第十四節 無法者
何年程前の話になるだろうか。
オルタリアから海を隔てて離れた遠くの国に、一人の暴れん坊がいた。
生まれつき身体が大きく腕っぷしが強かったその男はごろつき達の間で名を上げて、悪漢達の大将として名を馳せていた。
だが、満たされぬ。
自分を満たす者を知らぬその男は衝動のままに人を傷つけ、欲望のままに悪意を貪る日々を過ごしていた。
彼がそんな風な生活を続けていれば、やがて恨みを持つ者が現れる。
喧嘩は強かったが頭は悪かった。そんな男が辿る末路など、大抵の場合は決まっている。
部下達の裏切りにあい、全てを失った。
そしてあわや命まで取られそうになり、必死で逃げた。
これまでの人生の中で味わったことのない屈辱だった。多くの人を不幸にしてきたが、まさか自分がその立場に置かれることになろうとは夢にも思ってみなかった。
その日のことはよく覚えてる。今でも夢に見る。
縺れそうになる足で必死に走って、恨み言を呟きながら路地裏を逃げ続けて。
石造りの波止場の隅。
やがて港に出た。その国自慢の大きな港だ。
幾つもの大きな船が繋がれたそこから、男は朝焼けが昇る水平線を偶然にも見てしまった。
喉の奥から声にならない音が漏れた。
そこには近づかないようにしていた。荒くれ者の海賊崩れとやりあっては命が幾つあっても足りないと、本能的に悟っていたから。
男はそれを後悔した。
空と海が交わっている。
千切れた雲が行く先も判らず、それでも悠々と空を流れていくのがくっきりと見えている。
遠くに見える船を運ぶ波が、まるで男に語り掛けるように優しい音を奏でている。
そこから広がる世界は無限大だった。
男が支配していた小さな世界が如何に無意味であったのかを思い知らされた。
「気になるだろ。この先に何があるのか?」
低い女の声がした。
追手かと思い慌てて振り向いて、腰にあった唯一の武装である短剣を抜いて威嚇する。
自分より大柄な男にそうされているにも関わらずその女は、もう老年の入り口に差し掛かったような彼女は臆した様子もなく、それどころか彼に目を向けることもない。
「いい朝焼けが見れたからね。ついつい声を掛けちまった」
そう言って持っていた瓶を傾ける。
放り投げてよこしたそれを男は空中で受け取った。何処にでもある、安酒だ。
「飲みなよ。おつなもんさ」
「……おれを殺さねえのか?」
「なんでそんなことする必要がある? お前の首にアタシが取る価値があるとでも?」
男は賞金首ではない。単なる地下の権力闘争に利用されて敗れただけの敗北者だ。今は命を狙われているが、時期にその名前は風化して忘れられていく。
それを自覚させられたからか男は憮然としながら胡坐をかいて座って、黙って酒を飲み始めた。
これまで何度も飲み続けた、強いだけで美味くもない酒の癖に妙に喉の通りがいい。
火照った身体に冷たい潮風が心地よかった。
「私掠船団の船長なんて似合わないことを何十年も続けてね」
誰に言われたわけでもなく女は語りだした。
本来ならばその場をすぐに離れるべきなのだろう。今はまだ見つかっていないが、追手が来れば今度こそ命はない。
それでもその安酒の、その味の代金とでも思ったのだろうか。
男はその場を離れる気が起きない。
「もうすぐお役御免さ」
噂は聞いたことがある。いや、よく見ればその姿も何度も目にしていた。
アランドラが率いる海軍艦隊。その中の一つ、荒くれ者たちが集まる私掠船団を纏め上げる総督。
「そうなったら報酬を頂く。アタシは自由に海に出て生きる。生きて、死ぬ」
「……怖くねえのか?」
死は怖い。
だから男は必死で逃げた。
ところがどうだ。この女は、最早老いが入った身でありながら、死を楽しもうとしているようにすら見える。
「怠惰に生きるよりは遥かにマシさ。知らない国に行く、知らない場所を旅する。そこで何かに出会って一つでも、誰も見たことのないものを見て、それで死ねるなら本望だろう?」
違うのか?
