第三節 酒池肉林プロジェクト(仮)

 その日の夜。

 家に戻ったヨハンを待っていたのは、アーデルハイトとカナタの二人だった。

「おかえりなさい。晩ご飯できてるわ。カナタ、お皿出して」

「……えー。ボク、一応お客さんなんだけど」

「貴方の頼みを受けて魔物退治に協力してあげたのは誰? 何もしてなかったくせに」

「いやー、あはは……。アーデルハイト、強いよねー。一人で全部やっちゃうんだもん」

 ヨハンのベッドに寝転がったままのカナタと、台所で鍋を掻き混ぜているアーデルハイトの話が弾む。

 例え何かをしていたとしても一度話し始めると止まらなくなるあたり、彼女達もやはり年頃の少女だった。

「むしろあの程度なら一人でどうにかしてほしいものだけどね」

「いや、ほら。別にそれでも問題なかったんだけどさ。距離がね」

「……カナタのスープは激辛」

「なんで!?」

 ハーフェンでの一件以来、アーデルハイトは自分を移動手段として使われることを過剰に嫌がるようになった。ヨハンとて乱用しているつもりはないが、便利なのは事実なのだから仕方がない。

「冗談よ。それより早くお皿出して」

「家主さん?」

 カナタの視線が入り口で立ったままのヨハンへと向けられる。

 嘆息して皿を出しに行こうとすると、それをアーデルハイトに止められた。

「甘やかすのは駄目。あなたは仕事帰りなのだから」

「いや、それボク達もだよね?」

「もっと言うと人に夕飯を作らせておいてごろごろしているその態度が気に入らないの」

「……はーい」

 元よりそれほど抵抗するほどのことでもない。カナタはベッドから起き上がると、棚に納められている食器をアーデルハイトのところに持っていく。

「なんかアーデルハイト。お母さんみたい」

「お母さん……」

「夕飯のおかずの買い物もそれっぽかったしさ。野菜とか魚の状態見て値切るなんて関西の人みたい。見たことないけど」

「そのカンサイノヒトが何を意味するのかは判らないけど、わたしは生粋のオルタリア人よ。多分」

「多分?」

 首を傾げるカナタ。

「それよりほら。盛り付けが終わったものから持っていって」

「はーい、ママ」

「次言ったら許さないわよ」

 アーデルハイトの手の中で散った火花を見て、カナタはそそくさと準備を進めることにした。昼間、あれが魔物を十匹以上纏めて吹き飛ばすところを見ているのだ。

 そして仕事帰りと言われたヨハンだが、実際のところはサアヤとデートをしてきただけなので、なんとなく居心地が悪い。騙しているような罪悪感がある。

「それで、今日の仕事はどうだったの?」

「普通だが?」

「なんで即答?」

 横合いからカナタが突っ込みを入れる。

 二人用の小さなテーブルを詰めてどうにか三人で座り、目の前に並んだパンと魚介のスープの前に舌鼓を打つ。

「会議だったでしょう? ハーフェンのことについて何か進展はあったの?」

「なんだそのことか。……いや、特にはないな。元オルタリアの貴族達は形式上エレオノーラ様に付いているが、そのやり方に賛同しているわけではない」

 ディッカーやクルトと言った例外はいるが、理解ある者達を集めての全体の四割と言ったところだ。残りの六割は利益で繋がっている間柄になるので、状況によってはこちらを裏切ることもありえる。

「所帯が増えればできることは増えて便利になるけど、そう言った問題は出てくるものね」

「そう言うことだ」

「……ボクに判らない話してる」

 拗ねたように食事に集中するカナタ。

「貴方も少しは世の中の動きを知った方がいいわよ」

「知ってるよ。ハーフェンが仲間になったんでしょう?」

「仲間って……」

 呆れたようだが、アーデルハイトは訂正しなかった。無駄だと思っているのかも知れない。

 狭いながらも温かみのある、愉しい食卓も終盤に差し掛かってきた頃、不意に部屋の扉がノックされて三人は顔を見合わせる。

 こちらから出るまでもなく、扉が弾けるように強く開かれた。

「よぉー! イシュトナル一の色魔の晩御飯を拝見に来たぜー!」

 傍若無人、遠慮など全く知らずと言った風で入り込んできたのはヴェスターだった。その後ろから慌ててトウヤと部下一名がその身柄を抑えつけようとするが、全く話になっていない。

