第二節 仕事×サアヤ=
イシュトナルには要塞から北側に真っ直ぐに伸びる中央市街と、それから東西に分かれて東にはそこに住む者達の住宅地。西側にはまだ開発途中の地区がある。
ここ数日の主役となっているのがその開発区で、この街で商売を始めたい者達の為に直ちに建物の建造や土地の整備が求められ、それを叶えるために日夜休まず働き続けている。
街は未だ完成の途中、建物に至っては建造中のものすらあるというのに、その通りは人々と活気で溢れていた。
「あまりこちら側には来ることはなかったが、凄い活気だな」
「はい。中央市街の方は引き続きこの街に住んでいる人達が商売をして、行商人の人達はこっちに集められているみたいです」
おかげで近くの宿場街は満員。溢れた人がその辺りの村落に金を払い滞在しているような状態が続いているらしい。
北はソーズウェルを通ってオル・フェーズ。東側はハーフェン。そこから訪ねてきた人々が街道を通り西や南へと抜けていく。
その間の中間地点でもあり、ダンジョンがあり、冒険者達の行き来が盛んなこの街は絶好の商売場所と言うことだ。
大勢の人でごったがえする街の中では、建物を借りた商人達や、露店を開いた者達が客寄せのために張り上げた声がまた賑やかさに一役買っている。
そこにエトランゼの冒険者や、旅人などが混ざり合い、簡易市場と呼んでもよいその場所は熱気に満ちていた。
「凄い人だな」
「ギルドに向かっている人達も多いみたいですね」
「仕事が増えていいことだ」
冒険者ギルドには日夜商隊護衛の依頼が舞い込んでくるらしい。報酬に文句を言わず、物を盗まず、しっかりと護衛を果たす。そんな冒険者達が揃っているギルドだと噂が広がり、特に未だ物騒な地域に向かう人々はエトランゼの冒険者達を頼っている。
護衛の料金は他の地域に比べれば割高だが、その分しっかりと仕事は果たすことで納得を得ている。むしろそれに関しては、他の場所が足元を見られすぎているだけなのだ。
例えエトランゼ、異邦人だろうと報酬はまけさせない。働いた分の報酬をしっかりと受け取る権利は誰にでもあるのだから。
「あ、あの」
「ん。すまん」
人混みを掻き分けて歩く速度が早すぎたのか、気付けばサアヤと少しばかり距離が離れていた。
道の端に避けて立ち止り、彼女が追い付いてくるのを待つ。
「つい考えごとをしていた」
「お仕事のことですよね? 駄目ですよ、今は楽しむ時間なんですから」
「いや、これも視察のうちの一つだと思うんだが」
「だーめーでーすー。ヨハンさんはゆっくりと街を見て回らないといけません!」
「そうは言われてもな」
妙にテンションの高いサアヤは、何か言いたげにしてから、一度押し黙る。そしてそれから意を決したように、ヨハンのことをすぐ傍から上目遣いに見上げる。
「提案があります」
「なんだ?」
「仕事気分を払拭するためには何が必要か、わたしは思いつきました。それはつまりお仕事とは真逆、遊び気分が必要だと思うのです」
「……う、ん。そうか?」
「そうです! そして遊び気分を盛り上げるためには何が必要か……答えは一つです」
「一つ?」
「はい! て、て、て……」
「て」
「手を繋いだりすれば、もっと遊楽気分になるのではないでしょうか? 仕事中に手を繋ぐことはありませんから」
「……それはそうかも知れんが。そこまでする必要もないだろう」
「いいえ、この人混みでは万が一にでも逸れてしまう可能性もあります。常に最善を尽くすことが大切だと、わたしは思うのです」
「いや、だからと言って」
「……駄目、ですか?」
若干震えた声で、サアヤが最後の一押しを放つ。
その健気さは卑怯だ。それを目の前にして無下にできる男などこの世に何人いるというのだろうか。
