それを見て二人も思うところがあったのか、一先ずはサアヤへの追及をやめた。
月の光だけが頼りの闇の中、暫くの間少女のしゃくりあげる声が響き渡る。
これはもう、本当にどうしようもないほどに残酷な現実で。
家族と離れ離れになって、永遠に会えないかも知れない彼女を慰める言葉などありはしない。
その姿はいつかのサアヤによく似ていた。
この世界に来て、全てが現実だと悟って、誰かを責めるわけでもなく。
そんな気力すら沸かずに、泣いて過ごした日々があった。
そしてそれに終止符を打ってくれたのが、今はもうない力を持っていた、名無しのエトランゼであった彼だった。
圧倒的なまでの力は大きな希望をくれて、その時に掛けてくれた言葉は例え本人が覚えていないとしてもサアヤの心の支えとなり続けた。
だから、今度はサアヤが誰かにそれをしてあげる番だった。
かつて憧れて、今は想いを寄せるその姿に少しでも近付くために。
少女の前に屈みこむと、頬に優しく触れてその頭を胸に抱え込むように抱きしめる。
子供の頃怖いことがあったとき、嫌なことがあったとき、よく母親にこうしてもらったのを思い出しながら。
「大丈夫。大丈夫だよ。わたしが護ってあげるから。酷い目には合わせない、絶対に」
不安を抑えつけるように、少女はサアヤの胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。
サアヤは彼女が落ち着くまで、ゆっくりと頭を撫でながら胸を貸してあげることにした。
そして、彼女が少し落ち着きを取り戻すのを待ってから、サアヤは抱きしめていた手を離す。
そこでサアヤは、少女の手足に小さな切り傷が幾つもあることに気が付いた。
きっと走っている最中に鋭い葉っぱにでも触れてしまったのだろう。怪我は大したことないが、化膿してしまったら厄介なことになる。
「怪我してるね。ちょっと待ってて」
怪我をした部分に手を翳して意識を集中させる。
サアヤの掌が淡い光に包まれて、少女の怪我があっという間に癒えていく。
「暖かい……」
「な、なんだそれは!? そう言えばさっきも影みたいなのが動いてたよな?」
傷が消えたのを確認すると、サアヤは立ち上がって驚いた顔でこちらを見ている二人に向き直る。
「今のはギフトと言って、この世界に来たわたし達、エトランゼが持っている力です。誰にどんな力があるかは判りませんけど、きっとこの世界で生きていくための力になるはずです」
そう説明すると、後ろから少女の細い声が聞こえてくる。
「わたしにも?」
「うん。貴方にもあるよ。だからあんまり悲観しすぎないでね。もし困ったことがあったら、わたしがなんでも相談に乗るから」
そう言ってから、手を引いて少女を立たせる。
「まずはわたし達の街に向かいましょう。逃げたときに離れてしまいましたけど、一時間もしないうちに……」
サアヤの声が、辺りから聞こえてきた足音によって遮られる。
諦めてくれたとは思わなかったが、想像よりも早く居場所を特定されてしまった。
それも数は三人ではない。先程よりも多くの人の気配が辺りを取り囲んでいる。
サアヤの表情が引き結ばれたのを見て、エトランゼ達も何かを察したようだった。
「お、おい……」
「……大丈夫です。街の近くに行けば彼等は手出しできません。わたしの後ろから離れないように」
少しばかり落ち着き過ぎていた。
そればかりはサアヤの落ち度だか、時間を掛けなければ彼等をこの場から動けるぐらいに冷静にさせることはできなかっただろう。
こうなったら、例え自分を囮にしてでもこの場をどうにかするしかない。
覚悟を決めてサアヤは暗闇の中から姿を現した賊の前に立ちふさがる。
その中心に立っていたのは、先程の影使いのエトランゼだった。
「舐めた真似してくれたじゃねえか」
「やっぱりエトランゼを襲いますか? 私利私欲のために、同じ世界から来た同胞を」
「はっ。なにが同胞だよ。だいたい、そいつらはお前と出会ったことで手厚く介護されるんだろ? その時点でおれ達とは違うだろ。奴隷同然の生活をして、そこから漸く逃げ出したおれ達とはよ!」
「……だからって、それを他の人に押し付けるなんて理屈が!」