「うへぇ。なにしに来たの?」

 心底嫌そうな顔でカナタが質問する。

 アーデルハイトは突然の訪問者の正体が判らずにフォークに人参を差したままぽかんとしている。

「おお、チビッ子! 久しぶりじゃねえか? んー、少しはでかくなったか? いや、なんか縮んでんな」

「縮むわけないじゃん! 馬鹿じゃないの!」

「ハッハッハー! おっ、これ美味そうじゃん。一個貰うぜ」

 アーデルハイトお手製の野菜のキッシュを掴んで勝手に口に放り込み、ご満悦のヴェスター。

「……この無礼者はなに?」

 流石に食卓を荒らされてはアーデルハイトも言いたいことがあるのか、低い声で尋ねる。

「うん、美味いじゃねえか! 流石ヨハンの嫁だ」

「別に嫁ではないけど……。まあ、取り敢えず彼の旧知と言うことは判ったわ。カナタ、椅子を出してあげて」

「いやいやいや、ちょろ過ぎだから! こんな人家に入れちゃ駄目だよ! っていうかお酒くさっ!」

 言うまでもないことだが、ヴェスターはすっかり出来上がっている。後ろの二名も飲まされたのか、かなり酒の匂いがきつい。

「残念! もう家に入ってるんだなー。大丈夫だって、そんなに長いするつもりはないから……よっ!」

 言うが早いかヨハンの元に向かうと、その首に腕を伸ばして抱え込む。

「何の用だ?」

「お説教だ、お説教! お前こんな可愛い嫁さんがいるのに、今日女といちゃついてただろ。いーなー、侍らせ放題で羨ましいぜ」

 今度は椅子を鳴らしてアーデルハイトが立ち上がる。

「その話、詳しく」

「おいヴェスター! あんまり迷惑かけるのは……」

 いい加減にこれ以上は洒落にならないと判断したのか、トウヤがふらつく身体でヴェスターに近付き、その身体を抱えるようにしてヨハンから引き剥がす。

「じゃ、じゃあ俺達はもう帰るから。えっと、お騒がせしましたー」

 小さな火花を散らすアーデルハイトに気圧されたのか、トウヤはぺこぺこと頭を下げながらヴェスターを引きずっていこうとする。

 しかしヴェスターもただではこの場を譲りはしない。

「おい待てよ! 本題がまだだろ。俺達の酒池肉林プロジェクトが」

「知らないよ、そんな計画!」

「……トウヤ君、何それ?」

 カナタが若干本気で引き気味になっている。

「いや、違う! 俺じゃなくてこいつが勝手に言ってるだけで……」

「お前だって乗り気だったじゃねえか! いいから離せよ、じゃないとあの話をそこのチビっ子にしちまうぞ」

 果たして何の弱みを握られているのか、そんなことは余人の知るところではないが、それを聞くやトウヤはあっさりとヴェスターの身体を放す。つまりヨハンは売られたわけだ。

「昼間サアヤとよろしくやってただろ? 楽しそうに腕まで組んでよー。大魔導師はあっちの方も大魔導ってか? はっはっはっは!」

 最早本人以外は意味不明な言葉を発して、ヴェスターは上機嫌に笑っている。

 食卓の雰囲気はそれとは真逆にどんどん冷え込んでいることに気付いていないのも彼だけだ。

「……ふーん。仕事をしている振りをして、サアヤと。そう」

「仕事サボってデートとか……。何考えてんの?」

「いや、違う。それには訳が……」

 まさかこんな何処かで聞いたような言い訳の言葉を言うことになろうとは思わなかったが、意外と人間焦ると言葉が出てこないものだ。

 その一瞬の隙をついて、ヴェスターはヨハンの服を掴むと、有無を言わせず引きずっていく。

「ってことで浮気亭主は借りてくぜー。俺がしっかり説教しとくからよ。後、酒池肉林プロジェクトの相談な」

 その早業には、カナタもアーデルハイトも反応することができなかった。

 あれよあれよという間にヨハンは連れ去られ、後には開け放たれたままの扉と二人だけになった食卓が残された。

 生暖かい風を受けながら、アーデルハイトは入り口の扉を閉めて、一言。

「やっぱり胸なのかしら?」

「いや、知らないよ」


 ▽


「おはようございます、ヨハンさん! ……顔色悪いですね」

 昨日の今日で元気もよく、サアヤが執務室にやってくる。

「おはよう。ちょうどよかった、この書類を届けてくれ。宛て先はそれぞれ書いてある」

「はい! 帰りに珈琲を入れてきますね」

 そう言ってサアヤは元気よく出ていく。

 時刻はもうすぐ昼。急ぎの書類は大半を終わらせたことになる。