女はそう尋ねていた。
満たされない日々があった。
酒を飲んで仲間と騒ごうと、暴力で誰かを従わせようと、女を乱暴に抱こうと決してその雲が晴れることはない。
そんな人生を歩んできた。
そして女の視線が漸くこちらを向く。
目があって、男は悟っていた。
彼女も同じなのだ。満たされぬ日々を送っていた。本当に自分がやりたいことを押し殺して今日までを生きてきた。
「おれも」
だからきっと彼女は決めたのだろう。
残りの人生のそのために使おうと。
「おれも連れていってくれ。雑用でも何でもいい、あんたの船に乗りたい。知らないものを、遠い世界を見たい」
なんと小さなものだったのか。
路地裏で同じような境遇の仲間達と過ごした日々が急激に色褪せていく。
今はもう、目の前に広がる『未知』しか男の目には映らない。
「今度、アタシの退任式がある。きっと派手なもんになるだろう。国のお役人にとってはアタシは厄介者でしかなかったからね。きっとみんな喜んでアタシを追放するさ」
自嘲する女は、それでも全く悲観した様子がない。むしろ清々したと、これから先の未来に想いを馳せていた。
「その日、アタシはここを出る。きっともうアランドラには戻らない。それでもいいならここに来な。お前と同じ、行き場のない馬鹿共を連れてってやるつもりだ。
ただし覚悟を決めなよ。アタシは海で悪党として生きる。その生き方に、その道に誰も口を挟めないし責任も取ってくれない。いいところ、最期は知らない土地で野垂れ死にだ」
「ああ、ああ! 判ってるよ。でもそれでいいよ。こんなところで泥みたいに生きるなら、そっちの方がずっといい!」
熱に浮かされたその言葉を受けて、女は笑った。
「いい顔をしてるね。アタシの名はベアトリス。お前は?」
「……ジャックだ」
「ごろつきの親分だった男の名前だね。だがまぁ、そんなもんにはもう価値はない。アタシの名前だって一緒さ。海では全部が等しいんだ。ドジれば看取ってくれる奴もいない」
女が自分の名前を覚えていてくれたことが、ほんの少しだけ誇らしかったが、その言葉通りそんなことに意味はない。
これから彼等は身一つで海に出る。栄光も何もない、単なる一人の人間として海に挑み、そしてきっとこの場所には帰れない。
それでも、後悔はない。
男の目にはもう、これから彼等が行くその水平線の先しか映っていなかったのだから。
▽
もう十年以上も前の話になる。
下っ端の船員として転がり込んだジャックはベアトリスの言葉をよく聞き、彼女の元で励んだ。
乱暴者だった、頭が足りない馬鹿だった。
だが、それでも努力をした。慕った船長に追いつくために、彼女と征く旅路を少しでも長く楽しみたいから。
――それはつい先日、終わりを告げた。
後に残ったのは海賊の悪名を背負ったごろつき崩れが数名。
頭を下げて、必死で頼みこんで武装商船団に乗り込んだ。その一隻を自分達の船にと借り受けた。
もう命も惜しくはない。
「撃て撃て撃てぇ! 嬢ちゃん達の船の道を切り開くんだ!」
甲板に立ち、自分もマスケットを向けながらジャックは叫ぶ。
それに続くように命知らずの荒くれ者たちが、ベアトリスの元で共に過ごしてきた仲間達が歓声を上げて、矢や銃を放つ。
武器がなければ石を投げる。石もなくなれば雄叫びを上げて仲間を鼓舞する。
彼等はそうして今日まで戦い続けてきた。この海の上にいる強敵達を打ち破り、航海を続けてきたのだ。
「ジャック! もう武器がねぇ!」
「やることがない奴は白兵戦に備えろ! ほら来たぁ!」
空を裂く鳥達が、先頭に躍り出た船を破壊するために目標を切り替える。
翼をはためかせ、その圧倒的な力による蹂躙を行おうとマストを叩き降り、その巨体を押し付けて船体を砕こうと接近してくる。
「来た来たぁ! ちょうど退屈してたんだ!」
それを縄で絡め捕り、銃を撃ち、近付くや否や銛で突きカトラスを振り下ろす。
人間には程遠い敵。非凡な才の持ち主でなければ手に余るその怪物は、海賊団の生き残りを持ってしてもまともに倒すこともできないほどの強敵だった。
甲板が砕ける。木でできた船などあの化け物からすれば玩具のようなものだ。簡単に壊されてしまう。
一人また一人と、悲鳴を上げる間もなく海賊達が倒される。
頭を砕かれ、四肢をその翼で薙ぎ払われて、またある者は海へと投げ出されてその命を散らしていく。
自身も翼に打ち据えられ、甲板の上に転がりながらもジャックの視線は、前を向いていた。
もうこの船は止まらない。
その行く先は決まっているのだから。
そして、世界を切り裂く音が響いた。
それよりも早く、トルエノ・エスパーダから放たれるものがあった。
無論それは、人の目に捉えられる速度ではなかったが。
世界をほんの一瞬だが真っ白に染めたそれは、神への冒涜。忌むべき毒を超高速の弾丸と化して発射する。
マーキス・フォルネウスが揺らぐ。
御使いのセレスティアルに護られてなおその船体は着弾の衝撃に耐えきれず、船を構成する木材を撒き散らして海へと撒き散らした。
「貫いた……!」
誰かがそう言った。
御使いによる強固な光の壁を、その一撃は確かに撃ち抜き破壊した。
「へっ」
ジャックは嗤う。
悪党は、ここで散った彼女と同じように神に唾を吐いて見せる。
もう船は止まらない。
ジャックの背後には巨大な鳥が迫るが、もうそんなことは関係ない。
下にいる魚達が幾ら船体に穴を開けようと、どうしようもない位置にまで近付いているのだ。
特等席で奴の姿が見える。
我等が母を奪った憎き仇は、同じセレスティアルを使う少女でも、今しがたその障壁を撃ち抜いた男でもない。
ジャックへとその憤怒を向けていた。
「神様の使いとやらよぉ! 奪った船の修理はしっかりとしたかい!」
生き残りたちが声を上げて笑う。
自分達の命は助からない、そんな状況でも彼等は笑い、歌う。
腕を突いて身体を持ち上げて、最期の一言をぶちかませと、命を失いながら彼等は囃したてる。
「そのボロ船はよ、左舷が弱いんだよ!」
遠くの海でやりあったクラーケンの置き土産。
その巨大な足にやられた左舷には、今なお修復しきれない傷がある。
ジャックの船はそこに向けて突撃していた。
回避も迎撃も間に合わない。
真っ白に明滅していく視界の中で、ジャックは大声を出して笑ってやった。
ざまあみろ。
海賊を舐めた結末がこれだ。
神様の使いとやら、お前は神をも畏れぬ海賊を敵に回し、そして同じように海の底へと沈むがいい。
大海賊ベアトリスとその仲間達が、深海で待っていてやる。
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