「あるんだよ、確かにな! いいかい育ちのいい嬢ちゃん、覚えときな。世の中には自分が受けた不幸を誰かに押し付けたい奴もいるってことをな」
「そんなことしても何にもならないじゃないですか!」
「なるね。気分が晴れる。こんなくそったれな、ろくに娯楽のない世界に来ちまったんだ、それだけあれば充分さ!」
これ以上話しあうつもりはないようだった。
男が顎で指すと、周囲を囲んでいた賊達が一斉に包囲を狭めてくる。
いずれも武装したエトランゼ。ギフトを持っている彼等を無力化するのはサアヤにはどう考えても不可能だった。
相手もサアヤの持つギフトを警戒しているのか、一気に近付いてくるような真似はしない。
「やっちまえ! この数だ、負けはしねえ!」
焦れた男が号令すると、一気に距離が狭まる。
剣や斧を持って殺到する男達を止める手段などはない。
サアヤはどうにか身を盾にしてでも彼等を止めようと立ち塞がるが、斬り伏せられるのは一瞬だろう。
そこに再び、例のスライムのような物体の介入さえなければ。
「こいつ、また……!」
サアヤの目の前に迫った男の腕にスライムは絡み付き、手首を捻るようにして武器を取り落とさせる。
そのまま足を払って転倒させると、顔に覆い被さるようにして酸素を奪った。
どうにか自由になろうと足掻く男だが、思ったよりも強固な拘束は解けない。
その間に迫る二人にも、それは身体を伸ばして反抗する。
地面から木々の上に、そこから枝を撓らせて自身を弾丸として発射する。
礫となったスライムは頭上から男達に降り注ぎ、彼等に痛手を与えた。
「何なんだよこれは!」
男は再び影を呼び出して、挟み込むようにスライムを捕らえに掛かる。
しかしその間を器用にするりと抜けると、助走をつけた体当たりで男の身体と影を押し返す。
「ちっ、面倒な!」
だが、決定的に威力が足りない。
スライムの攻撃は足止めにこそなるが、致命傷を与えることはできない。精々、時間を稼ぐことが精一杯だった。
「火を使え! 燃やしちまえばこんな奴!」
炎の操るギフトの持ち主がいたのだろう。道具を使うまでもなく矢に火が点火され、スライムに降り注ぐ。
身体を千切って小さくなって逃げるスライムだが、炎に炙られてその身体は蒸発するように消えていく。
サアヤに狼狽えている時間はない。あれが何者なのかは判らないが、少しでも時間が稼げている間に距離稼ぐ必要がある。
「こっちへ!」
三人のエトランゼを誘導するように逆方向に駆け出すサアヤだが、その足は数歩踏み出したところで止まったしまった。
駆け出そうとした方向から更に数名、賊が迫って来ている。
「同じ手を二度も喰うと思ったかい? お嬢ちゃん!」
「むぐっ……!」
音もなく近付いてきた影が手首を捻り上げ、サアヤの身体を拘束して地面に転がす。
「お姉さん!」
「動くなよ! 動けばこの嬢ちゃんを殺す」
少女の叫びも空しく、サアヤの首筋に影の刃が当てられる。
エトランゼ達には最早どうすることもできなかった。
「やれやれ。苦労させてくれたな。まあ、エトランゼが三人に色々使い道がありそうな嬢ちゃんが一人。それなりに見合った価値はあったか」
賊の男は勝ち誇った顔で、わざわざサアヤの傍に屈みこむとその髪の毛を引っ張り上げた。
「残念だったな、綺麗事が達者な嬢ちゃん。なあに、すぐにお前もこっち側にしてやるよ」
下卑た笑いを浮かべて、サアヤの身体を抱え上げようとする男。
刃が一閃し、その両手首から先が消えたことに気が付くのに、その場も誰もが一秒以上の時間を要した。
「ふへ……?」
空気が抜けるような間抜けな声が、男の口から漏れる。
「おいおい、勝手にうちの看板娘を持ってくなよ。なぁ、ヨハン?」
金色の獣が、いつの間にかそこに立っていた。
肩に抱えた黒い剣が、紅い月の輝きを照り返し不気味に光っている。
「そうだな。執務に支障が出る」
「理由はそれだけかい?」
足音が幾つも響く。
ヴェスターとヨハンだけではない。サアヤも、賊達の誰もが気が付かないうちに立場は完全に逆転していた。
ろくな武装こそしていないが、イシュトナルにて厳しい訓練を受けている兵が十名以上、この場を取り囲んでいた。
「ヨハンさん……? どうしてここに?」
「少し飲み過ぎだぞ。あまり心配させるな」