 本来なら今日はこれから半休だったのだが、昨日ヴェスターが来た所為でそうもいかなくなった。

 机の中にしまっていた一枚の紙を取り出して、それを眺める。そこには酒池肉林プロジェクトと下手くそな英語で書かれている。

「酷い話だ、それにしても」

 そこに書いてあるのはヴェスターの荒唐無稽な戯言で、全く参考にする気すら起きないほどに阿呆らしいものだが、問題はそこではない。

 それが、ある催しごとに際して行われるつもりのことであることが、ヨハンの頭を悩ませていた。

「お祭り、ですか?」

 すぐ傍で声がして、慌てて顔を上げる。

 お盆を持ったサアヤがいつも通りの笑顔で書類を覗き込んでいた。

「もう戻って来たのか?」

「はい。皆さん休憩室にいたので、すぐでした。珈琲も入れてきましたよ」

 差し出された珈琲を手に取って、一口啜る。

 頭の中を少しリラックスさせて、改めて目の前の問題に取り掛かることにした。

「オルタリアでは夏の終わりにそう言った催しをしている。秋の収穫を祈ったり、エイスナハルの宗教的な意味合いだったり……まぁ、色々だ」

「適当ですねー」

「祭りなんてそんなものだろう」

「……言われてみれば、地元のお祭りの由来なんて全然知りませんね。今度調べてみても面白いかも」

 サアヤは秀才のようで、この世界の読み書きもほぼ完璧にマスターしている。

「それでまぁ、当然本国では行われるのだろうが、イシュトナルでどうするかと考えていたところだ」

 イシュトナルの住人の半分はエトランゼであるからして、そんな彼等にこの国の祭りを押し付けるのは如何なものか。

 ヨハンが頭を悩ませていると、サアヤは何処からか椅子を引っ張って来て、ヨハンの向かい側に座って自分の分の珈琲を飲み始めた。

「……ここで飲んでいくのか?」

「駄目ですか?」

「いや、駄目ではないが」

 ずず、とサアヤが珈琲を啜る。

 その唇を注視してしまったことに気付いて、ヨハンは慌てて視線を書類に逸らしたが、そこにはテーブルの上に投げ出されるように置いてあるヴェスターの謎の企画書。手早く言えば祭りの騒ぎに乗じて女の子を集めて水着で躍らせろと書いてある。

 ちなみに今日もアーデルハイトは不在である。結局昨日はヨハンも家に帰らなかったので、今から帰宅が憂鬱なのは間違いない。

「ヴェスターさんのこれ、酷いですね」

 と、サアヤも苦笑い。

「だろう。こんな馬鹿が大量に沸くことを考えると、あまり乗り気にもなれないんだが」

「これって何をするお祭り何ですか? トマトぶつけあったり?」

「普通に出店が出たり、踊ったりするらしいな。教会ではそれと別に催しもあるようだが。トマトぶつけたいのか?」

「痛そうですよね」

 適度な雑談を交わしながら、時間は過ぎていく。

 それにしても、サアヤの距離が近い。お互いに正面から顔を突き合わせている上に、事ある毎に椅子から腰を浮かせて書類を覗き込んでくるものだから、額と額がくっつきそうなほどの距離にお互いの顔がある。

「サアヤ。近いぞ」

「はい。知ってますけど?」

 それが何か、と言わんばかりに首を傾げる。

 昨日のあれがあってそれでなおこの態度。女心ばかりは理解できぬと、ヨハンはつくづく思う。

「それで、どうするんですか? お祭り」

「そこが問題だ」

 ヨハンとしては否定も肯定もない。

 先程のヴェスターの件は冗談にしても、祭りを執り行うことで一時的にではあるが人や物の出入りは倍増し、それに伴った治安の悪化が懸念される。

 それを抜きにしても祭りに関する取り仕切りは誰が行うのか。ようやく人事が行き届いてきたばかりのイシュトナルに、余計なことに割く人員はない。委員会のようなものを発足させるにしてもその中心人物が必要になってくる。

 その白羽の矢が立つのは間違いなく言い出しっぺになるヨハンだ。これ以上仕事を増やしたくないという本音もあった。

「あんまり乗り気じゃない感じですか?」

 じーっとヨハンの表情を観察して、サアヤはそこにある感情をしっかりと読み取っていた。

「……やる価値はあると思うがな」

 当然悪いことばかりではない。先日からハーフェンとの交流が始まったことにより、イシュトナルにはこれまでとは比べ物にならないほどの数の人が訪れるようになった。彼等にこの街を知ったもらうためのデモンストレーションとしては申し分ない。