ヨハンとて常に冷静な振りはしているが、冷血人間ではない。そうまでされて冷たくあしらうこともできなかった。
実際のところ、サアヤさえ良ければ断る理由がないのも事実。
「……まぁ、たまにはいいか」
「はい!」
ぱっと笑顔になって、ヨハンの右手をぎゅっと掴むサアヤ。
想像より小振りで柔らかな熱に浸されると、年甲斐もなく気恥ずかしくなってしまう。
その気持ちを誤魔化すため、そしてサアヤに気取られないために彼女から視線を外し、人混みを見渡した。
「しかし、大した活気だな」
改めて、イシュトナルに集まった人々を前にしてそんな感想が漏れた。
人混みの中を、お互いの手の感触を頼りにして逸れないように歩きながら、言葉を交わしていく。
「人混みは嫌いですか? ちなみにわたしは結構好きですよ」
「得意ではないな。どちらかと言えば、家に籠っていることが多いのもあるが」
「たまには外に出ないと駄目ですよ?」
「嫌というほど出ているがな。先日は海にまで行ったんだぞ」
「それもそうでした」
あははと笑って誤魔化すサアヤ。
それから話題はハーフェンでの出来事や、街であったことへとシフトしていく。
道中、美味しそうな菓子を売っている屋台を見かけたので、寄り道して二人分買って片方をサアヤに手渡す。
「あ、ありがとうございます。お金……」
「気にするな。このぐらいは奢る。一応は上司なんだから、格好付けさせてくれ」
名残惜しそうに放しかけていた手が、それでまたぎゅっと握られた。日差しは強く、既に夏に入りかけたこの季節には少々熱いくらいだが、繋がれた手は少しも不快ではない。
中にクリームや果実が入った、ワッフルのような焼き菓子を二人で齧りながら、人の中を進んでいく。
すると、その行き付く先、まだできて間もない広場に一風変わったものがあるのが見えた。
中央に簡易ステージが置かれ、そこに立った派手な装いをした男女が何やら声を張り上げて劇を行っている。
「劇場なんかも作れば、もっと人が集まるかも知れんな」
「もー。またお仕事の話をして」
言いながらもサアヤの視線はステージの上に釘付けになっている。
「もう少し進んでみるか。サアヤ、逸れないようにな」
「はい!」
焼き菓子を食べ終えた二人は、人波を掻き分けるようにしてステージの正面まで進んでいく。
道行く人々は大抵他に目的があるようで、立ち止まってそれを見ている人の数はそれほど多くはない。
それでも人の流れに逆らって進むのはなかなか困難で、ステージの前に辿り付くころには二人とも服や髪が少しばかり乱れていた。
そんなお互いの姿を見て同時に噴き出す。ちなみに逸れないためかサアヤはもう手を繋なぐだけでなく、完全にヨハンの腕にしがみついていた。
腕に当たる柔らかな感触を役得と判断して、サアヤが自主的に離れないのならと、ヨハンは見て見ぬ振りをした。
サアヤも別段気にする様子もなく、すぐに二人の注目はステージの上へと向けられていく。
そこで演じられていたのは、どうやら英雄譚のようだった。
主役と思しき男が小道具の剣を取り、黒いローブを着込んだ悪役と対峙している。
その背後には化粧をした綺麗な女性が座り込んでおり、どうやら主人公は彼女を助けるために戦うようだった。
歯の浮くような口上を名乗り、悪役に斬りかかる主役。
負けじと悪役はそれを受け止めて、二人は演技とは思えないほどに激しい剣劇を繰り広げる。
主役の勇者は真っ直ぐにそのヒロインを見つめ、ただそれを目的にがむしゃらに剣を振るう。
やがて長い戦いの後、勇者の剣は悪を捉えた。
悲鳴を上げて悪役は倒れ、勇者は姫の元へと向かって行く。