いつの間にか動く影は消えて、ヨハンはサアヤに肩を貸すようにして助け起こす。
「で、どうすんだい大将? こいつらはエトランゼだが?」
ヴェスターには答えず、ヨハンは狼狽える賊達を見て声を上げる。
「武器を捨てて投降しろ。そうすれば命は奪わない。もし抵抗か逃亡の仕草を見せれば、即座に殲滅も厭わない。無抵抗の者を襲った自分達にこれ以上の情けがあるとは思わないことだ」
普段サアヤが聞いている彼の言葉からは想像もできないほどにヨハンの声色は冷たい。
それが今の言葉が脅しではないと、賊達にはっきりと伝えていた。
それからの賊の行動は素早かった。
炎を操るエトランゼが一気に火炎を巻き上げて、辺りを炎で包み込む。
「決まりだ。ヴェスター、ゼクス」
「おうよ」「久々の出番だね」
陰から湧き出るように、ヴェスターの他にもう一人の男が返事をして、すぐさま地面を蹴ってサアヤの視界から消えていく。
ヴェスターも同じように、逃げようと駆ける出した賊へと躍りかかった。
それに習ってイシュトナルの兵達も追撃を開始する。
ヨハンはそれを見届けてから、懐から取り出した水晶を上に放り投げる。
まるでスプリンクラーのようにそこから水が降り注ぎ、瞬く間に炎を消火してしまった。
「俺達は帰るぞ。そちらのエトランゼ、貴方達をイシュトナルで保護する。治療と説明が済んだら余計な拘束はしないことを約束する。何処かに行くも、イシュトナルで暮らすも貴方達の自由だ」
そう言ってヨハンが手を差し伸べると、三人のエトランゼは彼が悪人でないことを理解したのか、恐る恐るではあるがその手を取った。
「ようこそエトランゼ。彼方の世界、イシュトナルは貴方達を歓迎する」
できるだけ安心するように柔らかい声色で言ってから、ヨハンは彼等を先導するようにサアヤに肩を貸したまま先だって歩きはじめた。
「ヨハンさん。どうしてここに?」
「……やっぱり気付いていなかったか」
呆れたように溜息をつくヨハン。
今お互いの距離は限りなく近いのだが、未ださっきの恐怖から立ち直りきれていないサアヤにはそれを喜んでいるような余裕はない。
ただ、そこに感じる確かな安堵感から彼の傍を離れたくないのも事実だった。
「随分と飲んでいたみたいだからな。同じ酒場にいたのにも気が付かなかっただろう」
言われてみれば、視界の端に確かに酒を飲んで騒ぐヴェスターの姿は見えていた。どうやらその集まりの中にヨハンもいたらしい。
「飲み過ぎたお前が郊外に行くのは見えてな。失礼だと思ったが、後を付けさせてもらった。こいつがな」
足元の草の上を何かが這いずっている。
掌に乗るほどに小さくなってしまったそれは、先程サアヤを助けてくれたスライムだった。
それはヨハンの靴の上に乗り、そこから這い上がって彼の肩からサアヤの肩へと乗り移る。
「ギフトと言うか、錬金術の応用で生み出したアルケミック・スライムだ。あまり頭はよくないがほぼ生き物と同じように動くし、多機能に作ってる。……まあ、勝手に後を付けさせたのは悪かったが」
「いえ、そんな。でも声ぐらいかけてくれてもよかったのに」
「この現状を見るに、その方がよかったな。危険はあったし言いたいこともあるが、一応はお手柄だ」
ヨハンの意志を現すように、スライムは身体を伸ばしてサアヤの頬に付いた汚れを撫でて拭き取る。
「護ってあげたかったんです。わたしは弱いし一人じゃ何もできないけど、それでもこの世界には絶望ばかりじゃないって。そう、教えてあげられたでしょうか?」
「……どう伝わるかも、解釈されるかも判らない。或いは偽善と取られるかも知れないが、それでも命を賭けたその想いは伝わるだろう」
いつの間にか、紅い月は消えている。
代わりに昇った蒼銀の月が照らし、星々の輝きが降り注ぐ夜空が、この世界を美しく彩っている。
エトランゼ達は呆然として、その様子を見つめていた。
現実離れした、幻想世界の入り口。彼等は今そこに立っている。
そんな美しさに引かれて、揺れる心を失わせようとした蛮行から、サアヤは確かに彼等を護ったのだ。
無意識に漏れた感嘆の声が、今の彼女にとっては大きな意味を持つ、勲章となるだろう。
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