 何よりも準備も含めた祭りの楽しい雰囲気は、ここ数ヶ月の間何かと気の休まる暇のなかった住民達のガス抜きとしてもちょうどいい。

 空になった二人分のカップをお盆に乗せ、サアヤは席を立つ。

 そのままヨハンの横に並び、執務机の後ろにある大きな窓から外を見つめる。

 それに習って窓から視線を向けると、要塞の門付近では多くの人が忙しそうに走り回っていた。

「あの。これって、わたしの我が儘になっちゃうかも知れないんですけど」

 やや緊張を含んだ声。

「お祭り、やりたいです。やりましょう」

 要塞から見える小さな景色の中ですらも、人々は忙しなく日々を過ごしている。

「子供の頃、お祭りとかあると楽しみだったんです。本当に待ち遠しくて、楽しみで眠れなくなっちゃったり」

 そう言って、苦笑するサアヤ。

「この世界に来て、いつも忙しくて、みんな毎日を生きるのに必死で……。それは仕方ないって、そうするべきだって判るつもりだけど、でも」

 伸ばされた手が、懇願するようにヨハンの手に重ねられる。

「家族とか友達とか、恋人とかと思いっきり楽しめる一日があってもいいかなって……思うんです」

 それは、盲点だった。

 イシュトナルのこと、周囲との関係性、自分が請け負うべき仕事量。

 そんなことで損得勘定をして、もっと大切なことを見逃すところだった。

「……そうだな。前向きに検討してみよう」

「いいんですか? ヨハンさんの仕事、増えちゃいますよ?」

「別にいい。御使いと戦ったりするよりは気も楽だからな。力で何かを捻じ伏せる以外のことができるのなら、それが一番だ」

 サアヤは顔を綻ばせて、ヨハンの腕に抱きついた。

「ありがとうございます! わたしもお手伝いしますから、絶対に成功させましょう!」

「ああ、それは判ったから……。少し離れてくれ」

「はい! 嫌です! これは親愛の証ですから! 簡単には離しません!」

 心底嬉しそうにそうされては、それを無理矢理振りほどくなど、とてもではないができそうになかった。


 ▽


 それからの数日間は一言で言えば、洒落にならないほどに忙しかった。

 エレオノーラへの相談は二つ返事で許可、むしろ絶対に成功させるべしとのお達しを頂いた。

 そんなことは言われるまでもないのだが、それからの作業がとにかく大変だった。

 まずは人員の確保。祭りの実行委員会を発足させ、そこに人を配属するのだが、当たり前だが責任のある仕事に就けてなおかつ暇な者などそうはいない。

 結局それはヨハンが担当することになり、その下にサアヤが付いた。

 それから一般、イシュトナル関係者両方に人員を募り、政府主導の催しを考える。そこに関しては祭り自体は長年行われてきたことなので、それに習えばいい。

 だが、それだけではインパクトに欠ける。エトランゼが多い地方という特色を生かすために元々に住んでいた世界の何かを取り入れたい。

 そこで選ばれたのは花火だった。空を彩る炎の華はどうやらこの世界にはないようで、確かに夏の祭りには相応しい。

 続いては出店の管理。イシュトナルで商売を営む者達は自分の土地、または借り受けている敷地内ならばほぼ自由。外からの商人は売り上げの幾らかを徴収する形で場所を貸すことになるのだが、その管理がまた大変だった。

 彼等の要望を聞いてこちらの条件を飲ませ、それを事細かに記録して当日の店の並びを考える。

「書類、お客さん、書類、お客さん、書類、お客さんの繰り返しだよー!」

 ここはイシュトナルの郊外にある大きめの酒場。店の中と外にテーブルがあり、一日の疲れを癒す客で賑わっている。

 遠目に見える何処かで見たことのある金髪を中心とした軍関係者を尻目にして、サアヤはビールの入ったグラスをテーブルに叩きつけた。

 彼女の目の前には着崩した格好の同い年ぐらいの女性が一人。名をクレアと言って、冒険者時代からの友人だ。

 共に暁風に所属していたのだが、組織がほぼ壊滅状態になってからは同じくイシュトナルに保護されて、彼女はサアヤと違ってそこから自力で職探しをして、この酒場の店員になっていた。