彼は彼女を抱き上げ、彼女は愛しい想い人に抱きついてキスをする。
それが喝采を呼び、芝居は幕を閉じた。
▽
人混みが赤く照らされている。
不覚にも芝居に夢中になってしまった二人がステージの傍を離れたとき、既に時刻は夕刻を回っていた。
それから何となしに、言葉を交わすこともなく黙って歩き続けている。
やがて人波が消える。
まだまだ開発中の区画には、この時間は誰もいない。ただ建造途中の建物や、区画整理のためのロープが幾つか張ってあるだけだった。
少しばかり小高い丘になっているその場所から、二人はイシュトナルの街を見下ろす。
街の声がまだ二人の耳に残り、距離が離れているというのに先程までの喧騒が頭の中に何度も蘇る。
「感謝する」
「……はい?」
市街を見下ろしながら、撤去途中の岩の上に腰かけて、ヨハンはそう口にした。
「いい気分転換になったし、街の様子をしっかりと見ることができた。……いや、違うな」
彼女に掛ける言葉はそうではない。
そんな事務的な言葉を彼女は欲していない。
「楽しかった」
「……はい!」
目の前に立っている彼女の目が潤んでいるのは、きっと夕日の眩しさに焼かれてのことだろう。
だが、理由はどうであれその表情は、余りにも魅力的でもあった。
だからヨハンは慌てて立ち上がって、彼女の顔から視線を外して街の方へと巡らせる。
「本当に、随分と立派になったものだ」
「ヨハンさんのおかげですよ。貴方があの時、姫様を助ける決断をしたから、イシュトナルはできたんです。でも」
ヨハンのローブの袖を、サアヤが小さく摘まむ。
「無茶は駄目です。ハーフェンでも怪我をしてきて」
「好きでしてるわけじゃない」
「じゃあ、何のためにですか?」
少しばかりの身長差に、サアヤはヨハンの顔を見上げながらそんな質問をぶつけた。
その問いは、ヨハンの胸に強く響く。
答えはもう出ている。青臭いと我ながら呆れるような甘い展望。
それを口にするのは簡単だが。
今この場所の雰囲気と、不思議な高揚感が後押しをしたのだろう。そこからまた、一歩先へと踏み込んでみたくなった。
「命の営み、人の騒めき。幸せそうな笑顔。……多分、俺はそう言ったものを見るのが好きなんだろう」
その言葉はヨハンの口から零れ出たものなのに。
不思議とヨハン本人にとっては、誰か知らない人がいつか言った言葉のように感じられた。
いつだったか遠い昔も、こうしてそんなことを誰かに語って聞かせた記憶がある。
決して自分はその中にいないと、そう諦めきった微笑を浮かべながら。
それを聞いていたのは、果たして誰だっただろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
傍にいるのはサアヤだ。この恥ずかしい言葉を取り繕う必要がある。
「今のは少しばかり、恥ずかしかったか?」
そう言って見せるが、サアヤはそれどころではなかったようだ。
両手で口を覆うように抑えて、ヨハンを見つめている。
「サアヤ?」
何故、固まっているのだろうか。
まさか今の恥ずかしい発言は、サアヤを凍らせるに足る破壊力を秘めていたのだろうか。
だとすればそれは、なかなかどうして今後に影響が出るかも知れない。
不覚だった。まさか今日一日と、彼女の雰囲気にこうまで流されてしまうとは。
恐る恐る、彼女に手を伸ばす。
サアヤはびくりと身体を固くして、ヨハンから一歩距離を取った。
急に触れようとしたのは悪かったが、その反応には多少なりとも心が傷つく。
果たしてどう言葉を掛けたものかと思案していると、それをぶち壊すほどに大きな一撃がサアヤから帰ってきた。
「……貴方のことが、好きです」
▽
はて。
今自分は何と言ったか?
サアヤの頭の中は今、全力でぐるぐるしていた。
ヨハンもその言葉を聞いて固まっている。こちらに小さく手を伸ばしたまま。
その手がサアヤに触れるのなら、抵抗することもなくそれを受け入れるだろう。それだけの覚悟はある。今覚悟した。
それはまるで人ではないものだ。
人の形をした異なる者。
果たしてどう表現したらいいものか。
人を見て、その営みを慈しむ。
そんな考え方ができる彼のその姿はまるで聖人のようで――長い巡礼の果てに、目の前から消え去ってしまうのではないかと不安で。
だから思わず、先程の言葉が出てしまったのだ。それはもう、ぽろりと。
焦りと、小さな罪悪感と、大きな期待と、それからとびっきりの恐怖。
でも言ってしまったものは仕方ない。覚悟を決めて、後は黙って彼の言葉を待つばかりだ。
「……一つ、勘違いをしていることがある」
――ああ。
なんて嫌な始まり方をするのだろうか。
きっとこれは、幸せな結末に辿り付くことはない。
例えここから先、どんなに冷たい言葉を投げかけられようと泣いてはいけないと、サアヤは自分を鼓舞するが、一瞬で決めた覚悟など脆いものだ。その時にどうなるかなど、誰にも判りはしない。
長い時間が過ぎたような気がした。
実際のところ、五秒と経っていないのだろうが。
困ったような表情で、ヨハンは言葉を続けていく。
「以前、君は俺に助けられたと言っていたな」
出会ったばかりの頃に、傷を癒してもらいながら話したことだった。ヨハンはサアヤのことを覚えてはいなかったが、それはサアヤにとっては問題ではない。
「それは、俺じゃない」
「……っ!」
言葉を失って、息を呑む。
ヨハンがどんな表情をしているのか、顔を伏せているためサアヤからは判らない。
ただその声には確かな苦悶があり、彼がなくしてしまった力に対して抱いている想いが嫌というほどに伝わってくる。
「以前お前を助けたエトランゼは、俺じゃないんだ。もうそいつはいない。いるのは惨めに足掻いている、情けない男が一人だ」
ヨハンはそう語る。
まるでサアヤに謝罪するように。
期待をさせてしまって申し訳ないと、想いを告げられたことを喜ぶわけではなく、ただそれが辛いことだとでも言わんばかりに。
「サアヤが慕ってくれているのは俺じゃない。お前が見ているのは、もういなくなってしまった誰かだ」
神の如き力を持って、世界を俯瞰していた者。
力を失ってようやく人に戻れた自分。しかし、問題は次々と起こっていく。
失った力を再び取り戻したいと嘆くほどに子供ではないが。
それでもやはり惜しかったものだと、その力があれば無用な犠牲を避けることもできたであろうと思うこともある。
だが、それはヨハンの考えだ。
彼の頭の中にある、彼が一方的に思って結論を出した、的外れな答えだ。
「……し、失礼します!」
ヨハンの頬をぐっとつかみ、サアヤは自分の方へと引き寄せる。
そのまま真っ直ぐに、彼が何か言葉を言う間もなく、二人の距離はゼロになっていた。
「……ん」
小さな吐息が漏れる。
幸福感とか、気持ちよさとか、後悔とか。
そんな考えが頭の中を渦巻いていたが、取り合えずこの数秒間は背筋を這い上がる高揚感に身を任せていた。
そして、艶めかしい水音を残して二人の口が離れる。
ヨハンは驚いた顔で、サアヤは紅潮した顔で、お互いに見つめ合っていた。
「伊達や酔狂でこんなことはしません。わたしが好きって言って、キ、キスをしたのは、『今』のヨハンさんです」
これできっと伝わったはずだ。
過去のヨハンなんて、もう遠い記憶の中に置いてきた。エトランゼとしてこの世界に来て、三年以上が経っているのだから。別人だと言うのならば、その『彼』が憧れであり、また同時に決して手の届かない人物であることなどとっくに覚悟はできている。
そんなものはきっかけに過ぎなかった。もし再会することがなければ、淡い思い出の一つとして消えていた程度のものだ。
それでも、異なる形とはいえ出会ってしまった。
力を失った彼は、サアヤにとって魅力を損なうどころか、もっと近くで見護っていたいと思わせるに足る人物だった。
「……すまなかったな」
「謝ってばっかりですね、ヨハンさん」
今日はもう三回も謝罪の言葉を口にしている。
「そうだな。我ながら嫌になる」
「そうですか」
拗ねたような口調に、お互いの間に笑いが零れる。
そして彼が口元を引き結んだのを見て、サアヤは察してしまった。
「もう一度、謝らないといけないしな」
「……はい」
まだ泣くなと、自分を叱咤する。
「すまない。サアヤの気持ちに答えることはできない」
「理由を聞いてもいいですか?」