 ブロンドにショートヘアの快活なクレアは、今ではこの店の看板娘としてかなりの人気を誇っている。

「大変だねー。でも充実してるんでしょ? 例の彼氏と一緒に仕事できてさ」

「彼氏じゃないもん。振られてるもん」

 わざわざ彼氏と言う呼称を使ったのは、明らかな地雷だった。

 ぐでっとテーブルに突っ伏したまま、サアヤは空のグラスを掲げる。

「お代わりー」

 近付いてきたクレアの同僚が「この人大丈夫?」と視線で尋ねるが、構わず頷き返す。

 二人分のビールに、つまみのパリッと焼けたソーセージとポテトの盛り合わせが届いたところで彼女の愚痴会は再開する。

「その振られた男のところで甲斐甲斐しく世話するって、健気と言うか、都合のいい女っていうか……。ぶっちゃけちょっと引くわ」

「……だって好きなんだもん」

 ぷくっと頬を膨らませて小声で呟く。

「それを言われちゃねえ。でもよく頑張るよ、惚れた男のためとはいえ、大変そうじゃん」

 ここ三日、ろくに寝ていないような気がする。委員会が発足されれば少しは楽になるかと思ったが、むしろ本格的に計画が始動したことで仕事の量は圧倒的に増えた。

 もう少し軌道に乗れば楽になるとはヨハンの弁だが、それまでにやることが山積みになっている。

「それはまぁ、ヨハンさんのためっていうのもあるけど」

 指先でつまんだポテトを口に運びながら、サアヤは言う。

「この世界に来てさ。嫌なこと、沢山あったと思うの」

「……そうだね」

 サアヤもクレアも、エトランゼとしては運のいい方だろう。致命的な出来事に遭遇する前に暁風に誘われて、そこでは一定の待遇は約束されていた。

 特にサアヤなどはギフトも有用なものであったため、それなりの扱いをされていた。

 それでも、全く嫌なことがなかったわけではない。

 初めて人の死を目の前で見た。

 不幸になっていく誰かを助けることができなかった。

 理不尽に何かを奪われる世界が嫌で嫌で仕方なかった。

 それにどうにか自分の中で折り合いをつけた結果が、今だった。

「クレアは、この世界が嫌い?」

「……嫌い。だったよ」

 喧騒の声が遠い。

 視界の隅ではビールを飲み、上機嫌に騒ぐ者達が大勢いる。

 場所も何もかも違っても、それは彼女達が元居た世界でもあった光景だった。

「最近はそうでもないかな。人間って単純だよね、衣食住が約束されてたらさ、あれだけ嫌だったこととかもどうでもよくなってきちゃうんだもん」

 クレアは自嘲する。

 サアヤだってそれは同じだ。

 この世界に対して憤りを感じていた時期もある。もし元の世界に帰る方法を教えてくれる人がいたのなら、なんとしてでもその方法を聞きだしていただろう。

 だが、今も同じ考えだろうか?

「わたしもそう。嫌いじゃなくなって、これって諦めなのかな? もうこの世界で生きていくしかないのかなって思うと、じゃあそれならもっと住みやすい形にしたいなって思うんだ」

「住みやすい?」

「わたしだけじゃなくてね。これからこの世界にやってくる人達も希望を失わないで、前を見て生きていける世界になればいいなって。お祭りも、その為に役に立つかも知れないでしょ?」

 楽しいことがあれば、人は生きていける。

 いつ終わるかも判らない絶望の中で生きていくのは心を削られるが、一度楽しいことがあれば、いつかまたそんな日が来ることを願うこともできる。

 そう、サアヤは思っていた。

「みんなのため、かぁ……。あんた、いい奴過ぎでしょ。あー、恥ずかし」

 ぐっとビールを飲み干して、クレアはやさぐれてそう吐き捨てた。

「そんなこと言わないでよ! それに」

「それに?」

 誰かの幸せそうな笑顔。

 その光景に価値を見出して、その為に働ける『あの人』に少しでも近付きたいと思ったから。

「うわぁ、締まりのない顔してる。エロいこと考えてる顔だ!」

「か、考えてないよ! ヨハンさんのこと考えてただけだもん!」

「惚気だ! 振られ女のくせに!」

「振られ女言うなー!」

 頬を引っ張り、じゃれ合って。

 まるで元居た世界と変わらないように友人との大切な時間を過ごしながら、短い休息の夜は過ぎていく。

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