もう、涙声だった。
この場から走って逃げて、自宅のベッドに飛び込みたい。そのまま朝まで眠りたい衝動を堪えて、サアヤはそう質問する。
聞かなければならないことがある。
それを知らなければ、きっとみんながずっと不幸になってしまうかも知れないから。
「言っておきますけど、仕事が忙しいとかじゃ納得できませんよ。だったらわたしのことが好きじゃないって、はっきり言ってください」
「……エレオノーラ様に付いて、俺は世界を変えようと思う。エトランゼであるかどうかに関係なく、お互いのことを受け入れたうえでみんなが少しでも前を向ける世界に」
それは口にするのは容易い理想だが、叶えるのは容易なことではない。まだ物を知らない自覚があるサアヤですらもそれだけは理解できる。
「危険も、困難も幾らでもある。命を落とすこともあるし、立場が変わることだってあるだろう。ひょっとしたら明日には全てを失うことだってあるかも知れない。そうなった時に荷物は少ない方がいい。お互いに」
「……はぁ」
と、サアヤの口から溜息一つ。
「納得できないかも知れないがこれは」
「ええ、ええ! 納得できませんよ」
顔を上げて真正面から彼を見つめる。
泣き顔を見られることなんてもうどうでもよかった。
やっぱり思った通り。この人はサアヤが思っていた以上に駄目な人だった。
力を失ったとかそう言う話じゃない。もっと根本的な問題がある。
「そんなの誰だって覚悟の上ですよ。その上で、人を好きになるんです! 全部を受け入れて、その人の荷物も一緒に背負いたいってことが恋をするってことじゃないですか!」
一緒に倒れることになっても。
困難の果てに引き裂かれることになっても。
今、自分が抱いている想いを決して否定はしない。したくない。
恋とはそう言うものだと、サアヤは信じていた。
「ヨハンさんのそれ、ただの言い訳です。誰かを好きになることが怖いからそう言って逃げてるだけです」
「それは……」
ヨハンは反論しようとしたが、それ以上に言葉が浮かばず、苦笑しながら頷き返す。
「いや。その通りだな。うん。サアヤの言う通りだ。今気付いた」
「……気付いてくれたならいいです。あれ?」
堪えていた涙が、頬を伝って落ちていく。
例えそれを気付かせたとしても、ヨハンがサアヤに対して大きな感謝の気持ちを抱いていたとしても。
今ここで彼女の想いが募らなかったことに違いはないのだ。
「ほ、ほらぁ……。ヨハンさんがわたしに余計なこと言わせるから……涙が止まらないじゃないですかぁ……!」
「……そうだな。俺はどうやら、サアヤの気持ちに答えられるだけの余裕はない。とんだ未熟者だ」
「本当です。本当に、駄目な人です」
サアヤらしからぬ軽口だが、今はそれが心地よい。
その告白の結末が実らぬものだったとしても、二人の距離は確実に縮まっていた。
「これで愛想を尽かしてくれるのがお互いのためだと思うんだが」
「……今ので更に減点ですよ。普通の女の子だったらとっくにこっちから願い下げですからね」
泣きながら微笑む彼女のその顔が余りにも綺麗で目を放すことができないことは、きっと生涯ヨハンの心の中に封じておくべきことだ。
「愛想を尽かすまでお傍にいますから。ヨハンさんは頑張ってわたしに嫌われてください」
「それはなかなか難しいな。サアヤに嫌われるのは嫌だ」
「……ばか」
「ああ、大馬鹿者だ」
「いいですよー。最後に勝ちますから。わたしのこと、好きになってもらいますから」
少なくとも、すぐに誰かとどうにかなるということはないだろう。以前余談が許さない状況ではあるが、一先ずは全員が同じスタートラインに立ったということになる。
ある意味では、サアヤが立たせたということだ。とんだ貧乏くじだが、心は晴れやかなものだ。
「あ、でもこれだけは」
「なんだ?」
「初めてでしたから。そこだけは宜しくお願いしますね」
顔を真っ赤にしてはにかみながら、サアヤはそう言った。
沈みゆく夕日に照らされた彼女のその表情は、永遠に心に留めておきたくなるほどに魅力的で、ヨハンから言葉を奪い去る。
そして、頭の中を悩ませること数秒。
ようやく一言を絞り出すことができた。
「それは、なんというか……。ご馳走様?」
「……今のでちょっと嫌いになりました」
そう言って踵を返し、丘を降っていくサアヤ。
ヨハンは何が悪かったのかは把握していたものの、さりとてどうすればよかったのかを思案しながら、その後ろを付いていくのだった。
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